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「……はぁ、ようやく国境を越えましたわ。ルードルフ帝国は、思っていた以上に寒いですわね」
ガタガタと揺れる豪華な馬車の中で、リリィは厚手の毛皮に身を包み、窓の外の雪景色を眺めていました。
向かいの席では、アトラス殿下が「モルニャに浴びせる説教」の原稿を必死に推敲しています。
「おい、リリィ。この『貴様のふてぶてしさは氷河の如し』というフレーズはどうだ? 少し格好良すぎはしないか?」
「……ええ、そうですね。殿下のボキャブラリーの貧困さが際立って、大変よろしいかと思いますわ」
「そうだろう! よし、これを採用しよう!」
アトラス殿下は満足げに笑っていますが、リリィの心はすでにここにはありませんでした。
彼女の脳内に響いているのは、かつて自分を冷たく突き放した、あの少女の声。
『……はい、モルニャですが。何か御用でしょうか?』
ああ、いい。
何度思い出しても、脳の奥が痺れるような、素晴らしい音の響きです。
モルニャ。
モル、ニャ。
そもそも、リリィがモルニャに嫌がらせを仕掛けていたのは、殿下を奪うためではありませんでした。
ただ、自分の名前を呼んでほしかった。
あわよくば、その独特な名前を何度も口にさせる状況を作りたかっただけなのです。
「(……殿下は、モルニャ様が私をいじめていると思ってくださっているけれど。実際は、私が彼女の行く先に先回りして、わざとらしく転んでいただけですもの)」
リリィは、マントの下で組んだ手に力を込めました。
転んだ私を見て、彼女が「リリィ様、おバカですの?」と呆れた声で名前を呼んでくれる。
その瞬間の快感のために、彼女は男爵令嬢としてのプライドを投げ打ってきたのです。
「あの、殿下。一つ確認させていただきたいのですけれど」
「なんだ、リリィ。作戦会議なら大歓迎だぞ」
「モルニャ様を連れ戻したあと、彼女に対する処罰はどうされるおつもり?」
「決まっている! 一生、私の側で反省の言葉を述べさせるのだ。毎日、朝から晩までな!」
「……それは、つまり。彼女が自由に喋る権利を奪わない、ということですね?」
「当然だ。黙っていては説教のし甲斐がないからな」
リリィは、扇の陰でニヤリと口角を上げました。
殿下が彼女を閉じ込めるというのなら、自分もその「監視役」として側にいればいい。
そうすれば、毎日、あの至高の響きを特等席で聴くことができる。
「(……カイル公爵とかいう氷の塊に、モルニャ様を独占させるわけにはいきませんわ。あの方の名前は、人類共通の癒やし。……いえ、私のための福音なのですから!)」
リリィの瞳に、怪しい光が宿ります。
彼女は、アトラス殿下が持っている「モルニャ捜索資料」を奪い取るようにして眺めました。
「あら、この肖像画、少し目が小さいわ。描き直しが必要ね。モルニャ様の瞳は、もっとこう……冷たくて、ゴミを見るような、それでいて深い慈悲を感じさせる絶妙なラインですのに」
「……リリィ、お前、さっきから少し怖くないか?」
「気のせいですわ、殿下。……それより、早く公爵邸に向かいましょう。私、もう我慢の限界ですの」
「おお、そうか! お前も、モルニャへの怒りが頂点に達しているのだな! さすがは私の最愛の女性だ!」
アトラス殿下は、リリィの手を取って感動に震えていました。
ですが、リリィの頭の中では、すでに再会した際のシミュレーションが完了していました。
『モルニャ様、お迎えに上がりましたわ。さあ、私を「このストーカー女!」と罵りながら、その尊いお名前を名乗ってくださいませ!』
「(……ふふ。ふふふふふ。……モル、ニャ。……モル、ニャ)」
「……リリィ、今、何か呪文のようなものを唱えていなかったか?」
「風の音ですわ、殿下」
リリィは、聖女のような微笑みを浮かべて答えました。
その狂気にも似た執着が、自分に向けられているとは微塵も思っていないアトラス殿下。
そして、そんな二人が近づいていることなど露知らず、サンルームでカイル様に「顎の下」を撫でられているモルニャ。
運命の再会という名の、大混乱の幕開けは、すぐそこまで迫っていました。
「さあ、急ぎましょう。……愛しの、モルニャ様の元へ!」
馬車は雪を蹴立て、公爵邸へとひた走ります。
リリィの胸の内にある「名前への情熱」は、帝国の極寒さえも溶かさんばかりに燃え上がっていたのでした。
ガタガタと揺れる豪華な馬車の中で、リリィは厚手の毛皮に身を包み、窓の外の雪景色を眺めていました。
向かいの席では、アトラス殿下が「モルニャに浴びせる説教」の原稿を必死に推敲しています。
「おい、リリィ。この『貴様のふてぶてしさは氷河の如し』というフレーズはどうだ? 少し格好良すぎはしないか?」
「……ええ、そうですね。殿下のボキャブラリーの貧困さが際立って、大変よろしいかと思いますわ」
「そうだろう! よし、これを採用しよう!」
アトラス殿下は満足げに笑っていますが、リリィの心はすでにここにはありませんでした。
彼女の脳内に響いているのは、かつて自分を冷たく突き放した、あの少女の声。
『……はい、モルニャですが。何か御用でしょうか?』
ああ、いい。
何度思い出しても、脳の奥が痺れるような、素晴らしい音の響きです。
モルニャ。
モル、ニャ。
そもそも、リリィがモルニャに嫌がらせを仕掛けていたのは、殿下を奪うためではありませんでした。
ただ、自分の名前を呼んでほしかった。
あわよくば、その独特な名前を何度も口にさせる状況を作りたかっただけなのです。
「(……殿下は、モルニャ様が私をいじめていると思ってくださっているけれど。実際は、私が彼女の行く先に先回りして、わざとらしく転んでいただけですもの)」
リリィは、マントの下で組んだ手に力を込めました。
転んだ私を見て、彼女が「リリィ様、おバカですの?」と呆れた声で名前を呼んでくれる。
その瞬間の快感のために、彼女は男爵令嬢としてのプライドを投げ打ってきたのです。
「あの、殿下。一つ確認させていただきたいのですけれど」
「なんだ、リリィ。作戦会議なら大歓迎だぞ」
「モルニャ様を連れ戻したあと、彼女に対する処罰はどうされるおつもり?」
「決まっている! 一生、私の側で反省の言葉を述べさせるのだ。毎日、朝から晩までな!」
「……それは、つまり。彼女が自由に喋る権利を奪わない、ということですね?」
「当然だ。黙っていては説教のし甲斐がないからな」
リリィは、扇の陰でニヤリと口角を上げました。
殿下が彼女を閉じ込めるというのなら、自分もその「監視役」として側にいればいい。
そうすれば、毎日、あの至高の響きを特等席で聴くことができる。
「(……カイル公爵とかいう氷の塊に、モルニャ様を独占させるわけにはいきませんわ。あの方の名前は、人類共通の癒やし。……いえ、私のための福音なのですから!)」
リリィの瞳に、怪しい光が宿ります。
彼女は、アトラス殿下が持っている「モルニャ捜索資料」を奪い取るようにして眺めました。
「あら、この肖像画、少し目が小さいわ。描き直しが必要ね。モルニャ様の瞳は、もっとこう……冷たくて、ゴミを見るような、それでいて深い慈悲を感じさせる絶妙なラインですのに」
「……リリィ、お前、さっきから少し怖くないか?」
「気のせいですわ、殿下。……それより、早く公爵邸に向かいましょう。私、もう我慢の限界ですの」
「おお、そうか! お前も、モルニャへの怒りが頂点に達しているのだな! さすがは私の最愛の女性だ!」
アトラス殿下は、リリィの手を取って感動に震えていました。
ですが、リリィの頭の中では、すでに再会した際のシミュレーションが完了していました。
『モルニャ様、お迎えに上がりましたわ。さあ、私を「このストーカー女!」と罵りながら、その尊いお名前を名乗ってくださいませ!』
「(……ふふ。ふふふふふ。……モル、ニャ。……モル、ニャ)」
「……リリィ、今、何か呪文のようなものを唱えていなかったか?」
「風の音ですわ、殿下」
リリィは、聖女のような微笑みを浮かべて答えました。
その狂気にも似た執着が、自分に向けられているとは微塵も思っていないアトラス殿下。
そして、そんな二人が近づいていることなど露知らず、サンルームでカイル様に「顎の下」を撫でられているモルニャ。
運命の再会という名の、大混乱の幕開けは、すぐそこまで迫っていました。
「さあ、急ぎましょう。……愛しの、モルニャ様の元へ!」
馬車は雪を蹴立て、公爵邸へとひた走ります。
リリィの胸の内にある「名前への情熱」は、帝国の極寒さえも溶かさんばかりに燃え上がっていたのでした。
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