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「……ああ、つまらん。実につまらんぞ、リリィ」
王国の華やかな王宮、その一室で。
王太子アトラス殿下は、高級なソファに深々と身を沈め、天井を見上げて力なく呟きました。
目の前には、宝石を散りばめたような豪華な茶菓子が並んでいますが、その手は一度も伸びようとはしません。
「殿下ぁ、またそのお話ですの? せっかく私が、新しい刺繍の腕前を披露しようとしているのに」
隣に座るリリィ様が、わざとらしく唇を尖らせました。
ですが、その視線は殿下ではなく、壁に飾られた一枚の肖像画——かつてモルニャが描かせた、ふてぶてしくも美しい立ち姿——に釘付けになっています。
「リリィ、お前には分からんのか。あのモルニャがいなくなってからというもの、この宮廷には『毒』が足りん。誰を叱責しても、皆が平伏するばかり。あの『はい、モルニャですが何か?』という、人を食ったような返答が恋しくてたまらんのだ!」
「殿下……。それ、完全に依存症というやつですわよ?」
「依存症だと!? 失礼なことを言うな。私はただ、教育者として、あのような出来の悪い生徒を放置しておくのが忍びないと言っているだけだ。……ああ、今頃あいつはどこで野垂れ死んでいるのか……」
アトラス殿下は、ふと遠い目をしました。
彼の中のモルニャ像は、今や「憎き悪役令嬢」から「自分を唯一刺激してくれる希少動物」へと、自分勝手な変換を遂げていたのです。
「だいたいだ! あいつは勘当された際、あんなボロボロの格好で飛び出していったのだぞ。今頃、泥水でもすすって、私の名を呼んで泣き伏しているに違いない」
「……殿下。報告によれば、モルニャ様は隣国で、ルードルフ公爵と豪華な定食屋でデートしていたそうですが?」
リリィ様が、さらりと残酷な真実を告げました。
アトラス殿下の体が、バネでも仕込まれていたかのように跳ね上がります。
「な、なんだと!? あの氷の公爵と!? ありえん、あのカイルという男は、女に興味がないことで有名だ。そんな男が、あの『モルニャ』などという、ふざけた名前の女を相手にするはずがないだろう!」
「それが、どうやら閣下はモルニャ様の『名前』を大変気に入っていらっしゃるとか。……分かりますわ。モル、ニャ。モルニャ。ああ、なんて艶美な響き……」
リリィ様が、頬を赤らめてうっとりと自分の世界に入り始めました。
殿下はそれを無視して、執務室の中を激しく往復し始めます。
「許せん……。私の婚約者だった女を、他国の公爵が横から奪うなど、国際問題だ! しかも、あんな可愛い……いや、あんな小生意気な女を!」
「……今、可愛いっておっしゃいました?」
「言っていない! 私の聞き間違いだ! ……リリィ、すぐさま近衛騎士団を招集しろ。私は決めたぞ。自ら隣国へ乗り込み、あのモルニャを連れ戻す!」
アトラス殿下の瞳に、久しぶりに生気が宿りました。
ですが、それは正義感でも愛情でもなく、ただの「面白い玩具を取り返したい」という幼児的な独占欲に過ぎません。
「連れ戻して、どうなさるおつもりですの? もう勘当も婚約破棄も成立しておりますわよ?」
「決まっているだろう。私の目の前で、毎日三回、あのふざけた名前で返事をさせるのだ。そして、たまに語尾が『にゃ』になるのを、この私が直々に矯正してやる!」
「……殿下、それってただの個人的な趣味ではありませんこと?」
リリィ様は呆れたように肩をすくめましたが、その瞳には別の計算が働いていました。
(……殿下についていけば、また生の『モルニャ』様にお会いできる。あの方の、あの冷めた目で見下されながら名前を呼ばれたい……!)
「よし、決まりだ! 隣国の皇帝には、友好親善の使節団として通告しておけ。……待っていろよ、モルニャ。この私から逃げ切れると思ったら大間違いだ!」
殿下の高笑いが、王宮の廊下に虚しく響き渡りました。
その頃、当のモルニャが、公爵邸の庭でカイル様に「顎の下の撫で方」を指導していることなど、殿下は知る由もありません。
「殿下ぁ、私もついていきますわ。モルニャ様の……いえ、調査のために!」
「おお、リリィ。お前もそう思うか。よし、二人で奪還作戦の開始だ!」
こうして、勘違いの塊のような王子と、別の意味で道を踏み外した男爵令嬢という、世にも奇妙な追跡行が幕を開けたのでした。
「(ふふ……モルニャ様。今度はどんなドレスをお召しなのかしら。名前入りの刺繍、こっそり贈っちゃおうかしら……)」
リリィ様が小刻みに震えながら妄想に耽っている横で、殿下は拳を握り締め、まだ見ぬ再会のシーンを思い描いていました。
もちろん、そのシーンの中でモルニャは涙を流して懺悔している設定ですが、現実がそれを裏切るまで、あと数日もかからないのでした。
王国の華やかな王宮、その一室で。
王太子アトラス殿下は、高級なソファに深々と身を沈め、天井を見上げて力なく呟きました。
目の前には、宝石を散りばめたような豪華な茶菓子が並んでいますが、その手は一度も伸びようとはしません。
「殿下ぁ、またそのお話ですの? せっかく私が、新しい刺繍の腕前を披露しようとしているのに」
隣に座るリリィ様が、わざとらしく唇を尖らせました。
ですが、その視線は殿下ではなく、壁に飾られた一枚の肖像画——かつてモルニャが描かせた、ふてぶてしくも美しい立ち姿——に釘付けになっています。
「リリィ、お前には分からんのか。あのモルニャがいなくなってからというもの、この宮廷には『毒』が足りん。誰を叱責しても、皆が平伏するばかり。あの『はい、モルニャですが何か?』という、人を食ったような返答が恋しくてたまらんのだ!」
「殿下……。それ、完全に依存症というやつですわよ?」
「依存症だと!? 失礼なことを言うな。私はただ、教育者として、あのような出来の悪い生徒を放置しておくのが忍びないと言っているだけだ。……ああ、今頃あいつはどこで野垂れ死んでいるのか……」
アトラス殿下は、ふと遠い目をしました。
彼の中のモルニャ像は、今や「憎き悪役令嬢」から「自分を唯一刺激してくれる希少動物」へと、自分勝手な変換を遂げていたのです。
「だいたいだ! あいつは勘当された際、あんなボロボロの格好で飛び出していったのだぞ。今頃、泥水でもすすって、私の名を呼んで泣き伏しているに違いない」
「……殿下。報告によれば、モルニャ様は隣国で、ルードルフ公爵と豪華な定食屋でデートしていたそうですが?」
リリィ様が、さらりと残酷な真実を告げました。
アトラス殿下の体が、バネでも仕込まれていたかのように跳ね上がります。
「な、なんだと!? あの氷の公爵と!? ありえん、あのカイルという男は、女に興味がないことで有名だ。そんな男が、あの『モルニャ』などという、ふざけた名前の女を相手にするはずがないだろう!」
「それが、どうやら閣下はモルニャ様の『名前』を大変気に入っていらっしゃるとか。……分かりますわ。モル、ニャ。モルニャ。ああ、なんて艶美な響き……」
リリィ様が、頬を赤らめてうっとりと自分の世界に入り始めました。
殿下はそれを無視して、執務室の中を激しく往復し始めます。
「許せん……。私の婚約者だった女を、他国の公爵が横から奪うなど、国際問題だ! しかも、あんな可愛い……いや、あんな小生意気な女を!」
「……今、可愛いっておっしゃいました?」
「言っていない! 私の聞き間違いだ! ……リリィ、すぐさま近衛騎士団を招集しろ。私は決めたぞ。自ら隣国へ乗り込み、あのモルニャを連れ戻す!」
アトラス殿下の瞳に、久しぶりに生気が宿りました。
ですが、それは正義感でも愛情でもなく、ただの「面白い玩具を取り返したい」という幼児的な独占欲に過ぎません。
「連れ戻して、どうなさるおつもりですの? もう勘当も婚約破棄も成立しておりますわよ?」
「決まっているだろう。私の目の前で、毎日三回、あのふざけた名前で返事をさせるのだ。そして、たまに語尾が『にゃ』になるのを、この私が直々に矯正してやる!」
「……殿下、それってただの個人的な趣味ではありませんこと?」
リリィ様は呆れたように肩をすくめましたが、その瞳には別の計算が働いていました。
(……殿下についていけば、また生の『モルニャ』様にお会いできる。あの方の、あの冷めた目で見下されながら名前を呼ばれたい……!)
「よし、決まりだ! 隣国の皇帝には、友好親善の使節団として通告しておけ。……待っていろよ、モルニャ。この私から逃げ切れると思ったら大間違いだ!」
殿下の高笑いが、王宮の廊下に虚しく響き渡りました。
その頃、当のモルニャが、公爵邸の庭でカイル様に「顎の下の撫で方」を指導していることなど、殿下は知る由もありません。
「殿下ぁ、私もついていきますわ。モルニャ様の……いえ、調査のために!」
「おお、リリィ。お前もそう思うか。よし、二人で奪還作戦の開始だ!」
こうして、勘違いの塊のような王子と、別の意味で道を踏み外した男爵令嬢という、世にも奇妙な追跡行が幕を開けたのでした。
「(ふふ……モルニャ様。今度はどんなドレスをお召しなのかしら。名前入りの刺繍、こっそり贈っちゃおうかしら……)」
リリィ様が小刻みに震えながら妄想に耽っている横で、殿下は拳を握り締め、まだ見ぬ再会のシーンを思い描いていました。
もちろん、そのシーンの中でモルニャは涙を流して懺悔している設定ですが、現実がそれを裏切るまで、あと数日もかからないのでした。
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