怠惰は死んでも治らない

ラプ太郎

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第3話 夢が現実になる

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 夢を見ていた。
 妙に現実味のある、色彩の乏しい夢だった。

 場所は、近所にあるコンビニエンスストアだ。セブンイレブンか、ローソンか、ファミリーマートか。その看板の色は曖昧だが、店内の白い蛍光灯の明るさだけはやけに鮮明だった。
 僕はレジの中に立っていた。制服を着て、バーコードリーダーを握っている。
 客が商品を置く。ペットボトル、おにぎり、タバコ。
 僕は機械的に商品をスキャンする。「ピッ」という電子音が鼓膜を叩く。
 手元の画面を操作し、会計を済ませる。「ありがとうございました」と頭を下げる。
 その動作に、淀みはなかった。まるで何年もそこで働いているベテランのように、あるいはプログラムされたロボットのように、淡々と労働をこなしている。
 嫌な感じはしなかった。むしろ、自分が社会という巨大な歯車の一つとして、正常に噛み合い、回転しているという奇妙な安堵感があった。
 
 ふと、手元を見ると、赤いペンで丸がつけられた『タウンワーク』が置かれていた。
 ページが開かれている。僕が指差しているのは、時給千円程度の、どこにでもあるコンビニの求人枠だ。
 ああ、そうか。僕はここに応募したんだった。
 夢の中の僕は納得し、そしてまた次の客に向かって「いらっしゃいませ」と声を張り上げる――。

 そこで、意識が浮上した。

「……んあ……」

 喉の奥から間の抜けた声が漏れる。
 重たい瞼を持ち上げると、そこはいつもの薄暗い自室だった。コンビニの明るい照明はない。あるのは、カーテンの隙間から差し込む、遠慮のない昼の光だけだ。
 枕元のスマホを探り当て、画面を点灯させる。

『1月1日(木) 12:03』

「……正午かよ」

 新年最初の言葉がそれだった。
 「あけましておめでとう」でも「今年は頑張るぞ」でもなく、ただの時刻確認。
 世間では初詣に行ったり、親戚で集まったりしている時間帯だろう。元日の正午に起床するという事実は、僕がこの社会の祝祭から完全に置いていかれていることを示唆していた。

 昨夜の記憶を手繰り寄せる。
 確か、タウンワークに赤ペンで丸をつけて、疲れ果てて泥のように眠ったはずだ。
 夢の内容が脳裏をよぎる。コンビニで働く自分。
 あまりにもリアルだった。レジの感触、揚げ物の油の匂い、自動ドアが開く音。

「……正月から仕事の夢とか、縁起でもない」

 僕は首を振り、そのイメージを振り払った。
 のそのそと布団から抜け出す。部屋の空気が冷たい。暖房をつけていない冬の部屋は、冷蔵庫の中のようだ。
 洗面所に向かい、歯ブラシを手に取る。
 いつもならダラダラとスマホを見ながら五分も十分も磨いているところだが、今日は寒さのせいか、それとも夢の影響か、手早く済ませたい気分だった。
 シャカシャカシャカ、と高速でブラシを動かす。口をゆすぎ、顔を洗う。
 鏡の中の自分と目が合う。
 去年と何も変わらない、冴えない顔。だけど、少しだけ目が覚めた気がした。

 キッチンに立つ。
 腹が減った。元日くらいは、それらしいものを食べようと思う。
 冷蔵庫から、パック入りの切り餅と、レトルトのお雑煮の素を取り出す。これは年末、深夜のコンビニで気まぐれに買っておいたものだ。
 鍋に湯を沸かし、素を入れる。醤油ベースの香りが立ち上る。餅を焼くのは面倒なので、そのまま鍋に放り込んで煮ることにした。いわゆる「煮雑煮」だ。
 数分後、どんぶりに盛られた質素な雑煮が完成した。
 具は餅と、わずかな鶏肉、そして乾燥ネギだけ。
 リビングのテーブルに運び、手を合わせる。

「いただきます」

 誰もいない部屋で呟く。
 熱い汁を啜る。出汁の味が染みる。柔らかくなった餅が歯に絡みつく。
 美味い。
 実家の雑煮はもっと具だくさんだったな、とふと思う。大根や人参、彩りの良い蒲鉾が入っていた。母の味。
 それを思い出すと少し胸が痛むので、僕は意識して餅を喉に流し込んだ。

 食事を終えると、急激に満腹感が襲ってきた。
 血糖値の上昇。それに伴う眠気。
 人間としての生理現象に抗う理由はない。

「寝正月っていうし、寝るか」

 これぞニートの特権だ。
 食べた直後に横になる。牛になると言われようが、誰にも迷惑はかけない。
 再び布団に潜り込み、毛布を頭まで被る。
 さあ、二度寝の世界へ。夢の続きへ。

 しかし。
 十分経っても、二十分経っても、眠りは訪れなかった。
 目は冴え、意識はクリアだ。
 それもそのはず、僕は昨夜から十時間たっぷりと睡眠を取っている。肉体的な疲労は完全に回復しており、これ以上眠ることは生理的に不可能だった。

「……寝れねえ」

 天井を見つめて呟く。
 暇だ。
 元日から暇を持て余す。これほど贅沢で、これほど虚しい時間の使い方はあるだろうか。
 僕は枕の下からスマホを取り出した。
 PCを起動するのも面倒だ。寝転がったままできる娯楽がいい。
 指先がアプリのアイコンをタップする。

『城とドラゴン』

 軽快なファンファーレと共に、タイトル画面が表示される。通称「城ドラ」。
 PCでFPSばかりやっていたせいで、スマホゲーを開くのは久しぶりだった。
 ログインボーナスを受け取る。正月限定のアイテムが配られていた。
 画面の中では、デフォルメされたモンスターや兵士たちがわちゃわちゃと動いている。

 バトルを開始する。
 相手のマッチングを待つ間、ふとカレンダーの日付が目に入った。

(……あれ? そういえば、今年の正月は実家に帰省してないな)

 去年までは、なんだかんだ理由をつけて数日だけ顔を出していた。親の顔色を伺い、小言を言われ、居心地の悪さを感じながらもお年玉(という名の生活援助金)をもらっていた。
 今年は、帰るという選択肢すら頭に浮かばなかった。
 連絡もしていない。親からも連絡はない。
 見放されたのか、気を遣われているのか。
 まあいいか。帰ったところで「仕事はどうだ」と聞かれるのがオチだ。今の僕には報告すべき進捗は何もない。

 マッチングが成立した。
 バトル開始。
 コストを管理し、キャラを召喚し、相手の城を攻め落とす。シンプルなルールだが、奥が深い。
 はずだった。

「あー、そこ! なんでそっち行くんだよ!」

 僕が召喚したオークが、敵の攻撃を無視して明後日の方向へ歩いていく。
 すかさず相手のサイクロプスがビームを発射。僕の防衛ラインは一瞬で崩壊した。
 敗北。
 
「次だ、次」

 再戦。
 今度は相手の飛行キャラに対応できず、一方的に空爆されて終了。
 敗北。

 三戦目。
 通信ラグでキャラが出せず、気づいたら城が落ちていた。
 敗北。

「クソゲーかよ!」

 僕はスマホを布団に投げつけた。
 イライラする。
 昨日のApexといい、今日の城ドラといい、どうしてこうも勝てないのか。
 ゲームは僕の聖域だったはずだ。現実で勝てない分、デジタル空間では無双できるはずだった。
 それが、正月早々、顔の見えない誰かにボコボコにされている。
 まるで「お前はどこに行っても負け組だ」と言われているようだ。

 もうゲームはいい。飽きた。
 僕はリモコンを手に取り、壁掛けのテレビに向けた。
 電源オン。
 映し出されたのは、地上波のバラエティ番組だ。芸人たちが雛壇で大笑いしている。
 僕は反射的に「入力切替」ボタンを押した。

 画面が切り替わり、『Fire TV Stick』のホーム画面が表示される。
 僕が地上波を見なくなって久しい。
 決定的だったのは、年末恒例だった『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで! 笑ってはいけないシリーズ』の放送終了だ。
 あれこそが大晦日の楽しみであり、一年の締めくくりだった。
 それを奪ったのは何か。コンプライアンスだ。BPOだ。
 「痛みを伴う笑い」を排除しようとする潔癖な正義感が、僕のささやかな楽しみを奪ったのだと、僕は勝手に信じ込んでいる。
 だから僕は、BPOへの個人的な抗議活動として、地上波を見ない。
 ネット配信こそが自由の最後の砦だ。

 Amazonプライムビデオのアイコンを選択する。
 おすすめ欄には話題作が並んでいる。
 その中で、一つだけ異彩を放つタイトルがあった。

『僕の心のヤバイやつ』

 サムネイルには、陰気な少年と、スタイルの良い美少女が描かれている。
 通称「僕ヤバ」。
 ネットニュースで見たことがある。「劇場版制作決定」という見出しと共に、SNSで絶賛されていた作品だ。
 主人公の市川京太郎は、中二病を患う陰キャ。ヒロインの山田杏奈は、天真爛漫な陽キャの美少女。
 一見、ありふれたラブコメ設定に見える。
 だが、食わず嫌いは良くない。時間は腐るほどあるのだ。

「……見てみるか」

 第一話の再生ボタンを押す。
 
 物語が始まる。
 市川京太郎の独白。教室の隅で、クラスメイトを見下し、殺害願望ごっこをする痛々しい姿。
 ああ、分かる。
 すごく分かる。
 僕にも覚えがある。自分は特別だと思い込み、周囲を「群れ」として見下すことで自我を保っていたあの頃。
 見ていて恥ずかしくなるほどの共感性羞恥。

 しかし、物語が進むにつれ、その印象は変わっていく。
 図書室での交流。山田杏奈という少女の、予想外の行動。
 市川の心の氷が、少しずつ、本当に少しずつ溶かされていく過程。
 二人の距離が縮まるたびに、画面の色彩が鮮やかになっていくような演出。

 気づけば、僕は布団の上で正座をして画面に見入っていた。
 回を追うごとに、胸が締め付けられる。
 これはただのラブコメじゃない。
 魂の再生の物語だ。
 自己肯定感の低い少年が、自分を受け入れてくれる存在と出会い、世界を肯定できるようになっていく物語だ。

 最終話のエンドロールが流れる頃には、僕の視界は滲んでいた。
 鼻をすする音が、静かな部屋に響く。
 泣いていた。
 悲しいからじゃない。羨ましいからでもない。
 ただ、尊かった。
 僕が過ごした灰色の青春――誰とも関わらず、斜に構えていたあの日々――が、彼らの物語を通して、上書き保存されていくような感覚だった。
 僕にはこんな青春はなかった。でも、画面の向こうには確かにあった。
 それが、どうしようもなく美しくて、希望に見えた。

「……映画、やるんだよな」

 涙を拭い、僕はスマホを手に取った。
 衝動だった。
 この感動を、ただ消費して終わらせたくない。
 未来に楽しみを作りたい。
 検索窓に「僕の心のヤバイやつ 劇場版 前売り券」と打ち込む。
 ムビチケのサイトが出てくる。
 購入ボタンを押す。クレジットカード情報を入力する(親名義の家族カードではない、昔作った自分名義のデビットカードだ。残高はまだある)。
 決済完了。

 画面に表示された『購入番号』の文字。
 僕は、未来の約束を手に入れた。
 映画が公開される数ヶ月後まで、僕は生きている理由ができた。

 Safariを閉じようとして、ふと指が止まった。
 ホーム画面に戻る。
 そこには、今朝見た夢の残滓のように、黄色いアプリのアイコンがあった。
 『タウンワーク』アプリ。
 昨日、紙の冊子を見てダウンロードしておいたものだ。

 夢を思い出す。
 コンビニのレジに立つ自分。
 赤ペンで丸をつけたあの求人。

「……正夢ってやつか?」

 いや、まだ正夢じゃない。
 僕が行動しなければ、あれはただの妄想だ。
 でも、今の僕には、さっき手に入れた「映画のチケット」という武器がある。
 映画を見に行くには金がいる。電車賃もいる。ポップコーンも食べたいかもしれない。
 そのためには金が必要だ。
 論理は完璧だ。

 僕は震える指でタウンワークのアプリを開いた。
 履歴から、昨日チェックした求人を探す。
 あった。
 『セブンイレブン ○○駅前店 夕勤スタッフ募集 週2日~OK』。
 画面の中のその文字は、昨日の夜よりも現実味を帯びて見えた。

 『応募画面へ進む』
 オレンジ色のボタン。
 タップする。
 入力フォームが表示される。
 氏名、フリガナ、生年月日、電話番号、メールアドレス。
 指が動く。ゲームのコマンド入力よりも慎重に、一文字ずつ打ち込んでいく。
 現在の職業欄。選択肢の中から『無職』を選ぶ時の、胸の軋み。
 志望動機。「家が近いから」。いや、ここは「コツコツ作業するのが好きだから」にしておこう。

 すべての項目を埋めた。
 最後に残ったのは、画面最下部の『同意して応募する』というボタンだ。

 指が止まる。
 心臓が早鐘を打つ。
 ドクン、ドクン、ドクン。
 このボタンを押せば、もう後戻りはできない。
 店から電話がかかってくる。面接に行かなければならない。履歴書を書かなければならない。人と話さなければならない。
 怖い。
 逃げたい。
 やっぱりやめようか。映画のチケット代くらいなら、不用品を売ればなんとかなるんじゃないか?

 死刑台への階段を登る死刑囚の気分だった。
 ボタンを押すその一瞬が、電気椅子へのスイッチのように思えた。
 もし採用されなかったら? もし採用されて、仕事ができなくて怒られたら?
 ネガティブなシミュレーションが脳内を駆け巡る。

 でも。
 市川京太郎は変わった。
 夢の中の僕は、普通に働いていた。
 映画のチケットは、もう買ってしまった。

「……ええい、ままよ!」

 時代劇のような台詞と共に、僕は勢いよく親指を振り下ろした。

 タップ。

 一瞬の読み込み画面。
 そして。

『ご応募ありがとうございました。担当者からの連絡をお待ちください』

 完了画面が表示された。
 
「……あ」

 終わった。
 いや、始まったのか。
 全身の力が抜けた。支えを失った操り人形のように、その場に崩れ落ちる(元から寝転がっているが、感覚的に)。
 ドミノ倒しのように、張り詰めていた緊張が一気に崩壊し、後には奇妙な虚脱感と、清々しさが残った。

 あんなに怖かったのに。
 あんなに躊躇っていたのに。
 押してしまえば、ただの電子信号のやり取りだ。嘘のように呆気ない。
 僕は、応募したのだ。三年間の沈黙を破り、社会に対して「ここにいるぞ」と手を挙げたのだ。

「……あれ? これって」

 スマホの画面を見つめながら、僕は呟いた。
 
「夢が、現実になってるじゃん」

 今朝見た夢。コンビニで働く自分。
 あれは予知夢だったのか?
 いや違う。僕が自分で、夢を現実に引き寄せたのだ。
 「勇気」なんて大層なものじゃないかもしれない。深夜のテンションと、アニメの感動と、ほんの少しのヤケクソが混ざり合った結果だ。
 それでも、僕は一歩を踏み出した。

 安堵感が潮のように満ちてくる。
 もう、これ以上今日やるべきことはない。
 ニートの1日1ターン制。今日のターンは、あまりにも大きな一手を指してしまった。
 心地よい疲労感が瞼を重くする。
 あれだけ眠れなかったのが嘘のように、睡魔が近づいてくるのが分かった。

 スマホを枕元に置く。
 次にこの画面が光る時は、知らない番号からの着信かもしれない。
 その時はその時だ。
 僕は目を閉じた。今度こそ、泥のように、あるいは赤子のように、深く眠れる気がした。

 怠惰なニート、三上悟の正月は、こうして終わりを告げた。
 夢が現実になる音が、静かに響いていた。
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