ケダモノと恋するクオリア

藤原いつか

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本能と罪悪の色

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 ――声が、する。
 苦しそうな、先生の。

 先生の部屋の木製の扉にそっと手をついて耳を澄ませる。
 普段ならきっと、室内に入った時点ですぐに気付かれていただろう。だけど生憎こちらに気付いた様子はない。
 ただ先生の荒い息遣いと呻き声だけが、冷たく固い扉越しに先生の存在を伝えていた。

 ごくりと唾を呑み込んで、それから声を振り絞る。
 
「……先生……?」

 思わず声が震えてしまった。
 こわいからじゃない。
 微かに湧く罪悪感と、得体の知れない緊張と昂揚。
 扉の向こうの荒い吐息が息を呑み、一瞬の沈黙に包まれる。

 怒られて拒絶される前にわたしは続けた。

「先生、入るね」

 ドアノブに手をかけて、ゆっくりと押し開く。
 先生の部屋に鍵はない。鍵があるのはわたしの部屋にだけ。

「……ルー、ナ……? どうして、ここに……」

 わたしよりも震えていたその言葉は、真っ暗闇に消え入るように零れ落ちた。

 明かりは消えていて、カーテンの隙間からわずかに差し込む月明かりだけが暗い部屋に赤い光の線をひいていた。
 まるで立ち入り禁止の警告線みたいに。

 暗闇の向こうからでも射るように突き刺さる強い視線。その色がいつもとまったく違っていた。
 わずかに肌が粟立つ。部屋の境界で思わず足が止まり動けなくなる。ただ心臓だけが鼓動を上げていた。

 先生の部屋には何度か入ったことはあるけれど、昼間だけ。昼と夜ではその印象も大きく違う。
 部屋の暗闇全部がわたしという存在を拒絶していた。その最たるは先生だけれど。
 おそらく制御できない魔力が滲み出ているのか、ひどく重たい空気だった。

 少しずつ慣れてくる視界で見つけた先生は、奥のベッドの上。
 伏せていたであろう身体を僅かに持ち上げこちらを確認した後、それから微動だにしない。
 その姿はわたしの知る先生の姿とは違っていて、思わず息を呑む。

 そして瞬間的に理解した。
 これが先生の本当の姿だって。
 ずっと隠していた本当の。

「……ルーナ」

 くしゃりと、先生が。まるで子どものように表情かおを歪めた。
 ひかれるようにわたしは室内へと足を踏み入れる。
 先生が思わずベッドの上で後ずさり、だけどすぐに壁に行き当たり鈍い音をたてた。
 警告も境界もはじめから無かった。赤い線を踏みつけて進む。

 いつもその目元にある青銅色のフレームの眼鏡が、今は冷たい床に投げ出されていた。いつもの先生だったら絶対にこんな事をしない。
 暴走する欲に苦しんで暴れ回ったあとなのかもしれない。僅かに血の匂いがして罪悪感に胸が焦がれる。

 長い長い髪がシーツの波間を埋めて、時折その長い髪を編むのがわたしの唯一できることだった。
 家に居る時だけだったけれど、自分にも役割があるというのは嬉しかった。役立たずだったわたしの、唯一の。

 今なら他にもできることがある。先生を苦しめるその欲を、わたしなら。わたしだけが。
 ――その原因は他ならぬ自分なのだけれど。

「先生」

 わたしはそっと、ベッドに膝をついて乗り上げる。
 ぎしりと鳴ったその音に、先生は苦しそうに顔を歪めたまま頭を振って拒絶を示す。

 ぺたんと伏せられた大きなケモノの耳は、いつもとは違う毛の色。髪と同じ。
 ――銀色だ。
 暗くてもなおその美しさに圧倒される。
 先生に混じるケモノの血を思い出す。狼の中でも希少種の、銀色狼の血が先生の起源だ。

 間近で見た先生の、いつも身に纏っているローブや神官の正装服が乱れていた。
 清廉潔白の証明みたいにいつもきっちり着こまれていたものは、今はその欠片もない。
 その背部から覗く尾も耳と同じ銀色だった。
 その瞳は今夜の月と同じ色。

 先生の、本当の色。これが――

「……先生の、ほんとうの、姿……?」

 噛み締めた歯の隙間から荒い息。その喉の奥から唸りにも声が小さく漏れた。
 興奮しているのか、怯えているのか。わたしには分からない。
 だけど今ここに居るわたしの気持ちを、先生なら分かるはずだ。

 わたしは怯えてもいないし、退く気もないってこと。

 わたしの問いに涙の滲む表情で先生は応えた。まっすぐわたしと見つめあったまま。

「……そうです、ルーナ……満月の夜は、ケモノの本性に体ごとひっぱられてしまう……僕はそれを、制御できない……」

 哀しそうな、だけど既にもうどこか諦めにも似た声音。
 薄く開いたままの口元が閉じきらず、熱い吐息と熱が絶えず零れているような。
 その欲が暗い部屋いっぱいに満ちていく。そうしてここに居るふたりを呑み込んでいく。
 シーツを握りしめる手が白くかたく震えていた。
 
「僕の本性は、この通り欲を抑えることすら叶わない、愚かで醜いケダモノなんです」

 まるで自分に言い聞かせるように、はっきりと。その声はもう震えてはいなかった。
 部屋の気配がゆらりと揺らいで、先生がなんらかの魔法を発動させた事がわかった。
 わずかにその体が淡く光っている。魔力の余韻を残す様を見るのは初めてで、それだけ先生に余裕がない事が伺えた。

 一瞬だけ身構えるも、わたしへの作用は感じられない。先生が本気を出したらすぐにわたしなんて部屋から追い出せる。だけど先生がわたしに魔法を使うことは絶対にない。
 それが拘束の魔法だと気付いたのは、先生の手首とベッドの柱とを繋ぐ鎖が見えたから。
 先生は自らを拘束する事でわたしを守ろうとしているのだ。限界が近いのかもしれない。

「ルーナ、あなたには……あなたにだけは、見られたくなかった」

 絶望に暮れる先生は、それ以上わたしの方を見ようとすらしない。
 ただ必死に目を背けてベッドの端で蹲っている。
 自分より大きな体の男の人が、まるで小さな子どものように。

「お願いです、ルーナ。離れて、そして、近づかないで……ひとりにしてください、あなたを傷つける前に」

 先生が縋るのも懸けるのも、もはやわたしの心だけなのだ。

「……でも、わたしは」

 答えた声が、おそらく先生の想像とは違う場所から聞こえたからであろう、耳をぴんと立て顔を上げた先生はいつの間にか眼前まで迫っていたわたしにその目を見開く。
 咄嗟に先生が身をひくも、そこに逃げ場はない。

 連なる鎖の警告音のような響きに、ようやく先生も気付いたのだろう。
 今襲われているのはどちらかなのかということに。傷つけようとしているのはわたしなのに。

 先生は確かに愚かかもしれない。
 ここまできてまだわたしを、聞き分けの良い生徒みたいに思っているのかな。
 いつも困らせてばかりだったけど、先生の前ではずっと良い子はいられなかったけれど。

「傷つくなら先生が良い」

 ――この先、きっと。
 どんなに傷つくことがあっても。

 手を伸ばしたのはわたし。
 求めたて選んで足掻いてそれでも欲しかったのは。

「先生がいい」

 発情も性成熟もなくても、わたしが今望んでいるのはひとつだけ。
 この世界の雌みたいに発情を誘発するフェロモンを出せるわけではないけれど、きっとそういう匂いがしているはず。

「……ルーナ」

 泣きそうにまた、顔を歪めて。
 今やっと、わたしを。赤い本能の色にわたしを映す。
 はぁはぁと、先生の荒い呼吸が部屋を再び埋めていく。

 わたしという存在に先生が掻き乱されていく様に気持ちが昂揚した。
 獲物を追い詰めて、ケダモノはどっちだろう。
 やめてと言われてもまるで退く気のないわたしこそ、自分の欲に駆られたケダモノだ。

 そっと伸ばした手が先生の頬に触れる。
 瞬間ぴくりと先生の体が小さく撥ねて、それでも目を逸らすことはもうしなかった。

 その身から溢れ出していた狂気にも似た気配が瞬く間になりを潜め、散らばっていた感情がただしい場所に収まると、残るはたったひとつになる。

 無言で先生がわたしの手に自分の手の平を重ねた。まだどこか迷いのあるそれは、離そうとするものなのか、押し付けられたものなのか、わからない。
 じゃらりと鳴る鎖の音が未だ残る先生の理性を伝えていた。

 魔法を使えないわたしにこの鎖は断ち切れない。
 先生の意志はまだそれを望んでいない。
 それでも良い。ぜんぜんいい。

 だから代わりにキスをした。そっとはじめは触れるだけのもの。
 大きく見開かれるその瞳に笑って、先生の気持ちを、言葉を聞く前に繰り返す。

 何度も何度も、触れる度に自分の身体を寄せて、押し付けて、最後はぴったりとその境界までなくなるように。

 呼吸の為に少しだけ離れた隙間を惜しんだのは、先生のほう。
 ぐっといつの間にか腰にまわっていた手に力が篭り、引き寄せられてようやく。

 先生が大きく口を開けて、その罪悪を呑み込んだ。


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