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「……逃げるなら今ですね」
翌朝。
クリフォード王国の迎賓館、その一室。
私は朝の光が差し込む窓辺で、静かに呟いた。
ベッドには、枕を並べて布団を被せた「偽装工作(ダミー)」を用意済みだ。
昨夜のクライヴ殿下の発言は、単なるパーティーでの冗談(ジョーク)ではない。
あの目は本気だった。
「こいつは使える」と判断した社畜特有の、獲物を狙う目だ。
「関わったら最後、過労死コース一直線。……お父様への報告は手紙で十分でしょう」
私は最低限の荷物をまとめた鞄を背負い、窓を開けた。
ここは二階。
雨樋を伝って降りれば、裏庭から抜け出せる。
公爵令嬢にあるまじき脱走ルートだが、背に腹は代えられない。
私はスカートの裾をまくり上げ、窓枠に足をかけた。
「さらば、ブラック企業(王宮)。私は自由へ――」
「――どこへ行くつもりだ?」
背後から、鍵のかかっているはずのドアが開く音がした。
ギギギ、と錆びついたような音を立てて私が首を回すと、そこには爽やかな朝の笑顔(ただし目は笑っていない)を浮かべたクライヴ殿下が立っていた。
後ろには、武装した近衛騎士がズラリと並んでいる。
「……おはようございます、殿下。朝のお散歩ですか?」
私は窓枠に足をかけたまま、真顔で挨拶した。
「ああ。迷子の仔猫がいないか見回りに来たのだが……まさか、窓から飛び降りようとしている公爵令嬢がいるとはな」
「これは、その……避難訓練です」
「ほう?」
「万が一の火災に備え、脱出ルートを確認していたのです。危機管理(リスクマネジメント)の一環です」
「なるほど。感心な心がけだ」
殿下は優雅に歩み寄ると、私の腕をガシリと掴んだ。
「その高い危機管理能力、ぜひ我が執務室で発揮してほしい」
「結構です! 間に合ってます!」
「遠慮するな。馬車も用意してある」
「帰り用ですか!?」
「通勤用だ」
抵抗も虚しく、私は荷物ごと回収された。
まるでドナドナされる子牛のように、私は王宮の奥深くへと連行されていった。
◇
通されたのは、王宮の北棟にある皇太子執務室だった。
扉を開けた瞬間。
「……うわぁ」
思わず声が出た。
広い部屋の中は、紙、紙、紙。
書類の雪崩が起き、床が見えないほど散乱している。
インクの匂いと、澱んだ空気。
そして部屋の隅には、死んだように突っ伏している数名の文官たち。
まさに地獄絵図(デスマーチ)だ。
「見ての通りだ」
クライヴ殿下は、書類の山を慣れた足取りで避けながら、自分のデスクへと向かった。
そこにも未決裁の書類が塔のように積まれている。
「我が国の官僚機構は優秀だが、前例踏襲主義でな。些細な決定にも私の決裁を求めてくる。おかげでこの有り様だ」
「……掃除、しないんですか?」
「している暇がない。片付けている間に新しい書類が三倍増える」
殿下はドサリと椅子に座り、深いため息をついた。
「ニオ。君に頼みたいのは、この書類の『仕分け』だ」
「断ります」
私は即答した。
「なぜだ。金なら払うと言っている」
「金の問題ではありません。これは『賽の河原』です。私が一つ積んでも、貴方が二つ崩すでしょう? 根本的な業務フローを見直さない限り、私が手伝っても焼け石に水です」
私は部屋を見渡しながら、冷たく言い放った。
「そもそも、殿下が全部自分で見ようとするのが間違いなんです。権限委譲(デリゲーション)してください」
「信用できる部下がいない」
「信用しなくていいんです。仕組み(システム)を作るんです」
私は近くにあった書類の束を勝手に手に取った。
パラパラと中身を確認する。
「……例えばこれ。『王立公園のベンチ修繕に関する稟議書』。ベンチ一つの修理に、なぜ皇太子の判子が必要なんですか?」
「予算が金貨一枚を超えるからだ」
「金貨一枚ごときで殿下の時間を奪うなと、財務担当を左遷してください。基準を金貨百枚まで引き上げ、それ以下は現場の判断に任せる。事後報告だけで十分です」
私はその書類を「保留」の箱ではなく、「破棄」の箱に投げ捨てた。
「次。『隣国からの親善大使の接待メニュー確認書』。……肉か魚か、そんなものコイントスで決めさせなさい」
ポイッ。
「『地方貴族からの季節の挨拶状』。読んでどうするんですか? 『元気そうで何より』という定型文を印刷して送り返せば終了です」
ポイッ。
私は次々と書類を分別(という名の廃棄)していく。
周囲の文官たちが「ああっ!」「それは殿下がまだ読んでいないのに!」と悲鳴を上げるが、無視だ。
「……おい、ニオ。それは流石に乱暴では」
「殿下」
私は書類の山越しに、殿下を睨みつけた。
「貴方の時給はいくらですか? 国民の税金で養われている貴方の時間は、もっと高次元の国家戦略に使われるべきです。ベンチの修理や晩御飯のメニューに悩む時間があるなら、外交の一つでもまとめてください」
「……っ」
「できないなら、私が帰ります。無能な上司の下で働くほど、人生は長くありませんので」
言い切った。
言(い)ってやった。
相手は一国の皇太子。
不敬罪で首が飛んでも文句は言えない。
だが、これで私が「扱いにくい危険人物」だと認定されれば、解放されるはずだ。
さあ、怒れ。
激昂して「出て行け!」と叫ぶがいい。
私は期待を込めて殿下を見た。
殿下は呆気にとられたように口を開け、数秒間、私を凝視していた。
そして。
「……ぶっ」
吹き出した。
「く、くくく……あはははは!」
昨夜に続き、またしても爆笑した。
腹を抱え、机をバンバンと叩いて笑っている。
「す、すごいな君は! 『無能な上司』だと? 面と向かって私にそう言ったのは、父上以来だぞ!」
「事実ですので」
「ああ、その通りだ! 全くもって正論だ! あー、スッキリした!」
殿下は涙を拭いながら、憑き物が落ちたような顔で私を見た。
「誰も言ってくれなかったんだ。みんな私の顔色を窺って、『殿下の仰る通りです』としか言わない。……君の言う通り、私は細かいことに囚われて、本来の仕事を見失っていたようだ」
「自覚があるなら改善してください」
「ああ、改善しよう。……君の力で」
殿下は立ち上がり、私の手を取った。
「ニオ・バルト。改めて頼む。私の補佐官になってくれ」
「嫌です」
「報酬は弾む。金貨、宝石、領地、何でも言え」
「……」
金貨。
その単語に、私の耳がピクリと反応した。
父にふんだくられた家賃五〇枚。
そして、将来の夢である「早期リタイア資金」。
「……条件があります」
私は不承不承、口を開いた。
「なんだ? 言ってみろ」
私は指を三本立てた。
「一、定時は絶対厳守。残業は一分たりともしません」
「認めよう」
「二、給与は宰相クラスの三倍。かつ、危険手当と精神的苦痛手当を別途支給すること」
「……高いな。だが、君の能力なら安いくらいだ。認めよう」
「三、私の判断に口出ししないこと。私が『ゴミ』と言ったら、それはゴミです」
殿下はニヤリと笑った。
その顔は、氷の皇太子ではなく、悪巧みをする少年のようだった。
「いいだろう。全権を委任する。……好きに暴れてくれ、私の『毒舌補佐官』殿」
こうして。
悪魔の契約(雇用契約)は結ばれた。
私は深く深いため息をつき、近くにあった羽ペンを手に取った。
「……分かりました。では手始めに、この部屋の不要な書類を全て焼却処分します。暖炉に火をつけてください」
「えっ、全部?」
「全部です。本当に大事な用件なら、また送ってきますから」
私の非情な宣言に、文官たちが白目を剥いて倒れた。
私の隣国でのセカンドライフは、こうして「破壊と再生(主に破壊)」から幕を開けたのである。
翌朝。
クリフォード王国の迎賓館、その一室。
私は朝の光が差し込む窓辺で、静かに呟いた。
ベッドには、枕を並べて布団を被せた「偽装工作(ダミー)」を用意済みだ。
昨夜のクライヴ殿下の発言は、単なるパーティーでの冗談(ジョーク)ではない。
あの目は本気だった。
「こいつは使える」と判断した社畜特有の、獲物を狙う目だ。
「関わったら最後、過労死コース一直線。……お父様への報告は手紙で十分でしょう」
私は最低限の荷物をまとめた鞄を背負い、窓を開けた。
ここは二階。
雨樋を伝って降りれば、裏庭から抜け出せる。
公爵令嬢にあるまじき脱走ルートだが、背に腹は代えられない。
私はスカートの裾をまくり上げ、窓枠に足をかけた。
「さらば、ブラック企業(王宮)。私は自由へ――」
「――どこへ行くつもりだ?」
背後から、鍵のかかっているはずのドアが開く音がした。
ギギギ、と錆びついたような音を立てて私が首を回すと、そこには爽やかな朝の笑顔(ただし目は笑っていない)を浮かべたクライヴ殿下が立っていた。
後ろには、武装した近衛騎士がズラリと並んでいる。
「……おはようございます、殿下。朝のお散歩ですか?」
私は窓枠に足をかけたまま、真顔で挨拶した。
「ああ。迷子の仔猫がいないか見回りに来たのだが……まさか、窓から飛び降りようとしている公爵令嬢がいるとはな」
「これは、その……避難訓練です」
「ほう?」
「万が一の火災に備え、脱出ルートを確認していたのです。危機管理(リスクマネジメント)の一環です」
「なるほど。感心な心がけだ」
殿下は優雅に歩み寄ると、私の腕をガシリと掴んだ。
「その高い危機管理能力、ぜひ我が執務室で発揮してほしい」
「結構です! 間に合ってます!」
「遠慮するな。馬車も用意してある」
「帰り用ですか!?」
「通勤用だ」
抵抗も虚しく、私は荷物ごと回収された。
まるでドナドナされる子牛のように、私は王宮の奥深くへと連行されていった。
◇
通されたのは、王宮の北棟にある皇太子執務室だった。
扉を開けた瞬間。
「……うわぁ」
思わず声が出た。
広い部屋の中は、紙、紙、紙。
書類の雪崩が起き、床が見えないほど散乱している。
インクの匂いと、澱んだ空気。
そして部屋の隅には、死んだように突っ伏している数名の文官たち。
まさに地獄絵図(デスマーチ)だ。
「見ての通りだ」
クライヴ殿下は、書類の山を慣れた足取りで避けながら、自分のデスクへと向かった。
そこにも未決裁の書類が塔のように積まれている。
「我が国の官僚機構は優秀だが、前例踏襲主義でな。些細な決定にも私の決裁を求めてくる。おかげでこの有り様だ」
「……掃除、しないんですか?」
「している暇がない。片付けている間に新しい書類が三倍増える」
殿下はドサリと椅子に座り、深いため息をついた。
「ニオ。君に頼みたいのは、この書類の『仕分け』だ」
「断ります」
私は即答した。
「なぜだ。金なら払うと言っている」
「金の問題ではありません。これは『賽の河原』です。私が一つ積んでも、貴方が二つ崩すでしょう? 根本的な業務フローを見直さない限り、私が手伝っても焼け石に水です」
私は部屋を見渡しながら、冷たく言い放った。
「そもそも、殿下が全部自分で見ようとするのが間違いなんです。権限委譲(デリゲーション)してください」
「信用できる部下がいない」
「信用しなくていいんです。仕組み(システム)を作るんです」
私は近くにあった書類の束を勝手に手に取った。
パラパラと中身を確認する。
「……例えばこれ。『王立公園のベンチ修繕に関する稟議書』。ベンチ一つの修理に、なぜ皇太子の判子が必要なんですか?」
「予算が金貨一枚を超えるからだ」
「金貨一枚ごときで殿下の時間を奪うなと、財務担当を左遷してください。基準を金貨百枚まで引き上げ、それ以下は現場の判断に任せる。事後報告だけで十分です」
私はその書類を「保留」の箱ではなく、「破棄」の箱に投げ捨てた。
「次。『隣国からの親善大使の接待メニュー確認書』。……肉か魚か、そんなものコイントスで決めさせなさい」
ポイッ。
「『地方貴族からの季節の挨拶状』。読んでどうするんですか? 『元気そうで何より』という定型文を印刷して送り返せば終了です」
ポイッ。
私は次々と書類を分別(という名の廃棄)していく。
周囲の文官たちが「ああっ!」「それは殿下がまだ読んでいないのに!」と悲鳴を上げるが、無視だ。
「……おい、ニオ。それは流石に乱暴では」
「殿下」
私は書類の山越しに、殿下を睨みつけた。
「貴方の時給はいくらですか? 国民の税金で養われている貴方の時間は、もっと高次元の国家戦略に使われるべきです。ベンチの修理や晩御飯のメニューに悩む時間があるなら、外交の一つでもまとめてください」
「……っ」
「できないなら、私が帰ります。無能な上司の下で働くほど、人生は長くありませんので」
言い切った。
言(い)ってやった。
相手は一国の皇太子。
不敬罪で首が飛んでも文句は言えない。
だが、これで私が「扱いにくい危険人物」だと認定されれば、解放されるはずだ。
さあ、怒れ。
激昂して「出て行け!」と叫ぶがいい。
私は期待を込めて殿下を見た。
殿下は呆気にとられたように口を開け、数秒間、私を凝視していた。
そして。
「……ぶっ」
吹き出した。
「く、くくく……あはははは!」
昨夜に続き、またしても爆笑した。
腹を抱え、机をバンバンと叩いて笑っている。
「す、すごいな君は! 『無能な上司』だと? 面と向かって私にそう言ったのは、父上以来だぞ!」
「事実ですので」
「ああ、その通りだ! 全くもって正論だ! あー、スッキリした!」
殿下は涙を拭いながら、憑き物が落ちたような顔で私を見た。
「誰も言ってくれなかったんだ。みんな私の顔色を窺って、『殿下の仰る通りです』としか言わない。……君の言う通り、私は細かいことに囚われて、本来の仕事を見失っていたようだ」
「自覚があるなら改善してください」
「ああ、改善しよう。……君の力で」
殿下は立ち上がり、私の手を取った。
「ニオ・バルト。改めて頼む。私の補佐官になってくれ」
「嫌です」
「報酬は弾む。金貨、宝石、領地、何でも言え」
「……」
金貨。
その単語に、私の耳がピクリと反応した。
父にふんだくられた家賃五〇枚。
そして、将来の夢である「早期リタイア資金」。
「……条件があります」
私は不承不承、口を開いた。
「なんだ? 言ってみろ」
私は指を三本立てた。
「一、定時は絶対厳守。残業は一分たりともしません」
「認めよう」
「二、給与は宰相クラスの三倍。かつ、危険手当と精神的苦痛手当を別途支給すること」
「……高いな。だが、君の能力なら安いくらいだ。認めよう」
「三、私の判断に口出ししないこと。私が『ゴミ』と言ったら、それはゴミです」
殿下はニヤリと笑った。
その顔は、氷の皇太子ではなく、悪巧みをする少年のようだった。
「いいだろう。全権を委任する。……好きに暴れてくれ、私の『毒舌補佐官』殿」
こうして。
悪魔の契約(雇用契約)は結ばれた。
私は深く深いため息をつき、近くにあった羽ペンを手に取った。
「……分かりました。では手始めに、この部屋の不要な書類を全て焼却処分します。暖炉に火をつけてください」
「えっ、全部?」
「全部です。本当に大事な用件なら、また送ってきますから」
私の非情な宣言に、文官たちが白目を剥いて倒れた。
私の隣国でのセカンドライフは、こうして「破壊と再生(主に破壊)」から幕を開けたのである。
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