灰色の街灯り ギターを抱えて シリーズ

新雪小太郎

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第九話 語り部シェリー

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空気で。
わたしは思った。
ああ、この人は
勝とうとしてへん。
守ろうともしてへん。
ただ、
ここに立つ理由を、
手放してへんだけなんや。
それで、
ほどけた。
恐怖がやなくて、
時間が。
さらわれる前と、
さらわれたあとが、
一本につながった。
風が吹いて、
花が揺れた。
リンドウ。
あんな場所に咲く花やないのに、
確かにそこにあった。
わたしは、
あの花を見て思った。
生き残るって、
逃げ切ることやない。
揺れても、立ち直ることや。
だから今、
わたしはここで話してる。
さらわれた話やない。
助けられた話でもない。
わたしが、
わたしの時間を
取り戻した話。
語り終えたあと、
わたしは小太郎を見る。


あの人は、
うなずかへん。
評価もしない。
ただ、
ちゃんと聞いてる。
それでええ。
語りはな、
拍手のためにあるんやない。
「ここにおる」って
言うためにある。
風はもう吹いてへん。
せやけど、
リンドウは、
まだ、わたしの中で揺れてる。
次に語るとき、
わたしはもう
震えへんと思う。
震えても、
声は消えへん。
それを、
今日、知ったから。



その時、突然、雷がゴロゴロと鳴り出す。
次にシェリーが話そうとした、その瞬間――
ピカッと、世界が白く裂けた。
一拍遅れて、
ゴロゴロゴロ……
重たい音が、空の奥から転がってくる。
シェリーは、反射的に数え始めていた。
(いち……に……さん……)
雷が光ってから、
音が届くまでの、この短い空白。
空気中を音が走ってくる速度は、
秒速およそ340メートル。
(……よん)
「だいたい、
1秒で340メートル」
シェリーは、
誰に教わったわけでもない知識を、
確かめるように口に出す。
「光は一瞬で届くけど、
音は、
ちゃんと距離を歩いてくる」
老子小太郎は、
その言葉を聞いて、
ふっと息を吐く。
雷は、
遠くで起きた出来事や。
でも、
音は、
必ず“ここ”まで来る。
(……ご、ろく)
ゴロゴロという音が、
胸の奥に触れた瞬間、
シェリーは数えるのをやめた。
「なあ、小太郎」
声は落ち着いている。
「語りも、
これと同じやな」
空を見上げて、続ける。
「出来事は、
一瞬で起こる。
でも、
意味が届くのは、
ちょっと遅れる」
雷鳴が、
低く、長く尾を引く。
「その遅れの間に、
人は考える。
数える。
立ち止まる」
シェリーは、
胸に手を当てる。
「せやから、
語りは必要なんやと思う。
音みたいに、
ちゃんと時間をかけて届くから」
老子小太郎は、
うなずかない。
ただ、
聞いている。
雷は、
もう一度だけ鳴って、
少しずつ遠ざかっていく。
シェリーは、
空と大地の距離を、
もう数えへん。
もう分かっているからや。


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