夜伽聖女と呪われた王子たち

藤原いつか

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最終章

青い果実

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 儀式の部屋――通称“秘密の庭”から続く薄暗い廊下を少し歩くと天井の高い広間に出た。イリオスの後に続いてエレナもそこに足を踏み入れる。靴の裏で感じる土草の感触におそるおそると怯みながら。

 広間は廊下同様薄暗くはあるが、扉がないのでいっそ開放感がある。何より先ほどの部屋もそうだが廊下もここも緑で溢れているのでまるで室内とは思えないのだ。かろうじて見える四方の壁がその現実味をもたせるけれど、室内に居ながら香る風にエレナはどこかほっと息をつく。山奥育ちのエレナにとって馴染んだその香りはどことなく懐かしい匂いがした。

 興味深そうにあたりを見回すエレナをイリオスは隅に置かれたベンチへを促す。エレナは大人しくそれに従った。

「…申し訳ない。君を巻き込んでしまった」

 エレナの隣りに僅かな距離を空けて腰を下ろしたイリオスが、先ほどと同じ台詞を述べる。
 どこか疲弊した様子が見てとれるその横顔。金色の綺麗な髪がさらりと目元に影を落としその藍色の瞳は翳っていた。

 エレナがイリオスとこうして会うのは久しぶりだ。これまで何度か公務のついでに挨拶を交わしたことはあるけれど、こうして面と向かって話すのはあの日以来。
 最近はどちらかといえば第三王子であり次期国王候補でもあるヘルメスと会う方が多かった。来たる自分たちの婚約の準備と調整の為に。

 あの日イリオスに奪われたエレナの声はまだ戻らない。
 周りには不慣れな環境での不調故と適当に誤魔化してここまできた。思いの外深く追求されることはなく皆遠巻きに案じるだけに留っている。
 原因は今隣りに居る人物なのだけれど、エレナはあえてそれを誰かに伝えることも彼に声を戻すよう訴えることもしてこなかった。彼に戻す気があるならとっくに戻しているだろうし、声が出ずともそこまで不便はなかったのだ。
 慣れれば存外快適だった。不必要な関わりを避けられたし余計な事も言わずに済んだ。筆談で簡単な意思疎通はできるし必要なことは侍女のナナリーが代弁してくれてそれですべて事足りた。言葉なんてそんなものだったのだとエレナは思う。

 ただあれ以来イリオスからの接触が一切ないということは、それが彼の自分の存在に対する答えなのだということは嫌でも感じていた。エレナもその事実を受け止めきれないほど子どもではない。

 自分はもうすぐ“国王”の妻になる予定だ。自分の気持ちを挟む余地など一切ないこの立場に揺るぎはなかった。

「……本当に。勝手だね」

 ぼそり、と。呟いたイリオスの言葉は不愉快そうに潜められ、そこに篭る怒気に思わずエレナは身を小さくする。それに気付いたイリオスが非礼を詫びるようにエレナに微笑んで目を細めた。

「すまない、君に対してじゃないんだ」

 こうして久しぶりに対峙すると、以前とはどこか異なり自分に対する態度が軟化しているようにも見えるから不思議だ。イリオスのこんな表情かおを見るのはエレナは初めてだった。いつもの仮面のような微笑みとはどこか違う。
 それなのにこの胸はもう必要以上にときめかないし期待しない。

 大事な話とはなんだろう。それがとにかく気にかかる。それから先ほどから自分の耳にも届いている聞いたことのある名前も。自分と似た響きの名を持つ少女を自分は一歩的ながら友人だと思っている。だけどそれを口にすることも再会を望むこともできずに自分はただ鳥籠の中に居ることしかできない。

 かつて自分を山奥の修道院まで迎えに来てくれたイリオスを、エレナは心底“物語の王子さま”のようだと心酔していた。あの日確かに自分の世界は色を変えた。自分にとっては運命の相手だと思っていた。
 だけど現実は違うのだ。彼が自分を迎えに来たのはただの義務に過ぎなかった。彼にはそれ以上も以下もない。

 彼に惹かれていたのは事実だった。彼の妻になれると信じて疑わなかった。彼の手をとったあの瞬間に、自分は恋に落ちていたのだろう。盲目的な幼い初恋だった。
 未消化なその想いが今でも胸に蟠るのはすべてエレナの一方通行に過ぎなかったからだろう。
 彼の心の内はまったく読めず明かされず、そうして結局自分は彼の妻になることも叶わなかった。
 いつもエレナは真実の一番遠い所に居る。
 
 こうして隣り同士で並ぶとその距離と温度差が浮き彫りになるようでエレナはぎゅっとドレスの裾を握る。それからイリオスが再び視線をエレナに向けた。

「――すまない、エレナ。最後くらいはきちんと、自分で責任をとらせるから」

 そう言ってどこか困ったように仕方なさそうにイリオスが静かに微笑み長い瞬きをした。エレナは意味もわからず首を傾げる。そして、次の瞬間。そこに居たのはイリオスではなかった。何故だかそれがはっきりとわかった。

「……!」
「――エレナ。君から奪ってしまったものを、返さなくてはね」

 その顔も姿も声音もイリオスだ。先ほどまでと何ひとつ変わらない。それなのに。
 今ここに居るのはイリオスではない。漠然とそれだけをエレナは理解した。

 目を丸くするエレナに“イリオス”は微笑み、そっと人差し指をエレナの唇に押し当てた。声を奪われた時と同じ仕草。その感触にびくりとエレナの身体が大きく揺れる。それをおかしそうに、申し訳なさそうに笑って。ふっと指先から何かが自分のなかへと流れ込む。じんわりと温かなそれはおそらく彼の魔力だろう。

「…声、出してみて。戻ったはずだよ」

 言われてエレナは喉元に手をあて思わずごくりと唾を呑む。今まではただ空気が滑るだけだったそこ熱の塊が触れるような感触がして、エレナは喉を震わせた。

「……っ、わ、私…」

 久しぶりの発声はひどく不安定で、掠れてくぐもって自分の声とは到底思えなかった。だけどそれは確かに自分の声。小さく咳払いをして喉を浅く息をする。声が、戻ったのだ。

「まだ当分喉は休ませていた方が良いかも。暫く使っていなかったからね」
「……私、を」

 事の原因でもあるくせに気遣わしげな“イリオス”の言葉など耳にはいらない。
 エレナは自然と自分からその距離を詰めていた。ぐっと身を乗り出すように体を寄せる。
 その顔が見たい。確かめたいことがある。喉など潰れてしまっても良い。何故だか本気でそう思った。
 あの時私が感じた運命の相手。

「私、を…迎えに、来てくれたのは…あなた…?」

 ――人里離れた山奥の修道院。そこでエレナは必要最低限の生活と僅かな自由を与えられひっそりと静かに育てられた。世間から隔絶さた小さなエレナの世界。そこに希望も未来もありはしなかった。
 はやく迎えに来てとそればかり思っていた。それがあの日に叶ったのだ。

「私を、あそこから…連れだしてくれたのは、あなた、だったのね」
 
 迎えに来てくれたから、見つけてくれたから。自分は今ここに居る。

 その瞳で自分を射抜いたまま涙を零すエレナに、イリオス――ただしくはブランシェスが困惑しながらも苦笑いを漏らす。
 もうここまで来たらエレナも立派な当事者だ。秘密を…自分の正体を明かす覚悟でイリオスと代わってもらった。きちんと自分で謝ろうと思って。だけど流石にこれは予想外の反応だった。

 エレナの言う通りだ。仮初の聖女に仕立て上げるべくエレナを山奥の閉ざされた修道院へ迎えに行ったのはイリオスではなくブランシェスだった。ただの興味本位。過去の栄光と因果に捕らわれているその血統のなれの果てを見てみたくてその役を代わってもらった。
 名も資質も不完全で未完全な“聖女エレナ”。彼女が一番騙しやすいと思った。

 それなのに、もう。彼女は以前の彼女のままではなかった。最期まで騙されてはくれないのか。

「…おかしな子だね。君はぼくに怒るべきだと思うけれど。もしくはぼくを問い質すとか」
「…っ、ずっと…、あなたに、お会いしたかった…」

 僅かにひきつるような痛々しい声で、エレナが泣きながらそう零した。胸元にすがりつき服を握りしめる小さな拳は震えている。その儚さに抱き締め返そうかを迷ったけれど、ブランシェスはそれをしなかった。これは自分の身体からだではないからだ。

「一応訊くけど、分かってる? この体はイリオスのものだけれど…ぼくはイリオスじゃないよ」

 そっと、その肩に手を置いてエレナを引き剥がす。見上げるエレナが涙に濡れる瞳でしっかりと頷いた。ブランシェスはこみ上げるもの悲しさを努めて内心に押し込める。
 
 人は変わりゆく生き物なのだろう。そのままでは居られない。生きている限り。
 ブランシェスはそれは今痛感して苦々しく笑うしかできなかった。自分には遠い夢物語のようだ。

「そう、なら…最期だし教えてあげる。ぼくはブランシェス。ブランシェス・カイン・フィラネテス。“カイン”の名を継いだ、“アベル”に仇なす存在ものだ」

 自分でも驚くくらいの冷静さで、エレナを見下ろすブランシェスの瞳が燃ゆる。
 エレナはただじっとそれを見つめていた。先ほどまで触れていた腕はこんなに近くに居るのに自分には届かない。手を伸ばすこともできやしない。

「だけどもうすぐぼくはいなくなる。最後に君に会えて良かった、エレナ。罪悪感だけ持っていくのは後味が悪い」
「……いなくなる、とは…?」
「うーん、勝手にどこまで話して良いか…時間もあまり無いし。…あれ、でも」

 ふと、ブランシェスの瞳が一瞬翳りを見せ視界を虚空に向けて逡巡し、それからその口元が引き締められる。
 悲痛そうなその面持ちに思わずエレナはその腕をきつく握りしめていた。また引き剥がされても何度でもそうするつもりで。

「…イル達は、まだ諦めていないみたいだ。…そう、“樹”を…」

 呟いて思いを馳せるようにその視線が虚空を彷徨った。エレナもそれを追ってみるも当然ながらエレナの目に彼の見ているものは見つからない。彼が一体何を見ているのか解らない。
 だから必死に縋り付く。この感情の名も分からないまま。

「あなたは、どこに…いるのですか…?」

 必死にそう吐き出すエレナの言葉に、もうひとりの“聖女”にも同じことを訊かれたなとブランシェスは思い出す。
 ふたりともはじめはあんなに無力で何も持たないただのひとりだったのに。女の子というのはおそろしい生き物だ。どうして自ら危険に足を踏み入れようとするのか。
 そして須らく男という生き物は、それに救われてしまうのだろう。

「…なら、エレナ。今度は君が、ぼくを迎えに来てくれる?」

 ――ただの、好奇心だった。彼女を迎えに行ったのは。彼女を“聖女”にしたのは。
 ままならぬ身を嘆くその声が遠い場所に居た自分にも聞こえた気がしたのだ。運命も奇跡も信じていないけれど、自分で会いにいくことはできると思った。例えこの手に残るものは何もなくても。

 だけどあの日差し出した手をとったあの熱だけは今も胸に残っている。
 誰かに必要とされる世界。誰もがそれを望んで愛を乞う。ひとりで生きることはできないから。
 誰もが探している。運命を分け合うたったひとりを。


「ぼくはそこで“聖女きみ”を待つ」


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「――ヘルメス…?」

 “秘密の庭”と呼ばれる儀式の間にライナスとルミナスが連れ立って戻ったのは僅か十分程の後だった。
 部屋はおそろしいほどの静寂に満ちている。イリオスもゼノスもエレナも居ない。
 部屋そこにはひとり、ノヴァだけが居た。
 
 その光景にルミナスが思わず瞳を伏せる。やはりノヴァの説得は無理だったのだと悟って。
 ルミナスは中立の立場であれどこれまで呪われた王子たちの複雑な生立ちとそして夜伽聖女であるセレナをずっと傍で見守ってきた。どうしても情は傾く。
 叶うならセレナの望みを叶えてやりたかった。今も彼女はまだ苦痛に泣き叫びノヴァの名を呼んでいるのだろうか。それでもノヴァの心は動かせなかったのか。

 足を止めるルミナスを置いて、部屋を出た時と寸分違わぬ様子で椅子に深く腰掛けたままのノヴァにライナスが歩み寄る。この場に残る判断をした次期王位継承者へ賛辞の意を滲ませて。

「賢明な判断だ、ヘルメス。イリオス達への処罰は追って伝えるとして…儀式を再開しよう」

 言ってライナスが立ち止まったのはノヴァの隣りではなく部屋の中央の樹の傍だった。ひかれるようにノヴァの視線が導かれる。その手に握られていたものに他の誰も気付かない。

「――王位継承とは、“アベル”の名を継ぐこと。それがフィラネテスの真の王の名だ」

 そっとライナスがその手を樹に添えた。ノヴァにその表情までは見えない。ただ何かに焦がれるようなもどかしさがその態度から滲み出ている気がした。
 継承と共にライナスはその責務を解かれるのであろう。国王の座から、解放される。

 とその時。部屋の扉が開く音にルミナスが視線を向けるとそこにはエレナが居た。ひどく真剣な面持ちで慎重に扉を押し開け室内に滑り込み、そっと今度は可能な限り静かに扉を閉じる。見たところひとりのようだ。

「エレナ殿…! てっきり、退席されたのかと…」
「も、申し訳ありません、ルミナス様…」
「…! エレナ殿、声が…?」

 エレナの異変にルミナスはその目を丸くする。エレナは曖昧に笑みを浮かべるに留め追及を避け、当初用意された自分の場所へと足を向けた。余計なやりとりをしている時間はない。自分の声などこれから起こる事に比べれば些末なことだ。

 ルミナスも深くは言及せずただその姿を見送った。ライナスもノヴァも特にエレナには気も留めない。

 エレナは部屋の端の長椅子に腰を下ろし遠くに見えるふたりの様子を見守った。
 現国王と次期国王。その王位が今入れ替わろうとしている。継承の儀式はもう終盤だ。

 自分が呼ばれたのはその儀式と共に婚約の儀式を同時に済ませる為だった。聖女の加護等という名目もあるがそれは殆ど形だけだと承知している。おそらく自分の出番はもうないだろうと漠然と悟る。
 代わりにエレナはひとつの未来を託された。

「――“アベル”、とは」
「王位の証だ。これまでのすべての権威がここに在る」

 ライナスが樹の幹をゆっくりと撫でると同時に一本の枝が誘われるようにその身を折って身を寄せた。さわさわと葉がさざめいて風もないのにこの特別な空間にいくつものそれが舞い散る。
 そしてその手にひとつの果実が握られていた。
 青い果実だ。小ぶりなそれはその手に余る。

 息を呑む気配が空気を揺らす。それはノヴァとエレナのふたり分で、その他のふたりはどこか懐かしそうに目を細めるだけだった。
 ライナスの王位継承の儀式にはルミナスも居た。その時は現職ほど高位にいなかったけれど、この場に立ち会うのは初めてではない。

 ノヴァのその碧のにはっきりと映る青い果実。
 
「――“運命の果実”。それはこの血を縛る禁忌そのものだ。これから君はこれを背負って生きていく」

 ライナスの手に収まっていたそれがノヴァへと差し出される。
 ノヴァはそっと片方の手でそれに応えた。
 もう片方の手に握られていたものにライナスが気付くのには遅過ぎた。
 はっと気づいた時にはもう。
 果実はその手を離れていた。新しい継承者のもとへと。

「…母が、死ぬ間際…最期に呼んだのは、あなたの名前でした」

 静かに零すノヴァの言葉にライナスは喉元まで出かかっていた言葉を呑み込み耳を傾ける。

 ノヴァの母――ミラルダ・フィールス。ライナスが愛した女性の名だ。
 生涯を共に生きることは叶わなかった。その最期の瞬間にも間に合わず、彼女の口からその真意を聞くことも叶わぬまま自分たちの物語は終わったのだ。ノヴァという存在を残して。

「だから、僕はずっと…大切なひとの死の瞬間に立ち会うことが、恐ろしくて堪らなかった。最後に自分がどれだけちっぽけな存在かを見せつけられる気がして…誰にも必要とされない自分を認めるのがこわかったんです。ずっと」

 その右手に鈍く光る既に抜かれた刀身が、部屋の淡い光を纏って煌めいていた。
 立ち上がったノヴァが座っていた椅子の足元。そこに見覚えのある本が置かれているのがライナスの視界の端に映る。それに気を散らされた。今目の前でノヴァのしようとしている事に勘付いてそれなのに。体は動かなかった。
 あれは、あれはミラの――


「申し訳ありません、父上」


 それは初めてノヴァがライナスを父と呼んだ最初で最後の瞬間だった。


「“ヘルメス”は今ここで死にました。僕《ノヴァ》の死に場所は、自分で決めます」



 すべてを断ち切る為に振り翳す腕に絡む気配を薙ぎ払うように、ノヴァは光彩を纏う光の剣を迷うことなく振り下ろした。



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