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馬車の窓から入り込む風が、急激にその温度を下げました。
王都の柔らかい春の風とは違い、肌を刺すような、しかし凛とした冷気がナタリーの頬を撫でます。
「……見えてきたぞ。あれが俺の領地、ベルンハルト辺境伯領だ」
ルードヴィヒが指差した先には、切り立った岩山を背負うようにして建つ、黒石造りの巨大な要塞がそびえ立っていました。
優雅な装飾など一切排除した、戦うためだけに存在するその城は、まさに「北の黒狼」の棲処にふさわしい威容を誇っています。
「……まあ。なんということでしょう」
ナタリーは窓に張り付き、目を皿のようにしてその景色を眺めました。
横で毛布にくるまり、ガタガタと震えているアンが、消え入るような声で尋ねます。
「な、ナタリー様……。やっぱり絶望されましたか? あんな、魔王が住んでいそうな岩だらけの場所に連れてこられて……」
「絶望? アン、あなた節穴なの? 見てなさい、あの城門の警備兵たちを!」
ナタリーが指差す先には、真冬のような寒さの中でも軽装の鎧を纏い、巨大な槍を構えて微動だにしない男たちが並んでいました。
その一人一人が、王都の近衛騎士が束になっても勝てそうにないほどの、圧倒的な「実戦の筋肉」を装備しています。
「……すごいわ。あっちも、こっちも。右を見ても上腕三頭筋、左を見ても大腿四頭筋! ここは魔境なんてものじゃない、筋肉のエルドラド(黄金郷)だわ!」
ナタリーは馬車が止まるのも待ちきれないといった様子で、身を乗り出しました。
「おい、危ないぞナタリー。……ったく、普通はあの光景を見たら『軍事拠点ではないか』と引きつるものなんだがな」
ルードヴィヒが苦笑しながら、彼女の腰を掴んで座席に戻しました。
馬車が重厚な跳ね橋を渡り、城内の中庭に入ると、そこには訓練中の兵士たちの掛け声が地鳴りのように響いていました。
「ふんっ!」「はあっ!」
上半身裸で巨大な岩を投げ飛ばす者。
二人掛かりでも持ち上がらないような大剣を片手で振るう者。
そこには、王都の社交界で語られる「優雅な貴族生活」など微塵も存在しませんでした。
「ルードヴィヒ様、おかえりなさいませ!」
馬車が止まると同時に、一人の筋骨隆々な老人が歩み寄ってきました。
執事服を着てはいるものの、その肩幅は通常の執事三人分はあり、鋭い眼光は猛禽類のようです。
「ああ、バルカス。留守の間、異常はなかったか?」
「はっ。小規模な魔物の群れが二つほど出ましたが、新兵たちの準備運動にちょうど良かったですわい。……して、そちらのお嬢様が?」
バルカスの視線が、馬車から降りたナタリーに向けられました。
一瞬、値踏みするような冷たい空気が流れましたが、ナタリーはそれを平然と受け流し、逆にバルカスの前腕を凝視しました。
「……素晴らしいわ。その血管の浮き出た質感、長年の鍛錬の証ですね。失礼ですが、お名前は?」
「……バルカスと申します。……お嬢様、私を見て怖くないのですか?」
「怖い? どうして? こんなに美しい筋肉を維持している方に、悪い人はいませんわ。……ねえ、旦那様(仮)。このお屋敷、いえ、この要塞のスタッフは全員このような『仕上がり』なのですか?」
ルードヴィヒは肩をすくめました。
「ああ。ここでは働かざる者食うべからず、そして鍛えざる者守るべからずだ。侍女だろうが料理番だろうが、最低限の自衛能力……つまり筋肉は持っている」
その言葉を証明するかのように、城の奥から「おかえりなさいませ!」と叫びながら走ってきた侍女たちは、全員が重そうな洗濯物カゴを片手で軽々と持ち上げ、ナタリーに深々とお辞儀をしました。
その二の腕には、確かな力こぶが宿っています。
「……天国。ここは間違いなく天国だわ」
ナタリーは感激のあまり、胸に手を当てて天を仰ぎました。
「お嬢様、現実を見てください。あっちで魔物の首が槍に刺さっていますわよ! 天国じゃなくて地獄の入り口ですわ!」
アンの悲鳴をBGMに、ナタリーはルードヴィヒに向き直りました。
「ルードヴィヒ様。私、決めたわ。この領地のポテンシャルを最大限に引き出し、世界一の『筋肉王国』を築き上げてみせるわ!」
「……ああ、勝手にしてくれと言ったが、あまり兵士たちを困らせるなよ。あいつら、戦いには慣れているが『筋肉マニアの女主人』には免疫がないからな」
「ふふ、大丈夫ですわ。愛を持って接しますもの(物理的に)」
ナタリーは不敵な笑みを浮かべ、黒石の要塞へと第一歩を記しました。
王都から追放された悲劇のヒロイン。
その実態は、北の魔境を自らの趣味で染め上げようと企む、最も恐ろしい侵略者だったのかもしれません。
「さあ、まずは歓迎会のメニューを確認しましょう! 高タンパク低脂質な料理以外、私は認めませんわよ!」
「……バルカス、悪いが胃薬を多めに用意しておいてくれ。この冬は例年より騒がしくなりそうだ」
ルードヴィヒの溜息は、極寒の北風にかき消されていきました。
王都の柔らかい春の風とは違い、肌を刺すような、しかし凛とした冷気がナタリーの頬を撫でます。
「……見えてきたぞ。あれが俺の領地、ベルンハルト辺境伯領だ」
ルードヴィヒが指差した先には、切り立った岩山を背負うようにして建つ、黒石造りの巨大な要塞がそびえ立っていました。
優雅な装飾など一切排除した、戦うためだけに存在するその城は、まさに「北の黒狼」の棲処にふさわしい威容を誇っています。
「……まあ。なんということでしょう」
ナタリーは窓に張り付き、目を皿のようにしてその景色を眺めました。
横で毛布にくるまり、ガタガタと震えているアンが、消え入るような声で尋ねます。
「な、ナタリー様……。やっぱり絶望されましたか? あんな、魔王が住んでいそうな岩だらけの場所に連れてこられて……」
「絶望? アン、あなた節穴なの? 見てなさい、あの城門の警備兵たちを!」
ナタリーが指差す先には、真冬のような寒さの中でも軽装の鎧を纏い、巨大な槍を構えて微動だにしない男たちが並んでいました。
その一人一人が、王都の近衛騎士が束になっても勝てそうにないほどの、圧倒的な「実戦の筋肉」を装備しています。
「……すごいわ。あっちも、こっちも。右を見ても上腕三頭筋、左を見ても大腿四頭筋! ここは魔境なんてものじゃない、筋肉のエルドラド(黄金郷)だわ!」
ナタリーは馬車が止まるのも待ちきれないといった様子で、身を乗り出しました。
「おい、危ないぞナタリー。……ったく、普通はあの光景を見たら『軍事拠点ではないか』と引きつるものなんだがな」
ルードヴィヒが苦笑しながら、彼女の腰を掴んで座席に戻しました。
馬車が重厚な跳ね橋を渡り、城内の中庭に入ると、そこには訓練中の兵士たちの掛け声が地鳴りのように響いていました。
「ふんっ!」「はあっ!」
上半身裸で巨大な岩を投げ飛ばす者。
二人掛かりでも持ち上がらないような大剣を片手で振るう者。
そこには、王都の社交界で語られる「優雅な貴族生活」など微塵も存在しませんでした。
「ルードヴィヒ様、おかえりなさいませ!」
馬車が止まると同時に、一人の筋骨隆々な老人が歩み寄ってきました。
執事服を着てはいるものの、その肩幅は通常の執事三人分はあり、鋭い眼光は猛禽類のようです。
「ああ、バルカス。留守の間、異常はなかったか?」
「はっ。小規模な魔物の群れが二つほど出ましたが、新兵たちの準備運動にちょうど良かったですわい。……して、そちらのお嬢様が?」
バルカスの視線が、馬車から降りたナタリーに向けられました。
一瞬、値踏みするような冷たい空気が流れましたが、ナタリーはそれを平然と受け流し、逆にバルカスの前腕を凝視しました。
「……素晴らしいわ。その血管の浮き出た質感、長年の鍛錬の証ですね。失礼ですが、お名前は?」
「……バルカスと申します。……お嬢様、私を見て怖くないのですか?」
「怖い? どうして? こんなに美しい筋肉を維持している方に、悪い人はいませんわ。……ねえ、旦那様(仮)。このお屋敷、いえ、この要塞のスタッフは全員このような『仕上がり』なのですか?」
ルードヴィヒは肩をすくめました。
「ああ。ここでは働かざる者食うべからず、そして鍛えざる者守るべからずだ。侍女だろうが料理番だろうが、最低限の自衛能力……つまり筋肉は持っている」
その言葉を証明するかのように、城の奥から「おかえりなさいませ!」と叫びながら走ってきた侍女たちは、全員が重そうな洗濯物カゴを片手で軽々と持ち上げ、ナタリーに深々とお辞儀をしました。
その二の腕には、確かな力こぶが宿っています。
「……天国。ここは間違いなく天国だわ」
ナタリーは感激のあまり、胸に手を当てて天を仰ぎました。
「お嬢様、現実を見てください。あっちで魔物の首が槍に刺さっていますわよ! 天国じゃなくて地獄の入り口ですわ!」
アンの悲鳴をBGMに、ナタリーはルードヴィヒに向き直りました。
「ルードヴィヒ様。私、決めたわ。この領地のポテンシャルを最大限に引き出し、世界一の『筋肉王国』を築き上げてみせるわ!」
「……ああ、勝手にしてくれと言ったが、あまり兵士たちを困らせるなよ。あいつら、戦いには慣れているが『筋肉マニアの女主人』には免疫がないからな」
「ふふ、大丈夫ですわ。愛を持って接しますもの(物理的に)」
ナタリーは不敵な笑みを浮かべ、黒石の要塞へと第一歩を記しました。
王都から追放された悲劇のヒロイン。
その実態は、北の魔境を自らの趣味で染め上げようと企む、最も恐ろしい侵略者だったのかもしれません。
「さあ、まずは歓迎会のメニューを確認しましょう! 高タンパク低脂質な料理以外、私は認めませんわよ!」
「……バルカス、悪いが胃薬を多めに用意しておいてくれ。この冬は例年より騒がしくなりそうだ」
ルードヴィヒの溜息は、極寒の北風にかき消されていきました。
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