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第五章
希望の鎖
しおりを挟む無事帰り着いた部屋はセレナを、出る前とまるで同じ顔で迎えてくれた。
複雑ではある。だけどどこかほっとする自分も居た。
自分の為に用意されたこの部屋は、自分を拒むことは決してないからだ。
儀式の間に突如出現したもうひとつの道は、セレナが帰り着いたのと同時に姿を消した。
やっぱり、と思う気持ちもあった。だけど消えてほっとした。
そのまま残っていたら確実にルミナスにも見つかってしまう。そうしたらおそらく、今度こそ本当に自分が外に出ることは叶わなくなるだろう。
セレナは不思議と確信があった。
おそらくまた、道は開かれる。セレナがそれを望む限り。
そこは、聖女の為の場所だから。
本当に久しぶりに外の世界に触れて、たくさん歩いて、人と話して。
心も体もくたくただ。シャワーくらいは浴びなければと思ったけれど、限界だった。
それでも視界の片隅に白い蝶が掠めると、自然と視線がそちらに向く。
ふわふわと、自分のまわりを旋回する白い蝶。この蝶のおかげで無事帰ってこれたと言っても過言ではない。そっと、声をかける。
「…ありがと、ね」
心から望んで、納得して帰ってきたわけではない。
だけどそれでもやはり、自分の居場所はここにしかないような気がした。
それが哀しくもあり、虚しくもある。
だけどシンシアの言う通り、居場所があるだけ良いのかもしれない。
それは他人にはかれるものではないと分っていても、修道院の子どもたちが多く失ったものを思うとセレナは何も言えなかった。
幸不幸は誰に決められるものではない。だけど上辺だけのレッテルを身勝手に貼り付ける者も少なくない。それで傷つくのはいつも何も持たない者だ。
ふと白い蝶は進路をかえ、薔薇にとまった。そして薔薇が色を変える。
誰からからの接触だ。薔薇が変えた色は薄い橙色――琥珀色。
以前ルミナスに王子たちの名前と色を書きだしてもらった紙をひっぱり出す。ルミナスの文字の横に自分でも書き足したのでひとりでも読める。
琥珀色は、ゼノスの色だ。ゼノスの瞳と同じ色。
やがて蝶が、紙の上に止まり自身が運んできた文字を紙に移した。
だけどやはりセレナにその文字も内容も分からない。急ぎならすぐに返事を返した方が良いのだろうけれど、今はそれは無理だった。ゼノスに申し訳ない。
返事を渡せないセレナを見やり、蝶はふっと姿を消した。察しが良いようで有難い限りだ。
不思議な蝶だなと、改めて思う。
暗い森でその姿を現した時は、不覚にも安堵してしまったのを思い出した。
だから疑いもせずにその姿を追った。行き着く先はここだと解っていて。
――流石に体が限界だった。夜明けまではまだ時間がある。少しでも眠りたい。
重たい体をなんとかひきずって着替えを澄ませ、そのままふとんに潜り込む。
意識が沈むのはあっという間だった。
薄れる意識の片隅で、反芻するのは踏みしめた足の裏に感じた草の感触。
木々や土の森の匂い。たくさんの人の気配、笑い声。抱き締めたその小さな温もりと涙の感触。
セレナはこの世界に来てからはじめて、触れた気がした。
自分が生きると決めたこの世界に。
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翌日、夜が明けてから様子を見に現れたルミナスに、蝶が運んだゼノスの文字を報告すると、ルミナスは僅かに表情を曇らせた。
「…明日…いえ、日が変わったらからつまり今夜。ここに来たいと。そう申し出ているわ」
「今夜? 急だね」
痛みの波は落ち着いて、今はわりと平常だ。やはり少しずつ慣れてきている気がする。
昼も少しは動けるようになってきた。それでもこの部屋の中だけでできることなんて限らているのだけれど。
「そう…そうね。本来なら、もっときちんと相手の都合を気遣える子なんだけど…仕方ないのかもしれないわ」
ルミナスが呟きながら溜息を零す。なんだかここ最近はルミナスのこんな顔ばかり見ている気がする。
きっといろいろと気苦労も絶えないのだろう。自分と王子たちの間に挟まれて、立場もあるだろうに気を遣って。
自分も心労をかけているひとりなのだけれど。いよいよ昨夜のことはバレないようにしなくては。
「仕方ないって…何かあったの?」
「…あったと、いうか…これからあるのよね」
ルミナス曰く、表では公式行事が控えておりその準備で王子たちも忙しいらしい。今回の行事は王子たち全員の参加命令が陛下よりあった。だからそれまで王子たちの訪問は控えられると思っていた。
だけどゼノスの場合は事情が違う。
全員参加。命令だ。解ってはいてもゼノスはあの部屋から出ることは難しい。
今までの公式行事は必要最低限に留め免除してもらっていた。だけど今回は、国王陛下直々の命だ。流石に断れない。
「おそらく…ゼノス王子の呪いの低減を、陛下ははかっているのかもしれないわ。でなければ以前までなら、こんな命はなかったから…」
――つまり。
ゼノス王子への夜伽を、暗に陛下が要請しているということだ。
おそらくゼノスもその意図を感じているのだろう。
だから蝶を飛ばした。セレナに会う為に。――夜伽を受ける為に。
もしかしたらゼノスは、今は夜伽を望んでいないかもしれないのに。
イリオスとの約束に、無理強いはしないとあったはずなのに、結局少しずつ破綻していっている気がする。国王陛下も本来なら口出しはしないと言っていた。
やはりそれだけ王子という立場と存在は、国にとって重いものだろう。
「じゃあゼノスも、半ば強制的に夜伽を受けさせられるんだね」
苦笑いと共に零した言葉に、ルミナスは真顔で返す。
心配してくているのだ。アレス王子との一件からまだそう日は経っていない。
「大丈夫、受けます。ゼノスに返事をお願いできる?」
そっと胸の内でその存在を呼ぶと、すぐに白い蝶は現れた。なんてできる子だ。
それからルミナスに返事を頼み、蝶はすぐにそれを受け取り虚空に消える。
返事をしてから、もしも夜伽をするならゼノスの部屋の方が良かったのではないかということに後から気付いた。この部屋に結界はない。ゼノスの体がつらいかもしれない。
でも、もし以前と違って本格的な“夜伽”となるのなら…少しは楽になる手伝いができるかもしれない。
ゼノスが部屋に呼んだのではなく、来ると言ったのなら。この部屋で待とうとそう決める。
「…後で着替えを届けるわ」
「前もらった服で良いよ、そんなにいらな…」
「駄目よ、服は一種の防御服であり戦闘服よ…! 同じ服で王子に会うなんてアタシがゆるさないわ」
謎の拘りに仕方なくセレナは了承し、それから部屋を後にしようとしたルミナスに声をかける。できるだけの平静を装って。
「ルミナス、夜はもう痛みもないし体も平気だから、見に来なくて良いからね。ルミナスも忙しいでしょ」
「…でも」
「何かあったら、すぐに来てくれるんでしょう…? ちゃんと頼るから、だからそれまではルミナスも自分の仕事を優先して」
「…そう。わかったわ。とりあえす夕方、着替えと要るものを持ってくるから。貴女もちゃんと、休むのよ」
まだ心配そうな顔のルミナスに、笑って返事を返す。それから部屋の扉の閉まる音にほっと息をついた。
我ながら小賢しい。ルミナスは心から自分の心配をしてくれているのに。
だけどあの道だけは、どうしても。閉ざされるわけにはいかなかった。
だから、わたしは。
ここで自分の役目を果たさなくては。
そう心に決めて瞼を閉じる。
もう少し休んだら、次に起きたら。シャワーを浴びて部屋を整えて、ゼノスを迎える準備をしなくては。
ゼノスの体は大丈夫だろうか。
わたしの体は、大丈夫だ。
今までとどこかが少しだけ、何かが違う。その何かは分からないけれど。
行きたい場所がある。会いたいひとが居る。
それだけでどんな夜も越えられそうな気がした。
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夜を迎えてからしばらくして、ゼノスが部屋の扉をノックした。
控えめだったそれに、はじめセレナは気付かなかった。二度目のノックでようやく人の動く気配。
「…はい…?」
「…ゼノスです」
それからすぐに扉の開く音に、ゼノスは僅かに身を強張らせる。
扉のすぐ向こうからセレナが顔を覗かせ、それからゼノスの姿を確認し僅かに微笑んだ。それに内心どきりとして。今はまだ自分の表情が見えていないことに安堵する。
分厚いローブも目深なフードも依然のまま。そんなゼノスをセレナはそのまま受け入れる。
「いらっしゃい、ゼノス」
「…こんばんは。セレナ」
「どうぞ、はいって」
ひどくぎこちない挨拶を交わして、セレナはゼノスを部屋に招き入れる。
ゼノスはほんの一瞬躊躇し、それから足を踏み入れた。
ひどく足が重たい気がする。頭も上手くまわっていない。
痛み止めのために飲んできた薬湯が上手く効いていないのか、効きすぎているのか。
それでも体を襲う苦痛は完全には紛れていない。僅かに息が上がり、緊張し過ぎて眩暈がした。
以前ここまで来た時は、もう少しましに体が動いた気がする。
セレナに触れていたせいだろうか。今日はぜんぜん駄目だ。自分なりに覚悟をしてきたはずなのに。
「…ゼノス…? どうしたの? 体、やっぱりつらい…?」
ゼノスは促されたソファへと腰を下ろしフードを下ろす。それからセレナの心配そうな気遣いに小さく首を振るも説得力は全くなかった。
そういえばゼノスの姿を明かりの下で見るのは初めてだとセレナは気付いた。以前はずっと、暗闇のなか。
前は分からなかったその長めの髪はさらりと流れる銀色で、琥珀色の瞳は部屋の蝋燭の明かりを宿して揺れている。
晒された肌には未だ呪いは多いけれど、心なしか僅かに薄れている気がした。セレナが継いだ分の効果があったのだろうか。
だけどその顔色は、見てとれるほどに蒼い色。切羽詰まったように歪められている。
それからゼノスが消え入るように小さい声で呟いた。
「すいません、セレナ…せっかく時間を、頂いたのに…」
「良いよ、休んでて。まだ動けるなら、ベッドの方に横になってて、いま水をもってくる」
言ってゼノスに肩を貸し、ベッドまでひきずるように連れていく。
それからキッチンへと水をとりに傍を離れた。
その間も体を襲う苦痛にゼノスは奥歯を噛みしめる。己の情けなさに歯噛みしながら。
「ゼノス、水…飲める?」
自分を案じる心配そうなセレナの声に胸が痛む。呪いの苦痛とは異なる痛み。
覚悟をしてきたのだ。自分なりに。
父である国王陛下の絶対的な命を受け取ってから、外に出なくてはいけないことを悟った。
この国の王子である以上、あの部屋に居るままでは済まされないのだと。
その為には、この苦痛を――呪いを。どうにかしなくてはならない。
彼女に夜伽を請わねばならないのだ。
だけど迷いも躊躇も未だ消えない。
セレナは兄であるアレスに傷つけられたばかりなのだ。
そして今から自分がしようとしていることは、それと同じこと。
望まない行為を強いられる彼女がかわいそうだ。
無理やりこんな自分に、抱かれる彼女が。
傷つけたくないのに。
どうしてそれは、叶わないのか。
その答えを本当は知っている。解っている。
醜く弱い、この心故だ。
「ゼノス…? 大丈夫? ゼノス…!」
セレナの声は聞こえても、意識は朦朧としていてその声はどこか遠い。返事すら返せない。
これでは夜伽どころではないなと自ら心の内で嘲る。
念の為にと追加の薬を持ってきていた。僅かな時間ながら痛覚を麻痺させる薬だ。
だけどそれを飲むとおそらく行為すらままならないだろう。
いっそそれを飲んで、自分の部屋に戻ろうか。ここでこうして呻いていてもセレナを困らせるだけだ。
それに、もしも夜伽を受けられたとして…この身から呪いが減り、やがて解放されたとして。
そうしたら、もう。
彼女に会う理由がなくなってしまう。
彼女が遠くに行ってしまう。
その不安がゼノスの心を恐怖へと掻き立てていた。
自分を襲う痛みよりもずっと。
セレナを失うことの方が、こわかった。
そっと、冷たい指先が自分に触れる。
びくりと思わず体を揺らし咄嗟に身を捩るも、すぐにその手に顔を戻された。
今自分に触れる相手はセレナだけ。そう思い出して身を委ねることにする。
それから口の端で水滴が弾けた。
痛みに固く目を瞑っていたので、それが何なのかははじめ分らなかった。
ふわりと香る柑橘系の匂い。それからそれが水だとようやく気付く。
セレナが自分に水を飲ませようとしてくれているのだ。
そっと頬に添えられる手に力が篭る。
彼女が触れているそれだけで、痛みに竦んでいた体から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
口の端からゆっくりと流し込まれる液体は、予想よりずっと温く人肌と同じくらい。不思議と何故か、心地良い。
何かが唇に触れる。そこからまた、流し込まれる水。
薄く開けた唇から、温かな感触のものが自分の咥内に差し込まれる。
ついさっきまで震えていた体は、今度はすぐに熱くなった。
「…セ、レナ…?」
唇に触れていた何かが離れ、その合間に名前を呼ぶ。
返事はない。代わりにその手が今度は自分の目元を覆った。
理由はわからない。だけど黙ってすべて受け入れる。
彼女は決して、自分を傷つけたりなどしないからだ。
そんな自分に応えるように、その行為は繰り返される。触れた部分から与えられる温い水を喉を鳴らして呑み干しながら、あの甘い匂いが鼻を掠めた。
奪われた視界と触れる肌に、鼓動がどんどん駆け上がる。そしてまた、煽られる欲情。
それが痛みを上回った時。
少しずつ体の感覚が、意識が引き戻されるのを感じた。
そして自分の唇に触れているのが、セレナのそれだと気付いた時。
以前は頑なに拒まれたまま、触れることの決して叶わなかったセレナの唇だと知った時。
自分の中でひとつの覚悟が決まっていた。
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