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第四章

溺れる火花①

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 覚悟していた目覚めではなかった。
 それが一番最初に思ったこと。
 だけどそれが勘違いだったことに、ちゃんと頭が醒めてから気付いた。というより、ノヴァに教えてもらった。

「…丸一日…?!」
「…そうです。部屋に戻ってきてそのまま倒れたあと…貴女はこれまでずっと目を覚まさず眠っていたんです」
「え、でも…今はそんなに身体、つらくないけど…」

 一番はじめ、夜伽の後の初めての苦痛があまりにも鮮烈過ぎて。今回ゼノスの呪いを僅かとはいえ継ぎ、それ相応の苦痛を覚悟していた。きっと痛みでまた眠れない。眠れたとしても叩き起こされる。前回のように。
 その憶測は半分当たって半分外れた。苦痛は確かにあったらしい。だけど自分にその記憶はほとんどない。確かに体は少しだるいし、痛みの余韻のようなものは感じるけれど…

「…そうかも、しれません。ほとんど気を失ったまま、貴女は…ただ痛みに呑まれていましたから」
「え、そ、そんなにすごかったの…?」

 思わず訊いたわたしに、ノヴァは僅かに視線を逸らす。なんだか意味深であやしい。
 記憶が残らないほどの痛みと苦しみ。それが本当なら体の防御反応が働いたとでもいうのだろうか。
 なんにせよわたし自身が覚えていないのでなんとも言えない。

「でもまぁ、それならそれで良いのかな。こうして夜にはまた、痛みはおさまるんだし」
「なにを、呑気な…! 朝がくればまた、苦痛に襲われるんですよ…!」
「でもノヴァの時もだんだん慣れたというか、引き継いだ苦痛は時間の経過と共に弱くなる。たぶんわたしの身体が、そういう風にできてるんだよ。苦痛を引き継ぐ以上、そう簡単に壊れたら全員の呪いなんて解けないもの」

 わたしの物言いにノヴァはその綺麗な顔を歪めて、まっすぐわたしを睨みつける。分かり易く怒ったその様子に、流石のわたしも自分の軽口を反省した。

「ご、ごめん、その…軽くみているわけでも、扱っているわけでもないの。意外と都合良くできてるんだなぁと感心しただけで…」
「……とにかく一度、汗を流しましょう。話はそれからです」

 一応のわたしの反省を汲み取ってくれたのか、ノヴァが溜息をつきながら視線を外した。それにほっと胸を撫で下ろす。綺麗なひとが怒るとこわい。心臓に悪い。

 それからひとりでもできるというわたしの言葉を無視して、身につけていたものをノヴァがひとつひとつ剥ぎ取っていく。やけに神妙な顔つきで。
 わたしは陛下との謁見の際に着ていた綺麗めなワンピースをずっとそのまま着ていた。ノヴァ曰く、何度か着替えさせようとしたけれど、わたしが暴れて手をつけられなかったらしい。

「あ、ベール…ゼノスの部屋に、忘れてきちゃったんだ」

 脱がされる過程でその存在を思い出し、最後にそれを使った瞬間も必然的に思い出す。それからゼノスのことも。
 暗がりの中でゼノスと交わした熱量が僅かばかり体に甦り、何故だかなんとなく、ノヴァの顔を見れなくなる。
 ノヴァはそんなわたしに構わず手際よく濡れた服を脱がせ、わたしを抱き上げてお風呂場へと運んだ。わたしはなんとなくそれに身を委ねる。
 思ったより体はだるくない。だけどやはり疲れていた。お風呂に入れるのは有難い。もうこのまま全部、ノヴァに任せることにする。

 わたしがいつ目を覚ましてもいいようにと、浴槽の湯は既に張られていた。ゆっくりとそこに、身を沈める。当たり前のようにノヴァはそのままその場に留まって、わたしの体を洗う準備をする。
 もはやノヴァに世話をしてもらうことが板についてきてしまっていて、我ながら情けなくもあるけれど。
 ノヴァとはいるお風呂がわたしは好きだ。
 ノヴァは濡れても良いように薄着のままで自ら全部を脱ぐことはしないけれど、湯気の所為で曇る眼鏡をその時だけ外す。そうすると晒されるノヴァの顔が、わたしは好きだった。無防備なその素顔を自分だけが見れるようで。

「…夜伽の際、顔は隠すと…そう言っていませんでしたか」
「そのつもりだったんだけど…やっぱり夜伽するなら相手に触れないのは無理だし、あのベールは触れると効力切れちゃうし。結局あまり意味はない気がして。やり方はまた…これから考えていくよ」
「ゼノス王子と…」
「ゼノス?」

 ノヴァが石鹸の泡を丁寧に、わたしの髪に揉みこんでいく。わたしは浴槽の淵に手を組んで頭だけノヴァの方に差し出しながら、瞼を閉じてノヴァの言葉に耳を向けた。
 そうだ、髪。ノヴァに揃えてもらわなくちゃ。わたしは割とそのへん無頓着で、目立たなければそのままでも別に良いのだけれど。揃えるなら切った分、またゼノスに届けたい。
 滑らかな乳白等のお湯が、花の香りが、生え際をなぞるようにわたしに触れるノヴァの手が、気持ち良い。ついうとうとしてしまう。
 今が夜だということも忘れて。自分の身にはノヴァの痣があることも何故か、意識が薄れていた。

「…いえ。なんでもありません。セレナ、少し空けてください」
「…うん…?」

 髪の泡を流して後頭部の高い位置で纏め、それからノヴァが濡れた手で立ち上がる。それを見上げながら言われるがまま、何も考えずに浴槽のスペースを空けるように体をずらし隅に詰める。
 それからわたしを見つめたままノヴァが、自ら衣服を脱ぎ捨てた。

 あれ、どうして。
 いつもお風呂はノヴァと一緒だ。もう全部、見られてしまっている。すっかり慣れてしまっている。
 だけどいつもは。わたしを洗うだけでノヴァ自身は、脱がないのに。

 温く解けた思考は鈍く、呆けたまま見つめるわたしを嗤うように、ノヴァはズボンも下着も脱ぎ捨てて。それからわたしが空けた、お湯の中へと入ってくる。とぷんとお湯が揺れて撥ねて、ノヴァが身を沈めた分だけ押し流される。音を立てながら、浮かべられた花と共に。

「…ノヴァ…?」
「体を洗います。…こちらへ」
「え、えっと、うん、でも」

 体を洗うときはいつも浴槽から出ている。お風呂はそれなりに広いとはいえふたりで入る専用ではない。浴槽だってふたり入ればぎゅうぎゅうだ。
 一緒に入ったのなんて、最初以来だ。わたしが初めての夜伽の後の苦痛でへろへろになって、ひとりでは何もできなかった日。ノヴァがこうして一緒にはいって、全部綺麗に流してくれた。
 でもそれからは、必要最低限の補助だけ。
 なのにどうして、今日は。

 戸惑うわたしの気配を察知してるはずなのに、ノヴァは表情《かお》を変えずに背中からわたしを抱き込むように体を寄せる。それから持っていたタオルをわたしの肌に滑らせた。
 ノヴァが動く度にお湯が撥ね、花の匂いが散って鼻先を掠める。それに混じる、ノヴァの匂いが。わざと押し付けるように触れてくるその熱い肌が。体の奥をじんと煽る。

「…あの、ノヴァ…?」
「体を洗っているだけですよ」
「そ、そう、なんだけど…」

 嘘だ。明らかに、だけではない。だってノヴァのその手つきが。いつもとまるで違うのだ。
 いつもわたしに触れる時、ノヴァは必要以上に気を遣う。わたしの痣に触れないように、無闇にわたしに欲情を与えないように。ただでさえわたし達は、触れることが多い関係だから。
 だからわたしも、自分から不必要にノヴァに触れることはしてこなかった。最初に触れあって、その次に慰め合って。それからお互いに距離を弁えていたはずだ。
 なのに、今は。
 
 後ろからわたしの体を、それから腕をタオルで拭っていたノヴァがふとその動きを止めて静観する。
 ノヴァの意図をはかろうとぐるぐる思考していたわたしは、それに気付くのに遅れて。
 気が付いた時にはノヴァの温もりに集まる、互いの痣。触れ合う部分に体が先に反応した。だけど体を揺らしたのはわたしだけで、ノヴァはじっとその先を見据える。
 それから、ノヴァが。掴んでいた腕に力を込めた。たぶん、無意識に。

「ノヴァ? い、痛いよ」
「…ゼノス王子と…したんですか?」
「え、なに…何を…?」

 じわじわと与えられる熱とは反対に、ノヴァのその身に纏う空気が冷えていく気がした。だけどそれは次第にふつふつと、湧き出るような激情へと変わる。その様を肌で感じてぞわりとした。

「…セレナの体の、僕の痣は…これで全部。僕に触れてと集まってくるのは、ここにあるものだけです」

 言ってノヴァが見せつけるように、掴んでいたわたしの腕をわたしの顔の前に翳す。
 言われなくてもいやでも分かる。感じてる。ノヴァの痣は、ノヴァ自身にしか反応しない。そうだ、でもそれは。ゼノスの呪いを継いで初めて知ったんだ。

「…なにが、言いたいの…?」

 触れるだけでじわじわと、体はいやでも火を点ける。まだ理性は保ててる。でも。
 湿度と香りとノヴァの声に。頭がやけにくらくらした。

「ここにある、これは。ゼノス王子の痣ですね」

 言ったノヴァが、後ろから回した腕でぐいとわたしの片脚を持ち上げた。勢いよくお湯の中から引き揚げた脚に絡むお湯が、飛沫をあげて辺りを濡らす。
 僅かに体を浮かせるように、お尻のあたりから持ち上げられて。目に飛び込んできたのは自分の脚の内腿にある黒い痣。
 いやでも体が思い出す。そこを舐め回したゼノスの舌を、温もりを。途端にかっと頬に熱が走る。

「やだ、ノヴァ、やめて…!」
「彼が最初に触れたのはここですか? それとも」
「…っ」

 ノヴァが後ろからわたしの首筋に歯を立てながら、わたしの体への尋問を推し進める。
 脚を持ち上げていた手がするすると肌を滑り、やがて内腿に到達し、ゼノスの痣に触れた。今はそれに、わたしの身体は何も反応を示さない。
 ただノヴァに触れられた部分へと、ノヴァの痣が彼を求めて肌を伝うだけ。やがて上書きするように、ゼノスの黒い痣はノヴァの赤に紛れて掻き消された。

 触れた部分が多くなるほど刺激される。漏れる息が熱くて苦しい。
 その、指が。湯の中に浸かったままの秘所へと触れる。
 わたしはそれを見ていられなくて、思わず目を瞑って自分の指を歯噛みする。
 ぬるりとノヴァの指を絡めるそれは、お湯とは明らかに異なるもの。
 水音は、しない。わたしの震わせる体に、ノヴァの動かす指に、お湯の撥ねる音だけが響く。
 荒い息はわたしだけ。ノヴァの舌が、歯が。許しもなくわたしに痕を刻みつける。小さな痛みとお腹の奥を突く痺れ。その甘い痛みだけがやけに鮮明だった。

「くるしい、ノヴァ。熱い…」
「…そうですね」

 なんとかそう吐き出したわたしに、ノヴァも流石に応えてくれた。わたしを抱き上げ湯から出ると、滴るお湯も濡れた身体もそのままに、まっすぐベッドへと向かってそこにわたしを寝かせて。
 同じくらい濡れた体のノヴァが覆い被さってくる。眼鏡は外したまま。わたしを見下ろすまっすぐなその碧眼。その奥に見える欲情の色。だけどあくまで顔色は変えずに、濡れたその綺麗な顔を寄せた。

「だ、だめ」

 キスは。唇は。駄目。そう決めた。
 咄嗟に顔を背け自分の手で口元を覆う。暑さで朦朧とする意識で、それだけでも動けた自分を褒めたいくらいだ。
 そんなわたしにノヴァは一瞬だけ動きを止めた。だけどすぐにわたしの顔を両手で挟んで半ばむりやり顔を向けさせる。
 今までにないくらい強引なのに、やっぱりノヴァはあくまでノヴァなのだ。すぐ目の前のノヴァとの隙間を隔てるわたしの手を、むりやり振り解こうとはしなかった。
 ただまっすぐにわたしに訴えかける。わたしの顔を挟んでいたその指先が耳元を、こめかみのあたりを撫でつける。恋人の機嫌を伺うように、それとも緩い愛撫のように。

「セレナ」
「だ、だって…そう、決めたんだもん。もう、わたしは誰とも」

 言いながらひとり例外が居たことを思い出す。イリオスだ。イリオスとは逆に、キスだけ。
 誓った途端に破られた決意。大概わたしの意思も弱い。
 わかっている。弱いんだ、わたしは。

 もう一度名前を呼ばれて、今度はふるふると首を振る。

 それを許して認めてしまったら。
 自分からまた求めてしまったら。
 今度は諦めきれない。生きていくと決めたから。それなのに。

 ひとりじゃ生きていけなくなる。
 誰かを縛り付けるのだけは、もう死んでも嫌だった。

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