婚約破棄はokですが、復縁要請は却下します!

桃瀬ももな

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「……おかしい」

嵐のような「ジェラルド&リリナ送還作戦」から数日後。

静寂を取り戻したクリフォード王国の執務室で、私は羽根ペンを握ったまま固まっていた。

窓の外では小鳥がさえずり、陽光が穏やかに降り注いでいる。
書類の山は適正量に戻り、私のデスクには湯気を立てる紅茶と、セバスが用意した焼き菓子。

完璧な職場環境だ。
ストレス要因(元婚約者たち)も排除され、私の精神状態は凪のように穏やか……なはずだった。

ドクン。

胸の奥で、心臓が奇妙な音を立てた。

「……まただ」

私は左胸に手を当て、眉をひそめた。

視線の先には、向かいのデスクで黙々と決裁印を押しているクライヴ殿下の姿がある。
彼はふと顔を上げ、私と目が合うと、ふわりと微笑んだ。

「どうした、ニオ。手が止まっているぞ」

ドクン、ドクン。

その笑顔を見た瞬間、心拍数が急上昇した。
呼吸が浅くなり、指先が微かに震える。
顔に熱が集まるのが分かる。

これは……まずい。
非常にまずい徴候だ。

私はガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。

「殿下。緊急事態(エマージェンシー)です」

「なんだ!? またリリナが戻ってきたのか!?」

殿下が即座に「対リリナ用マスク(防臭仕様)」を構える。

「いいえ、違います。……私の身体機能に重大なエラーが発生しました」

「エラー?」

「不整脈です」

私は深刻な顔で告げた。

「ここ数日、殿下の顔を見ると動悸、息切れ、発汗などの症状が現れます。特に殿下が笑ったり、私の名前を呼んだりした時に数値が跳ね上がります」

「……」

殿下の動きが止まった。
マスクをゆっくりと下ろし、どこか期待を含んだ瞳で私を見つめる。

「……ほう? 私を見ると、ドキドキするのか?」

「はい。異常な回転数です。平常時の1・5倍は出ています」

「それは……その、顔が熱かったりもするのか?」

「ええ。体温調整機能もバグを起こしています。さらに思考回路が鈍り、計算速度が著しく低下しています」

殿下が立ち上がり、机を回り込んで私のそばに来た。
その足取りは、心なしか軽やかだ。

「ニオ。それはだな……病気ではないと思うぞ」

「いいえ、病気です」

私は断言した。

「原因は特定できています。……『自律神経失調症』、あるいは『カフェイン中毒』です」

ガクッ。
殿下が膝から崩れ落ちそうになった。

「……は?」

「連日の激務に加え、あの『化学兵器(リリナの香水)』の後遺症、そして借金回収のストレス。これらが複合的に作用し、交感神経が暴走しているのです。殿下の笑顔が『トリガー』になっているのは、おそらく条件反射の一種でしょう」

「条件反射?」

「『パブロフの犬』です。殿下が笑う=また面倒な仕事が増える、と脳が学習し、防衛本能(ファイト・オア・フライト)として心拍数を上げているのです」

私は自分なりの診断結果を淡々と述べた。

「つまり、私の体は殿下を『危険生物』と認識しているわけです」

「……君の解釈は、どうしてそう夢がないんだ」

殿下は深くため息をつき、私の目の前に立った。
その距離、わずか三十センチ。

「……今も、ドキドキしているか?」

「ッ……!」

ドクン、ドクン、ドクン!

警報音が鳴り響くようだ。
近い。
銀色の髪がサラリと揺れ、整いすぎた顔が目の前にある。
青い瞳に、私が映り込んでいる。

「……はい。心拍数、レッドゾーン突入です」

「これが『恐怖』による反応に見えるか?」

殿下はそっと手を伸ばし、私の頬に触れた。
その指先は温かく、優しい。

「ニオ。よく考えてみてくれ。君は私を『危険』だと感じているのか? それとも……」

甘い空気が流れる。
これは、もしや。
あのリリナ嬢が脳内で繰り広げていたような、恋愛小説的な展開なのだろうか?

私が、この効率至上主義(ドライ)な私が、恋?
まさか。
ありえない。
コストがかかりすぎる。

私は冷静さを取り戻すべく、眼鏡の位置をクイと直した。

「……分かりました。検証(テスト)してみましょう」

「検証?」

「殿下。そこでスクワットを十回してください」

「は?」

「運動直後の殿下を見ても同じ反応が出るなら、それは私の内面的な問題。もし出なければ、単なる『休息不足による一時的なエラー』です」

「……この雰囲気でスクワットをさせる気か?」

「データが必要です。早く」

私はストップウォッチ(懐中時計)を構えた。

殿下はしばらく私の顔をジッと見ていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。

「……分かった。君が気が済むならやろう」

殿下はその場で、美しいフォームでスクワットを始めた。
一回、二回、三回。
無駄のない筋肉の動き。
息一つ切らさない体力。

(……悔しいけれど、ハイスペックですね)

十回終了。
殿下は涼しい顔で私に向き直った。

「終わったぞ。……どうだ?」

私は殿下の顔を見た。
運動直後の、ほんのり上気した頬。
乱れた前髪。

ドクン。

「……あ」

鳴った。
心臓が、また跳ねた。

「どうだ、ニオ」

殿下がニヤリと笑う。
勝った、という顔だ。

「……認めます」

私は手帳にメモを取った。

「やはり、病気ではありませんでした」

「だろう? それは……」

「『眼精疲労』です」

ズコーッ!
今度こそ、殿下は盛大にずっこけた。

「なんでそうなるんだ!!」

「殿下の顔面偏差値が高すぎるため、視神経に過負荷がかかっているのです。強い光を見続けると目がチカチカする現象と同じです。ブルーライトならぬ『イケメンライト』による網膜へのダメージですね」

「……君は、本当に……」

殿下は立ち上がり、額に手を当てて天を仰いだ。

「そこまでして『恋』と認めたくないのか」

「恋? 馬鹿なことを言わないでください」

私は鼻で笑った。

「恋とは、判断力を鈍らせ、生産性を低下させ、無駄な出費を招く、最も非合理的な感情バグです。私がそんなシステムエラーを起こすはずがありません」

言い切った。
そうだ。
私は定時退社と老後資金を愛する女。
色恋沙汰など、リリナ嬢にくれてやればいいのだ。

「……はぁ。まあいい」

殿下は力なく笑い、私の頭をポンと撫でた。

「君がそう言うなら、そういうことにしておこう。……ただし」

「ただし?」

「眼精疲労なら、治療が必要だな」

殿下は私の手を取り、強引に立たせた。

「今日はもう上がれ。定時までまだあるが、特別休暇だ」

「えっ? いいんですか?」

「その代わり、医務室ではなく、街の薬局で『目に良いサプリ』でも買ってこい。……あと、美味しいケーキでも食べて、脳を休めろ」

「……殿下」

「私の顔を見ると疲れるんだろう? なら、しばらく視界から消えてやる」

殿下は拗ねたように背を向け、自分のデスクに戻っていった。
その背中が、少しだけ寂しそうに見えるのは……きっと私の目が疲れているせいだ。

「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

私はお辞儀をして、執務室を出た。

扉を閉めた瞬間、私は壁にもたれかかり、大きく息を吐いた。

「……ふぅ」

心臓が、まだうるさい。

眼精疲労?
カフェイン中毒?

嘘だ。
分かっている。
私はそこまで馬鹿じゃない。

あの時、殿下に触れられた頬が、まだ熱い。
スクワットをする殿下を見て「格好いい」と思ってしまった自分もいる。

「……認めたら、負けな気がする」

これは防衛戦だ。
一度認めてしまえば、私の鉄壁の『合理的主義』が崩壊し、あのアホな元婚約者たちと同じ『恋愛脳』に堕ちてしまう気がするのだ。

「……薬局に行こう。一番高い目薬を買おう」

私は自分に言い聞かせ、早足で廊下を歩き出した。

だが、この時の私は知らなかった。
殿下が私を早期帰宅させたのは、単なる気遣いだけではなく、ある『サプライズ』を準備するためだったことを。

そして、そのサプライズが、私の鈍感な心臓にさらなる「不整脈」を引き起こすことになる未来を。
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