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第十一話 懐かしい声は
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雷の余韻が、まだ空に残っている。
雨は降らへん。
せやけど、空気だけが重くなった。
そのときや。
影が、動いた。
光のない方向から、
濃すぎる闇が、
ゆっくりとこちらへにじんでくる。
人の形に似ている。
せやけど、人やない。
距離の詰め方が、
生き物のそれやなかった。
シェリーは、
言葉を止める。
数を数える癖が、
また戻ってくる。
(……近い)
老子小太郎は、
前に出えへん。
後ろにも下がらへん。
語り部の立ち位置に、
ぴたりと立つ。
影は、
雷鳴の残り香を踏みながら、
音もなく近づいてくる。
ギターの弦が、
風もないのに、
かすかに震えた。
「……誰や」
小太郎の声は低い。
問いであって、
挑発ではない。
返事はない。
代わりに、
影の輪郭が、
ほんの一瞬だけ歪む。
シェリーは気づく。
この影、
光を遮ってるんやない。
光を、
吸うている。
雷が、
もう一度だけ、
遠くで光る。
その一瞬、
影の中に、
見てはいけないものが映る。
過去か。
後悔か。
語られへんまま、
置き去りにされた声。
シェリーの喉が鳴る。
「……あれ、
話を聞きに来とる」
老子小太郎は、
初めて、
はっきりとうなずいた。
「せやな。
聞かれへんかった話や」
影は、
あと三歩の距離で、
止まる。
雷は鳴らへん。
風も吹かへん。
この沈黙は、
嵐の前やない。
告白の前や。
老子小太郎は、
ゆっくりと、
ギターケースに手をかける。
武器としてやない。
蓋を開ける準備として。
語り部は知っている。
最も危険なんは、
刃物を持った悪党やない。
語られへんまま、
溜まり続けた影や。
影が、
口を開く――
その直前で、
世界は、息を止めた。
「……久しぶりやなあ」
影の中から、
優しい、そして懐かしい声が滲み出た。
怒りもない。
命令もない。
ただ、時間を跨いできた声やった。
それを聞いた瞬間、
老子小太郎の胸の奥で、
何かが静かに崩れる。
「……親父」
影は、一歩だけ前に出る。
相変わらず輪郭は曖昧や。
せやけど、
声だけは、はっきりしている。
「大きなったな。
声が、地面につくようになった」
雷はもう鳴らへん。
風も止まっている。
世界が、
この再会のために場所を空けたみたいやった。
シェリーは、
一歩引く。
語り手としてやない。
家族の沈黙を尊重する距離や。
小太郎は、
すぐには返事をせえへん。
語り部は、
この瞬間だけは、
言葉を選ばれへんことを知っている。
「……なんで今や」
絞り出すような声。
影――父は、
少しだけ笑った気配を見せる。
「今しか、
聞いてもらえん気がしてな」
影の中で、
時間がうねる。
「おまえは、
人の話を集めすぎた。
せやから、
自分の話が、影になった」
小太郎の喉が鳴る。
「置いていったやろ」
低い声。
責めるでも、
許すでもない。
父の声は、
逃げへん。
「置いていった。
せやけどな、
忘れたことは、一度もない」
その言葉は、
言い訳でも、
赦しを乞う声でもなかった。
ただの事実や。
「父親いうんはな、
子どもが歩き出したあと、
影に回る役なんかもしれへん」
影が、
少しだけ薄くなる。
「前に出たら、
進路を塞ぐ。
消えたら、
背中を見失う」
小太郎は、
目を閉じる。
極楽鳥。
巨大な彫像。
灰色の街。
雷の時間差。
全部、
この声に繋がっていた気がした。
「……語らんかったな」
小太郎が言う。
「せやな」
父は、
否定せえへん。
「せやから今日は、
聞きに来た」
影は、
もう迫ってこない。
「おまえの語りを、
最後まで」
沈黙が落ちる。
それは、
重たい沈黙やない。
帰ってきた沈黙や。
シェリーが、
そっと口を開く。
「……次は、
誰が語る?」
父の影は、
静かに答える。
「決まっとるやろ」
「まだ語られてへん人や」
その言葉を最後に、
影は、夜に溶けていく。
残ったのは、
父の声の余韻と、
小太郎の中に生まれた、
新しい空白。
老子小太郎は、
ギターを抱え直す。
語り部は知っている。
最も深い物語は、
家族の中に、
未完のまま眠っていることを。
そして――
それを語る番は、
ようやく、
回ってきたばかりや。
雨は降らへん。
せやけど、空気だけが重くなった。
そのときや。
影が、動いた。
光のない方向から、
濃すぎる闇が、
ゆっくりとこちらへにじんでくる。
人の形に似ている。
せやけど、人やない。
距離の詰め方が、
生き物のそれやなかった。
シェリーは、
言葉を止める。
数を数える癖が、
また戻ってくる。
(……近い)
老子小太郎は、
前に出えへん。
後ろにも下がらへん。
語り部の立ち位置に、
ぴたりと立つ。
影は、
雷鳴の残り香を踏みながら、
音もなく近づいてくる。
ギターの弦が、
風もないのに、
かすかに震えた。
「……誰や」
小太郎の声は低い。
問いであって、
挑発ではない。
返事はない。
代わりに、
影の輪郭が、
ほんの一瞬だけ歪む。
シェリーは気づく。
この影、
光を遮ってるんやない。
光を、
吸うている。
雷が、
もう一度だけ、
遠くで光る。
その一瞬、
影の中に、
見てはいけないものが映る。
過去か。
後悔か。
語られへんまま、
置き去りにされた声。
シェリーの喉が鳴る。
「……あれ、
話を聞きに来とる」
老子小太郎は、
初めて、
はっきりとうなずいた。
「せやな。
聞かれへんかった話や」
影は、
あと三歩の距離で、
止まる。
雷は鳴らへん。
風も吹かへん。
この沈黙は、
嵐の前やない。
告白の前や。
老子小太郎は、
ゆっくりと、
ギターケースに手をかける。
武器としてやない。
蓋を開ける準備として。
語り部は知っている。
最も危険なんは、
刃物を持った悪党やない。
語られへんまま、
溜まり続けた影や。
影が、
口を開く――
その直前で、
世界は、息を止めた。
「……久しぶりやなあ」
影の中から、
優しい、そして懐かしい声が滲み出た。
怒りもない。
命令もない。
ただ、時間を跨いできた声やった。
それを聞いた瞬間、
老子小太郎の胸の奥で、
何かが静かに崩れる。
「……親父」
影は、一歩だけ前に出る。
相変わらず輪郭は曖昧や。
せやけど、
声だけは、はっきりしている。
「大きなったな。
声が、地面につくようになった」
雷はもう鳴らへん。
風も止まっている。
世界が、
この再会のために場所を空けたみたいやった。
シェリーは、
一歩引く。
語り手としてやない。
家族の沈黙を尊重する距離や。
小太郎は、
すぐには返事をせえへん。
語り部は、
この瞬間だけは、
言葉を選ばれへんことを知っている。
「……なんで今や」
絞り出すような声。
影――父は、
少しだけ笑った気配を見せる。
「今しか、
聞いてもらえん気がしてな」
影の中で、
時間がうねる。
「おまえは、
人の話を集めすぎた。
せやから、
自分の話が、影になった」
小太郎の喉が鳴る。
「置いていったやろ」
低い声。
責めるでも、
許すでもない。
父の声は、
逃げへん。
「置いていった。
せやけどな、
忘れたことは、一度もない」
その言葉は、
言い訳でも、
赦しを乞う声でもなかった。
ただの事実や。
「父親いうんはな、
子どもが歩き出したあと、
影に回る役なんかもしれへん」
影が、
少しだけ薄くなる。
「前に出たら、
進路を塞ぐ。
消えたら、
背中を見失う」
小太郎は、
目を閉じる。
極楽鳥。
巨大な彫像。
灰色の街。
雷の時間差。
全部、
この声に繋がっていた気がした。
「……語らんかったな」
小太郎が言う。
「せやな」
父は、
否定せえへん。
「せやから今日は、
聞きに来た」
影は、
もう迫ってこない。
「おまえの語りを、
最後まで」
沈黙が落ちる。
それは、
重たい沈黙やない。
帰ってきた沈黙や。
シェリーが、
そっと口を開く。
「……次は、
誰が語る?」
父の影は、
静かに答える。
「決まっとるやろ」
「まだ語られてへん人や」
その言葉を最後に、
影は、夜に溶けていく。
残ったのは、
父の声の余韻と、
小太郎の中に生まれた、
新しい空白。
老子小太郎は、
ギターを抱え直す。
語り部は知っている。
最も深い物語は、
家族の中に、
未完のまま眠っていることを。
そして――
それを語る番は、
ようやく、
回ってきたばかりや。
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