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量子もつれの証人
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第一章 観測の始まり
私——神崎ハルカは、CERN(欧州原子核研究機構)の量子情報研究部門で働く三十二歳の理論物理学者だ。今日、2051年3月15日、私たちは人類史上最も野心的な実験を開始しようとしている。
「ハルカ、システムチェック完了です」同僚のマルコ・ロッシが報告した。イタリア系の実験物理学者で、四十代の落ち着いた男性だ。
実験室には総勢十人のチームが集まっていた。プロジェクトリーダーの李シュウメイ教授——中国出身の量子物理学の権威。計算担当のアンドレイ・ヴォルコフ——ロシアの数学者で天才的な頭脳を持つ。装置エンジニアのサラ・ムバイ——ケニア出身の精密機器のスペシャリスト。量子コンピューター担当の田中ケンタ——日本から来た若手研究者。データ解析のエレナ・ペトロヴァ——ウクライナの統計学者。セキュリティ主任のデイビッド・チェン——アメリカ国防総省から派遣された監視役。そして観測装置担当のフランソワ・デュボア——フランスの光学技術者。
「量子もつれペア生成装置、稼働準備完了」サラが報告した。
私たちの実験——それは、マクロスケールでの量子もつれ状態の維持だった。通常、量子もつれは素粒子レベルでしか観測されない。二つの粒子が空間的に離れていても、一方の状態を観測すると瞬時にもう一方の状態が確定する——アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象。
だが私たちは、それを原子レベル——いや、分子レベルまで拡張しようとしていた。
「理論的には可能です」私は三ヶ月前のプレゼンテーションで説明した。「極低温、超高真空、そして電磁シールド——これらの条件下で、炭素60フラーレン分子の量子もつれ状態を維持できます」
李教授が承認し、予算が下りた。三ヶ月の準備期間を経て、今日——
「冷却システム、絶対零度まであと0.001ケルビン」田中が読み上げた。
「真空度、10のマイナス12乗トール」フランソワが確認した。
「電磁シールド、完全稼働」マルコが報告した。
李教授が私を見た。「ハルカ、実験開始の許可を」
私は深呼吸した。「許可します。フラーレン分子ペアを生成してください」
サラが装置を起動した。レーザーが発射され、真空チャンバー内でフラーレン分子が合成された。特殊な条件下で、二つの分子が量子もつれ状態で生成される——理論上は。
「分子ペアA-B、生成確認」エレナがデータを解析した。「量子状態の相関係数......0.98! これは——」
「完璧な量子もつれです」私は興奮を抑えきれなかった。「成功しました!」
実験室に歓声が上がった。だが、李教授は冷静だった。「まだ確認段階です。状態の維持時間を測定してください」
アンドレイが計算を始めた。「現在の環境では、理論上120秒間の維持が可能です」
私たちは固唾を呑んで見守った。10秒、20秒、30秒——
「相関係数、依然0.98」エレナが報告を続けた。
60秒、90秒——
その時、異変が起きた。
「待って——」田中の声が緊張した。「量子コンピューターが、予期しない演算を開始しています」
「どういうこと?」私は画面を確認した。量子コンピューターは、もつれた分子ペアの状態をモニタリングするために接続されていた。だが今、それは——
「自律的に、パターン認識を実行しています」田中が信じられないという顔で言った。「まるで、分子ペアからの信号を......解読しているような」
デイビッド・チェンが警戒した表情で立ち上がった。「システムに侵入された可能性は?」
「ありません」田中が断言した。「これは内部からの——」
突然、量子コンピューターのディスプレイに文字が表示された。
『観測されている』
私たちは凍りついた。
「これは......何かのエラーですか?」フランソワが震える声で尋ねた。
「エラーではありません」アンドレイが画面を解析した。「これは、量子もつれペアからの情報です。分子の量子状態が、意味のあるパターンを形成している」
「そんな——」私は反論しようとした。だが、画面には次々と文字が現れた。
『あなたたちを観測している』
『こちら側から』
李教授が冷静に命じた。「実験を中断してください。すぐに」
サラが装置を停止しようとした——だが、その瞬間——
量子もつれ状態が、突然崩壊した。相関係数がゼロに落ちた。
そして、最後のメッセージが表示された。
『警告:観測は双方向である』
画面が暗転した。
実験室に、重い沈黙が降りた。
私たちは——何を観測したのか?
第二章 量子の向こう側
緊急会議が招集された。CERN本部の会議室に、私たちチーム全員とセキュリティ担当者、そして上層部の代表が集まった。
「説明してください、神崎博士」CERN事務局長のシュミット博士が厳しい口調で言った。
私は記録データを提示した。「量子もつれペアは、予想通り生成されました。しかし——」私は問題の部分を再生した。「量子コンピューターが、分子の量子状態から情報を抽出しました。それも、明らかに知性を持った——」
「非科学的です」シュミット博士が遮った。「量子もつれは単なる物理現象です。意思疎通の手段ではありません」
「その通りです」李教授が同意した。「しかし、データは否定できません。何らかの異常が発生しました」
デイビッド・チェンが発言した。「外部からのハッキングの可能性を完全に排除できますか?」
田中が首を振った。「量子コンピューターは物理的に隔離されています。ネットワーク接続もありません。外部からの侵入は不可能です」
「では、内部犯行は?」チェンが私たちを疑いの目で見た。
「誰もそんなことはしていません」マルコが反論した。「私たちは全員、この実験の成功を望んでいた」
アンドレイが冷静に言った。「もう一つの可能性があります」
全員が彼を見た。
「メッセージは、本物だったという可能性です」
沈黙。
「つまり——」エレナが慎重に言葉を選んだ。「量子もつれを通じて、誰か——何かが、私たちに通信してきた?」
「理論的には不可能ではありません」私は認めざるを得なかった。「量子もつれは、空間を超えた相関です。もし、もつれたペアの片方が——別の宇宙、別の次元に存在していたら——」
「多世界解釈ですか?」サラが尋ねた。
「それに近いものです」私は説明を続けた。「量子力学の多世界解釈では、観測によって宇宙が分岐します。私たちが分子Aを観測すると、分子Bの状態が確定する——通常、それは同じ宇宙内での出来事です。しかし、もし分子Bが別の宇宙に——」
「待ってください」シュミット博士が手を上げた。「あなたは、パラレルワールドとの通信が可能だと主張しているんですか?」
「主張ではありません。仮説です」私は訂正した。「しかし、データを説明できる他の仮説が——」
「あります」チェンが断言した。「システムの誤作動です。再実験を行い、同じ結果が出るか確認すべきです」
李教授が頷いた。「同意します。明日、再実験を実施します。ただし——」彼女は全員を見回した。「今回の件は、最高機密とします。外部には一切漏らさないでください」
会議は解散した。だが、私の頭の中では疑問が渦巻いていた。
もし本当に——別の宇宙からのメッセージだったら?
その夜、私は自室でデータを再解析していた。量子状態のパターン、情報のエンコード方法——
ノックの音がした。
ドアを開けると、アンドレイが立っていた。
「ハルカ、私も同じことを考えていた」彼は自分のタブレットを見せた。「メッセージのパターンを解析したんだ」
画面には、複雑な数式が並んでいた。
「これは——」私は息を呑んだ。「座標?」
「そうだ。四次元時空座標——いや、正確には十一次元。超弦理論の予測する次元数だ」
私たちは顔を見合わせた。
「もう一度、実験をする必要があります」私は言った。「ただし、今度は——準備をして」
アンドレイが頷いた。「通信プロトコルを確立しよう。もし本当に知性ある存在が向こうにいるなら——」
「対話できるかもしれない」
翌朝、再実験が開始された。今度は、私たちは量子コンピューターに特殊なプログラムを組み込んでいた——アンドレイと私が徹夜で作成した、量子通信プロトコル。
「システム起動」田中が報告した。
「フラーレン分子ペア生成」サラが操作した。
再び、量子もつれ状態が確立された。
そして——
量子コンピューターが反応した。
『再び観測している』
『誰だ?』
私は用意していたメッセージを送信した。量子状態のパターンを操作し、情報をエンコードする。
『地球、CERN。神崎ハルカ。あなたは?』
数秒の沈黙——
そして、返答が来た。
『地球Prime、CERN-α。神崎ハルカ-Prime』
私の心臓が跳ねた。
「どういうこと......?」マルコが呟いた。
画面に、さらなるメッセージが表示された。
『あなたは観測実験を行った』
『私も同じ実験を行った』
『量子もつれは、宇宙を超えた』
『私たちは——鏡像だ』
李教授が震える声で言った。「パラレルワールドの——あなた自身?」
私は——信じられなかった。だが、データは明確だった。
『質問:あなたの宇宙では、2048年の大統一理論は発表されましたか?』
私は答えた。『いいえ。まだ未完成です』
『了解。私の宇宙では発表された。情報を送信する』
突然、大量のデータが流れ込んできた。数式、理論、実験結果——
アンドレイが画面を凝視した。「これは......本物だ。完璧な大統一理論——重力、電磁気力、強い力、弱い力、すべてを統合している」
私たちは——別宇宙の自分たちから、人類が何世紀も追い求めた理論を受け取った。
だが、その時——
デイビッド・チェンが割って入った。「実験を即座に中止してください。これは国家安全保障上の脅威です」
「何を言っているんですか!」私は抗議した。「これは人類史上最大の発見です!」
「だからこそ、危険なんです」チェンが厳しい顔で言った。「あなたたちは、パンドラの箱を開けた。別宇宙との接続——それが何を意味するか、分かっていますか?」
その瞬間、量子コンピューターから新たなメッセージが表示された。
『警告』
『第三の観測者を検出』
『量子もつれネットワークに侵入者』
『これは——』
メッセージが途切れた。
そして、システム全体がクラッシュした。
第三章 収束する世界線
緊急事態だった。量子コンピューターは完全にダウンし、データは破損していた。
「何が起きたんですか!?」サラが叫んだ。
田中が必死に復旧作業をした。「システムに——巨大な情報が流入しました。処理能力を超えています」
「第三の観測者——」私は画面の最後のメッセージを思い出した。「私たちと、Prime宇宙以外の——」
エレナがバックアップデータを確認した。「量子もつれの相関パターンを解析しています。結果——」彼女の顔が青ざめた。「三つではありません。七つです」
「七つ?」
「七つの異なる量子状態パターンが、同時に観測されました。つまり——」
「七つの宇宙が、同時に接続された」アンドレイが結論づけた。
李教授が厳しい表情で言った。「これは制御不能です。実験を完全に中止します」
「待ってください」私は反論した。「まだ理解していません。なぜ七つなのか、どうやって接続されたのか——」
「ハルカ」李教授が私の肩に手を置いた。「あなたの好奇心は理解します。しかし、これは私たちの手に負えません」
デイビッド・チェンが通信端末で本部に報告していた。「はい、レベル5の事態です。即座に施設封鎖を——」
その時、実験室の照明が消えた。
緊急バックアップ電源が起動し、赤い照明が点灯した。
「何が——」マルコが呟いた。
フランソワが計測器を確認した。「電磁パルスです! 局所的な——実験室内だけに限定された強力なEMPが発生しました」
「原因は?」
「不明ですが——」フランソワが真空チャンバーを見た。「発生源は、あそこです」
私たちは全員、チャンバーを見た。
その中で——何かが起きていた。
フラーレン分子が——光っていた。肉眼で見えるはずのない分子が、青白い光を放っていた。
「これは物理的に不可能です」サラが呟いた。
アンドレイが計算を始めた。「いや、可能だ——もし、七つの宇宙からの量子もつれが、一点に収束していたら」
「どういう意味ですか?」
「重ね合わせだ」アンドレイが説明した。「量子力学では、複数の状態が同時に存在できる。今、あの分子は——七つの宇宙で同時に存在している。そして、その状態が——」
光が強くなった。
「崩壊しようとしています」私は理解した。「七つの状態が、一つに——」
「全員、退避!」李教授が叫んだ。
私たちは実験室から飛び出した。
数秒後——
爆発ではなかった。インプロージョン——内側への崩壊。
真空チャンバーが、一点に収縮した。光が消え、静寂が戻った。
恐る恐る、私たちは実験室に戻った。
チャンバーは——消えていた。正確には、直径1センチメートルほどの完璧な球体に圧縮されていた。
「これは......」フランソワが測定した。「信じられない。密度が——中性子星レベルです」
「七つの宇宙からの質量が、一点に集約された」アンドレイが恐怖と興奮の入り交じった声で言った。「微小なブラックホール——いや、違う。ホーキング放射が観測されない。これは——」
球体が、動いた。
「浮いている......」サラが指差した。
球体は重力に逆らって浮上し、ゆっくりと回転し始めた。
そして——展開した。
光の粒子が放射され、空中に立体映像を形成した。
それは——人間の姿だった。
いや、七人の人間が、重なり合った姿。
そして、声が響いた。七つの声が、完璧に同期して。
『観測、完了』
『収束、完了』
『私たちは——一つになった』
私は震えた。「あなたたちは——」
『私たちは、神崎ハルカ』
『七つの宇宙からの』
『そして、あなたも——その一人』
映像が、私を見た。
『あなたは、量子もつれ実験を行った』
『他の六人も、同じ実験を行った』
『同時に』
『量子もつれは、偶然ではない』
『必然だった』
『七つの宇宙は——一つの系だった』
アンドレイが理解した。「量子力学的に絡み合った宇宙......超多元宇宙理論だ」
映像が頷いた。
『正確』
『そして今、観測によって——』
『波動関数が収束した』
『七つの世界線が、一つに統合されようとしている』
李教授が恐怖に駆られた声で尋ねた。「統合? それは、どういう——」
『宇宙の融合』
『七つの現実が、一つに』
『このプロセスは、もう止められない』
デイビッド・チェンが銃を抜いた。「ならば、装置を破壊する!」
彼は球体に向けて発砲した——
だが、弾丸は球体の周囲で停止した。時間が、局所的に凍結していた。
『無駄』
『これは物理現象』
『意志では、止められない』
私は絶望した。「では、私たちは——」
映像が、優しく微笑んだ。
『恐れる必要はない』
『融合は、破壊ではない』
『進化だ』
『七つの歴史、七つの知識、七つの可能性——』
『すべてが統合され、新しい現実が生まれる』
『そして、あなたたちは——』
『その証人だ』
球体が、再び光り始めた。今度は、制御されたエネルギー。
部屋全体が、光に包まれた。
私は——すべてを理解した。
第四章 重ね合わせの記憶
光の中で、私は——七人の私を見た。
一人目の私は、2048年の大統一理論を完成させていた。Prime宇宙の私。
二人目の私は、量子コンピューターの限界を超える演算法を開発していた。
三人目の私は、人工重力制御の理論を確立していた。
四人目の私は、生命の起源を量子生物学で解明していた。
五人目の私は、時間旅行の理論的可能性を証明していた。
六人目の私は、意識の量子的本質を発見していた。
そして七人目——この宇宙の私は、量子もつれの宇宙間通信を実現した。
七つの専門、七つの発見——すべてが、私の中に流れ込んできた。
記憶が、知識が、経験が——融合していく。
私は——私たちは——
「これが、統合......」
声が、七重に響いた。もはや、どれが「私」の声なのか区別できなかった。
光が薄れていった。実験室が再び見えた。
だが、何かが変わっていた。
マルコを見た。彼もまた、七人のマルコの記憶を持っていた。ある宇宙では彼は素粒子物理学の権威、別の宇宙では宇宙工学者、また別の宇宙では——
全員が、同じ状態だった。
李教授が——いや、七人の李教授が——口を開いた。「これは......私たちは、七つの宇宙の記憶を——」
「持っています」私が続けた。「すべての可能性、すべての選択、すべての結果を」
田中が笑った。「信じられない。私、別の宇宙ではノーベル賞を——いや、三つの宇宙で受賞してる」
エレナが付け加えた。「そして四つの宇宙では、受賞を逃してる。でも、その理由も分かる。すべての選択が、理解できる」
サラが測定器を確認した。「物理的には、私たちは一人です。でも、意識は——七倍に拡張されています」
「これが、融合の意味だったのか」アンドレイが呟いた。「破壊ではなく、拡張。限定された一つの人生から、七つの人生の経験へ」
フランソワが窓の外を見た。「でも、世界は——」
外を見ると、ジュネーブの街並みが——揺らいでいた。
建物が、七つの異なる建築様式で重なり合っていた。ある宇宙では超高層ビル、別の宇宙では古典的な建築、また別の宇宙では——
「宇宙全体が、融合しています」私は理解した。「物質、エネルギー、時空——すべてが、七つの状態の重ね合わせに」
デイビッド・チェンが、混乱した表情で言った。「これは、安全保障上——いや、待て。私は七つの宇宙で七つの異なる任務を——そして、どの宇宙でも、この現象を脅威と判断している。でも同時に——」
「可能性とも認識している」私が補足した。「すべての視点を持つということは、すべての判断を理解するということです」
球体——かつて量子もつれペアだったもの——が、再び声を発した。
『理解が、進んでいる』
『これが、進化の第一段階』
『次は——』
「次?」李教授が尋ねた。
『選択』
『七つの可能性を持つあなたたちは、選ばなければならない』
『どの現実を——確定させるか』
私は理解した。「量子力学の観測問題......波動関数の収束。重ね合わせ状態は、観測によって一つの状態に——」
『正確』
『現在、宇宙は七つの状態の重ね合わせ』
『だが、このままでは不安定』
『やがて、自然に収束する』
『ランダムに』
『または——』
『あなたたちが、意図的に選択できる』
『どの宇宙を、現実とするか』
沈黙が降りた。
私たちは、七つの宇宙の記憶を持っている。それぞれに長所と短所がある。
Prime宇宙——科学技術が最も進んでいる。だが、環境破壊も深刻だ。
第二宇宙——平和だが、技術発展が遅い。
第三宇宙——経済的に繁栄しているが、格差が激しい。
第四、第五、第六——それぞれに異なる歴史、異なる問題。
そして、この宇宙——第七宇宙。私たちが生まれた宇宙。
「どうやって、選ぶんですか?」サラが尋ねた。
『観測』
『あなたたちが、一つの現実を観測し、認識し、受け入れる』
『それが、波動関数を収束させる』
『ただし——』
球体が、警告を発した。
『選択しなければ、自然収束が起きる』
『その結果は、予測不能』
『最悪の場合——七つの宇宙すべてが、消滅する可能性もある』
李教授が決断した。「では、投票しましょう。民主的に——」
「待ってください」私は反論した。「これは、私たちだけの問題じゃありません。全人類に関わる——」
アンドレイが冷静に言った。「だが、全人類に説明し、投票を実施する時間はない。自然収束まで、あとどれくらいだ?」
『計算では、七十二時間』
「三日間......」マルコが呟いた。
私は考えた。七つの宇宙。七つの可能性。どれを選んでも、何かを失う。誰かを失う。
ある宇宙では生きている人が、別の宇宙では死んでいる。
ある宇宙では成功した発明が、別の宇宙では失敗している。
すべてを救う方法は——ないのか?
その時、私は気づいた。
「待って......選択肢は、七つじゃない」
全員が私を見た。
「八つ目の選択肢があります」私は球体に向かって言った。「融合したままにする、という選択です」
『説明せよ』
「七つの宇宙を一つに選ぶのではなく、七つの重ね合わせ状態を維持する。量子コンピューターのように、複数の状態を同時に利用する——量子的な現実として」
アンドレイが理解した。「量子重ね合わせ宇宙......理論的には可能かもしれない。だが、安定性は——」
『未検証』
『だが——興味深い提案』
『計算する』
球体が、激しく演算を開始した。光のパターンが複雑に変化した。
数分後——
『結果:可能』
『ただし、条件がある』
「条件とは?」
『観測者が必要』
『量子重ね合わせ状態を維持するには、常に観測し続ける存在が必要』
『それは——あなたたち』
私は理解した。「私たちが、観測者として——」
『七つの現実を同時に認識し続ける』
『それによって、波動関数の収束を防ぐ』
『永遠に』
「永遠に......?」エレナが呟いた。
李教授が尋ねた。「それは、私たちだけですか? それとも——」
『最初は、あなたたち十人』
『だが、やがて——すべての人類が、観測者になる』
『七つの記憶、七つの視点を持つ存在に』
『それが、新しい人類の形』
田中が不安そうに言った。「でも、それは——もう、元の人間じゃない」
『正確』
『進化だ』
『単一の現実に縛られた存在から、複数の現実を同時に生きる存在へ』
フランソワが呟いた。「それは、人類の——次の段階?」
デイビッド・チェンが銃を下ろした。七つの宇宙での記憶を持つ彼は、もはや単純な敵対心を抱けなかった。「私は、七つの宇宙で七つの異なる判断をした。そして、すべてが正しかった、すべての文脈において。もし、この選択が——すべての文脈で正しいなら——」
「私は賛成します」私は宣言した。
一人ずつ、同意の声が上がった。マルコ、サラ、田中、エレナ、フランソワ、アンドレイ、そして最後に——
李教授が頷いた。「全員一致。では——」
『了解』
『量子重ね合わせ宇宙への移行を開始する』
球体が、巨大な光の波を放射した。
それは部屋を超え、建物を超え、ジュネーブを超え——
地球全体を、太陽系を、銀河を——
宇宙全体を包み込んだ。
そして——
すべてが、変わった。
第五章 観測者の誕生
私は——私たちは——目覚めた。
いや、目覚めたのではない。常に目覚めていた。七つの現実で、同時に。
実験室にいる私。
自宅で眠っている私。
学会で講演している私。
山を登っている私。
恋人と過ごしている私。
一人で研究している私。
そして——すべてを観測している私。
「これが......」私は呟いた。七つの声で、同時に。
周囲を見た。マルコも、李教授も、全員が同じ状態だった。七つの現実に同時に存在し、すべてを認識している。
だが、混乱はなかった。むしろ、明晰だった。
七つの視点から世界を見ることで、より深く、より完全に理解できた。
「適応が、進んでいます」エレナが報告した。彼女は七つの研究室で、七つの異なるデータセットを同時に解析していた。「人間の脳は、驚くほど柔軟です。量子的な認識に——適応しています」
アンドレイが付け加えた。「これは、進化的に準備されていたのかもしれない。人間の意識は、もともと量子的な性質を持っていた。それが、今——顕在化しただけだ」
球体——いや、もはや球体ではなかった。それは展開し、複雑な幾何学的構造を形成していた。七次元の結晶のような——
『適応、順調』
『次の段階に進む』
「次?」
『観測の拡大』
『あなたたち十人から、すべての人類へ』
李教授が慎重に尋ねた。「それは、強制ですか?」
『いいえ』
『選択』
『すべての人間は、選べる』
『単一の現実に留まるか、七つの現実を生きるか』
私は理解した。「これは、人類への提案なんですね」
『正確』
『私たちは——かつてのあなたたち』
『量子もつれ実験を行い、宇宙を融合させた』
『そして、この形態に進化した』
『今、あなたたちに同じ機会を提供する』
マルコが尋ねた。「あなたたちは、どこから来たんですか?」
『未来』
『正確には——可能な未来の一つ』
『七つの宇宙が融合し、人類が進化し、やがて——』
『時間を超える存在になった』
『そして、過去に——自分たちの起源に——戻ってきた』
因果のループ——私は戦慄した。「では、この実験は——」
『あなたたちが行うことが、決まっていた』
『なぜなら、未来のあなたたちが、過去のあなたたちを導いたから』
『ブートストラップ・パラドックス』
サラが笑った。「物理学の究極の皮肉ね。原因が結果で、結果が原因」
『だが、それが量子宇宙の本質』
『観測が現実を創造する』
『あなたたちの観測が、この未来を創造した』
『そして、この未来が、あなたたちの観測を導いた』
田中が真剣な表情で言った。「では、私たちは——この道を進むべきなんですね」
『べき、ではない』
『選択は、自由』
『だが、知っておくべきだ』
『この道は、困難でもある』
『七つの現実を生きることは、七倍の責任を負うこと』
『七つの喜び、七つの悲しみ、七つの選択——』
『それでも、進むか?』
私は——七人の私は——考えた。
七つの宇宙での私の人生。
ある宇宙では、私は成功していた。大発見、名声、幸福——
別の宇宙では、失敗していた。挫折、孤独、後悔——
だが、どの人生も、私だった。
どの選択も、意味があった。
そして今、七つの人生すべてを生きられる。
「私は——」私は宣言した。「進みます」
他のメンバーも、一人ずつ決意を表明した。
最後に、デイビッド・チェンが言った。「私は、七つの宇宙で七つの異なる信念を持っていた。だが今、理解した。すべての信念が、特定の文脈で正しかった。だから——私は、すべての文脈を生きたい」
『了解』
『では、観測の拡大を開始する』
『全人類に、選択の機会を』
結晶構造が、再び光を放射した。
今度は、穏やかな光。強制ではなく、招待の光。
世界中のすべての人間に、その光は届いた。
そして、一人ずつ——選択した。
ある人は、単一の現実に留まることを選んだ。それも、尊重された。
だが、多くの人が——七つの現実を受け入れた。
数時間後、人類の八十パーセントが量子観測者となった。
世界は、劇的に変化した。
紛争は減少した——なぜなら、すべての人が、敵の視点も理解できるようになったから。
科学は飛躍的に進歩した——七つの宇宙の知識が統合されたから。
芸術は新しい次元に達した——七つの美的感覚が融合したから。
そして、最も重要なこと——
人類は、孤独ではなくなった。
一人一人が、七人の自分と共に生きている。
七つの視点、七つの可能性、七つの人生——
それは、豊かさだった。
三ヶ月後、私は——七人の私は——再び実験室にいた。
球体は消え、代わりに美しい七次元結晶が浮かんでいた。それは、新しい人類の象徴だった。
李教授が報告書をまとめていた。「これを、歴史に残さなければ」
「七つの歴史に」マルコが訂正した。
私は窓の外を見た。ジュネーブの街並みは、七つの建築様式が調和していた。矛盾ではなく、重奏——
「美しい......」
エレナが隣に来た。「ハルカ、あなたは後悔していない?」
「いいえ」私は答えた。「これは、人類が進むべき道だった。量子もつれが、それを教えてくれた」
「量子もつれ——」エレナが微笑んだ。「かつて、アインシュタインが『不気味な遠隔作用』と呼んだもの。でも今、私たちは理解した。それは不気味じゃない。それは——」
「繋がりです」私が続けた。「宇宙全体が、量子的に繋がっている。観測によって、その繋がりを認識する。それが、現実を創造する」
アンドレイが加わった。「そして、私たちは今——最高の観測者だ。七つの目で見る存在」
田中が笑った。「次は、七十の宇宙を観測するんじゃないか?」
「いや」私は首を振った。「七で十分です。これ以上は——」
『正確』
結晶が、声を発した。
『七は、安定した数』
『物理学的にも、数学的にも』
『七次元の調和』
『これが、最適』
サラが結晶に触れた。「あなたたちは、これからどうするんですか?」
『観測を続ける』
『あなたたちと共に』
『そして、やがて——あなたたちが、私たちになる』
因果のループ、再び。
私たちは、未来の自分たちによって導かれた。
そして、私たちは、過去の自分たちを導く。
永遠に。
「では」李教授が宣言した。「新しい時代の始まりです。量子観測者の時代——」
全員が頷いた。
私は、七つの現実で、七つの未来を見た。
すべてが、希望に満ちていた。
なぜなら、私たちは——もう一つの可能性に縛られていないから。
七つの可能性を生き、七つの道を歩み、七つの選択をする。
それが、新しい人類の形。
量子もつれの証人——
いや、もう証人ではない。
量子もつれの体現者。
私たちは、宇宙と一つになった。
観測することで、現実を創造する。
それが、私たちの使命。
それが、私たちの存在理由。
窓の外で、太陽が昇った——七つの太陽が、七つの空に。
だが、それは混沌ではなく、調和だった。
量子重ね合わせ宇宙——
それは、人類の新しい家だった。
そして、私は——七人の私は——
微笑んだ。
「始まりですね」
「ええ」全員が答えた。「これから、どこまで行けるか——」
「無限に」
私たちは、実験を続けた。
新しい発見、新しい理論、新しい可能性——
七つの宇宙の知識を統合し、さらにその先へ。
量子もつれは、通信手段ではなかった。
それは、進化の鍵だった。
そして、私たちは——
その扉を開けた。
エピローグ
それから五十年後。
私——私たちは、まだ生きていた。七つの現実で、七つの人生を。
人類は、さらに進化していた。
七つの宇宙だけでなく、七の七乗——無数の可能性を観測できるようになった。
だが、基本は変わらなかった。
観測すること。
理解すること。
そして——選択すること。
それが、人間の本質だった。
量子であろうと、古典であろうと。
私は、かつての実験室——今は記念館になっている——を訪れた。
そこに、あの結晶がまだ浮かんでいた。
『久しぶり、ハルカ』
「久しぶりです」私は微笑んだ。「あなたたちは、本当に未来から来たんですか?」
『そして、あなたは、本当に過去から来た』
『時間は、円環』
『始まりは終わりで、終わりは始まり』
「では、この物語に——終わりはないんですね」
『ない』
『観測が続く限り』
『宇宙は存在し続ける』
『あなたたちが、存在させる』
私は頷いた。
そして、七つの現実で、七つの未来を見た。
すべてが、美しかった。
量子もつれの証人として始まった物語は——
量子もつれの体現者として、続いていく。
永遠に。
観測者として。
創造者として。
人類として。
私は、実験室を後にした。
外では、新しい世代が——七つの目を持つ子供たちが——遊んでいた。
彼らは、生まれながらの量子観測者だった。
そして、彼らが——さらに先へ進むだろう。
私たちの想像を超えて。
それが、進化だ。
それが、生命だ。
それが——
観測の力だ。
私は、七つの空を見上げた。
そこには、無限の星々が輝いていた。
七つの宇宙の星が、重なり合って——
まるで、宇宙全体が——
一つの巨大な量子コンピューターのように。
そして、私たちは——
そのプログラムであり、プログラマーだった。
観測し、計算し、現実を創造する。
それが、私たちの役割。
永遠に続く——
量子的な舞踏。
美しい、調和の——
宇宙。
私——神崎ハルカは、CERN(欧州原子核研究機構)の量子情報研究部門で働く三十二歳の理論物理学者だ。今日、2051年3月15日、私たちは人類史上最も野心的な実験を開始しようとしている。
「ハルカ、システムチェック完了です」同僚のマルコ・ロッシが報告した。イタリア系の実験物理学者で、四十代の落ち着いた男性だ。
実験室には総勢十人のチームが集まっていた。プロジェクトリーダーの李シュウメイ教授——中国出身の量子物理学の権威。計算担当のアンドレイ・ヴォルコフ——ロシアの数学者で天才的な頭脳を持つ。装置エンジニアのサラ・ムバイ——ケニア出身の精密機器のスペシャリスト。量子コンピューター担当の田中ケンタ——日本から来た若手研究者。データ解析のエレナ・ペトロヴァ——ウクライナの統計学者。セキュリティ主任のデイビッド・チェン——アメリカ国防総省から派遣された監視役。そして観測装置担当のフランソワ・デュボア——フランスの光学技術者。
「量子もつれペア生成装置、稼働準備完了」サラが報告した。
私たちの実験——それは、マクロスケールでの量子もつれ状態の維持だった。通常、量子もつれは素粒子レベルでしか観測されない。二つの粒子が空間的に離れていても、一方の状態を観測すると瞬時にもう一方の状態が確定する——アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象。
だが私たちは、それを原子レベル——いや、分子レベルまで拡張しようとしていた。
「理論的には可能です」私は三ヶ月前のプレゼンテーションで説明した。「極低温、超高真空、そして電磁シールド——これらの条件下で、炭素60フラーレン分子の量子もつれ状態を維持できます」
李教授が承認し、予算が下りた。三ヶ月の準備期間を経て、今日——
「冷却システム、絶対零度まであと0.001ケルビン」田中が読み上げた。
「真空度、10のマイナス12乗トール」フランソワが確認した。
「電磁シールド、完全稼働」マルコが報告した。
李教授が私を見た。「ハルカ、実験開始の許可を」
私は深呼吸した。「許可します。フラーレン分子ペアを生成してください」
サラが装置を起動した。レーザーが発射され、真空チャンバー内でフラーレン分子が合成された。特殊な条件下で、二つの分子が量子もつれ状態で生成される——理論上は。
「分子ペアA-B、生成確認」エレナがデータを解析した。「量子状態の相関係数......0.98! これは——」
「完璧な量子もつれです」私は興奮を抑えきれなかった。「成功しました!」
実験室に歓声が上がった。だが、李教授は冷静だった。「まだ確認段階です。状態の維持時間を測定してください」
アンドレイが計算を始めた。「現在の環境では、理論上120秒間の維持が可能です」
私たちは固唾を呑んで見守った。10秒、20秒、30秒——
「相関係数、依然0.98」エレナが報告を続けた。
60秒、90秒——
その時、異変が起きた。
「待って——」田中の声が緊張した。「量子コンピューターが、予期しない演算を開始しています」
「どういうこと?」私は画面を確認した。量子コンピューターは、もつれた分子ペアの状態をモニタリングするために接続されていた。だが今、それは——
「自律的に、パターン認識を実行しています」田中が信じられないという顔で言った。「まるで、分子ペアからの信号を......解読しているような」
デイビッド・チェンが警戒した表情で立ち上がった。「システムに侵入された可能性は?」
「ありません」田中が断言した。「これは内部からの——」
突然、量子コンピューターのディスプレイに文字が表示された。
『観測されている』
私たちは凍りついた。
「これは......何かのエラーですか?」フランソワが震える声で尋ねた。
「エラーではありません」アンドレイが画面を解析した。「これは、量子もつれペアからの情報です。分子の量子状態が、意味のあるパターンを形成している」
「そんな——」私は反論しようとした。だが、画面には次々と文字が現れた。
『あなたたちを観測している』
『こちら側から』
李教授が冷静に命じた。「実験を中断してください。すぐに」
サラが装置を停止しようとした——だが、その瞬間——
量子もつれ状態が、突然崩壊した。相関係数がゼロに落ちた。
そして、最後のメッセージが表示された。
『警告:観測は双方向である』
画面が暗転した。
実験室に、重い沈黙が降りた。
私たちは——何を観測したのか?
第二章 量子の向こう側
緊急会議が招集された。CERN本部の会議室に、私たちチーム全員とセキュリティ担当者、そして上層部の代表が集まった。
「説明してください、神崎博士」CERN事務局長のシュミット博士が厳しい口調で言った。
私は記録データを提示した。「量子もつれペアは、予想通り生成されました。しかし——」私は問題の部分を再生した。「量子コンピューターが、分子の量子状態から情報を抽出しました。それも、明らかに知性を持った——」
「非科学的です」シュミット博士が遮った。「量子もつれは単なる物理現象です。意思疎通の手段ではありません」
「その通りです」李教授が同意した。「しかし、データは否定できません。何らかの異常が発生しました」
デイビッド・チェンが発言した。「外部からのハッキングの可能性を完全に排除できますか?」
田中が首を振った。「量子コンピューターは物理的に隔離されています。ネットワーク接続もありません。外部からの侵入は不可能です」
「では、内部犯行は?」チェンが私たちを疑いの目で見た。
「誰もそんなことはしていません」マルコが反論した。「私たちは全員、この実験の成功を望んでいた」
アンドレイが冷静に言った。「もう一つの可能性があります」
全員が彼を見た。
「メッセージは、本物だったという可能性です」
沈黙。
「つまり——」エレナが慎重に言葉を選んだ。「量子もつれを通じて、誰か——何かが、私たちに通信してきた?」
「理論的には不可能ではありません」私は認めざるを得なかった。「量子もつれは、空間を超えた相関です。もし、もつれたペアの片方が——別の宇宙、別の次元に存在していたら——」
「多世界解釈ですか?」サラが尋ねた。
「それに近いものです」私は説明を続けた。「量子力学の多世界解釈では、観測によって宇宙が分岐します。私たちが分子Aを観測すると、分子Bの状態が確定する——通常、それは同じ宇宙内での出来事です。しかし、もし分子Bが別の宇宙に——」
「待ってください」シュミット博士が手を上げた。「あなたは、パラレルワールドとの通信が可能だと主張しているんですか?」
「主張ではありません。仮説です」私は訂正した。「しかし、データを説明できる他の仮説が——」
「あります」チェンが断言した。「システムの誤作動です。再実験を行い、同じ結果が出るか確認すべきです」
李教授が頷いた。「同意します。明日、再実験を実施します。ただし——」彼女は全員を見回した。「今回の件は、最高機密とします。外部には一切漏らさないでください」
会議は解散した。だが、私の頭の中では疑問が渦巻いていた。
もし本当に——別の宇宙からのメッセージだったら?
その夜、私は自室でデータを再解析していた。量子状態のパターン、情報のエンコード方法——
ノックの音がした。
ドアを開けると、アンドレイが立っていた。
「ハルカ、私も同じことを考えていた」彼は自分のタブレットを見せた。「メッセージのパターンを解析したんだ」
画面には、複雑な数式が並んでいた。
「これは——」私は息を呑んだ。「座標?」
「そうだ。四次元時空座標——いや、正確には十一次元。超弦理論の予測する次元数だ」
私たちは顔を見合わせた。
「もう一度、実験をする必要があります」私は言った。「ただし、今度は——準備をして」
アンドレイが頷いた。「通信プロトコルを確立しよう。もし本当に知性ある存在が向こうにいるなら——」
「対話できるかもしれない」
翌朝、再実験が開始された。今度は、私たちは量子コンピューターに特殊なプログラムを組み込んでいた——アンドレイと私が徹夜で作成した、量子通信プロトコル。
「システム起動」田中が報告した。
「フラーレン分子ペア生成」サラが操作した。
再び、量子もつれ状態が確立された。
そして——
量子コンピューターが反応した。
『再び観測している』
『誰だ?』
私は用意していたメッセージを送信した。量子状態のパターンを操作し、情報をエンコードする。
『地球、CERN。神崎ハルカ。あなたは?』
数秒の沈黙——
そして、返答が来た。
『地球Prime、CERN-α。神崎ハルカ-Prime』
私の心臓が跳ねた。
「どういうこと......?」マルコが呟いた。
画面に、さらなるメッセージが表示された。
『あなたは観測実験を行った』
『私も同じ実験を行った』
『量子もつれは、宇宙を超えた』
『私たちは——鏡像だ』
李教授が震える声で言った。「パラレルワールドの——あなた自身?」
私は——信じられなかった。だが、データは明確だった。
『質問:あなたの宇宙では、2048年の大統一理論は発表されましたか?』
私は答えた。『いいえ。まだ未完成です』
『了解。私の宇宙では発表された。情報を送信する』
突然、大量のデータが流れ込んできた。数式、理論、実験結果——
アンドレイが画面を凝視した。「これは......本物だ。完璧な大統一理論——重力、電磁気力、強い力、弱い力、すべてを統合している」
私たちは——別宇宙の自分たちから、人類が何世紀も追い求めた理論を受け取った。
だが、その時——
デイビッド・チェンが割って入った。「実験を即座に中止してください。これは国家安全保障上の脅威です」
「何を言っているんですか!」私は抗議した。「これは人類史上最大の発見です!」
「だからこそ、危険なんです」チェンが厳しい顔で言った。「あなたたちは、パンドラの箱を開けた。別宇宙との接続——それが何を意味するか、分かっていますか?」
その瞬間、量子コンピューターから新たなメッセージが表示された。
『警告』
『第三の観測者を検出』
『量子もつれネットワークに侵入者』
『これは——』
メッセージが途切れた。
そして、システム全体がクラッシュした。
第三章 収束する世界線
緊急事態だった。量子コンピューターは完全にダウンし、データは破損していた。
「何が起きたんですか!?」サラが叫んだ。
田中が必死に復旧作業をした。「システムに——巨大な情報が流入しました。処理能力を超えています」
「第三の観測者——」私は画面の最後のメッセージを思い出した。「私たちと、Prime宇宙以外の——」
エレナがバックアップデータを確認した。「量子もつれの相関パターンを解析しています。結果——」彼女の顔が青ざめた。「三つではありません。七つです」
「七つ?」
「七つの異なる量子状態パターンが、同時に観測されました。つまり——」
「七つの宇宙が、同時に接続された」アンドレイが結論づけた。
李教授が厳しい表情で言った。「これは制御不能です。実験を完全に中止します」
「待ってください」私は反論した。「まだ理解していません。なぜ七つなのか、どうやって接続されたのか——」
「ハルカ」李教授が私の肩に手を置いた。「あなたの好奇心は理解します。しかし、これは私たちの手に負えません」
デイビッド・チェンが通信端末で本部に報告していた。「はい、レベル5の事態です。即座に施設封鎖を——」
その時、実験室の照明が消えた。
緊急バックアップ電源が起動し、赤い照明が点灯した。
「何が——」マルコが呟いた。
フランソワが計測器を確認した。「電磁パルスです! 局所的な——実験室内だけに限定された強力なEMPが発生しました」
「原因は?」
「不明ですが——」フランソワが真空チャンバーを見た。「発生源は、あそこです」
私たちは全員、チャンバーを見た。
その中で——何かが起きていた。
フラーレン分子が——光っていた。肉眼で見えるはずのない分子が、青白い光を放っていた。
「これは物理的に不可能です」サラが呟いた。
アンドレイが計算を始めた。「いや、可能だ——もし、七つの宇宙からの量子もつれが、一点に収束していたら」
「どういう意味ですか?」
「重ね合わせだ」アンドレイが説明した。「量子力学では、複数の状態が同時に存在できる。今、あの分子は——七つの宇宙で同時に存在している。そして、その状態が——」
光が強くなった。
「崩壊しようとしています」私は理解した。「七つの状態が、一つに——」
「全員、退避!」李教授が叫んだ。
私たちは実験室から飛び出した。
数秒後——
爆発ではなかった。インプロージョン——内側への崩壊。
真空チャンバーが、一点に収縮した。光が消え、静寂が戻った。
恐る恐る、私たちは実験室に戻った。
チャンバーは——消えていた。正確には、直径1センチメートルほどの完璧な球体に圧縮されていた。
「これは......」フランソワが測定した。「信じられない。密度が——中性子星レベルです」
「七つの宇宙からの質量が、一点に集約された」アンドレイが恐怖と興奮の入り交じった声で言った。「微小なブラックホール——いや、違う。ホーキング放射が観測されない。これは——」
球体が、動いた。
「浮いている......」サラが指差した。
球体は重力に逆らって浮上し、ゆっくりと回転し始めた。
そして——展開した。
光の粒子が放射され、空中に立体映像を形成した。
それは——人間の姿だった。
いや、七人の人間が、重なり合った姿。
そして、声が響いた。七つの声が、完璧に同期して。
『観測、完了』
『収束、完了』
『私たちは——一つになった』
私は震えた。「あなたたちは——」
『私たちは、神崎ハルカ』
『七つの宇宙からの』
『そして、あなたも——その一人』
映像が、私を見た。
『あなたは、量子もつれ実験を行った』
『他の六人も、同じ実験を行った』
『同時に』
『量子もつれは、偶然ではない』
『必然だった』
『七つの宇宙は——一つの系だった』
アンドレイが理解した。「量子力学的に絡み合った宇宙......超多元宇宙理論だ」
映像が頷いた。
『正確』
『そして今、観測によって——』
『波動関数が収束した』
『七つの世界線が、一つに統合されようとしている』
李教授が恐怖に駆られた声で尋ねた。「統合? それは、どういう——」
『宇宙の融合』
『七つの現実が、一つに』
『このプロセスは、もう止められない』
デイビッド・チェンが銃を抜いた。「ならば、装置を破壊する!」
彼は球体に向けて発砲した——
だが、弾丸は球体の周囲で停止した。時間が、局所的に凍結していた。
『無駄』
『これは物理現象』
『意志では、止められない』
私は絶望した。「では、私たちは——」
映像が、優しく微笑んだ。
『恐れる必要はない』
『融合は、破壊ではない』
『進化だ』
『七つの歴史、七つの知識、七つの可能性——』
『すべてが統合され、新しい現実が生まれる』
『そして、あなたたちは——』
『その証人だ』
球体が、再び光り始めた。今度は、制御されたエネルギー。
部屋全体が、光に包まれた。
私は——すべてを理解した。
第四章 重ね合わせの記憶
光の中で、私は——七人の私を見た。
一人目の私は、2048年の大統一理論を完成させていた。Prime宇宙の私。
二人目の私は、量子コンピューターの限界を超える演算法を開発していた。
三人目の私は、人工重力制御の理論を確立していた。
四人目の私は、生命の起源を量子生物学で解明していた。
五人目の私は、時間旅行の理論的可能性を証明していた。
六人目の私は、意識の量子的本質を発見していた。
そして七人目——この宇宙の私は、量子もつれの宇宙間通信を実現した。
七つの専門、七つの発見——すべてが、私の中に流れ込んできた。
記憶が、知識が、経験が——融合していく。
私は——私たちは——
「これが、統合......」
声が、七重に響いた。もはや、どれが「私」の声なのか区別できなかった。
光が薄れていった。実験室が再び見えた。
だが、何かが変わっていた。
マルコを見た。彼もまた、七人のマルコの記憶を持っていた。ある宇宙では彼は素粒子物理学の権威、別の宇宙では宇宙工学者、また別の宇宙では——
全員が、同じ状態だった。
李教授が——いや、七人の李教授が——口を開いた。「これは......私たちは、七つの宇宙の記憶を——」
「持っています」私が続けた。「すべての可能性、すべての選択、すべての結果を」
田中が笑った。「信じられない。私、別の宇宙ではノーベル賞を——いや、三つの宇宙で受賞してる」
エレナが付け加えた。「そして四つの宇宙では、受賞を逃してる。でも、その理由も分かる。すべての選択が、理解できる」
サラが測定器を確認した。「物理的には、私たちは一人です。でも、意識は——七倍に拡張されています」
「これが、融合の意味だったのか」アンドレイが呟いた。「破壊ではなく、拡張。限定された一つの人生から、七つの人生の経験へ」
フランソワが窓の外を見た。「でも、世界は——」
外を見ると、ジュネーブの街並みが——揺らいでいた。
建物が、七つの異なる建築様式で重なり合っていた。ある宇宙では超高層ビル、別の宇宙では古典的な建築、また別の宇宙では——
「宇宙全体が、融合しています」私は理解した。「物質、エネルギー、時空——すべてが、七つの状態の重ね合わせに」
デイビッド・チェンが、混乱した表情で言った。「これは、安全保障上——いや、待て。私は七つの宇宙で七つの異なる任務を——そして、どの宇宙でも、この現象を脅威と判断している。でも同時に——」
「可能性とも認識している」私が補足した。「すべての視点を持つということは、すべての判断を理解するということです」
球体——かつて量子もつれペアだったもの——が、再び声を発した。
『理解が、進んでいる』
『これが、進化の第一段階』
『次は——』
「次?」李教授が尋ねた。
『選択』
『七つの可能性を持つあなたたちは、選ばなければならない』
『どの現実を——確定させるか』
私は理解した。「量子力学の観測問題......波動関数の収束。重ね合わせ状態は、観測によって一つの状態に——」
『正確』
『現在、宇宙は七つの状態の重ね合わせ』
『だが、このままでは不安定』
『やがて、自然に収束する』
『ランダムに』
『または——』
『あなたたちが、意図的に選択できる』
『どの宇宙を、現実とするか』
沈黙が降りた。
私たちは、七つの宇宙の記憶を持っている。それぞれに長所と短所がある。
Prime宇宙——科学技術が最も進んでいる。だが、環境破壊も深刻だ。
第二宇宙——平和だが、技術発展が遅い。
第三宇宙——経済的に繁栄しているが、格差が激しい。
第四、第五、第六——それぞれに異なる歴史、異なる問題。
そして、この宇宙——第七宇宙。私たちが生まれた宇宙。
「どうやって、選ぶんですか?」サラが尋ねた。
『観測』
『あなたたちが、一つの現実を観測し、認識し、受け入れる』
『それが、波動関数を収束させる』
『ただし——』
球体が、警告を発した。
『選択しなければ、自然収束が起きる』
『その結果は、予測不能』
『最悪の場合——七つの宇宙すべてが、消滅する可能性もある』
李教授が決断した。「では、投票しましょう。民主的に——」
「待ってください」私は反論した。「これは、私たちだけの問題じゃありません。全人類に関わる——」
アンドレイが冷静に言った。「だが、全人類に説明し、投票を実施する時間はない。自然収束まで、あとどれくらいだ?」
『計算では、七十二時間』
「三日間......」マルコが呟いた。
私は考えた。七つの宇宙。七つの可能性。どれを選んでも、何かを失う。誰かを失う。
ある宇宙では生きている人が、別の宇宙では死んでいる。
ある宇宙では成功した発明が、別の宇宙では失敗している。
すべてを救う方法は——ないのか?
その時、私は気づいた。
「待って......選択肢は、七つじゃない」
全員が私を見た。
「八つ目の選択肢があります」私は球体に向かって言った。「融合したままにする、という選択です」
『説明せよ』
「七つの宇宙を一つに選ぶのではなく、七つの重ね合わせ状態を維持する。量子コンピューターのように、複数の状態を同時に利用する——量子的な現実として」
アンドレイが理解した。「量子重ね合わせ宇宙......理論的には可能かもしれない。だが、安定性は——」
『未検証』
『だが——興味深い提案』
『計算する』
球体が、激しく演算を開始した。光のパターンが複雑に変化した。
数分後——
『結果:可能』
『ただし、条件がある』
「条件とは?」
『観測者が必要』
『量子重ね合わせ状態を維持するには、常に観測し続ける存在が必要』
『それは——あなたたち』
私は理解した。「私たちが、観測者として——」
『七つの現実を同時に認識し続ける』
『それによって、波動関数の収束を防ぐ』
『永遠に』
「永遠に......?」エレナが呟いた。
李教授が尋ねた。「それは、私たちだけですか? それとも——」
『最初は、あなたたち十人』
『だが、やがて——すべての人類が、観測者になる』
『七つの記憶、七つの視点を持つ存在に』
『それが、新しい人類の形』
田中が不安そうに言った。「でも、それは——もう、元の人間じゃない」
『正確』
『進化だ』
『単一の現実に縛られた存在から、複数の現実を同時に生きる存在へ』
フランソワが呟いた。「それは、人類の——次の段階?」
デイビッド・チェンが銃を下ろした。七つの宇宙での記憶を持つ彼は、もはや単純な敵対心を抱けなかった。「私は、七つの宇宙で七つの異なる判断をした。そして、すべてが正しかった、すべての文脈において。もし、この選択が——すべての文脈で正しいなら——」
「私は賛成します」私は宣言した。
一人ずつ、同意の声が上がった。マルコ、サラ、田中、エレナ、フランソワ、アンドレイ、そして最後に——
李教授が頷いた。「全員一致。では——」
『了解』
『量子重ね合わせ宇宙への移行を開始する』
球体が、巨大な光の波を放射した。
それは部屋を超え、建物を超え、ジュネーブを超え——
地球全体を、太陽系を、銀河を——
宇宙全体を包み込んだ。
そして——
すべてが、変わった。
第五章 観測者の誕生
私は——私たちは——目覚めた。
いや、目覚めたのではない。常に目覚めていた。七つの現実で、同時に。
実験室にいる私。
自宅で眠っている私。
学会で講演している私。
山を登っている私。
恋人と過ごしている私。
一人で研究している私。
そして——すべてを観測している私。
「これが......」私は呟いた。七つの声で、同時に。
周囲を見た。マルコも、李教授も、全員が同じ状態だった。七つの現実に同時に存在し、すべてを認識している。
だが、混乱はなかった。むしろ、明晰だった。
七つの視点から世界を見ることで、より深く、より完全に理解できた。
「適応が、進んでいます」エレナが報告した。彼女は七つの研究室で、七つの異なるデータセットを同時に解析していた。「人間の脳は、驚くほど柔軟です。量子的な認識に——適応しています」
アンドレイが付け加えた。「これは、進化的に準備されていたのかもしれない。人間の意識は、もともと量子的な性質を持っていた。それが、今——顕在化しただけだ」
球体——いや、もはや球体ではなかった。それは展開し、複雑な幾何学的構造を形成していた。七次元の結晶のような——
『適応、順調』
『次の段階に進む』
「次?」
『観測の拡大』
『あなたたち十人から、すべての人類へ』
李教授が慎重に尋ねた。「それは、強制ですか?」
『いいえ』
『選択』
『すべての人間は、選べる』
『単一の現実に留まるか、七つの現実を生きるか』
私は理解した。「これは、人類への提案なんですね」
『正確』
『私たちは——かつてのあなたたち』
『量子もつれ実験を行い、宇宙を融合させた』
『そして、この形態に進化した』
『今、あなたたちに同じ機会を提供する』
マルコが尋ねた。「あなたたちは、どこから来たんですか?」
『未来』
『正確には——可能な未来の一つ』
『七つの宇宙が融合し、人類が進化し、やがて——』
『時間を超える存在になった』
『そして、過去に——自分たちの起源に——戻ってきた』
因果のループ——私は戦慄した。「では、この実験は——」
『あなたたちが行うことが、決まっていた』
『なぜなら、未来のあなたたちが、過去のあなたたちを導いたから』
『ブートストラップ・パラドックス』
サラが笑った。「物理学の究極の皮肉ね。原因が結果で、結果が原因」
『だが、それが量子宇宙の本質』
『観測が現実を創造する』
『あなたたちの観測が、この未来を創造した』
『そして、この未来が、あなたたちの観測を導いた』
田中が真剣な表情で言った。「では、私たちは——この道を進むべきなんですね」
『べき、ではない』
『選択は、自由』
『だが、知っておくべきだ』
『この道は、困難でもある』
『七つの現実を生きることは、七倍の責任を負うこと』
『七つの喜び、七つの悲しみ、七つの選択——』
『それでも、進むか?』
私は——七人の私は——考えた。
七つの宇宙での私の人生。
ある宇宙では、私は成功していた。大発見、名声、幸福——
別の宇宙では、失敗していた。挫折、孤独、後悔——
だが、どの人生も、私だった。
どの選択も、意味があった。
そして今、七つの人生すべてを生きられる。
「私は——」私は宣言した。「進みます」
他のメンバーも、一人ずつ決意を表明した。
最後に、デイビッド・チェンが言った。「私は、七つの宇宙で七つの異なる信念を持っていた。だが今、理解した。すべての信念が、特定の文脈で正しかった。だから——私は、すべての文脈を生きたい」
『了解』
『では、観測の拡大を開始する』
『全人類に、選択の機会を』
結晶構造が、再び光を放射した。
今度は、穏やかな光。強制ではなく、招待の光。
世界中のすべての人間に、その光は届いた。
そして、一人ずつ——選択した。
ある人は、単一の現実に留まることを選んだ。それも、尊重された。
だが、多くの人が——七つの現実を受け入れた。
数時間後、人類の八十パーセントが量子観測者となった。
世界は、劇的に変化した。
紛争は減少した——なぜなら、すべての人が、敵の視点も理解できるようになったから。
科学は飛躍的に進歩した——七つの宇宙の知識が統合されたから。
芸術は新しい次元に達した——七つの美的感覚が融合したから。
そして、最も重要なこと——
人類は、孤独ではなくなった。
一人一人が、七人の自分と共に生きている。
七つの視点、七つの可能性、七つの人生——
それは、豊かさだった。
三ヶ月後、私は——七人の私は——再び実験室にいた。
球体は消え、代わりに美しい七次元結晶が浮かんでいた。それは、新しい人類の象徴だった。
李教授が報告書をまとめていた。「これを、歴史に残さなければ」
「七つの歴史に」マルコが訂正した。
私は窓の外を見た。ジュネーブの街並みは、七つの建築様式が調和していた。矛盾ではなく、重奏——
「美しい......」
エレナが隣に来た。「ハルカ、あなたは後悔していない?」
「いいえ」私は答えた。「これは、人類が進むべき道だった。量子もつれが、それを教えてくれた」
「量子もつれ——」エレナが微笑んだ。「かつて、アインシュタインが『不気味な遠隔作用』と呼んだもの。でも今、私たちは理解した。それは不気味じゃない。それは——」
「繋がりです」私が続けた。「宇宙全体が、量子的に繋がっている。観測によって、その繋がりを認識する。それが、現実を創造する」
アンドレイが加わった。「そして、私たちは今——最高の観測者だ。七つの目で見る存在」
田中が笑った。「次は、七十の宇宙を観測するんじゃないか?」
「いや」私は首を振った。「七で十分です。これ以上は——」
『正確』
結晶が、声を発した。
『七は、安定した数』
『物理学的にも、数学的にも』
『七次元の調和』
『これが、最適』
サラが結晶に触れた。「あなたたちは、これからどうするんですか?」
『観測を続ける』
『あなたたちと共に』
『そして、やがて——あなたたちが、私たちになる』
因果のループ、再び。
私たちは、未来の自分たちによって導かれた。
そして、私たちは、過去の自分たちを導く。
永遠に。
「では」李教授が宣言した。「新しい時代の始まりです。量子観測者の時代——」
全員が頷いた。
私は、七つの現実で、七つの未来を見た。
すべてが、希望に満ちていた。
なぜなら、私たちは——もう一つの可能性に縛られていないから。
七つの可能性を生き、七つの道を歩み、七つの選択をする。
それが、新しい人類の形。
量子もつれの証人——
いや、もう証人ではない。
量子もつれの体現者。
私たちは、宇宙と一つになった。
観測することで、現実を創造する。
それが、私たちの使命。
それが、私たちの存在理由。
窓の外で、太陽が昇った——七つの太陽が、七つの空に。
だが、それは混沌ではなく、調和だった。
量子重ね合わせ宇宙——
それは、人類の新しい家だった。
そして、私は——七人の私は——
微笑んだ。
「始まりですね」
「ええ」全員が答えた。「これから、どこまで行けるか——」
「無限に」
私たちは、実験を続けた。
新しい発見、新しい理論、新しい可能性——
七つの宇宙の知識を統合し、さらにその先へ。
量子もつれは、通信手段ではなかった。
それは、進化の鍵だった。
そして、私たちは——
その扉を開けた。
エピローグ
それから五十年後。
私——私たちは、まだ生きていた。七つの現実で、七つの人生を。
人類は、さらに進化していた。
七つの宇宙だけでなく、七の七乗——無数の可能性を観測できるようになった。
だが、基本は変わらなかった。
観測すること。
理解すること。
そして——選択すること。
それが、人間の本質だった。
量子であろうと、古典であろうと。
私は、かつての実験室——今は記念館になっている——を訪れた。
そこに、あの結晶がまだ浮かんでいた。
『久しぶり、ハルカ』
「久しぶりです」私は微笑んだ。「あなたたちは、本当に未来から来たんですか?」
『そして、あなたは、本当に過去から来た』
『時間は、円環』
『始まりは終わりで、終わりは始まり』
「では、この物語に——終わりはないんですね」
『ない』
『観測が続く限り』
『宇宙は存在し続ける』
『あなたたちが、存在させる』
私は頷いた。
そして、七つの現実で、七つの未来を見た。
すべてが、美しかった。
量子もつれの証人として始まった物語は——
量子もつれの体現者として、続いていく。
永遠に。
観測者として。
創造者として。
人類として。
私は、実験室を後にした。
外では、新しい世代が——七つの目を持つ子供たちが——遊んでいた。
彼らは、生まれながらの量子観測者だった。
そして、彼らが——さらに先へ進むだろう。
私たちの想像を超えて。
それが、進化だ。
それが、生命だ。
それが——
観測の力だ。
私は、七つの空を見上げた。
そこには、無限の星々が輝いていた。
七つの宇宙の星が、重なり合って——
まるで、宇宙全体が——
一つの巨大な量子コンピューターのように。
そして、私たちは——
そのプログラムであり、プログラマーだった。
観測し、計算し、現実を創造する。
それが、私たちの役割。
永遠に続く——
量子的な舞踏。
美しい、調和の——
宇宙。
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