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王都から北へ。
街道を進む馬車の車内は、独特の緊張感……というよりは、非常に偏った熱気に包まれていました。
豪華な革張りの座席に腰を下ろす、ルードヴィヒとナタリー。
そして、その斜め向かいで死んだ魚のような目をしている侍女のアン。
ナタリーは、向かい側に座るルードヴィヒを、獲物を狙う鷹のような鋭い目つきで凝視していました。
正確には、彼の太ももの上で広げられた書類……ではなく、その書類を支える指先の節々や、袖口から覗く前腕の筋に。
「……ナタリー。さっきから一言も喋っていないが、俺の顔に何か付いているか?」
ルードヴィヒが、耐えかねたように書類から視線を上げました。
彼は戦場では数千の敵に囲まれても動じない男ですが、この「品定め」するような視線には、かつてない居心地の悪さを感じていたのです。
「いいえ。顔ではなく、その腕の角度ですわ。書類をめくるたびに、橈側手根屈筋(とうそくしゅこんくつきん)が実に美しく躍動しています。素晴らしい……。まるで熟練の工匠が魂を込めて打った剣のようです」
ナタリーはうっとりと、しかしどこか狂気を孕んだ吐息を漏らしました。
「……トウソク、なんだと? お前はさっきから、何を言っているんだ」
「筋肉の名称ですわ。北の地へ着くまでに、あなたには正しい筋肉の部位と、その愛で方を学んでいただく必要があります。まずはその、厚い胸板の大胸筋から始めてもよろしいかしら?」
ナタリーは指先を動かし、今にもルードヴィヒの胸元に飛びかかりそうな勢いです。
「ナタリー様、落ち着いてください。その指は、淑女が初対面の……いえ、仮にも婚約者に対して向けていいものではありませんわ」
アンが冷静なツッコミを入れましたが、ナタリーは止まりません。
「アン、何を言っているの。沈黙は金と言うけれど、この沈黙こそが筋肉の声を聴くための神聖な時間なのよ。ルードヴィヒ様の筋肉が、私に語りかけているわ……。『もっと見てくれ、もっと触れてくれ』と!」
「……俺は一言もそんなことは言っていない」
ルードヴィヒは呆れ半分、驚き半分といった様子で溜息をつきました。
しかし、その口角は微かに上がっています。
「だが、お前がそこまで熱心に俺の一部を評価するなら、悪い気はしない。王都の女たちは、俺のこの体格を見て『野蛮だ』『怖い』と蔑むか、媚びを売るために震えながら近づくかのどちらかだったからな」
「野蛮? 失礼な。これは洗練された機能美ですわ。効率を極めた果てに辿り着く、いわば芸術作品。それを理解できないなんて、王都の方々の審美眼もたかが知れていますわね」
ナタリーは鼻で笑うと、今度はルードヴィヒの膝の方へ視線を落としました。
「その膝の上の筋肉も、馬を御すために鍛え上げられたのね。……ねえ、旦那様(仮)。少しだけ、その……質感を確かめさせていただいても?」
「おい、馬車の中だぞ」
「あら、馬車の中だからこそですわ。密室、揺れ、そして筋肉。これ以上の三密……いえ、三条件が揃う場所が他にあるかしら?」
ナタリーは身を乗り出し、ルードヴィヒの腕をそっと、しかし確かな力強さで掴みました。
服の上からでも分かる、岩のような硬さ。
彼女の指先が、その繊維一本一本を確認するように動きます。
「……っ。ナタリー、お前……」
ルードヴィヒの喉が、微かに鳴りました。
彼は自分でも驚くほど、ナタリーの指先の温度に過敏に反応していました。
戦いで受けた傷よりも、その柔らかな指の感触の方が、よほど心臓に悪い。
「素晴らしいわ……。期待を裏切らない硬度。ねえ、アン! あなたも触ってみなさい! 世界観が変わるわよ!」
「お断りします。私は普通の人間として、普通に領地へ着きたいだけですので」
アンは窓の外を流れる景色を見つめながら、心を無にしました。
馬車が大きく揺れた瞬間、ナタリーの体がルードヴィヒの胸へと倒れ込みました。
「おっと。……大丈夫か、ナタリー」
ルードヴィヒが、とっさに彼女の肩を抱き止めました。
至近距離で重なる視線。
本来なら、ここで甘い雰囲気になり、初々しい会話が交わされるべき場面です。
「……あ。ルードヴィヒ様、今の……今の衝撃で、僧帽筋(そうぼうきん)がキュッと締まりましたわね! 最高です! もう一回揺れてくれないかしら!」
ナタリーは、彼の腕の中で、甘えるどころか、むしろ筋肉の収縮をより詳しく観察しようと鼻を近づけました。
「……ナタリー。お前、本当に色気というものをどこかに落としてきたのか?」
「いいえ、色気ならここにありますわ。この盛り上がった筋肉のラインに」
ルードヴィヒは深く、深い溜息をつくと、そのまま彼女を抱きしめる力を少しだけ強めました。
「……好きにしろ。ただし、領地に着くまではそのテンションを保っておけよ。北の男たちは、お前のような女に免疫がない。お前のその『筋肉への愛』とやらで、奴らを恐怖のどん底に叩き落としてやれ」
「ふふ、お安い御用ですわ。私の美学に、国境なんて関係ありませんもの」
ナタリーは満足げに、ルードヴィヒの胸板を枕代わりにして目を閉じました。
馬車の中に、再び奇妙な「沈黙」が戻ってきました。
それはナタリーにとっては至福の、ルードヴィヒにとっては翻弄される、そしてアンにとっては胃の痛くなるような時間でした。
「……早く着かないかしら。私の精神が削れる前に」
アンの切実な独り言は、蹄の音にかき消されていきました。
北の大地まで、馬車はまだ半分も進んでいません。
街道を進む馬車の車内は、独特の緊張感……というよりは、非常に偏った熱気に包まれていました。
豪華な革張りの座席に腰を下ろす、ルードヴィヒとナタリー。
そして、その斜め向かいで死んだ魚のような目をしている侍女のアン。
ナタリーは、向かい側に座るルードヴィヒを、獲物を狙う鷹のような鋭い目つきで凝視していました。
正確には、彼の太ももの上で広げられた書類……ではなく、その書類を支える指先の節々や、袖口から覗く前腕の筋に。
「……ナタリー。さっきから一言も喋っていないが、俺の顔に何か付いているか?」
ルードヴィヒが、耐えかねたように書類から視線を上げました。
彼は戦場では数千の敵に囲まれても動じない男ですが、この「品定め」するような視線には、かつてない居心地の悪さを感じていたのです。
「いいえ。顔ではなく、その腕の角度ですわ。書類をめくるたびに、橈側手根屈筋(とうそくしゅこんくつきん)が実に美しく躍動しています。素晴らしい……。まるで熟練の工匠が魂を込めて打った剣のようです」
ナタリーはうっとりと、しかしどこか狂気を孕んだ吐息を漏らしました。
「……トウソク、なんだと? お前はさっきから、何を言っているんだ」
「筋肉の名称ですわ。北の地へ着くまでに、あなたには正しい筋肉の部位と、その愛で方を学んでいただく必要があります。まずはその、厚い胸板の大胸筋から始めてもよろしいかしら?」
ナタリーは指先を動かし、今にもルードヴィヒの胸元に飛びかかりそうな勢いです。
「ナタリー様、落ち着いてください。その指は、淑女が初対面の……いえ、仮にも婚約者に対して向けていいものではありませんわ」
アンが冷静なツッコミを入れましたが、ナタリーは止まりません。
「アン、何を言っているの。沈黙は金と言うけれど、この沈黙こそが筋肉の声を聴くための神聖な時間なのよ。ルードヴィヒ様の筋肉が、私に語りかけているわ……。『もっと見てくれ、もっと触れてくれ』と!」
「……俺は一言もそんなことは言っていない」
ルードヴィヒは呆れ半分、驚き半分といった様子で溜息をつきました。
しかし、その口角は微かに上がっています。
「だが、お前がそこまで熱心に俺の一部を評価するなら、悪い気はしない。王都の女たちは、俺のこの体格を見て『野蛮だ』『怖い』と蔑むか、媚びを売るために震えながら近づくかのどちらかだったからな」
「野蛮? 失礼な。これは洗練された機能美ですわ。効率を極めた果てに辿り着く、いわば芸術作品。それを理解できないなんて、王都の方々の審美眼もたかが知れていますわね」
ナタリーは鼻で笑うと、今度はルードヴィヒの膝の方へ視線を落としました。
「その膝の上の筋肉も、馬を御すために鍛え上げられたのね。……ねえ、旦那様(仮)。少しだけ、その……質感を確かめさせていただいても?」
「おい、馬車の中だぞ」
「あら、馬車の中だからこそですわ。密室、揺れ、そして筋肉。これ以上の三密……いえ、三条件が揃う場所が他にあるかしら?」
ナタリーは身を乗り出し、ルードヴィヒの腕をそっと、しかし確かな力強さで掴みました。
服の上からでも分かる、岩のような硬さ。
彼女の指先が、その繊維一本一本を確認するように動きます。
「……っ。ナタリー、お前……」
ルードヴィヒの喉が、微かに鳴りました。
彼は自分でも驚くほど、ナタリーの指先の温度に過敏に反応していました。
戦いで受けた傷よりも、その柔らかな指の感触の方が、よほど心臓に悪い。
「素晴らしいわ……。期待を裏切らない硬度。ねえ、アン! あなたも触ってみなさい! 世界観が変わるわよ!」
「お断りします。私は普通の人間として、普通に領地へ着きたいだけですので」
アンは窓の外を流れる景色を見つめながら、心を無にしました。
馬車が大きく揺れた瞬間、ナタリーの体がルードヴィヒの胸へと倒れ込みました。
「おっと。……大丈夫か、ナタリー」
ルードヴィヒが、とっさに彼女の肩を抱き止めました。
至近距離で重なる視線。
本来なら、ここで甘い雰囲気になり、初々しい会話が交わされるべき場面です。
「……あ。ルードヴィヒ様、今の……今の衝撃で、僧帽筋(そうぼうきん)がキュッと締まりましたわね! 最高です! もう一回揺れてくれないかしら!」
ナタリーは、彼の腕の中で、甘えるどころか、むしろ筋肉の収縮をより詳しく観察しようと鼻を近づけました。
「……ナタリー。お前、本当に色気というものをどこかに落としてきたのか?」
「いいえ、色気ならここにありますわ。この盛り上がった筋肉のラインに」
ルードヴィヒは深く、深い溜息をつくと、そのまま彼女を抱きしめる力を少しだけ強めました。
「……好きにしろ。ただし、領地に着くまではそのテンションを保っておけよ。北の男たちは、お前のような女に免疫がない。お前のその『筋肉への愛』とやらで、奴らを恐怖のどん底に叩き落としてやれ」
「ふふ、お安い御用ですわ。私の美学に、国境なんて関係ありませんもの」
ナタリーは満足げに、ルードヴィヒの胸板を枕代わりにして目を閉じました。
馬車の中に、再び奇妙な「沈黙」が戻ってきました。
それはナタリーにとっては至福の、ルードヴィヒにとっては翻弄される、そしてアンにとっては胃の痛くなるような時間でした。
「……早く着かないかしら。私の精神が削れる前に」
アンの切実な独り言は、蹄の音にかき消されていきました。
北の大地まで、馬車はまだ半分も進んでいません。
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