運命は変わる。「婚約破棄だ!」と王子が叫んだ瞬間。

桃瀬ももな

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「……アスカ……負けるな……僕が……僕が盾になるから……」

執務室の床。

ジークフリートの重力魔法によってカーペットの模様と一体化しているカイル王子が、うわ言のように呟き続けている。

私は彼のみぞおち付近にヒールの踵を食い込ませながら、書類の決裁印を押していた。

「……閣下。この足置き(オットマン)、喋る機能が付いていて不快です。ミュートできませんか?」

「呼吸を止めれば静かになるが?」

ジークフリートが物騒な提案をしてくる。

「死体処理の申請書を書くのが面倒です。却下で」

「ならば口を塞ぐか。……おい、誰かガムテープを持ってこい」

文官たちが慌ててガムテープを探し始めた時だった。

「お待ちください! その粗大ゴミの処理、私にお任せいただけませんか!」

元気な声とともに、部屋の隅からピンク色の影が飛び出してきた。

レイナだ。

彼女は先ほどまで、部屋の観葉植物の陰でスクワットをしながら、ジークフリートの魔法発動時の筋肉の動き(魔力放出に伴う僧帽筋の緊張)を観察していたはずだ。

「レイナ嬢? 処理とは?」

私が尋ねると、レイナは床にへばりついているカイルを見下ろし、心の底から軽蔑したような目で言った。

「見ていられませんわ。……王子ともあろうお方が、たかが『重力魔法(レベル1)』ごときで地べたを這いずり回るなんて」

「レベル1? これ、結構重いですよ?」

「いいえ! 体幹(コア)がしっかりしていれば、プランクの姿勢で耐えられるはずです! 今の殿下は、ただの『茹でたほうれん草』です!」

レイナはカイルの頬をペチペチと叩いた。

「殿下! 起きてください! 腹直筋に力を入れて! そこからブリッジの体勢へ移行するのです!」

「うぅ……レイナ……? 何を言っているんだ……重いんだよぉ……」

「甘えです! 筋肉は裏切りませんが、筋肉のない男はすぐに裏切ります!」

レイナは私の方を向き、真剣な眼差しで訴えた。

「アスカ様。この男の騒音が業務の妨げになっているのなら、私が黙らせていいですか?(物理)」

「……(物理)とは?」

「気絶(スリープモード)させるということです。頸動脈を圧迫して、脳への血流を一瞬だけ遮断すれば、数時間は静かになります。後遺症もありません」

恐ろしいことをサラッと言う。

この筋肉令嬢、意外と武闘派だ。

私は少し考えた。

カイルをこのまま放置しても邪魔だし、ジークフリートが殺してしまうリスクもある。

ならば、レイナに引き渡して「回収」させるのが、最も平和的かつ効率的な解決策かもしれない。

「……いいでしょう。許可します」

「ありがとうございます!」

「ただし、城内で死体が見つかると私が疑われるので、あくまで『トレーニング中の事故』に見えるようにしてくださいね」

「了解です! 『過酷な筋トレに耐えられず気絶した』というシナリオでいきます!」

レイナは腕まくりをした。

その細腕からは想像もつかないような気迫が漂っている。

「で、殿下。失礼しますね」

「え? レイナ? 何を……うわぁぁぁ!?」

レイナはカイルの襟首を掴むと、なんと片手でズルズルと引きずり始めた。

「さあ殿下! あちらの静かな廊下で、マンツーマンの強化合宿(しごき)です! まずはスクワット五百回から!」

「いやだぁぁ! 僕はアスカを助けるんだぁぁ!」

「アスカ様を助けたいなら、まずはその貧相な大臀筋を鍛え直してから出直してきなさい!」

「ひぃぃぃ! 暴力反対ぃぃ!」

カイルの悲鳴が遠ざかっていく。

ついでに、床に転がっていた親衛隊たちも、「ま、待って殿下ぁ!」「おやつはー!?」と這うように後を追っていった。

嵐が去った。

執務室に、再び平和な静寂が戻ってくる。

「……有能だな、あの娘」

ジークフリートが感心したように呟いた。

「ええ。方向性は間違っていますが、行動力は評価できます。ボーナス(プロテイン)を支給しておきましょう」

私は手帳にメモをした。

これで一つ、懸念事項が解消された。

しかし、問題はまだ残っている。

「……さて」

私はジークフリートに向き直った。

彼はカイルがいなくなったことで機嫌を直し、再び私の髪をいじり始めている。

「閣下。邪魔者が消えたところで、本題に戻りましょう」

「本題? ああ、今夜の夕食のメニューか? それとも君の部屋のカーテンの色についてか?」

「違います。これです」

私は一枚の書類を突きつけた。

それは、先ほどのドサクサに紛れて届いていた、王宮からの『公式通達』だった。

「……『公爵令嬢アスカ・フォン・ローゼンの処遇に関する査問会』?」

ジークフリートが眉をひそめて読み上げる。

「はい。カイル殿下があれだけ騒ぎ回ったせいで、王宮の上層部――特に国王陛下と保守派の貴族たちが、事態を重く見たようです」

カイルの狂言(アスカに虐待されている等)を真に受けたわけではないだろうが、国の中枢である宰相府で連日騒ぎが起きていること自体が問題視されたのだ。

「明日の正午、国王陛下の御前で、私と閣下の関係についての『釈明』が求められています」

「……釈明など必要ない。事実は一つ。『私がアスカを愛しており、アスカも私を(雇用主として)愛している』。それだけだ」

「括弧書きの部分が重要なんですよ」

私はため息をついた。

「いいですか、閣下。この査問会は罠です。保守派の狙いは、閣下の失脚、もしくは私の追放です。私たちが『不純な関係』で国政を私物化していると断罪する気満々です」

「……くだらん」

ジークフリートは鼻で笑った。

「私の実績を見れば、そんな言いがかりは通じない」

「ですが、カイル殿下の『証言』があります。もし彼が査問会で『アスカに洗脳された』とか言い出したら、面倒なことになりますよ」

「……あいつ、殺しておけばよかったか」

「物騒なことを言わないでください」

私は腕組みをして、作戦を練った。

敵は権威を笠に着た古狸たち。

そして、不確定要素であるカイル王子。

これを突破するには、正面突破(論破)だけでは足りないかもしれない。

「……閣下。一つ、策があります」

「なんだ」

「レイナ嬢を使います」

「筋肉バカを?」

「はい。彼女は今、カイル殿下を『指導』しています。……もし、明日の査問会までに、殿下が『別人のように生まれ変わっていた』としたら?」

私はニヤリと笑った。

ジークフリートも、私の意図を察して口角を上げた。

「……なるほど。殿下が自らの口で『アスカは無実だ』と証言すれば、保守派の梯子は外れるわけか」

「その通りです。そして、その証言を引き出すための鍵が、レイナ嬢の『物理的説得(トレーニング)』です」

私はすぐに手紙を書いた。

宛先はレイナ。

内容はシンプルだ。

『業務命令:明日の正午までに、カイル殿下の精神(メンタル)を叩き直し、正常な判断ができる状態にリカバリーせよ。手段は問わない。成功報酬・宰相閣下の上半身裸の肖像画(サイン入り)』

私は書き終えたメモを、ジークフリートに見せた。

「……私の裸を売るのか?」

「必要経費です。脱いでくれますね?」

「……君のためなら、全裸でも構わないが」

「捕まるので上半身だけで結構です」

私は文官にメモを託し、レイナの元へ走らせた。

数分後。

廊下の向こうから、「承知いたしましたぁぁぁぁ!!!」という、歓喜と殺気に満ちたレイナの絶叫が聞こえてきた。

どうやら契約は成立したようだ。

「……可哀想に、カイル殿下」

ジークフリートが少しだけ同情したように言った。

「明日の朝には、ゲッソリしているだろうな」

「自業自得です。……さて、私たちも明日の準備をしましょう」

「準備?」

「はい。査問会で提出する、『私たちがどれだけ健全かつ効率的に業務を遂行しているか』を証明するデータ資料の作成です。徹夜ですよ、閣下」

「……アスカとの徹夜か。悪くない響きだ」

ジークフリートは嬉しそうに新しいインク壺を開けた。

「よし、やろう。……ただし」

「ただし?」

「眠くなったら、私の肩を貸してやる。……膝枕でもいいぞ?」

「……コーヒーを濃いめに淹れておきますね」

私は彼の甘い誘惑を華麗にスルーし(耳は赤かったかもしれないが)、仕事モードに切り替えた。

決戦は明日の正午。

悪役令嬢と魔王宰相の最強タッグが、王宮の古狸たちを相手に、完全勝利(論破)を収めるための準備が始まった。

その裏で、カイル王子の地獄の特訓が始まっていることなど、知る由もなく――。
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