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最終章
きみの記憶
しおりを挟む「…セレナの様子は…?」
今しがた訪れた部屋の扉を閉めるのと同時に、口にしたのはイリオスだった。
夜伽の為に用意されたこの部屋には四人の王子が揃っている。皆深刻な面持ちでイリオスを迎えた。
「…変化はありません…今のところは」
力なく答えたのはゼノスだ。ベッドから僅かに距離をとった場所、セレナの姿が見える場所にひいた椅子に腰かけ俯いたまま。膝の上で固く両手を合わせて握りしめている。
アレスは来客用のソファに腰かけ剣を脇に立てかけたままじっと何かを考え込んでいだ。
ベッドから一番遠いテーブルで項垂れるディアナスにかける言葉は見つからない。
それぞれ弟たちを見つめながら、イリオスはそっとベッドに視線を向けた。
部屋の中央のベッドに横たわっているセレナは目を覚まさずにそうして三日が経とうとしている。
最後の呪いを継いでから、彼女は殆ど目を覚まさずにずっと眠り続けていた。
正確には一度だけ、ふと目を醒ました瞬間があった。僅か数時間前のことだ。
その時傍についていたのはディアナスで、慌てて手を握り何度も呼びかけた。
だけどセレナは焦点の定まらない目で目の前のディアナスを見つめ、一言だけ零したかと思うとすぐにまた瞼を閉じて眠りに落ちた。
報せを受けてゼノスとアレスが部屋に来た時にはディアナスは泣き崩れていた。
セレナの零したその言葉によって絶望に落とされたディアナスは未だその淵から抜け出せずに居る。
それでもセレナの身を案じるが故に部屋を出ることはしないしできない。
セレナの異変を認めて以来この部屋には誰かしらが残るようにはしていたけれど、四人が集まるのはそれほどの異常事態が起こったからだ。
「…ルミナス殿は…」
「…継承の儀式の最中だ。言伝は飛ばしたけれど、気付くのにもまだ時間がかかると思う」
水面下では今、国王陛下とヘルメス・ノヴァ、そして神官長であるルミナスによって王位継承の為の儀式が執り行われている。
占いによって決められた日取りで三日間、城の地下の神殿に閉じこもり行われる神聖な儀式だ。王位継承の為に欠かせないもの。
神殿には結界も充分に張られていてそう容易く邪魔できない。その場所を知っているのもこの中ではイリオスだけだろう。
二日前から始められたその儀式はちょうどセレナが眠りについたのと同じ頃だった。
夜明けにはすべての儀式が完了し、晴れて正統なる王位はその血に継がれる。ヘルメス・ノヴァが国王の血となる。
「…眠るというのは、一種の自己防衛でもあります。おそらく何かを抑えこんでいるのだとは思うのですが…」
どこか自分にも言い聞かせるように呟いたのはゼノスだ。その何かとはひとつしかない。ゼノスが口に出さずとも誰もが無意識に思っていた。
王家の呪い。その呪いに潜んでいたもうひとつの魂が、セレナの身体の内ですべてを取り戻したのだ。
丸一日経っても目を覚まさないセレナをおかしいと一番はじめに気付いたのはゼノスだった。
ルミナスが儀式の為にセレナの傍を離れる為、ゼノスにその間の様子見の声がかかったのだ。その当時はルミナスもセレナの異変には気付いていなかった。
不審を募らせたゼノスがセレナを起こそうと何度も呼びかけ時には強引に体を揺すってみても全く何の反応も返さない。まるで魂の抜けた人形のように。
そんな悪い予感が意識を掠め思わず心臓の音を確認した。心臓は動いているし呼吸もしている。弱いけれど脈もあった。
それでもおかしい。この状況は。
そうしてゼノスが急ぎ兄弟たちを集めたその場で、イリオスの口からセレナの夜伽を受けたこと――セレナにすべての呪いが継がれたことを聞かされた。
おそらくそれが、セレナが目を覚まさない原因だろうという推測に至った。
誰もイリオスの夜伽の是非を責めることはしなかった。
それぞれが違った思いを抱えて彼女にそれを乞い、そして彼女がそれに応えたその結果が今でしかないと解っていたからだ。
彼女の身の内にはここに居る全員の呪いと欲がある。そしてここには居ないもうひとりのものも。
「…そのせいで、セレナはあんな事を言ったの…?」
ぽつりと呟いたのは、項垂れていた頭をようやく持ち上げたディアナスだった。
金色の僅かにくせのある前髪の隙間から覗く目元は泣き腫らして赤くなっている。
それでも青い瞳に宿る眼光だけは鋭く鈍く、憤りと哀しさを孕みゼノスを突き刺していた。
「ほんとうに、ボクを……セレナは忘れちゃったの……?!」
その悲痛な叫びにゼノスも思わず視線を逸らす。
静かな部屋に響いた泣き声はこの場に居る全員の心に黒い染みを作った。
一瞬だけ目を醒ましたセレナが零したのはたった一言だった。
ディアナスの顔を見つめ、その手を握られ、その声で呼びかけられながら。
ほんの僅かな逡巡の後、「誰?」と。
それだけ零してディアナスの手を握り返すことも名前を呼ぶこともせずまた瞼を伏せてしまった。
それが何を意味するのか、恐ろし過ぎて誰も言及できていなかった。
だけどもう目を逸らすことは不可能だろう。
それは最悪の事態より一歩手前。セレナの内側から彼女が消えていく予感を感じさせた。
「――まだ、そうと断言はできません」
扉の閉まる音と共に王子たちの不安に陰る静寂を破ったのは、凛と通る声だった。
しゃらしゃらとその装飾品が歩みに合わせて音を奏でる。純白を象るフードから零れる金色の髪が王子たちの視界を掠めた。
「…ルミナス殿…!」
思わず叫んで腰を上げたゼノスに、僅かに息をきらしたルミナスが頷いて応える。
アレスも思わず立ち上がり剣を握った。ディアナスがくしゃりとその顔を歪めて零れかけていた涙を必死に拭う。
それからルミナスは早足でセレナの眠るベッドへと歩み寄った。イリオスもその隣りに続く。
「…よく出てこれたね、ルミナス」
「今は最後の儀式の為の中継ぎの間でした。あまり長くは離れられません。城の気配が、特にこの部屋の気配が異常な気がして…少し抜けてきたのです。セレナは、いつから?」
「ちょうど君たちの儀式が始まったの同じ頃から。ずっと眠っている。一瞬だけ目を醒ました時、ディアナスを認識しなかった」
イリオスの説明にルミナスは分かり易く顔を歪めた。手に持っていた杖を壁に立てかけ身を屈めてセレナの様子を覗き込む。
それからそっとセレナに手を伸ばし夜着代わりのワンピースの胸元を開いた。胸元にあったはずの刻印がセレナの全身を覆っている。傍で様子を見守る王子たちの様子から彼らも一度はこの変異を確認済みなのだろう。
ルミナスは表情を更に歪めて開いた胸元を直し、眠るセレナからそっと距離をとった。
「…今までに、こんなに眠ることはあったんですか…?」
僅かに距離をとりながら後方でその様子を見守っていたゼノスがルミナスの後ろ姿に問いかける。
ルミナスは一瞬の間を置いて緩く首を振った。
「呪いを継いだ後に深く眠ることはありました。急激な眠気を制御できないことも。長くて一日、ですがその時の様子とはまるで違います…ただ眠っているだけのようには、思えません」
「…ではどう見える? ルミナス、君には」
イリオスが低く重たく先を促した。
躊躇いながらもルミナスは視線をセレナに向けて口を開く。
「繭のよう、ですね。今まで僅かながら漏れ出していた呪いの気配が、今は内に内にと篭って異様なほど沈黙しています。気配は感じるけれど、少しずつ変容していっているのかもしれません。彼女の内側で」
――変容。何かが彼女の内側から、彼女を壊している。
ルミナスの返答はそう思えてならなかった。
「…そちらの、様子は? ノヴァの継承の儀式は」
「…現状、滞りなく。最後はエレナ殿も立ち会う儀式がありますので彼女を迎えに行くところでした」
「…そう」
小さなやりとりにイリオスが息をついたその時だった。
どくんと大きく鳴る鼓動。
その気配に目を瞠りそれを感じた者たちが一斉にセレナの方に視線を向ける。
部屋に居るルミナス以外の全員。かつて呪われていた王子たちが、呪いから解放されても尚その気配に魂がひかれるのを感じた。
突然のことに誰もが思わず息を呑む。
ベッドに仰向けに横たわったままの、セレナの伏していた瞼が持ち上げられていた。
「…ッ、セレナ…?」
一番最初に駆け寄ったのはゼノスだった。その顔を覗き込むもそこにゼノスの姿は映らない。
ビリ、と空気を揺らす気配。ゼノスとイリオスが身構える。
その瞬後、セレナの絶叫が部屋に響き渡った。
「い、や……! ああぁ、あ…! 痛い、いや、嫌あああああああ……!」
その叫びは部屋の空気を大きく揺らし、聞く者の胸を抉る悲鳴だった。
「セレナ…?!」
「殿下たちは下がってください、結界を張り直します」
ルミナスが鋭く叫んでイリオス達をベッドから退かせる。掴んだ杖に呼応するように、部屋に張られていた結界が端から書き換わっていく気配を感じた。
セレナの悲鳴はまだ止まない。自分の身体をかき抱きながらベッドの上で体を曲げ蹲り、痛みと拒絶を訴えている。
思わずゼノスが一歩ベッドに近づくも、ルミナスとイリオスに制されて手を伸ばすことは叶わなかった。
「…おそらく拒絶反応です。一番はじめ…彼女がこの世界に来て初めて呪いを継いだ時も、彼女の身体は同じような反応をしていました」
結界を発動するもセレナの様子からあまり効力を見込めないことは一目瞭然だった。
ゼノスは意識の片隅で、そうだ彼女には効かないのだと、そんなことを思い出していた。
「な、なんとか…できないの…?!」
耐えかねたようにディアナスが泣き声でルミナスに縋る。
ルミナスはただ緩く首を振りながら、儀式の為の真っ白なローブを脱ぎ捨てどこからか取り出した箱をベッドの脇に広げた。見覚えのあるそれは、呪われた王子たちの専属医でもあった彼の薬術用の道具だと記憶している。
「…この呪いの苦痛に魔術も魔法も効かないのは殿下たちもご承知のはずです。一時的にでも効果が見られたのは、身体への投薬で苦痛を逸らせることだけです」
そうだ、自分たちは知っている。
呪いのもたらす苦痛に対処法はない。
ただ耐えるだけ。それしかできなかった。
そうしてこれまで生きてきた。
「…っ、なら、おれが使っていた、あの結界は…! セレナを襲う呪いがおれ達と同じものなら、苦痛の軽減が見込めるのでは…!」
かつてゼノスが苦痛を軽減する為にゼノスだけが使用を許されていた術の結界。ルミナスも知っているはずだ。“夜伽聖女”の体の一部、その欠片が呪いの苦痛に対する効力を発揮していたことを。
ああ、でも、セレナは――
「…“夜伽聖女”とは、呪いを…ひいてはその苦痛を継ぐ為の身体そのものです。ゼノス殿下が苦痛を軽減させていたあの術は、夜伽聖女の欠片に苦痛を一時的に移し誤魔化していたに過ぎないのです。ここにそれは、ありません」
「……そんな」
彼女の呪を移す先はない。彼女こそが夜伽聖女だからだ。
目の前で苦しむ彼女を見て何もできないというのか。
ゼノスの琥珀色の瞳がみるみる絶望に染まっていく。
それからルミナスが注射器を取り出して薬品を注入し、他の者と同様に顔を蒼くするアレスに視線を向けた。
「アレス殿下、手伝って頂けますか。これも長くは保ちませんが、鎮静剤を打ちます」
「……わかった」
悲痛な面持ちで自分の役割を悟ったアレスが重たい足取りでベッドへと近づく。
苦痛に暴れるセレナを抑えておけということだろう。この中では自分が一番適任だ。頭では解っていてもそれでも、心が拒んでいるかのようだった。
セレナの悲鳴と叫びは波のように間を置いては繰り返される。まるで発作だ。痛々しくて見ていられない。
ベッドの脇に剣を置き乗り上げてきたアレスにセレナははっとその目を見開いた。涙で暮れるそこにアレスが映る。
「…っ、だ、れ…! やめて、来ないで…わたしに触らないで…!」
セレナの、拒絶に。アレスは痛みを堪えるように顔を歪めて一度固く目を瞑った。
遠くでディアナスの啜り泣く声。ゼノスもそっと一粒だけ同じものを零した。イリオスは無言でまっすぐセレナを見つめている。決して目を逸らさないように。
その痛みはもはや、兄弟たち全員のものだった。
「助けて、嫌だ…! お父さん、お母さん…! おにいちゃん…! 痛い、痛いよ…ぅ、」
まるで幼い子どものようにセレナが泣いて縋っている。
セレナが求める存在はここには居ない。その手をとってやれる存在は、誰も。
まるで自分たちなど始めから、その心の内には居なかったかのように。
「…苦痛に記憶が混同しているのです。殿下たちを本当に忘れたわけでは、ないはずです」
慰めのようなルミナスの言葉はただ心の外側を滑るだけ。
アレスは唇を噛み締めてセレナの上に馬乗りになり、押し潰さないようにだけ気をつけながらセレナの見た目よりも強い抵抗と拒絶を身体ごとベッドに押さえつけた。
直に触れると伝わってくるセレナの痛みと恐怖と苦しみ。細い腕を押えつける自分の手が震える。
「ひ、う、こわい…! 助けて、誰か…!」
こんな風に泣き喚くセレナを、誰ひとり見たことはなかった。
彼女はいつも静かに涙を零す。それだけが記憶に残っている。
泣きたい時すらもセレナは心から感情を顕わにすることはなかったのだろう。自分たちにはその心を、殆ど見せてこなかったのだ。今になってその事実に気づく。
決して見せてこなかったそれは、隠してきたのその痛みと苦しみは自分たちが身勝手に与えたもの。
自分たちがそうして守られていたのだ。このひとりの少女に。
真実を知っていたのは――
ルミナスがセレナの手首をとった時、セレナが一層強く暴れた。押さえつけるアレスの手に力が篭るも力を入れ過ぎると折れてしまいそうで躊躇する。怯むその隙を逃さないとでもいうように、セレナは泣きながら叫び続けた。
「助けて、ノヴァ…! ど、こ…ノヴァ、ノヴァ……!」
その、言葉に。息を呑む気配がいくつも重なる。
殆ど無意識にアレスの腕に力が篭り、抵抗の弱まったセレナの手首をルミナスが更に押さえつける。手首の内側をさっと確認し細い針を打った。セレナはまだその名前を叫び続けている。
薬を打ったその痕に手早く処置を終えたルミナスが離れていくのを視界の端で確認して、悲鳴と共に固くするその身体をアレスが強く抱き締めた。それから痛みよりも恐怖で叫ぶセレナに無理やり口づけて悲鳴ごと呑み込む。
拒絶を示すように一層暴れられ唇に立てられて唇に血が滲んだ。それでもアレスは離さなかった。
やがて聞こえてきた嗚咽が小さくなりセレナが落ちていくように一時の眠りにつく。
そこでようやくアレスは体を離して力の抜けたセレナの体をそっとベッドに横たえた。
誰も彼も涙を零す王子たちを前に、ルミナスはただ静かに言葉を選ぶ。
その言葉で彼らの心が慰められることはないと知っていても、それでもそれがセレナにとっての事実だったから。
痛みと恐怖は一番鮮烈に体に残る記憶だ。その体の一番深い部分に彼は居た。
「…この苦痛と、共に居たのはノヴァでした。この世界に来てからずっと…離れるまで。セレナの孤独にも痛みにも寄り添って、傍に居たのは…ノヴァだったのです」
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