運命は変わる。「婚約破棄だ!」と王子が叫んだ瞬間。

桃瀬ももな

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「お待ちしておりました、アスカ・フォン・ローゼン公爵令嬢」

バルコニーからホールに戻った私たちを待ち構えていたのは、一人の男だった。

銀縁の眼鏡。

整えられた亜麻色の髪。

そして、隙のない仕立ての燕尾服。

隣国ガレリアの外交官、ベルンシュタイン卿だ。

彼は、私の隣で殺気を放っているジークフリート(魔王モード)を完全に無視し、私だけに恭しく一礼した。

「先ほどの会場整理、拝見いたしました。まさに神業。……あの混乱(カオス)を一瞬で収束させる手腕、我が国であれば即座に内務大臣の椅子をご用意できるレベルです」

「……過分な評価です」

私は外交的な笑み(営業スマイル)で返した。

「ですが、私は現在、こちらの宰相閣下と専属契約を結んでおりまして」

「契約? ああ、あの『偽装婚約』のことですか?」

ベルンシュタインは眼鏡の奥で目を光らせた。

「調べはついていますよ。貴女がカイル殿下に婚約破棄された直後に、ジークフリート閣下が拾い上げたという経緯もね」

彼は一歩、私に近づいた。

「アスカ様。単刀直入に申し上げます。……あんな堅物の『書類の魔王』の下で働くのは窮屈ではありませんか?」

「……窮屈?」

「ええ。閣下は優秀ですが、部下を使い潰すことで有名だ。貴女のような宝石を、ただの歯車として摩耗させるのは世界の損失です」

ベルンシュタインは懐から一枚のカードを取り出した。

「我が国に来てください。年俸は現在の三倍。週休二日制を完全保証。さらに、貴女専用の執務室と、優秀な部下を五十名お付けします」

「……!」

私の眉がピクリと動いた。

(部下五十名……! それは魅力的だわ。人手さえあれば、『私がやらなくてもいい仕事』を丸投げできる……!)

私の心が揺れたのを、敏感に察知した男がいた。

ジークフリートだ。

「……ベルンシュタイン」

地を這うような低い声。

ジークフリートが私とベルンシュタインの間に割り込んだ。

その背中からは、視覚化できそうなほどの黒い瘴気が立ち昇っている。

「私の目の前で、私の婚約者を勧誘(ナンパ)するとは……いい度胸だな」

「おや、閣下。これはビジネスの話ですよ」

ベルンシュタインは涼しい顔で受け流した。

「労働者は、より良い条件を選ぶ権利がある。貴国のようなブラックな環境より、我が国のホワイトな環境の方が、彼女の生産性を最大化できる。……論理的な話でしょう?」

「論理だと?」

ジークフリートがギリッと歯を鳴らした。

「ふざけるな。アスカの生産性を理解しているのは私だ。彼女の淹れるコーヒーの濃さから、ペンの筆圧、好みの紙質まで、全て把握しているのは私だけだ!」

「それはストーカーと言うのです」

「黙れ! アスカは渡さん! 彼女は私の……私の心臓(ライフライン)だ!」

「重いですね。そういうウェットな感情論が、優秀な人材を遠ざけるのです」

火花が散る。

冷徹な宰相と、切れ者の外交官。

二人のイケメンが、私を挟んで睨み合っている。

周囲の貴族たちは「まあ、アスカ様を巡って恋の決闘!?」「なんて罪な女なの……」とざわめいているが、実態は「高度な人材獲得競争」である。

(……困ったわね。条件だけで言えば、ガレリア国の方が有利だわ)

私は冷静に天秤にかけていた。

ジークフリートの職場:
メリット・権限が無限大、お菓子食べ放題、筋肉が拝める。
デメリット・業務量が無限大、上司の愛が重い。

ガレリア国:
メリット・高給、部下付き、ホワイト環境。
デメリット・転居の手続きが面倒、新しい職場での人間関係構築コスト。

(初期投資(イニシャルコスト)を考えると、転職はリスクが高いか……? でも三倍の給与は……)

私が電卓を弾くように思案していた、その時だった。

「やめろおおおおおお!!!」

悲鳴のような絶叫とともに、何かが飛び込んできた。

金髪を振り乱し、服はボロボロ、顔には鼻血の跡(バルコニーで転んだ跡)。

カイル王子だ。

彼は私と二人の男の間に割って入り、両手を広げて立ちはだかった。

「アスカを取り合うのはやめろ! 見苦しいぞ!」

会場が静まり返る。

「……殿下?」

私が問いかけると、カイルは悲劇のヒーローのような顔で私を振り返った。

「アスカ、怖かっただろう? もう大丈夫だ。僕が来たからには、彼らに君を好き勝手にはさせない!」

そして、ジークフリートとベルンシュタインを交互に睨みつけた。

「二人とも、恥を知れ! 一人の女性を巡って、公衆の面前で争うなんて!」

「……争っているのは労働条件ですが」

「うるさいアスカ! 強がらなくていい!」

カイルは私の言葉を遮り、熱弁を振るい始めた。

「分かっているぞ。君たちはアスカの魅力に気づいてしまったんだな? 彼女の冷たい視線にゾクゾクし、罵倒されたいと願うようになってしまったんだな!?」

「……は?」

ベルンシュタインが呆気にとられる。

「だが、諦めたまえ! アスカの『第一被害者』は僕だ! 彼女の冷遇を一番長く味わったのは、元婚約者である僕なんだ!」

カイルは胸を張った。

謎のマウントだ。

「だからアスカは僕のものだ! 仕事なんかどうでもいい、君はただ僕の隣で、僕のダメさを罵ってくれればいいんだ!」

カイルは私の手を取ろうと、汗ばんだ手を伸ばしてきた。

「さあ、帰ろうアスカ! そして僕を叱ってくれ!」

その瞬間。

私の脳内で、何かが切れた。

(……うるさい)

生産性の欠片もない会話。

的外れな自己顕示欲。

そして、重要な商談(ヘッドハンティング交渉)の妨害。

私は吸い込んだ息を吐き出そうとした。

しかし、それより早く、隣から同じ波長(バイブス)を感じた。

ジークフリートだ。

彼もまた、限界を迎えていた。

私たちは目配せもせず、呼吸を合わせた。

「「邪魔です」」

二人の声が、完璧にハモった。

冷徹で、無感情で、そして有無を言わせない拒絶の一言。

「え?」

カイルが固まる。

私は扇子で彼の手をパシンと叩き落とした。

「殿下。現在、私は自身の市場価値(マーケットバリュー)について高度な交渉を行っています。部外者は退場してください。ノイズになります」

「の、ノイズ……?」

ジークフリートが追い打ちをかける。

「殿下。貴方の存在そのものが、我が国の外交上のリスクだ。部屋の隅で、壁のシミでも数えていていただきたい」

「か、壁のシミ……?」

「「消えてください」」

再び、完璧なユニゾン。

カイルはショックのあまり、膝から崩れ落ちた。

「ひどい……二人して……息が合いすぎている……!」

彼はよよよ、と泣き崩れた。

その様子を見て、ベルンシュタインが眼鏡の位置を直しながら呟いた。

「……なるほど」

彼は興味深そうに私とジークフリートを見比べた。

「阿吽の呼吸、というやつですか。……これは入り込む隙がなさそうだ」

ベルンシュタインはフッと笑い、カードをしまった。

「今回は引くとしましょう。これほど息の合ったコンビ(・ ・ ・)を引き裂くのは、骨が折れそうだ」

「……コンビ?」

私が首を傾げると、彼は肩をすくめた。

「ええ。貴女たちは、互いに背中を預け合っている。……条件や金銭だけでは切れない『信頼』で繋がっているように見えますよ」

彼はジークフリートに向かって片目をつぶった。

「閣下、今回は譲ります。ですが、貴方が彼女を少しでも不当に扱えば、いつでも奪いに来ますからね」

「……二度とその口を開くな。アスカは私のものだ」

ジークフリートが唸る。

ベルンシュタインは優雅に一礼し、去っていった。

嵐が過ぎ去った。

残されたのは、泣いているカイル王子と、まだ殺気が収まらないジークフリート、そして私だ。

「……ふう。もったいないことをしました」

私は呟いた。

「え?」

ジークフリートが不安そうに私を見る。

「給与三倍のオファー、断ってしまいましたね」

「ア、アスカ……まさか、後悔しているのか?」

「いいえ」

私はジークフリートを見上げた。

「転職にはコストがかかります。それに……」

「それに?」

私は小さく笑った。

「私の今の職場には、最高の『魔道具(コーヒーメーカー)』と、面白い『難題(パズル)』、そして……」

私はちらりと、床で泣いている王子と、それを冷ややかに見下ろす宰相を見た。

「退屈しない『同僚』がいますからね。お金には代えられない福利厚生です」

ジークフリートの表情が、パァッと明るくなった。

まるで大型犬が尻尾を振っているようだ。

「……そうか! そうか、気に入ってくれているか!」

「ええ。ですから閣下、これからもこき使ってください。……ただし」

私は釘を刺した。

「ベルンシュタイン卿の提示額を参考に、次回の契約更新では昇給交渉をさせていただきますので、覚悟しておいてくださいね?」

「望むところだ! 全財産でも何でもくれてやる!」

ジークフリートは上機嫌で私の肩を抱いた。

足元でカイルが「僕も! 僕も全財産出すからぁ!」と叫んでいたが、私たちは綺麗に無視して歩き出した。

(……まったく、騒がしい夜会だこと)

私はやれやれと思いつつも、隣を歩くジークフリートの腕の温かさに、少しだけ安らぎを感じていた。

この「業務提携」、意外と長く続くかもしれない。

そう思った矢先のことだ。

「た、大変です! 宰相閣下!」

またしても、慌てふためいた伝令が飛び込んできた。

「今度は何だ!」

ジークフリートが怒鳴る。

伝令の兵士は、青ざめた顔で報告した。

「り、隣国との国境付近で……大規模な魔獣の群れが発生しました! その数、五千!」

「なに?」

「しかも、その群れを率いているのは……『スタンピード(大暴走)』の兆候です!」

会場が凍りつく。

スタンピード。

国家存亡の危機だ。

ジークフリートの表情から、一瞬にして甘さが消え、冷徹な為政者の顔に戻った。

「……アスカ」

「はい」

私もドレスの裾を握りしめた。

「パーティーは終了だ。……緊急対策本部を立ち上げる。ついて来られるか?」

「愚問です」

私はニヤリと笑った。

「書類仕事も飽きてきたところです。……今度は『災害対策(トラブルシューティング)』ですね? 腕が鳴りますわ」

「頼もしいな」

私たちは顔を見合わせ、同時に走り出した。

ドレスを翻し、燕尾服をなびかせ、戦場(しごとば)へと向かう。

取り残されたカイル王子が「待って! 僕も行く! ……あ、足が痺れて動けない!」と叫んでいるのを置き去りにして。
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