婚約破棄はokですが、復縁要請は却下します!

桃瀬ももな

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「――以上、リリナ嬢による『聖女の奇跡(という名の環境破壊)』に関する事後処理報告書です」

翌日の午後。

私は製本された分厚い書類の束を、クライヴ殿下のデスクにドサリと置いた。

「迅速な対応、感謝する。……して、被害総額は?」

「当初の試算通り、金貨一千五百枚です。ただし、私の精神的慰謝料と庭師長のセラピー費用を加算し、一千八百枚で請求書を作成済みです」

「……三千枚に釣り上げてもいいぞ。あの女の顔を見るだけで頭痛がする」

殿下は眉間を揉みながら、げんなりとした表情で書類を受け取った。

昨日の騒動以来、リリナ嬢は迎賓館の一室で大人しく(物理的に鍵をかけて)しているらしい。

だが、彼女が掘り返した薬草園の修復や、庭師たちのメンタルケアで、私の業務量は通常の三割増しになっていた。

「ふぅ……」

私は自分のデスクに戻り、椅子に深く沈み込んだ。

さすがに疲れた。

肩が石のように重い。

眼精疲労で視界が霞む。

定時まであと三時間。
今日の分は終わらせたが、明日の分を前倒しするか、それともこのまま死んだように休憩するか。

私が計算機のように脳内でカロリー計算をしていると、不意に視界の端で殿下が立ち上がるのが見えた。

彼は何やらゴソゴソと、デスクの下から小さな箱を取り出している。

そして、どこか気まずそうに、私のデスクへと歩み寄ってきた。

「……ニオ」

「はい。追加の業務なら、明日の朝九時以降にお願いします。現在の私の残存体力(HP)は黄色ゲージです」

私は牽制球を投げた。

しかし、殿下は引かない。

「仕事の話ではない。……手を出せ」

「手? ……こうですか?」

言われるがままに両手を出すと、その上にコトリと重みのある箱が置かれた。

高級感あふれるベルベット張りの小箱だ。

金色の箔押しで『ロイヤル・ショコラティエ』の紋章が入っている。

「……これは?」

「王室御用達のチョコレートだ。一粒で平民の生活費一ヶ月分に相当する」

「はあ。……それで?」

「やる」

「……はい?」

私は箱と殿下の顔を交互に見た。

殿下はそっぽを向いている。耳が少し赤い。

「昨日から……その、迷惑をかけたからな。リリナの件で、君には本来の契約外の負担を強いている。これはその……詫びと、労いだ」

「…………」

私は箱を慎重に振ってみた。

カサ、と軽い音がする。

「……殿下。確認ですが、これは『罠』ではありませんね?」

「はあ!? なんでそうなる!」

「高価な菓子を与え、血糖値を急上昇させて一時的な覚醒状態を作り出し、『さあ元気になったな? 朝まで残業だ』と追い込むブラック企業特有の手口ではありませんか?」

「違うわ! 私はそこまで鬼ではない!」

殿下が叫んだ。

「純粋な差し入れだ! 休憩しろと言っているんだ! 君はいつも『効率、効率』と言って、自分のメンテナンスを後回しにするだろう!」

「……メンテナンスはしています。睡眠時間は確保していますので」

「起きている間はずっと働き詰めじゃないか。……見ていて、息が詰まる」

殿下は私のデスクの端に腰掛けた。
(行儀が悪いですよ、と注意しようと思ったが、疲れているのでやめた)

「私は……君が倒れたら困るのだ」

「業務に支障が出るからですね。合理的です」

「……そうじゃない」

殿下は小さく舌打ちをした。

「君という人間が損なわれるのが嫌だと言っている。……まったく、どうして君はこう、可愛げがないんだ」

「可愛げで書類は片付きません」

「減らず口を叩く元気はあるようだな。……いいから開けろ。溶けるぞ」

促され、私は渋々リボンを解いた。

箱を開けると、宝石のようなチョコレートが六粒、行儀よく並んでいた。

カカオの芳醇な香りが漂う。

「……美味しそうですね」

「だろう? 私も疲れた時はよく食べる。……ほら」

殿下は箱の中から一粒をつまみ上げると、あろうことか、私の口元に差し出してきた。

「……何ですか?」

「手が汚れているだろう。インク塗れだ」

確かに、私の指先は万年筆のインクで少し青くなっていた。

「ですから、あーん」

「……殿下。第4話の仕返しですか?」

「親切心だ。早くしろ、指が疲れる」

拒否するのも面倒だ。
私は観念して口を開けた。

ポイッ。

殿下の指先が唇に触れ、冷たいチョコレートが口の中に転がり込む。

噛んだ瞬間、濃厚な甘さと苦味が口いっぱいに広がった。

「……ん」

美味しい。

悔しいけれど、絶品だ。

脳の血管に糖分が染み渡り、萎縮していたニューロンが再起動していくのが分かる。

「どうだ?」

殿下が覗き込んでくる。

「……悪くありません。カカオ含有率70%、ポリフェノールの抗酸化作用により疲労回復が見込めます。市場価格と効能を照らし合わせても、コストパフォーマンスは優秀です」

「『美味しい』の一言が言えんのか、君は」

殿下は呆れつつも、満足そうに口元を緩めた。

「まあいい。少しは顔色が戻ったようだ」

「……ありがとうございます。経費として計上しておきます」

「計上しなくていい! 私個人のポケットマネーだ」

「では、個人的な『賄賂』として受理します」

私が言うと、殿下は苦笑して自分のデスクに戻っていった。

「さて……私も一つ貰うか」

殿下も自分用の箱を開け、チョコレートを口に放り込んだ。

静かな執務室。

書類の山に囲まれながら、国のトップと隣国の「嫌われ令嬢」が、黙々と高級チョコを食べる。

奇妙な光景だ。

でも、不思議と居心地は悪くなかった。

甘いものが胃に落ちると、尖っていた神経が少しだけ丸くなる気がする。

「……殿下」

「ん?」

「もし、またリリナさんが暴れたら、その時は……」

「その時は?」

「追加報酬として、このチョコをもう一箱要求します」

「……安上がりな補佐官だな」

殿下はフッと笑った。

「約束しよう。その代わり、定時まではきっちり働いてもらうぞ」

「望むところです。倍速で終わらせて帰ります」

私は眼鏡をかけ直し、気合を入れてペンを握り直した。

エネルギー充填率、100%。

単純だが、美味しいものは正義だ。
この人が上司でいる限り、過労死する前に「餌付け」で飼い慣らされてしまうかもしれない。

そんな危機感を少しだけ抱きつつ、私は目の前の書類(隣国からの通商条約案)に向き直った。

だが。

私の「甘いひととき」は、長くは続かなかった。

扉の向こうから、またしても騒々しい足音が近づいてきていたからだ。

今度はリリナ嬢ではない。

もっと質(タチ)の悪い、古狸のような足音だ。

「失礼する!」

ノックもそこそこに扉を開け放ったのは、恰幅の良い初老の男。

煌びやかな衣装に、これ見よがしな勲章。

この国の貴族派閥の筆頭、ランバート侯爵だ。

「クライヴ殿下! 聞き捨てなりませんぞ!」

侯爵は入室するなり、唾を飛ばして叫んだ。

「隣国の、しかも婚約破棄された傷モノの令嬢を、神聖なる執務室に出入りさせているとは! 我が国の品位に関わります!」

彼の背後には、同じような顔をした貴族たちが数名控えている。

どうやら、私の存在が面白くない連中のお出ましのようだ。

私は口の中に残るチョコレートの余韻を楽しみながら、冷ややかに彼らを見やった。

(……糖分補給しておいて正解でしたね)

これから始まるのは、書類整理よりも面倒な「害虫駆除」の時間らしい。

私はそっと、デスクの下で「論破用資料ファイル」のページをめくった。
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