婚約破棄、万歳!悪役令嬢は変人辺境伯に拾われて。

桃瀬ももな

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激しい戦いと、その後の狂乱の「岩猪(ロックボア)祭り」が終わり、要塞にようやく静かな夜が訪れました。

宴の喧騒を離れ、ナタリーは夜風に当たるため、城壁のバルコニーへと足を運びました。
そこには、既に一人の男が夜空を見上げて立っていました。

「……旦那様。こんなところで一人、黄昏(たそがれ)筋肉の収縮でも確認してらっしゃったの?」

ルードヴィヒは振り返り、ナタリーの姿を認めると、少しだけ柔らかい笑みを浮かべました。
戦いの汚れを落とし、簡素なシャツに着替えた彼の体からは、まだかすかに熱気が漂っています。

「ナタリーか。……いや、今日の戦いを思い出していた。お前が空から降ってきた時は、心臓が止まるかと思ったぞ」

「あら、あれは計算し尽くされた放物線ですわ。それより、心臓が止まる……? それは不整脈の予兆かしら。心筋のトレーニングを強化した方がよろしいかもしれませんわね」

ナタリーが隣に並ぶと、ルードヴィヒはふっと視線を落とし、彼女の横顔をじっと見つめました。
月明かりに照らされたナタリーは、戦場での荒々しさが嘘のように、神秘的で、どこか儚げに見えたからです。

「……ナタリー。お前は、怖くないのか? 王都の温室で育った令嬢が、あんな巨大な魔物に立ち向かって。……本当は、無理をしていたんじゃないのか」

ルードヴィヒの声が、いつもより低く、そして優しく響きました。
彼はそっと手を伸ばし、ナタリーの頬に付いていた小さな汚れを、親指でなぞるようにして拭いました。

「……っ」

ナタリーの心臓が、ドクンと大きく跳ねました。
至近距離で見つめ合う二人。
ルードヴィヒの瞳に宿る真摯な熱が、冷たい夜風をかき消していくようです。

(な、何かしら、この感覚。胸の奥がギュッとして、呼吸が浅くなる……。まさか、これが世に言う『吊り橋効果』というやつかしら!?)

ナタリーの脳内計算機が、瞬時に生理学的なデータを弾き出しました。

(激しい運動の直後、アドレナリンが残存している状態で、異性と近距離で接触する。それにより、脳が心拍数の上昇を『恋のときめき』と錯覚する現象。……間違いないわ! 私の今の心拍数は一分間に百二十回。これは理想的な有酸素運動の領域よ!)

「……ナタリー。俺は……」

ルードヴィヒが顔を近づけ、二人の唇が触れそうな距離になったその時。
ナタリーはガバッと身を乗り出し、ルードヴィヒの胸板に両手を押し当てました。

「ちょっと待ってください、旦那様! 今、あなたの心拍数も測らせて!」

「……は?」

「いいですか、吊り橋効果が真実であるならば、あなたの左心室の鼓動も私のものとシンクロしているはず。もし、あなたの方が拍動が速ければ、それはあなたが私を『面白い女』としてだけでなく『魅力的な筋肉の所有者』として認めている証拠ですわ!」

ルードヴィヒは数秒の間、呆然とした顔でナタリーを見つめていましたが、やがて力なく肩を落とし、大きな溜息をつきました。

「……お前という女は。せっかくの、この雰囲気を……」

「雰囲気? そんな目に見えないものより、数値ですよ、数値! さあ、脱いで! 正確な鼓動を聴くために、シャツが邪魔ですわ!」

ナタリーは強引にルードヴィヒのシャツのボタンに手をかけました。
ルードヴィヒは慌ててその手を掴み、彼女を制しました。

「よせ、ナタリー! 風邪を引くぞ。……それに、測らなくても分かる。俺の心臓は、さっきから壊れそうなほど動いている」

ルードヴィヒは、ナタリーの手を自分の胸の上にぎゅっと押し付けました。
手のひらから伝わってくる、激しく、しかし力強い鼓動。
それは、いかなるダジャレよりも雄弁に、彼の熱情を物語っていました。

「……これでも、錯覚だと言うか?」

ルードヴィヒの言葉に、ナタリーは珍しく言葉を失いました。
筋肉への愛着でも、計算された損得勘定でもない、純粋な「人の想い」の重さが、手のひらを通じて流れ込んできたからです。

「……ずるいわ、旦那様。そんな、大胸筋に直接響くような言い方……」

ナタリーは顔を赤らめ、視線を泳がせました。
しかし、そのまま手を引くことはせず、むしろルードヴィヒの胸の温かさを確かめるように、そっと指を丸めました。

「……認めますわ。今のこの心拍数の上昇は、筋肉の疲労によるものではありません。……少しだけ、ほんの少しだけ、あなたのことが『良い仕上がり』に見えてしまったせいかもしれません」

「……そうか。それなら、十分だ」

ルードヴィヒは満足げに微笑むと、ナタリーをその逞しい腕の中にそっと閉じ込めました。
夜のバルコニーに、二人の重なり合う鼓動だけが響きます。

「……あ。ねえ、旦那様」

「何だ?」

「今の密着感、広背筋(こうはいきん)のストレッチに最高ですわ。もう少し強く抱きしめてくださる?」

「…………お前な」

ルードヴィヒの呆れ声が、夜空に溶けていきました。
結局、ロマンチックな雰囲気は長続きしませんでしたが、二人の距離は確実に、数センチどころか「筋肉の厚み」分だけ縮まったのでした。

遠くの窓からその様子を見ていたアンが、静かにカーテンを閉めました。
「……吊り橋効果どころか、そのまま吊り橋を破壊して進むようなカップルですわね、あの人たちは」

ナタリーとルードヴィヒの「恋愛(という名の筋トレ)」は、北の夜をじわじわと、しかし確実に熱くしていくのでした。
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