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第七章
目覚めのとき
しおりを挟むセレナが目を覚ましたそこは、自分の部屋だった。
見慣れた天蓋付ベッドの天井と、垂れ下がる絹のカーテンの隙間から僅かに差し込む日の光。
いつの間にか自分の存在の馴染んだ場所。
どうして、ここに。
修道院に居たはずだ。
しかも、どうやって戻ってきたのか。
セレナは茫然と視線だけであたりを見回す。
間違いなく自分のベッドの上。そこに部屋を出る前とは別の服を着て寝ている。
自分では到底選ばなそうな綺麗なドレスだ。豪華ではあるけれど派手過ぎず、繊細な装飾は凝った作りなのに重くない。素材も生地も手触りさえも今まで着ていた服とはどこか違っていた。
確か濡れた服の着替えをシンシアが貸してくれると言っていたような記憶はある。ぼんやりとだけれど、おそらくこれがそうなのだろう。だけど自分で着替えた記憶はない。
「今、いつなの…?」
窓の外はもうだいぶ明るくなっている。夜はとうに明けたということだ。
セレナの最後の記憶はアレスの腕の中だった。
“女神の加護”の真似事をして、そしてそのまま意識を失ってしまったのだ。
とにかく眠くて自分を保っていられなかった。
そうするとここまで運んでくれたのはアレスだろうか。あの場ですべての事情を知っているのはアレスしかいない。自分が外に出たのとは別の道で、ここまで運んできてくれた可能性はおおいにある。
「どうしよう、ぜんぶ、中途半端だ…」
天蓋の天井を見つめながら、思わず長く重たい息を吐く。
それから両手で自分の顔を覆って固く目を瞑った。
右手の甲が痛い。ミルヒにひっかかれた痕だとすぐに分かった。じくじくと痛む傷はまるで心臓に直結しているみたいだ。
「上手くいったのかな…」
ここには自分ひとりだとわかっているのに、やけに胸の内が言葉に出た。だけど無意識にでもしゃべっていないと、得体の知れない不安に胸が押し潰されそうなのだ。
あの時確かに、何かを感じた。自分以外のものの気配。そして抗いようのない力。
それが自分を介してミルヒとを繋いで。言葉にできない恐怖が一番に沸いたのを覚えている。
あれは一体なんだったのか。
いくつか想像はできるけれど、確証はないしあまり考えたくもないのも事実だった。
それからふと、自分の手首の見慣れない痣に気付いて動きを止める。
――呪い?
だけどこれまで継いできた呪いは、今はかたちを僅かに変えて刻印と胸に残すだけになった。目に見える形ではその量は減ったはずなのだ。そういえば痛みも殆どない。
むくりと体を起こしてゆっくりと袖を捲る。やはり黒い痣が手首のまわりをぐるりと散っていた。王子たちの呪いと似た痣ではあるけれど、だけど違うものだとセレナは理解した。
ミルヒの体にあった、穢れの痣だ。
継いだのだ、この体が。
「…できてる…」
体裁だけを整えた、カタチだけの儀式だった。いろいろ足りないものは多かったはずだ。確信も確証もなくただ突き動かされるままに行った真似事。
それに今まで王子たちに殆ど無意識下に行ってきた“夜伽”とも違う。
だけどそれでも、穢れは取り除けた。
“女神”は応えたのだ。
「…これで、サラの穢れも、取り除ける…!」
いろいろと思うことはある。だけど今は何よりもその事実で胸がいっぱいだった。
思わず自分の拳を力いっぱい握りしめる。寝起きで上手く力が入らない。
だけど何故だか笑い出したい気持ちと込み上げる涙を必死に抑えて両手を握った。
丁度その時部屋の扉が開けられて、入ってきたのはいつもより重たそうなかさばる服を着て、随分と神妙そうな表情のルミナスだった。じゃらりと重たそうな装飾品が鳴る。
体を起こしたセレナと目が合って、ルミナスが途端にその表情を崩す。
「セレナ…! 貴女、目を覚ましたのね…!」
「…ルミナス。なんだか随分、見慣れない恰好だね」
「アタシの恰好なんかどうでも良いのよ、貴女一体何日目を覚まさなかったと思ってるの…!」
「え…?」
ベッド際まで足早に歩み寄ったルミナスが、セレナの様子をさっとその目で確認する。セレナは大げさなその様子にただ目を丸くするばかりだった。
「アタシがはじめに様子を見に来た時から、三日以上寝ていたのよ…! 服も見慣れないものを着ているし、体を調べさせてもらったけれど、知らない痣も増えてるし…!」
「…三日、以上…」
ルミナスの口から語られる事実にセレナの頭は上手くまわらない。
それにいろいろとバレてしまっている。突然過ぎて言い訳も取り繕うことも追い付かない。
だけど一番に思ったのは。
「…祭事、は…?」
「…どうして貴女が、それを知ってるの…?」
セレナの口から思わず零れたその言葉に、ルミナスは怪訝そうに眉を顰める。
しまったと口を押えるも既に遅く。ルミナスの鋭い視線がセレナを射抜いていた。
「…いろいろと。話し合わなければならないことがあるようね。だけど残念なことにアタシはこれから外せないお役目があるの」
ひやりとした冷たい視線と声音を向けられて、それから部屋の空気が変わるのを感じた。
それに気付いたセレナがはっと顔を上げる。部屋の空気がビリビリと、今までとは明らかに異なる張り詰めたものになる。
「…気付くのね。やはり貴女自身の質が、変わったのかしら…この世界の魔力に適応している。この部屋の結界を張り替えたのよ。決してここから、出られないように」
「…! ルミナス、聞いて、わたし…!」
「言い訳も説明も全部あとで聞くわ。とにかくこの部屋で大人しくしていて。貴女が約束を守れないなら、アタシも貴女を守りきれないわ」
ルミナスのその表情が悲痛そうに歪められて、それ以上抗議することも交渉することもかなわなかった。
咄嗟に縋るようにルミナスの服の裾を掴んでいた手が力なく離れるのを見届けて、ルミナスがセレナの頭にそっと触れた。
ルミナスはこれまでもこうしてセレナに触れて優しい言葉を吐いてきた。だけどその時初めてその手にルミナスの魔力を感じて、慰めでも労わりでもないこれはルミナスの何かしらの術の内に過ぎなかったのだと気付いてしまう。こんな時に。
「今日だけは、絶対に。外に出ないで。この部屋に居る限りは、貴女は傷つかずに済むのだから」
――嘘だ。
この世界に来てからこれまで自分の居場所がこの部屋しかなかったセレナは、いつもここで多く傷つき涙してきた。この部屋に居る限り、自分には救いも希望もない。
それでもこの世界で唯一確かな居場所でもあるここは、安堵と絶望の部屋だ。
ルミナスがそのことを言っているわけではないとも分っている。どうしても今日だけは、自分に大人しくしていて欲しいのだろう。
わかっている。
でも。
「……わかった」
「…良い子ね。戻ったらすぐにまた様子を見に来るわ。きちんと話し合いましょう。ちゃんと食事をとってお風呂にはいって、しっかり休んでおきなさい」
ルミナスの母親かもしくは保護者のような言葉に大人しく頷くセレナに、ルミナスはようやくその張り詰めていた空気を僅かに緩ませる。
それでもまだ完全にセレナを信用したわけではないのだろう。その表情には疑念の色がまだ残っていた。
セレナの精一杯の作り笑いに、ルミナスはようやく部屋を後にした。やけに大きな音を立てて、部屋の扉が閉ざされる。
ルミナスは敵ではない。これまでずっと、ひとりになった自分を気にかけできる限り傍に居てくれたひとだ。自分の身を案じ、話を聞いてくれた。
そのことには助けられたし支えられたのも事実だ。セレナはここで、完全なる孤独ではなかった。
だけど、味方ではない。セレナの望みをかなえてくれることはしない。
それでもルミナスは限られた時間の中、大事なお役目の前にも関わらず自分のことを心配して様子を見に来てくれた。責務と情の間で可能な限りのその心を自分に傾けてくれていた。
その心だけは疑わず、そしてそれを裏切る覚悟も胸に刻んだ。
おそらくルミナスが今から赴くのがまさに、王子たちも全員参加するという祭事なのだろう。“聖女”の歓迎と、末の王子の生誕も兼ねた祝いの式典。
国王陛下も出席するという大きな行事だ。神官長であるルミナスも何かしらの役割があっておかしくない。ここのところ忙しそうだったし。
それからセレナは窓の外を見やり太陽の高さを確認し、着ていたドレスを脱いでソファにかけ浴室に向かった。
三日間も寝ていたというのだ。流石に体を綺麗にしたい。
気持ちを落ち着かせる為に、熱めのシャワーを頭から浴びた。
少しずつ体に自分の体温が、熱が戻ってくる。
「……太陽の位置から、まだ昼前なのは確か…」
小さく、呟いて。
あの修道院でシンシアやアルベルトやサラ、それから子ども達が言っていたことを記憶の中から必死にかき集める。
祭事は何時から行われると言っていたか。少なくともルミナスが今から向かうのだから、始まってはいないはずだ。
サラの、出番は。確か正午。修道院の鐘が合図だ。
タオルで水気を拭いながら髪を乾かし、肌着だけを身につけて室内にあった果物やパンで軽食をとった。
エネルギーは必要だ。三日も寝ていたのだから。
口に押し込んだものをなるべくよく噛んでから飲みこんで、瓶の水を直接喉に流す。冷たい水が腹の奥に落ちていく。
それからおそらくシンシアに借りたであろうドレスを、もう一度身に纏った。
いつもの簡素なものよりも、今日はこっちの方が紛れやすいと思ったのだ。これから行こうとしている場所には、おそらく人がたくさん居るだろうから。
片づけもそこそこに、セレナは儀式の間へと続く扉に手をかける。それから祈るような気持ちで扉を押した。その向こうには奥へと続く道が確かにあって、セレナは思わずほっと安堵の息を吐く。
ここまで閉じられていなくて良かった。
扉を開けた瞬間に、自分の体に絡む魔力の気配を感じた。
だけど何故だかそれが自分を捕えておくことなどできないことを、セレナはただしく理解していた。
まっすぐ奥へと進むセレナの足に、微塵も迷いはなかった。
ただひとつ心配だったのは。
「…っ、やっぱり、ない…」
儀式の間の泉の向こう。外へと繋がる道が、見当たらない。
そこにはただ白く揺蕩う泉の空間が在るだけだった。
ルミナスの結界の作用だろうか。理由は分らないけれど、ただ目の前の事実に歯噛みする。
「…どうしよう、急がないと…」
サラと約束したのだ。見届けると。
それに何よりもサラの体のことが気にかかる。
あれから三日も経って、その間もサラの体の痣は増え続けているとしたら。
きっとひどく不安で心細い日々を過ごしていただろう。
サラが自分からそれを明かしてくれたのはおそらく自分だけ。
独断でシンシアに明かしてしまったけれど、せめてシンシアがサラを支えてくれていると良いのだけれど――
とにかく今は。外に出たい。
行かなければいけない。
「お願い、出して…わたしに、道を……!」
必死に訴えるもそこには虚空があるだけ。
泉の水と淡く光を放つ石の空洞。
虚しく響くのはセレナの願いだけだった。
ふと、そこに。
白い残像が視界を掠めた。
随分と見覚えのある、その軌跡。
白い、蝶だ。
自分と、王子を繋ぐ――
「…そうだ」
これから行われる祭事には、王子たちも全員参加する。
あの修道院には、今日。みんな同じ場所に集う。
この蝶の術者はイリオスだ。そこにイリオスの意思があるのかはわからない。
でも。
セレナがいつだって縋るのは、祈るのは。
目に見えない存在ではない。
確かにそこに居る存在だ。
「連れてって、そこへ…! 代わりに何でも差し出すから…! わたしを、たすけて……!」
白い蝶はゆっくりと、応えるようにセレナの周りを旋回する。
それを思わず目で追って、そして再び向き直ったその向こうに。
道が、現れた。
これまでとは違う、太陽の匂いのする道が。
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