運命は変わる。「婚約破棄だ!」と王子が叫んだ瞬間。

桃瀬ももな

文字の大きさ
13 / 28

13

しおりを挟む
「……あの、閣下」

「なんだ」

「ペンを取っていただけますか? 私の右手の、わずか十センチ先にあるのですが」

「ダメだ。動くな」

宰相執務室。

いつものように書類の山と格闘……しようとしている私の手は、何者かによってガッチリとホールドされていた。

私の手を握っているのは、もちろんジークフリート宰相だ。

彼は自分の椅子を私の椅子の真横――というより、ほぼ密着する位置――に移動させ、私の左手を自分の左手で握りしめ、右手で私の業務を監視していた。

「手を伸ばすと筋肉に負荷がかかる。ペンが必要なら私が取る。ほら、はい」

彼は私の代わりにペンを取り、恭しく私の右手に握らせた。

「……ありがとうございます。では、インクを……」

「待て。インク瓶の蓋は重い。手首を痛める可能性がある」

彼は素早くインク瓶の蓋を開けた。

「……過保護が過ぎませんか?」

私がジト目で睨むと、ジークフリートは真顔で答えた。

「昨夜の件で、私は反省したのだ」

「反省?」

「君は危うく戦場へ飛び出すところだった。私が目を離した一瞬の隙にだ。……君は目を離すと死ぬ生き物(ハムスター)のように脆いと認識を改めた」

「誰がハムスターですか。私は戦車(タンク)並みの耐久力を誇る公爵令嬢ですよ」

「却下だ。君は綿菓子より繊細だ。……これからは、呼吸以外の全ての動作を私の許可制とする」

「呼吸以外!?」

私は愕然とした。

これが、昨夜の「スタンピード騒動」の後遺症だった。

あの時、私が現場へ行こうとしたことで、ジークフリートの精神(メンタル)に深刻なバグが発生したらしい。

その結果が、この異常なまでの「過保護モード」だ。

「さあ、仕事の続きだ。……おっと、ページをめくるのは私がやる。紙の端で指を切ったら大変だ」

ペラッ。

彼が私の目の前の書類をめくる。

「……閣下。これでは作業効率が五分の一以下です。私の時給に見合う成果が出せません」

「構わない。君が安全なら、国が滅びてもいい」

「極論はやめてください」

私はため息をつこうとしたが、それすらも「肺に負担がかかる」とか言われそうなので飲み込んだ。

周囲を見渡す。

執務室の文官たちは、私たちから目を逸らし、「壁のシミになりたい」というオーラを出しながら黙々と作業している。

唯一、部屋の隅で雑用(筋トレ)をしているレイナだけが、興奮した様子でこちらを凝視していた。

「ハァハァ……束縛プレイ……! 愛の重さが物理的な拘束力に変換されていますわ……! 閣下の前腕筋群の血管が、独占欲で浮き出ているのが最高です!」

(……あいつ、後でシメよう)

私は心に誓いつつ、現状の打開策を模索した。

「閣下。そろそろ休憩にしませんか? 一五時です」

「そうだな。糖分補給が必要だ」

ジークフリートはパチンと指を鳴らした。

待機していたメイドが、ワゴンを押して入ってくる。

そこには、最高級の紅茶と、フルーツタルトが載っていた。

「わあ、美味しそう。では……」

私がフォークを手に取ろうとした瞬間。

ガシッ。

またしても腕を掴まれた。

「……なんですか?」

「フォークは凶器だ。先端が尖っている」

「刺しませんよ、自分を」

「私がやる」

ジークフリートはフォークを取り、タルトを一口サイズに切り分けた。

そして、それをフォークに刺し、私の口元へ差し出した。

「……あーん」

執務室の空気が止まった。

文官の一人が、羽ペンをへし折った音が聞こえた。

私は顔を引きつらせた。

「……閣下。ここは職場です。しかも公務中です」

「補佐官の健康管理は上司の義務だ。さあ、口を開けて」

「自分で食べられます」

「拒否権はない。……君が食べないなら、口移しで……」

「食べます! 食べますから!」

私は慌てて大口を開け、タルトを放り込まれた。

甘酸っぱいベリーの味が広がるが、羞恥心のせいで砂を噛んでいるようだ。

「……美味しいか?」

「……はい、とても(屈辱的に)。ごちそうさまでした」

「まだ残っているぞ。ほら、次は紅茶だ」

彼はティーカップを私の口元に運ぶ。

まるで介護だ。あるいは、ペットの餌付けだ。

「……閣下。正直に言います。仕事になりません」

私は紅茶を飲み下し、キッパリと告げた。

「このままでは、私は『給料泥棒』になってしまいます。私のプライドが許しません」

「泥棒で結構。君がただそこにいて、呼吸をしてくれているだけで、私にとっては数億の価値がある」

「……」

ダメだ。話が通じない。

この男、完全に論理回路がショートしている。

愛が重いとは聞いていたが、まさか物理的に業務を妨害してくるとは計算外だった。

その時。

コンコン、と扉がノックされた。

「……失礼します」

入ってきたのは、騎士団長のベルナールだった。

彼は筋骨隆々の大男で、レイナの実の兄でもある。

「宰相閣下。昨夜のスタンピード鎮圧に伴う、功労者への報奨金リストをお持ちしました」

「ああ、そこに置いてくれ」

ジークフリートは私にタルトを食べさせるのに夢中で、騎士団長の方を見ようともしない。

ベルナールは、私とジークフリートの異様な距離感(ほぼゼロ距離)と、あーんされている状況を見て、眉をひそめた。

「……閣下。少々、アスカ様との距離が近すぎるのでは?」

「近い? まだ遠いくらいだ。本当は私の膝の上に座らせたいのだが、アスカが嫌がるので我慢している」

「……公私混同も甚だしいですが」

「これは安全保障だ。アスカを守るための防壁(シールド)として私が機能している」

ベルナールは呆れたように首を振った。

そして、妹のレイナを見つけた。

「おい、レイナ。お前もこんなところで何をしている。実家から『娘が帰ってこない』と連絡が来ているぞ」

「お兄様! 見て! 今の閣下の上腕二頭筋の収縮! タルトを運ぶ繊細な動き(ファインモーター)! これぞ『剛』と『柔』の融合よ!」

「……帰るぞ」

「イヤァアア! ここは楽園なの! 帰りたくない!」

レイナが柱にしがみつく。

カオスだ。

執務室は完全にカオスだ。

私は頭痛を覚えた。

「……閣下。少し外の空気を吸いたいです。トイレに行かせてください」

「トイレか。よし、行こう」

ジークフリートが立ち上がる。

「……はい?」

「ついて行くと言っただろう」

「個室の中まで入る気ですか!?」

「まさか。扉の前で待機する。もし君が便器に吸い込まれそうになったら、すぐに助け出せるようにな」

「吸い込まれません!!」

私は叫んだ。

もう限界だ。

このままでは、過保護という名の檻の中で、私は事務処理能力を失ったただの愛玩人形になってしまう。

私は立ち上がり、ジークフリートを指差した。

「閣下! 業務改善命令を出します!」

「なんだ」

「私との距離を最低一メートル空けてください! そして、私の食事と移動の自由を保証してください! さもなくば……」

「さもなくば?」

ジークフリートが、スッと目を細めた。

その瞳の奥に、怪しい光が宿る。

「……辞表を出しますか? それは受理しない。絶対にだ」

「ぐっ……」

「それとも、ストライキか? 構わないぞ。仕事をせずに、私の腕の中で一日中眠っていればいい」

「……っ!」

勝てない。

今の彼には、どんな論理も通じない。

「愛」という名の無敵モードに入っている。

私はガックリと椅子に座り込んだ。

(……どうすればいいの。このままでは、本当に何もできない)

私が絶望していると、窓の外から視線を感じた。

ちらりと見ると、中庭の茂みの陰から、金髪の男がこちらを覗いていた。

カイル王子だ。

彼は双眼鏡のようなものを手に持ち、涙を流しながら震えている。

(……あ、見られてる)

カイルの視点から見れば、この状況はどう映っているのだろうか。

ジークフリートが私に覆いかぶさり、無理やり食事をさせ、逃げようとすると腕を掴んで離さない。

そして、私が涙目(悔し泣き)になっている。

……完全に、「監禁・虐待」の現場だ。

カイルが口元を押さえ、何やら叫んでいるのが読唇術で分かった。

『アスカ……! なんてことだ……! 拷問されているんだね……! 待っててくれ、僕が必ず助け出すから!』

(……違う、そうじゃない)

私は心の中でツッコミを入れたが、カイルは正義感に燃える顔で走り去ってしまった。

(……面倒なことになったわ)

過保護な魔王と、勘違いヒーロー気取りの王子。

板挟みになった私の「平穏な労働環境」は、ますます遠のくばかりだった。

「どうした、アスカ。タルトが嫌いになったか? なら、口直しにマカロンを……」

「……もう、どうにでもなれです」

私はやけくそで口を開けた。

甘いマカロンの味とともに、私の独立心(プライド)が少しずつ溶かされていくような気がした。

このままでは本当に「ダメ人間」にされてしまう。

危機感を抱きつつも、ジークフリートの満足そうな笑顔を見て、強く拒絶できない自分もいて。

(……時給アップ交渉、絶対に成功させてやるわ)

私は心の中でそう誓い、マカロンを噛み砕いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。

黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」 豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。 しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

【完結済】破棄とか面倒じゃないですか、ですので婚約拒否でお願いします

恋愛
水不足に喘ぐ貧困侯爵家の次女エリルシアは、父親からの手紙で王都に向かう。 王子の婚約者選定に関して、白羽の矢が立ったのだが、どうやらその王子には恋人がいる…らしい? つまりエリルシアが悪役令嬢ポジなのか!? そんな役どころなんて御免被りたいが、王サマからの提案が魅力的過ぎて、王宮滞在を了承してしまう。 報酬に目が眩んだエリルシアだが、無事王宮を脱出出来るのか。 王子サマと恋人(もしかしてヒロイン?)の未来はどうなるのか。 2025年10月06日、初HOTランキング入りです! 本当にありがとうございます!!(2位だなんて……いやいや、ありえないと言うか…本気で夢でも見ているのではないでしょーか……) ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ※小説家になろう様にも掲載させていただいています。 ※作者創作の世界観です。史実等とは合致しない部分、異なる部分が多数あります。 ※この物語はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係がありません。 ※実際に用いられる事のない表現や造語が出てきますが、御容赦ください。 ※リアル都合等により不定期、且つまったり進行となっております。 ※上記同理由で、予告等なしに更新停滞する事もあります。 ※まだまだ至らなかったり稚拙だったりしますが、生暖かくお許しいただければ幸いです。 ※御都合主義がそこかしに顔出しします。設定が掌ドリルにならないように気を付けていますが、もし大ボケしてたらお許しください。 ※誤字脱字等々、標準てんこ盛り搭載となっている作者です。気づけば適宜修正等していきます…御迷惑おかけしますが、お許しください。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi(がっち)
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

処理中です...