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第二章
深淵のふち
しおりを挟むイリオスの言葉にわたしは、瞬きもせずにその横顔を凝視する。
姿は見えなくともその刺すような視線は、おそらく彼にも届いているだろう。
――次?
次とはいったい、どういう…
「今夜ここに来たのは僕の最初の対面と、それからもうひとり会ってもらいたい者が居てね。一緒の方が都合が良いと思って迎えに来たんだ。これから行く場所に着いてきてほしい」
「む、迎えって…一体、どこへ…」
「第三王子、ゼノスの部屋だ。僕からの命で一度だけ君と会うことに同意はしたけれど、彼は殆ど部屋から出ない。…正確には、出られないんだ。だから彼に関しては、君に赴いてもらいたい」
「な…っ」
そんな話聞いてない。
基本的に夜伽はこの部屋で行う。その決まりのはずだ。
王子たちがこの部屋へ通うのだと。
「待って、わたし勝手にこの部屋から出るわけには…!」
「そもそも出られないだろうね。この部屋に入れるのは限られた者だけ、この部屋から出られるのは君以外だ。ただし、僕の許可で希望の場所へ繋がるはずだ。城内を歩き回ることなく、すぐに着くようにしてある」
「…!」
この部屋から出ようと思ったことは一度もなかったので、そんな仕組みになっているとは知らなかった。
この部屋の出入り口はふたつ。隠された扉は儀式の間という洞窟に繋がっていて、必要時以外出現しない。基本的に出入口はひとつのみだ。ノヴァやルミナスがそこから出入りしているのを見かけるだけ。
まさか自分ではここから、出られないとは。知らなった。…逃げられないとは。
「それに、一晩にふたりも王子に、会うなんて…身勝手よ、休みたい」
「限られた夜なのはこちらも同じ。有意義に使わなければ。きみが来ないのなら無理やり連れていくだけだ」
「…!」
空けていたはずのその距離を、今度は王子――イリオスから、詰め寄る気配を感じて息を呑む。
金色の髪の隙間から覗く、深い藍色。
心の内は分からないのに、彼の本気は分かり易い。おそらく意図的にその意志を、ただしく相手に伝える為に。
有無を言わせない彼の空気が威圧を醸す。
「……わかったわよ、もう…!」
「良い子だ、そろそろ明かりを点けても?」
「待って、わたしがつけるから」
何度目かの溜息を吐きだして、イリオスの傍を通り抜けるようにベッドから下りる。
暗闇の中でこの部屋なら、自分の方が慣れている。それに明るくなる前に、ベールも身につけたい。まさかこんなはやく活用することになるとは思ってもみなかった。
一応いきなり姿を消して驚かせてもあれなので、「姿を隠すベールを身に付けるから、驚かないでくださいね」と一言断る。乱れた衣服を一応直しながら。
それから蝋燭に火を灯し部屋を明るくした。
ベッドに腰を下ろしたままのイリオスが灯りに目を細めながら、彼はただしくわたしの居る位置に向かっておもしろそうに微笑んだ。見えていないはずなのに。
「良いものを持っているね。便利そうだ」
「触れると効力が切れるので、決して触れないでくださいね」
明かりの下で改めて晒される彼の美貌は暗闇の中とではその雰囲気を僅かに変える。イケメンはイケメンなんだけれど、自分には少し眩し過ぎる。ベールがあって調度良いくらいだ。
「では行こう」
「…最初は、会うだけで良いんですよね…?」
「互いの同意と必要があれば、その先に進んでも構わないよ」
「…もう聞きません」
真昼の痛みに体はまだ慣れきっていない。
夜伽をすれば、その呪いが移れば。苦痛は増すのだろう。流石にそれは億劫だった。
一抹の不安を抱えながらも、ドアへ向かって歩き出したイリオスの後を追う。
「どうして、ゼノス王子は部屋から出れないんですか…?」
「…呪いに差があることは聞いているかい?」
「ノヴァから、少しだけ…個人差があって、それに伴う苦痛の度合いも違うと」
「ではゼノスが一番その範囲が大きいことも聞いているね。ゼノスが受けた呪いの量は、僕らの比ではない。僕らは真昼の苦痛を凌げば夜には平穏を得られる。昼と夜とのバランスを保ちながら、公務を続けることもできた。だがゼノスは異例だ。全身を覆う呪いの量から昼だけでなく夜も痛みに苛まれる。そして直接的でなくとも呪いの所為で、母を失くしている。彼は体も、心も。休まる時がない」
扉を出たそこは、またしても見知らぬ廊下。だけど国王陛下との謁見の際に訪れた廊下でもない。
大きな窓には格子と分厚いカーテン。その隙間から闇夜が覗いた。月は真上を過ぎている。
「ゼノスの部屋には特別な呪いが施されている。結界のようなもので痛みも僅かながら緩和されているようだ。それ故にゼノスは、自室から出られない。城の殆どの者はもう何年もその姿を見ていないだろう。シャワーやトイレは自室についているし、食事も魔法で部屋の前まで運ばせているしね」
痛みを緩和する呪い。そんなものがあるのか。
それってわたしにも、効くのだろうか。
だけどわたし自身のことは話さないと決めた以上、それを訊くのは躊躇われた。
ただ黙って歩きながら、イリオスの言葉に耳を傾ける。
イリオスの言っていた通り、そう時間もかからずにひとつの扉が見えてくる。イリオスは扉の前で歩みを止めた。
しんと静まりかえったここは、本当に城の中なのか。夜中とはいえその静寂に身震いする。
「――ゼノス。僕だ。聖女さまをお連れした。扉を開けなさい」
イリオスの呼びかけにたっぷりの間を置いて、室内でようやく人の動く気配。
思わず身構える。ノヴァに見せてもらった肖像画の中でこの人だけが、唯一顔の分らなかったひと。
そして誰よりも呪いに苦しんでいるひと。
聖女という存在を、どう思っているのか一番推察しにくい相手だ。その身に抱えるものが大き過ぎて。
それから重苦しい扉の向こうから、か細い声が届いた。
「…兄上。おれは、やはり…」
「これは命令だ、ゼノス。君の責務を果たしなさい」
その言葉にやはり間を置いて、扉がガチャリと開く音が静寂に響く。
内側に戸がひかれ、僅かに室内へと廊下の明かりが差し込む隙間にひとつの影。
――ゼノス、王子。確かわたしより年下だ。
頭からすっぽりとフードを被りその身は長いローブで覆われていた。顔は、見えない。強く結んだ口元だけ。そこに既に、呪いの痣が見える。
「頼んでいたものは?」
「で、できています…」
「ではそれを聖女さまにお渡しして、それから使い方の説明を。できるね?」
「……」
間を置いて躊躇いながら、その影が頷く。
それを確認してイリオスが、隣りのわたしに向き直った。
「セレナ、彼は魔術と魔法に秀でた才をもち、ずっと呪いに関する研究を続けてきた。気になることがあったら、彼に聞いてみると良い。君が知りたいことも、知っているかもしれない」
「…わかり、ました」
含みのあるその言い回しに、一瞬わたしは怯んでしまう。この人には何故か、隠し事ができない気がしてならない。すべて知っているように、見透かしているように。そうしてわたしの弱い部分を掴むのだろう。
わたしの返事にゼノス王子がびくりと影を揺らしこちらを凝視する。
そうか、忘れていた。今は姿を隠しているんだった。
「あ、兄上…! そこに、居るんですか…? その、聖女さまが…」
「そうだよ、聖女さまはとても恥ずかしがり屋で姿を晒したくないらしい。心配しなくとも少しの間一緒に居れば、魔力が馴染んで居場所は感じ取れるようになるし、呼べばきちんと答えてくれる。ゼノス、きちんと自己紹介をするように」
「そ、そんな長く一緒に居ないといけないんですか…?」
「後は君たちの好きにすると良い。ただし、大切な客人だ。お茶くらいはお出ししなさい。それから帰りはおまえが部屋まで送って差し上げるんだ」
「そんな…!」
イリオスの言葉にゼノス王子は、ぶんぶんと首を左右に振る。できないという意思表示。
だけどイリオスは柔らかく笑うだけ。何ものをも寄せ付けない笑顔で。
「城内とはいえ女性をひとりで帰すことなど許さない。道はひとつだ。送り届けたら蝶を放ちなさい」
「……わかり、ました…」
ゼノス王子の返事に満足したように微笑んで、それからその瞳を今度はわたしに向けた。
弟を見る瞳とは、同じようでいてまるで違う。
月明かりに照らされるその藍色の瞳はいっそ作り物のように綺麗でおそろしい。
姿の見えないはずのわたしの瞳を、ただしくまっすぐ見つめて微笑んだ。
「セレナ。期待している、君の慈悲の心に」
――そんなもの。こっちがもらいたいぐらいだ。
役目を終えて踵を返すイリオス王子の背中を見つめながら、そっと深く息を吐く。
所詮わたしは他人だ。当たり前だけれど簡単に、信用されるわけがない。
だけどわたしだって。そう簡単に、利用されてやるものか。
そう心に決めたところで、開いたままだった扉がゆっくりとまた音をたてた。
視線を向けると仕方なさそうに迎え入れるゼノス王子の影。
小さく「どうぞ」と、囁くように言われた言葉を受けて、わたしはゼノス王子の部屋へと足を踏み入れた。
――わたしは、この夜を。
きっと一生、忘れないだろう。
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