灰色の街灯り ギターを抱えて シリーズ

新雪小太郎

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第十二話 語り部

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老子小太郎は、ギターを膝に置いたまま、弦には触れへん。
音は、今日は要らん。
「……わしはな」
夜の空気に、声を置く。
「子どものころ、
よう迷子になった」
シェリーは、視線を落とす。
親父は、黙ったまま聞いている。
「手、離したら、
すぐどっか行ってまう。
景色に、音に、
人の話に引っ張られて」
小太郎は、少しだけ笑う。
「迷子やのに、
怖くなかった。
むしろ、
見つからんほうが
ええと思っとった」
親父の影が、
わずかに揺れる。
「誰かの声が聞こえたら、
そっちへ行ってまう。
名前呼ばれても、
振り返らんこともあった」
そこで、
一拍、間を置く。
「……せやから、
あんたは困っとったやろ」
親父は、
しばらく沈黙してから、
低く語り出す。
「困っとったな」
声は、
昔と同じ調子や。
「市場でな、
おまえ、
魚売りのおっさんの話を、
じーっと聞いとった」
シェリーは、
その情景を想像している。
「氷の上の魚より、
おっさんの声のほうを見てな」
親父は、
少し笑う。
「呼んでも来えへん。
叱っても来えへん。
せやけどな……」
影が、
ほんの少し、前に出る。
「おっさんが話し終わった瞬間、
『ありがとう』言うて、
ちゃんと戻ってきよった」
小太郎の喉が鳴る。
「……覚えとる」
「覚えとるやろ」
親父は、
続ける。
「おまえはな、
話が終わるまで、
その場を去らん子やった」
風が、
ゆっくり吹く。
「迷子やなくて、
聞き手になっとったんや」
小太郎は、
目を閉じる。
「せやけど、
そのうち、
誰も迎えに来んようになった」
言葉は、
責めてへん。
「そのとき初めて、
迷子が、
仕事になった」

親父は、
うなずく気配だけ見せる。
「すまんかった」
短い言葉。
言い訳はない。
シェリーが、
そっと言う。
「……でも、
その時間があったから、
今の小太郎がおる」
小太郎は、
ゆっくり顔を上げる。
「せやな」
父と子の間に、
過去が横たわっている。
せやけど今、
それは壁やなく、
橋になりつつあった。
親父は、
最後にもう一つだけ、
昔話を置く。
「夜な、
寝る前に言うてきよったな」
「『今日、誰の話聞いたん?』って」
小太郎は、
かすかに笑う。
「……あれ、
一日の終わりの確認やった」
親父の声は、
少し震えた。
「せやから分かる。
おまえは今も、
ちゃんと生きとる」
沈黙が、
三人を包む。
それは、
失われた時間を嘆く沈黙やない。
取り戻された時間が、
静かに腰を下ろす沈黙や。
語りは、
ようやく、
家に帰ってきた。



しばらく、誰もしゃべらへん。
南インドの夜は、
暑さよりも先に、
音を減らす。
虫の声も、
遠くの人の気配も、
全部、薄い布で包まれたみたいに、
丸うなる。
老子小太郎は、
ギターの木目を指でなぞる。
「……親父」
呼び方は、昔のままや。
「わし、
ずっと思とった」
言葉を、
急がせへん。
「置いていかれたんやなくて、
探す役を渡されたんやって」
親父は、
すぐには答えへん。
影の輪郭が、
少しだけ揺れる。
「……賢い言い方やな」
かすかな笑い。
「でもな、
それは、
後からついた意味や」
小太郎は、
うなずく。
「せやな。
子どもには、
そないな整理、できへん」
シェリーが、
二人の間にある空気を、
そっと撫でるように言う。
「……でも、
今はもう、
言葉にしてもええ時間やと思う」
親父は、
夜を見上げる。
雲が、
ゆっくり流れている。
「わしはな、
強い父親やなかった」
それだけを、
まず言う。
「おまえを守る方法が、
分からんかった」



小太郎は、
何も言わん。
それが、
一番の返事や。
「せやから、
前に立つ代わりに、
影に回った」
「……卑怯やな」
小太郎の声は、
責めてへん。
「せや」
親父は、
否定せえへん。
「せやけど、
影から見とった」
その一言で、
空気が、少し緩む。
シェリーは、
胸の奥で、
何かがほどけるのを感じる。
語りって、
真実を全部言うことやない。
黙ってきた理由を、
そっと置くことなんや。
老子小太郎は、
小さく息を吐く。
「……もうええ」
それは、
許しでも、
決着でもない。
ただ、
今夜の終わりを
受け入れる言葉や。
遠くで、
風が木を揺らす。
リンドウは、
闇の中で、
静かに立っている。
語られた過去は、
消えへん。
せやけど、
重さは変わる。
三人は、
同じ夜を見ていた。
もう、
急ぐ話はない。

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