50 / 104
閑話
深層の聖女
しおりを挟む「本当に、本当に心配したんですから…! もう二度と、このようなことはしないでくださいね、エレナ様…!」
「…うん、ごめんなさい。もう二度と、こんな事はしないと誓うわ」
「ああ、もう、本当に…! 司祭様になんと報告をすれば良いのか…!」
自分の身を案じ泣き崩れていた侍女の顔が、すぐさま不安と焦燥に陰る。
そんなに嫌ならいっそ報告しなければ良いのにとエレナは思う。
だけどそうもいかないのだろう。それがナナリーの仕事でもある。
アレスが最小限に収めてくれたとはいえ、事は思いのほか大きくなってしまった。
今回のエレナの脱走ともいえる身勝手な行動は、イリオスや国王陛下の耳にもはいるだろう。もう既にはいっているかもしれない。
半ば発作的に飛び出してしまったとはいえ、考えなしの行動だったと反省はしている。普段の自分だったらそんなことをする度胸もなかった。
それだけあの時のエレナは追い込まれていたのだ。
初めて自分の身に降りた神託と、それから周囲との温度差に。
おそらくもう二度と、自分の意思では外に出られないだろう。出られたとしてもきっとひとりにはしてもらえない。
当然の報いではあるが、改めて自分を囲む透明な檻に気付いてしまった気分だった。
そもそもこれまで四六時中ナナリーと一緒だったエレナが、“ひとり”を乞うことすら初めての感情だった。
それまで常に誰かと生活を共にし、誰かに守られることが当然の人生だった。
だから気付いてしまった。
自分には自由など無かったのだと。
ひとりで外を歩いたのなんて、生まれて初めての経験だった。
しかも殆ど知らない街だ。この王都に来て知っている場所が、以前訪れたあの修道院しかなかった。馬車からの景色が新鮮でずっと道のりを眺めていたのでその記憶を頼りに必死に歩いた。
夕暮れ時の街を、何かに追われるように逃げるように。
きっと追いかけていたのは今までの無頓着で不熱心でただの人形のようにすべて周りに従ってきた自分。きっとそこに居たほうが安全だった。何も知らずに居たほうが、きっとエレナの世界は平穏だっただろう。
「…でも。こわくはなかったわ」
ぽつりと零したエレナの呟きを、拾う者は誰もいなかった。ナナリーは此度の報告の為の文書をまとめる為に机にかじりついている。後程魔法で故郷のの司祭に送るのだろう。
エレナに魔法は使えないが、ナナリーは基礎的な魔法の勉はある。エレナ付の侍女として最低限の魔法を覚えたとむかし言っていた。
どうせなら自分も少しくらい何か、覚えれば良かった。どうして今までそれを望むことすらしようとせず、ただ安穏と過ごしてきたのか。過去の自分の無関心さが悔やまれる。
「…お風呂にはいってくるわ」
「待ってください、私も」
「ひとりではいれる。ナナリーは続けてて」
「エ、エレナ様…?」
「今は、ひとりにしてほしいの。お風呂には窓もないし心配なら扉を開け放しておくから」
「…かしこまりました…」
いつもナナリーが用意してくれる着替えを今夜は自分で選んで持って、風呂場へと向かう。
お湯は既に張られていて、エレナのお気に入りの乳香や石鹸がきちんと用意されていた。
だけどいつものすべての手順を無視してエレナは衣服を脱ぎ捨て裸になってお湯に身を沈める。
ほんとうは行儀悪く思い切り飛び込んでしまいたかったけれど、そんなことをしたらナナリーが飛んで来てまた叱られるだろうことは容易に想像できたのでやめておいた。
代わりに静かにゆっくりと、お湯の中に全身を沈める。耳の奥でとぷんと音がした。
広い浴槽に頭のてっぺんまですっぽりと、エレナの体は呑みこまれた。
――女神からの宣託を受けた時。
正直真っ先に思ったのは、きっと誰も信じないだろうなという気持ちだった。
エレナはきちんと自分の立ち位置と周囲からの評価を自覚している。
自分ができそこないの聖女であることも。
だから誰にも言わなかった。
言えなかった。
もしも否定されてしまえば、誰にも信じてもらえなければ。
自分に聖女としての価値など無いも同然だと思い知らされる気がして。
山奥の修道院で一緒に生まれ育ち、一緒に山を下りたナナリーは親友ではあるけれども家族に近い。礼儀に厳しく己の使命を崩さない姉のようだ。
もちろん慕ってはいるが、前回の自分の失態以来、ナナリーの態度は分かり易く厳しくなった。王都に行くことが決まった時は、手を取り合いながら一緒に喜んでくれたことが遠い昔のことのようだ。
もっと聖女らしく。聖女としての自覚をもって。誰にも有無を言わせない、完璧な聖女を演じなければ――
ここで認められなければ、国民の信頼を得れなければ――山に戻されてしまう。
ひいてはエレナを守り育ててきた修道院の尊厳と期待を裏切ることになる。
王家の後ろ盾を得られなければ、もう――
まるで呪いのようだ。
ナナリーの笑顔を最後に見たのはいつだったのかももう思い出せない。
三日後に控えた仕切り直しの祭事には、エレナが育った修道院の司祭も来る。
おそらくナナリーが先の一件を相談したのだろう。思うだけで憂鬱で胸が痛くなる。ついでに呼吸が苦しくなってきた。
ナナリーの自分を心配してくれている心を疑うわけではない。
一緒に山を下りて城についてきてくれた時は心から安堵したし信頼もしている。
だけど。
ナナリーの態度にはもう既に、主従の上では主であるはずの自分とは別の者に忖度するような意思を感じられるのも事実だった。
それが何かは分からない。だけど故郷の修道院か王家だろう。それぐらいはエレナにも分かる。
勢いよく温いお湯から頭だけ出して詰めていた息を吐き出す。
膨らむ酸素を取り入れて、同じものを吐き出した。掠める花の甘い香りは、ぼんやりと思考を鈍らせる。
「――意外だね。君がそんなにお転婆だったとは」
突如浴室に響いた声に、エレナはぎくりと身を強張らせ、声の方――開けっ放しだった扉の方に視線を向ける。
ナナリーとは明らかに異なる低い声。なのにどこか甘い響きを孕んだ気がするのは、自分がずっと聞きたかった声だったからか。
「…どうして」
「もちろん、君に会いに来たんだよ。エレナ」
湯気で霞む扉に立って居たのは、自分がずっと会いたかった相手だ。
金色の髪に深い藍色の瞳。
あの閉ざされた山奥まで、自分を迎えに来てくれたひと。
なのにこの城に来てから一度も、自分に会いに来てくれたことは無かった。
会いたいと何度手紙を送っても、返事でやんわりと断られるだけ。
なのに、どうして今急に。
「君の姿が見当たらないと、僕のところにも相談があってね。君が戻ったようで安心した。一目だけでも無事を確認しておきたくて」
「…そう、でしたの…ご心配とご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
お湯が乳白色なのですべてを見られたわけではない。
だけど女性が入浴中の浴室に無断ではいってくる等、無礼極まりない。いくら身分のある相手だろうと、明らかに常識と礼を欠いている。それにそれをナナリーが許すとは思えない。
エレナは微かに違和感を覚え、警戒に身を竦ませた。
「…ご覧の通り、無事戻りました。まだお話がおありでしたら、すぐに身支度を整えます。ナナリーを呼んで頂けますか?」
浴槽から出られないこの状況は、ある意味逃げ場がないのと同じことだ。
なのにその藍色の瞳は、エレナの姿を捕らえて離さない。鋭くエレナの行動を制するように。
「まだ、君には。出てこられると困るんだ」
「…どういう、意味ですか…?」
一歩、静かにその影が、エレナのもとへと歩み寄る。
エレナは反射的に身を退くもそこに逃げ場はない。
「“女神”は僕らを救ってくれはしない。だから君はまだ、そこに居て」
その藍色の瞳に吸い込まれて、エレナはくらりと視界が傾くのを感じた。
水の撥ねる音がどこか遠い。体から力が抜けていく。そこに抗いようの無い力を感じて。
どうして。わからない。
ただ、わかるのは――
「“聖女”はひとりで良い。いずれ君も、選ぶことになる。その時がきたら、これは返そう」
目の前の人物は、王子さまではない。
自分が心から待ち望んでいた存在など、どこにも居はしなかったのだ。
どうして今まで気付かなかったのか。
どうして今、気付いてしまったのか。
誰にも伝えられない。
だけど、一番大事なことだけは、託すことができた。
その時初めてエレナは自分の無謀でしかなかった行動に意味を見出すことができた。
無意味なことではなかったのだ。あの時のあの絶望も、その先にあった希望も。
踏み出したから全部、やがてすべての意義に辿り着く。
女神からの宣託を奪いに来たこのひとが、何を望んでいるのかも――
「…エレナ様…?!」
ナナリーの叫び声が浴室いっぱいに響いて盛大に水飛沫が舞う。
視界を奪った次の瞬間には、浴室内にその姿は見当たらなかった。
一瞬でかき消えたその姿。
――この国の、第一王子。
眩む意識の中で、駆け寄ってくるナナリーの泣き顔だけがやけに鮮明に胸に刻まれる。
そういえば王子さまのお伽噺を読み聞かせてくれたのはナナリーだった。
ナナリーも物語の主人公のような人生に憧れて、ふたりで夢物語を語るだけでただ楽しかったあの頃。
夢物語だったナナリーと唯一違ったのは、エレナは本気で信じていたこと。
いつか王子さまが自分を迎えに来てくれるんだと――
目の覚めるような現実を知って、それでもエレナはもう大人しく籠の中に居るつもりはなかった。
そうして現実に目を覚ました時。
エレナの声は失われていた。
──大丈夫だ。
一番大事なことは、もう見失うことはない。
託せたのだ。それがきっと自分の役目だった。
選ぶのは、彼女だ。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。
ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。
「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」
ある日、アリシアは見てしまう。
夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを!
「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」
「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」
夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。
自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。
ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。
※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。
存在感のない聖女が姿を消した後 [完]
風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは
永く仕えた国を捨てた。
何故って?
それは新たに現れた聖女が
ヒロインだったから。
ディアターナは
いつの日からか新聖女と比べられ
人々の心が離れていった事を悟った。
もう私の役目は終わったわ…
神託を受けたディアターナは
手紙を残して消えた。
残された国は天災に見舞われ
てしまった。
しかし聖女は戻る事はなかった。
ディアターナは西帝国にて
初代聖女のコリーアンナに出会い
運命を切り開いて
自分自身の幸せをみつけるのだった。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
召喚失敗!?いや、私聖女みたいなんですけど・・・まぁいっか。
SaToo
ファンタジー
聖女を召喚しておいてお前は聖女じゃないって、それはなくない?
その魔道具、私の力量りきれてないよ?まぁ聖女じゃないっていうならそれでもいいけど。
ってなんで地下牢に閉じ込められてるんだろ…。
せっかく異世界に来たんだから、世界中を旅したいよ。
こんなところさっさと抜け出して、旅に出ますか。
短編)どうぞ、勝手に滅んでください。
黑野羊
恋愛
二度も捨てられた聖女です。真実の愛を見つけたので、国は救いません。
あらすじ)
大陸中央にあるルオーゴ王国で、国を守る結界を維持してきた聖女ロザリア。
政略のため王太子と婚約していた彼女は、突如『真の聖女』が現れたとして婚約を破棄され、聖女の座を追われてしまう。さらに、代わりに婚姻しろと命じられた聖騎士からも拒絶され、実家にも見捨てられたロザリアは、『最果ての修道院』へと追放された。
けれど彼女はそこで、地位や栄光、贅沢などとはほど遠い、無条件に寄り添ってくれる『真実の愛』と穏やかな日々を手にいれる。
やがて聖女を失った王国は、崩壊へ向かっていき――。
ーーー
※カクヨム、なろうにも掲載しています
お兄様、冷血貴公子じゃなかったんですか?~7歳から始める第二の聖女人生~
みつまめ つぼみ
ファンタジー
17歳で偽りの聖女として処刑された記憶を持つ7歳の女の子が、今度こそ世界を救うためにエルメーテ公爵家に引き取られて人生をやり直します。
記憶では冷血貴公子と呼ばれていた公爵令息は、義妹である主人公一筋。
そんな義兄に戸惑いながらも甘える日々。
「お兄様? シスコンもほどほどにしてくださいね?」
恋愛ポンコツと冷血貴公子の、コミカルでシリアスな救世物語開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる