元自衛官、異世界に赴任する

旗本蔵屋敷

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3章 元自衛官、公爵の息子を演ず

四十八話

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 ストレスとは、決して看過出来ない兵士の損耗である。それを聞いたのは後期教育の途中だったと思うが、それがいつだったのかは思い出せない。
 前にマリーに対して薬を渡した時に、それを語って見せたことがある。ストレスとは何も生活だけで発生するものではない。確かに衣食住の三要素に絡むものは、決して小さくないストレスを蓄積させ続ける。安心出来ない場所や、雨風を凌げないとか、地面の上だとかでもストレスは溜まる。温かい食事が食べたいとか、食事が戦闘糧食ばかりだとか、普段よりも美味しさの質や量が落ちているとかも関係する。戦闘中は満足な着替えなんて出来ないし、洗剤を使って洗濯機や乾燥機を使った洗浄も不可能だ。
 それらだけでも長続きすれば嫌気が差すだろうが──親しい人物の死亡や、目の前や近くで誰かが死ぬと言うのは大きなショックになる。四六時中炸裂音が響くだけでも精神的負担はでかい、そして当然の事だが緊張が続いていけば弓のように折れてしまうか、弓自体が歪んでしまう。それと同じように人は磨耗し、素早い反応や感情の起伏が無くなっていく。
 ミスが増える、食事が喉を通らなくなる、思考がネガティブ寄りになる。そういったところから始まり、周囲からの孤立や意思疎通が難しくなるくらいに相手が会話を飲み込めなくなるなども発生し、最終的には状況も忘れて”逃走”してしまうか、或いは死んでしまう。精神的か、生命的かは除いたとしてもだ。
 現代戦では銃と言う武器がある異常、精神的に異常を来した兵士を前線に貼り付けては置けなくなる。何故なら、背後から味方を撃ち殺してしまうという自体が発生しかねないからだ。

 ──それでも、二次大戦や大東亜戦争末期の独日のような状況になればそんな事も関係なくなるのだろうが。

 俺は翌朝胃痛を抱えながらも何とか朝食を胃袋に流し込み、ハッコをつれてカイウス、リヒター、エリックの三名と合流した。

「クライン坊ちゃん。顔色が宜しくなさそうだが、大丈夫ですかい?」
「ん~、ちょっと緊張でお腹が……」
「おい貴様、クライン様の世話役じゃなかったのか!」

 俺が最近の立て続けな負荷に耐えかねて腹を痛めていると、それを聞いたエリックがハッコに怒鳴った。世話係なんだから体調管理もしっかりしろよと言うことなのかも知れないが、それに関してハッコは毛の先ほどにも責任は無い。

「えぇ!? そんな事言われても、緊張で腹が痛いとかどうしようもないッスよ!」
「大丈夫ですか? なんなら、戻ってゆっくりされた方が宜しいかと」
「いや、大丈夫。最悪の場合ここに戻ってこられるように予定を組み立てよう。
 それで、今日の予定はどうなってるのかな?」
「はい。今日は二日目と言うことで先日と同じように戦闘が継続されます。
 矢は減り、魔力も減ってきた頃合です、そろそろ何らかの動きがあるでしょう。夜の攻防は今回は互いに成果無しだったみたいですから、悪く言えば昨日となんら変わらないかと」
「今までは魔物を相手にした戦いしかして来なかったからな。急に人間を相手にした戦い方を考えると言うのも難しい話だろうよ」

 リヒターとエリックの話を聞いて、成る程なと思った。やはり知性の差とかが大きいのかも知れないし、集団として戦うと言うことでいろいろな研究をしてきた人間同士でぶつかり合えばうまくいかないのも仕方の無いことかも知れない。つまり……対人戦闘に関しては未開だと? そんなアホな……。
 頭が痛くなりそうな俺だったが、その表情を腹痛によるものだと勘違いされたらしい。リヒターが俺の背を押す。

「ほら、クライン様。貴方に大事があっては大変ですから。
 休むのもまた重要な事です」

 そう言われ、俺はどっちつかずの態度になってしまい、結局幕舎へと押し込まれた。そして誰が呼んだか分からぬ神官によって念の為と診て貰われ、お茶が宜しいでしょうと振舞われることになった。屋敷に居る時は紅茶だの牛乳だのと口にしていたが、ここでは口にしていなかった。ワインは結局酒なので負担になるし、お茶は大分ありがたいと思った。

 何だかんだ、敵意や害意と言ったものには余りストレスを感じないが、期待と言うものにはかなり弱いことを思い出す。今回だってクラインを演じていると言うのがかなりの負担になっている、お前しか英語話せないんだとか言って米軍の応対をさせられているような気分にでもなってしまう。
 あの時はマジで酷かった、支援活動だったから人員は限られていたし、活動の結果更に別行動となったが為に英語の出来る陸曹の人が一人も居なくなった事で酷い目にあった。

 なお、単純に「ここで何してんの?」という会話であり、別段日米間での齟齬や摩擦などではなかった模様、けれども相手ではなく先輩とか上官の「おめー、ミスったらヤバいぞ」という負担が酷かった、コーヒーを飲んだ後と言うこともあって嘔吐しかけた。そんな二等陸士時代でした。

 ベッドで目蓋を閉じて居るだけなのに腹が痛む。実は、気づかないフリをしているだけであって、頭の中ではもう大分クラインを演じることに綻びが生じているか、姫さんの一件で破綻しているのではないか? そう思ってしまうと、何とか整合性を持たせる為に考えてしまう。姫さんは事を理解してくれた、グリムも既にこっちに来ている、アルバートはグリムに見てもらいながらも騙せている、アルバートの父親やエクスフレア、キリングなどは完全な部外者だ。

 ──屋敷に居る時は目の数耳の数人の数が少なかったが、ここは余りにも多すぎる。安請け合いだっただろうかと今更後悔しだす、いつも後悔してばかりだ。大丈夫です、出来ます、何とかします──そんな言葉が第一に出てしまう、そして気が付けば荷物の量とその重さに勝手に押しつぶされる。

 良い子ぶりたいのか? それですら自分が認められるための──受け入れてもらうための手段でしかないのに、余りにも傾倒しすぎてないか? 考える、沈む、沈み込んでいく。腹痛が酷くなる、頭痛までしてきた。それでも、我慢しろと自分に言い聞かせた。いつか誰の目も気にせずに生きられるときが来る、誰かに依存しなければ明日すら危うい今からも脱却できる。そう信じないと、ただのお人よしの馬鹿でしかない。

 あと少しなんだ、もう少し耐えればクラインがやってくる。そうしたらこんな柵とはおさらば出来る。そうしたら数日休みを貰って、またやりたい事をやるんだ。こんな二十四時間勤務に近い日々が半月近くも続けば胃だっておかしくなる。

 眠ろう、眠りにつけば回復はするはずだ。そうだ、眠ろう。一時間でも良い、三十分でも良い。とにかく、頭と体が切り離されて眠れれば身体は回復するんだ。

「──……、」

 そうやって、どれほど意識を遠ざけていただろう。結局、眠ると言うことは外部の情報の大半から遠ざかり、己を見つめる事しか出来なくなる。そうしていると、自分の中に沈み込まざるを得ずに迷子になってしまう。暗中模索、そんな悪夢とも現実ともつかない夢を見る事を考えると、いつものように寝ているのかそうじゃないのか分からない様な状態で時間を過ごしてしまった。
 だから、俺は自身を揺さぶる存在に気づくのが遅れた。ぼんやりとしていて、視界も滲む。

「ミラノ……?」

 相手の名前を呼ぶ、けれども相手は苦笑するだけで──徐々に、思考が巡り視界がクリアになってくると別人だと言う事に気が付いた。鏡の向うで良く見た人物だ、ただ──俺の姿ではない。髪の色も、目の色も、柔和な表情も別人のものだ。
 跳ね起きてから腹が痛む。イテテと呻くと、相手は苦笑した。まるで俺のように、或いは……その人物らしく。

「ごめん。それと、ただいま……かな」


 ──☆──

 俺は、クラインが来た事にすら気がつけなかった。それどころか極度の緊張から解放されると言う、弛緩効果で嘔吐しかけるという無様まで見せる。仕方が無いだろう? だって、自衛隊のような上下関係とかじゃなく、学校のような上下関係ですらない人間関係の構築を、社会に出てからした事が無いのだから。
 やりたい事が有るけど不愉快にならないだろうか? この発言は相手の機嫌を害さないだろうか? こんな事をしたら、こんな事を言ったら相手は幻滅するんじゃないかとか──その時点で負荷が酷い。仕事とかなら問題ないのに、個人だとどうしようもなくなるのはどうにかしたい、割と本気で。

 そして暫く話をした後に、俺はようやく重すぎた荷物を降ろす事になる。服を若干着慣れてきた貴族服から、この世界に着てからずっと来ていた唯一の私服へと着替える。流石に下着までこの場で脱ぎ捨てる訳にもいかず、そこは我慢することにした。

 靴下に皺が残らないようにしながらミリタリーブーツをはき、弾帯だのナイフだの携帯エンピだの水筒だのを腰にぶら下げ、レッグホルスターだの今まで持っていた剣だのもぶら下げ、指だしグローブも手につけて準備は出来た。着替えが終わった時点で鬱々としていた気分は幾らか晴れており、頭痛も腹痛も僅かなものへと落ち着いた。景気づけに、俺は酒を二口分ほど飲んでいる。

「どうやってここまで?」
「普通に、こっちまで馬を飛ばしてから普通に歩いて来ただけだよ。まさか倒れてるとは思わなくて、ここに入るだけでも少し苦労したよ」

 そりゃそうだ。クラインは現在腹痛──というか、体調不良で寝ている事になっている。そんな人物が颯爽と馬に乗って現れ、普通に出歩いていたら周囲の人物は驚くだろう。神官とかハッコとかエリックあたりが目にしたなら騒いだことだろう。

「君には負担をかけたね」
「いや、いいよ。どの道受けるしかなかっただろうし」

 着替え終わり、一息ついた俺を見ながら彼は苦笑した。事実──受けないで屋敷に来た所で、公爵夫人に見つかれば似たような結果に落ち着いていただろうと思う。
 息子だと思って、実の子だと思って滞在してくれとか言われる可能性だってある、そちらの方が負担は微々たる物だっただろうが、結局母親──に似たあの人を元気付けたいとか考えていたに違いない。
 そして……話を受けていたら良かったと後悔していただろう、そんな自分を容易に想像できる、大体何をしても後悔してばかりだから想像力でもう一つの選択をした自分が考え付くのだが。

「それじゃあ、まず話を固めようか」
「話を固める?」
「このままじゃ君がどうやってここに来たのかの説明がつかなくなるでしょ?
 だからその説明を考えないと誤解されちゃうし」
「あぁ、そっか。そうだな──」

 軍事演習中に合流するとは思って居なかったので、流石に説明がないとダメだろう。そう考えてから、直ぐにクラインを見た。

「ちょっと待て。体調は? 無理して大丈夫なのか?」
「ああ、えっと。大丈夫、みたい? 今日、日が昇る前から馬に乗ってたけど、何処も悪くないよ」
「ファ……」

 日が昇る前から? となると、時間的に四時間以上ぶっ通しで馬に乗ってたの? なにそれ、怖い。呆れる事しか出来ず、クラインを呆然と眺めていると苦笑していた。そういえばあの薬を飲んでから体が丈夫になったとか強くなったとか言っていたし、その影響かも知れない、そうじゃなければ半月程度で数年昏睡していた奴が自立して行動する上に無茶なんて出来無いだろう。
 考えるな、感じるんだ。そんな勢いで無理矢理納得することにした。

「──いっそ、暴露した方が早い気がしてきた」
「どういう意味だ?」
「え? 単純に『僕が目を覚ましたけれども、その事実だけを一足先に伝える為戻るまでの間代役に立ってもらった』と言うだけの話だけど」
「まあ、確かに摩擦は少なさそうだけど……」

 それはそれで問題があるんじゃないか? どのようなリスクがあるのか考えてみるが、やはりクラインだと思って俺に接していた人物の大半が反発を覚えるだろうな。要らぬ事を喋ったとか、クラインだからこそ話したこともあれば、忠節を尽くした人物も居るだろう。
 流石に命までは狙われないだろうが、少なくともやり辛くなるのはあるだろう。ただ、クラインがこう言った以上は公爵もそれを飲まざるを得ないだろうと言う打算もある。つまり、何だかんだ話は拗れないし、快刀乱麻な一手とも思えた。

「悪い、手間かける事になる」
「いいよ、別に。君は僕が居ない間同じくらい手間と面倒と迷惑をかけたんだから、これくらいはしないと。それに、父さんも少しは槍玉に挙げられないと割に合わない」
「はは……」

 話はとりあえず纏まったと、俺は靴もはき終えて少しばかり自由度の増えた体をほぐす様に動かしていた。そして次にやるべき事は何かと言われれば、幕舎を出るだけだ。じゃなきゃ始まらない。
 そう考えていたら、クラインは笑っていた。なんだろうかと彼を見ていると、人差し指で自分の顔に向けてクルクルとやっていた。なに? クルクルパー?

「顔、僕のままになってるよ」
「ああ、そうだった……」

 俺は何故かは分からないけれども、自分の姿が変化しても半ばそれを実感できないで要る。変色してしまった目から見ると素の俺が見えていて、片目を閉じるなりしないとそこらへん認識できないのだ。まだ色々な事が不明なこの目だが、夜目が利いたりと不便じゃない所もあるので五分五分と言ったところか。
 視認を誤魔化す魔法をディスペルで解除する。クラインが頷いたのを見て、俺はもうクラインの仮面を被っていないんだなと理解した。達成感など無い、ただ一つの出来事が済んだというだけで──暫くしたら”成果”が正なり負なりで現れて、実感できるのだろう。

「それじゃ、行こうか」
「ああ、頼む」

 クラインを演じすぎた反動で口調がおかしくなってる気がするが、それも仕方が無い。また暫くすれば戻るだろうと思いながら──ずきりと痛んだ腹をおさえた。


 ──☆──

 幕舎を出れば、当然のように驚かれる事となった。外見が殆ど似通っていること、いつそんな男が入り込んだのかと言うこと、様々な事が聞かれ、訊ねられ、疑われた。しかしそんな彼らの言葉をクラインは父親の名と事情を持って全て切り伏せた、そこに俺は一切口出しして居ない。
 ただ、当然のように先日親しくさせてもらった四人とは疎遠になってしまったようだ。理由や事情は理解してもらえただろうが、騙った事実は変わらないのだから。ただ、クラインは流れを相手に渡さないようにテキパキと処置を進めてくれた。
 ──言う必要は無いだろうに、俺がクラインを病床から助けたとか、その上でこんな苦労を担ってくれたんだとか、情にまで訴えかけているのを見て、俺は居心地が悪かった。

「ハッコ、カイウス、リヒター、エリックの四人はそのまま僕の応対をして欲しい。
 馬が使えるかどうかの確認をしよう、その上で使えそうに無いのなら徒歩だ。それからこの周辺の地形に詳しい人物、あるいはそれらを示した図を入手すること。今日の軍事演習の流れの把握と、部隊に関しても知っておきたいかな。それらが終わったら出発しよう──ヤクモはどうする?」
「あ、えっと。一応、ついて行こうかな」
 
 針の筵というか、こんな場所で放置されるのは御免被りたかった。クラインが居なくなったら幕舎に引き篭もるか、さっさと馬を走らせて屋敷まで逃げるしかない。
 けれども屋敷に行った所でミラノやアリア等が来てくれるまで入ることすらままならないだろうし、その判断をする公爵が軍事演習で応対不可な事を考えるとそれすら賢い判断とは思えなかった。

「けど、その……クライン?」
「ん、なに?」
「今言った言葉、俺が昨日まったく同じ事を言った訳でして……」

 何年も寝込んでいた割には頭が回りすぎじゃないだろうか? そして当然の事ながら四人は少しばかり戸惑っていたが、直ぐに先日の繰り返し──というか焼き直しをする。当たり前だ、全員が昨日そう指示されたのだから、意識は「昨日と同じ事を言われるかも知れない」という方へと向いている。
 それぞれにクラインの指示が果たされた報告がされる。ハッコが地形を、カイウスが地図を、リヒターが馬と荷物の手配を、エリックが今日一日の流れと部隊の配置をクラインに伝える。それは俺が体調を崩していなければ俺が受ける報告だったが、ただその相手が変わっただけだ。もっとも、彼らからしてみれば本来の相手なのだが。

「ヤクモ。どれくらいで出られそう?」
「俺はいつでも出られる。徒歩、馬、何でも大丈夫」
「そっか、なら徒歩になるけど大丈夫かな? 馬に荷物を括るだけにしようと思うんだけど」
「問題なし」

 右腿のホルスターに拳銃、腰の左に剣。とりあえず戦闘になるような事には対処出来るし、ストレージの中には温食だのヒートパックだの缶詰だのと沢山保存されている。だから俺が居る場所に倉庫がくっついて来ているようなものなので、特に荷物なんか不要だった。
 それを確認するとクラインは少しだけ考え込み、ハッコに「もう一人分の食事とか都合できないかな?」と聞いて、ハッコが駆け出したのを見送ると「彼が帰り次第出発だ」と告げた。そしてそれは数分で片がつき、馬に荷物が括りつけられるとクラインが俺の肩を叩く。

「それじゃ、ミラノにしているように、僕の護衛と言う名目で傍に居てくれるかな」
「お姫様はお屋敷でアリアと一緒だよ。いや、カティアとヤゴも一緒か。……というか、屋敷には顔を出したか?」
「え? ミラノ達は後で会えるけど、軍事演習は数日で終わりでしょ?」

 優先順位どうなってるんだと思ったが、俺も死んだりしながらも自分を優先させた事が無かった気がするので何も言い出せなかった。今日はクラインの護衛が仕事になりそうだが、今までに比べると演じる必要が無くて気楽さで言えば俄然トップだ。
 だから請け負うことにした、どちらにせよやる事は無いのだし、それを言い訳にして負の感情を向けてくる相手からは逃れられるのだから。周囲の人物は厳選されるのだし、その分更に負担は少ない。これほどの良い状況を見逃す訳にはいかなかった。

「それじゃあ、宜しく頼むよ? 英雄君」
「頼まれましたよ、寝起きの君」

 彼に笑顔で頼まれて、自分の顔と声であってもこんなに別人なんだなと思わないでもない。複雑な気持ちを抱いたままに、先日までは親しくしていた四人とは離れて歩き出す。しかし、なんだ。二度寝と安堵感の影響でか、とてもじゃないけど眠い。

 一気に緊張感を失った俺は、思考が空転しだして歯車がかみ合わなくなった自分の頭の状況を理解する。それでも、後始末と言うものが残っているので気を抜けなかった。
 水を魔法で出して顔を何度か洗う、そして顔を拭って幾らか気持ちを切り替えると水筒の水を飲んだ。

 ……コーラとか、炭酸が飲みたいなと今更ながら思う。炭酸飲料の造り方なんて分からないが、そこらへんはアーニャに頼もう、もしかすると今頃拗ねてるかも知れない。何だかんだ頼られたり話をしたりするのが楽しみだった見たいだし、もう大分彼女の顔を見てないし声も聞いてない。余裕が無い時はさっさと寝てしまうことが多いし、睡眠においては酒が導入剤代わりになっている事が多いので素の睡眠はそう多くない。今夜とかなら大丈夫そうだとか考えてみた。

 先日に比べれば双方攻めあぐねていたり、かと思えば少し賭けに出るような行動も散見された。魔法による攻防も連日となると辛いものがあるのか、先日は互いに攻撃が通らないような状況だったが、互いの部隊に被害が生じ始めた。

 騎兵の牽制や突撃が目立ち始め、魔法で穴が開くとそれが綻びとして見られるや否や突撃も行われる。そしてエクスフレアやキリング達もまた部隊として出ているのだろう、魔法と兵士が連動して動いている所が見て取れる。そしてそれに反応するかのごとく歩兵が突っ込んで行った、あれはザカリアスに違いない。──貴族は後方で指揮するだけと聞いていたけれども、それは”多数”なだけであって、公爵家のような国王の次に偉いくらいになるとそうじゃなくなるのだろうか。

 クラインは四人に話を聞いて、理解を示しているようだ。ただ──なんと言うか、そこに関しては俺のほうが幾分軍配が上がるらしい。余り褒められたことじゃないだろうが、他人の嫌がる事に関しては俺の方が前を行っていると言うことなのかも知れないし、自衛隊で下っ端だったけれども六年も勤務していた事が役に立っているのかも知れない。

 嫌がる事……。睡眠の妨害、最低水準の寝床の破壊、糧食の焼き討ちや薬物の混入、武装関連の損失、指揮官の不在──色々な事がある。最前線で戦うのは個人じゃなく集団だからこそ、その集団心理を逆手にとってやりたい事をして、相手には何もさせないと言うのが──いつだって有効だろう。

 とすると、ヴァレリオ家の模索した結果作り出された、魔法使いで少数編成した部隊での作戦行動というのはある意味良い着眼点なんじゃないかと思う。あとはその魔法使い達を近代戦のように行動できるようにして、使われるだけの兵士じゃなくそれぞれに思考する兵士に出来たなら──もっと有用なものになりそうだ。

 ユニオン共和国の武装への傾倒、フランツ帝国の宗教重視、ツアル皇国の指揮官の前線における作戦行動。それぞれを引っ張ってこれたなら、或いは強い軍隊も作れるかも知れない。絶対の上下関係、現場における下士官の優先権、国家への忠誠心、指揮するものが死んでも次に序列が高い者が引き継いで作戦を続行するという概念。

 貴族の為の軍ではなく、国の為の軍。作ろうと思ったらそれなりに俺が偉くならないと試行錯誤することすら出来ないだろうけど──。

「ま、夢物語だわな」

 今の俺は国にすら仕えていない上に、その身分や身元ですら安定していない。つまり理想と書いて”夢物語”でしかないので、手の届かないものであるなら考えるだけ無駄だった。
 欠伸を漏らし、拳銃を抜いて誰も居ない方角へと構えてみる。ここ暫く十分に触れなかったが、それでも手に馴染む。八九小銃も出したかったけれども、長物として既に剣を帯びている以上、二つも邪魔になりやすいものを携行する気にはなれなかった。それに、余り物々しくすると警戒されかねないし、武器の説明をしたら余計警戒されるだろう。狙いをつけて引き金を引くだけで人が死ぬのだから、暗殺とかなんだとか言われたら勝ち目が無い。

 それでも、俺がこの世界において最大の利点や武器となるものといったらこの銃達しかないだろう。それを武器にして自分を売り込んでいくしか道は無い。偉業を成すのも小さな一歩から、目標さえ見据えていれば何をすべきか自然と分かって行動できるはずなのだから。

 クラインの勉強タイムは終わりを迎えることは無い。そのまま昼を向かえ、クラインの腹が鳴るまで、とりあえず俺は居ないような感じで、ただただ拳銃を構えたり回したり、剣を抜いてみたりと暇な時間を過ごすのであった。


 ──☆──

 クラインが屋敷を通り過ぎてそのまま軍事演習に向かった事を知らないまま、今日もミラノとアリアは魔法に関して互いに唸っていた。軍事演習が──血と暴力が近場で起きているにも拘らず、その怒声も騒音も届かないが故に彼女達はただただ良い天気と日差し、そして心地よい風を受けながら庭で机に本や紙やらを広げていた。

 ミラノとアリアが丸机に向き合っているのとは別に、ザカリアスが居ないから一人で鍛錬に励んでいたヤゴと、それを見て居るカティアも今日は居る。先日はヤゴに同行し、カティアはヤクモに託された言伝をニコルに伝えた。そして──汗をかくのは嫌といっていた彼女にしては珍しい事に──ヤゴにお願いして回避訓練をしていた。

 彼女なりに、今はヤクモに比べると長期的な行動や活動が出来ないという不利を理解していて、なら最低でも短時間でもいいから”凌ぐ”という事を学ばなければならなかった。
 だから先ほどからヤゴに相手をして貰っているのだが、そもそも知識が有っても経験が無い彼女は、外見年齢の割には最初こそ上手く立ち回りはするものの、一手ごとに無駄が彼女の優位性を削り取り、そして二桁にも満たない攻撃を回避して積みとなっていた。
 回避が出来なくなり、苦し紛れに防御をする。それでも防御をした時点でヤゴに捉えられ、フェイントや連続攻撃等で”王手”とされた。

 それでもヤクモと手合わせをしていた時はお互い打撃として相手に当てていたが、ヤゴは外見的にも経験的にもそうしなかった。ヤクモとしていたのは真剣なものであり、互いに同等であると認めたからこその手加減できずに互いに攻撃が当たっていただけの話だ。カティアは──ヤゴにとってはただの”指導相手”でしかなかった。

 それでもミラノやアリアが見る分には「よくやっている」というのが正直な感想であり、彼女達はカティアよりも年上に見えるものの、その身体能力においてはカティアと比べるのが可哀相なほどであった。アリアはそもそも”運動”と言うものが出来るような身体ではなく、ミラノはミラノでダンス以上の事をした事は無いのでカティアがしているように回避をすれば足を挫くだろうなと考えていた。

「カティ、一旦休もう? これ以上続けても、もう続かないよ」
「っ……。わかっ、た──」

 ヤゴに比べるとカティアの疲労度は深刻で、自分を追い込むといった事をした事が無いのも鍛錬や訓練に繋がる事をした事が無いのも大きく関係していた。それでも、以前に初めてヤクモと共に走り、涼しい顔をしているだけだった自分に気が付いてからは少しだけ──それでも、皆無ではないなりに鍛えた。それでもダメだったのだが。

 地面にへたり込んでいた彼女だったが、何とか立ち上がると思い切り頭を下げた。彼女なりに世話になった事に対する礼であり、ヤクモも手合わせをする前とした後でそうしていたから同じようにしている。普段とは違う風に結ばれた髪がその勢いにつられて大きく揺れる。そして一歩踏み出した瞬間に崩れ落ちかけ、そこをヤゴが咄嗟に腕を掴んで転ばぬように計らう。

 以前のように、気が緩んだ所で身体と意識が戦闘状態ではなくなり、無視していた疲労が一気に現れた所だった。カティアは何か言いかけたが、それも「ありがとう……」と、消え入るような声になった。

 公爵夫人は今日も庭に出てきているが、そんなヘトヘトのカティアを見て微笑みながらヤゴを手招きし、ヤゴは首をかしげてなんだろうと思うも、特に疑問を抱く事無くそちらへと歩いて行き、公爵夫人の指示で彼女の傍らにカティアを椅子へと座らせることになった。

 公爵夫人は疲労困憊で、椅子に腰掛けてからはだらしなく手足を投げ出している彼女に魔法を使い、その熱気を発散させ不愉快じゃないようにする。娘にするように、カティアへとそうしていた。そのついでのようにメイド長のアークリアへと指示を出す、汗だらけで疲れきっている彼女が風邪をひいたり”レディらしくない状態にならないように”との指示だった。
 ヤゴはカティアを預けると、その足でミラノ達へと近寄る。

「やほっ、二人とも頑張ってるねぇ」
「ヤゴもお疲れ様、それと有難うね」
「いいよいいよ、たまにはこういう事しないと手加減とか忘れちゃうし。
 クラインとばっかり手合わせしてたら、そのうち本気で弱いもの虐めとかしちゃいそうで怖いもん」
「よわっ……」

 ヤゴの言葉を聴いたカティアがショックを受ける。彼女なりに本気で臨んだが、それですら切り捨てるような発言がグサリときたようである。その言葉がトドメとなったのか、カティアは頭ですら背凭れへと投げ出し、空を見るようにして脱力しきった。一休みしたらもうちょっと頑張ろうという一握りの気力が砕けたようである。
 ヤゴはカティアがそんな事になっているとは知らず、ミラノ達の傍で椅子へと座った。

「ねね。どんな感じ、どんな感じ?」
「ぜんっぜんダメね。試しに一つの魔法を文章にしてみたんだけど、実戦向けの魔法一つで両面埋め尽くしちゃった。しかも威力は下がるし、魔力の消費量も減らせてない。非効率なのよね」
「そもそもまだ学んでない事だから、仕方が無いのかも知れないけど……」

 先日、母親に色々尋ねたりと家族らしいやりとりをしながら、文言や文章、語彙等々を聞き、書き直し、接続させ、試した。そうやって丸一日かけて出来上がった物は素人らしい出来栄えで、暴走しても大丈夫なようにと水系統で試した。
 しかし、本来の魔法よりも大分ランクが下がってしまい、出てきたのは日常で使うような、攻撃ですらない勢いと量の水だった。

「何がいけないのかしらね……。選択した単語がおかしいの?」
「もしかしたら一枚の紙じゃダメだとか」
「けどオルバ様とアイツが戦ってる時に使った奴は、これっくらいの小さな紙切れだったじゃない。
 一度使うと書き込んだものが全部消えちゃうらしいけど、それでも私が試しに作った奴よりも小さかったし……」

 ミラノとアリアのやり取りを聞いてるヤゴは魔法も使えない一般市民ならぬ庶民なので、一切のことが理解できなかった。そもそも魔力とか、魔法とか、その為に言葉選びが重要だとか”七面倒”な事は彼女は好かない。在るがままに生きて、手足が動き、思考が続けられ、鼓動が高鳴り続ける限り剣を振るう。相手が多いか少ないか、それは覆すことが出来るかどうかだけが重要で、生き延びたなら金銭と飲食物の心配をすればいいという思考。

 それは教育と言うものの大半が”金持ちの道楽”だからであり、祖父に当たるザカリアスが騎士階級に属していても、当代限りであるが故になんら関係の無い 話なのだ。本来であれば幼少期に暇を見ては教会などで字の読み書き等といった事も学べるのだが、その途中で父親が急逝した為に本能的な生き方へと傾いてしまった。
 だから「何難しいことを言ってるんだろう?」と、思考がショートした。

「二人とも、難しいことやってるな~。私にはさっぱりわかんないや」
「──分からなくても仕方が無い事をしてるから、そう思ってもしかたがないわね」
「だってさ、言葉は言葉じゃん。その言葉の一つでそんなに違うの?」
「ヤゴ。相手によって言葉の言い方を変えるのは分かる?」
「えっと……」

 ミラノにいきなりそう言われてもパッと出てこないヤゴ。暫く唸るようにして迷っていたが、ミラノが小さくため息を吐くと一つ例を出す。

「例えば”食べる”という単語ならどう?」
「食べない、食べます、食べる、食べるとき、食べれば、食べろ!」
「それは使い方……」
「あれ、違った?」

 それなら分かると言わんばかりにヤゴは勢いよく羅列していったが、その一つですらミラノが求めた回答にかすりはしなかった。アリアは苦笑して、サラサラと自分が使っていた紙の余白に求められていた答えを書く。

「えっとね。召し上がる~とか、いただく、食べます~って言うのがそうなんだよ」
「どれも使ったこと無いけど、それが魔法とどう繋がるのさ」
「言葉の使い方で、相手にどう伝わるかと言うことよ。カティアじゃないけど……こほん……。
 ご理解頂けるかは分かりませんが、食事を召し上がられては如何でしょうか?」

 ミラノは丁寧にそう言うが、アークリアが咳払いをする。話の流れでとは言え、貴族がただの庶民に謙った物言いをするのを諌めようとしたようだ。それを視線のみで確認し、聴かなかった事にしてミラノは話を進める。

「今の聞いて、どう思う?」
「じいちゃんを思い出した。私に対してもそんな感じで喋ってたな~って。
 なんか、こう……人として凄い感じがする」
「それを砕くとどうなるのか……自信は無いけど、こうなるのかしら。
 おう野郎ども、チンタラしてないでメシを食え!」
「エヘンエヘン!!!」

 アークリアが更にやかましいくらいに咳払いをするが、今度は目線もくれずにミラノは無視をした。それを聞いたアリアは噴き出して、機嫌が良さそうに笑みを浮かべた。

「なんだっけ? 海賊の娘って本だっけ、姉さん」
「ええ、そんな描写があったのを思い出したのよ。今度はどう? ヤゴ」
「なんか──さっきの聞いちゃうと、比べたら人として質が低そう」
「と、ちょっと脚色と装飾をしたけど”食べる”という単語一つをどう言うかで印象が大分違うのが分かるでしょ。
 あと、土に連なるもので砂とか、石、岩とか有るけど、どれを選ぶかで強度に違いが出ると言うのもあるの。水一つでも”川”だと穏やかだけど”滝”だと激しくなるし、”渦潮”にするともっと勢いが出るような感じかしら」
「なるほど! ミラノあったまいい!」

 言葉を選ぶ事がどれだけ重要なのかと言う事を理解したヤゴはミラノを褒め、勢いで拍手までして喝采していた。そんなヤゴとは対照的にアークリアの視線が冷えた物になっていたが、それですら死ぬか生きるか──というよりも、身近な人が実際に死んだ事実を目の当たりにしたミラノにとっては既に恐ろしいものではなかった。

 以前であれば鬼のアークリア、仏のザカリアスとして屋敷での意識を大幅に割かれていたものであったが、怒られても別に命が取られる訳じゃ無いと悟ってしまったのであった。
 実際に鋭利な刃物や斧等といった得物を持ち、人間に似通いながらも違うオークだのゴブリンだの、更には狩りに特化したウルフ等と言った脅威に晒され、一歩間違っていれば──少し遅れていたなら橋ごと葬り去られていた可能性すらあったのだから、肝が据わるのは仕方の無いことであった。

「けど、言葉を選んでも今度は長くなりすぎて効率が悪くなったりすると言う問題も有るの」
「どゆこと?」
「話が長いと嫌じゃない?」
「うん、嫌だね。眠くなるよね」
「それと同じで、やりたい事をやろうとして言葉を沢山並べると──摩擦、って言うのかしら? それで私が魔力を百流しこんでも、言葉を通り抜けていく内に散っちゃって弱くなるの。
 長い話を聞いていたら、結局何が言いたかったのか分からないのと同じ」
「眠くなるからな~」
「だから字数を少なくしながら、けれども制御できるように、かつ威力を保持しつつ、魔力の消費を抑えて、何度でも使えるようなものにしたいけど──」

 ミラノが取り合えずで試したものは、どれかを立てればそれ以外の全てがダメになると言う結果に落ち着いていた。それはやはり未知であり、何も知らないからこその結果ではあるが、そこで誰かを頼ると言うのは難しい話だった。

 学園では基本や基礎程度なら学べるが、それ以上の事を知るのは難しい。理由として、魔法の多くが研究や軍事等といった物へと結びついており、それらの多くは秘匿され、知ろうとすれば軍事秘密窃盗罪等で処罰されかねない。そして歴史上知られてきたものもあったが、少なくない数「適正の問題」で行使できず、そうとは知らずに消えて行ったものもあった。

 ツアル皇国、神聖フランツ帝国、ヴィスコンティ、ユニオン共和国──元は十二英雄が戦後、それぞれに新しく町を興したところから始まった”人類復興の為の集い”であった。しかし、それはいつしか生き延びた人類と言う枠組みから外れ、それぞれに国の形態を作り上げていった。その結果、今現在では魔法の教育とは”人類が再び危機に陥った際に、多くの魔法使いによって滅亡することが無いように”と言う理念は歪み、それまで魔法の研究とその成果を供与していた繋がりですら断たれた。
 一昔前までの「それぞれの国が持つ特色と、発見された魔法で教育が充実する」という事が無くなってしまった。結果、一部の善意者による提供を除き、魔法の進歩も遅れるようになってしまった。

「アリア、何かいい考えはない?」
「ん~っとね。やっぱり、模様って言うのかな? オルバさんのお札みたいなの、アレの意味を聞いた方が早いかも」
「そうね……けど、教えてくれると思う?」
「どうだろう……。けどね、聞かないよりは聞いてダメって言われた方がすっきりしない?」
「ダメって言われると余計気になるって可能性もあるけど」

 そう言ってから少しばかり互いに沈黙したままに目線を絡める。けれどもどちらとも無く息を吐いて目線を切ると、再び紙やら本やらに向き合い始めた。ヤゴは本や字を横から見てみたが、言い回しなどの問題などから理解はまったく出来なかった。

 二人がまた集中状態に入ってしまったのを見て、ヤゴは立ち上がると再び庭の中程まで進んでいく。そしてカティア抜きでの単独鍛錬が始まった。剣を鞘ごと背中へと括りつけ、片腕で腕立てをする。今でこそまだ年の割に有力な人物として名が通っているが、それですら領内だけでの話でしかない。性別が違うために、外部から来た男に”手篭め”にされかけることも皆無ではなかった。

 強くある事、その分人を守ること、それによって仲間や味方を作ること、そして一人ではどうしようもない事を皆でならどうにかすると言う事に、彼女は行き着いていた。普段は他の仕事をしているが故に、戦いに関しては劣る人物は少なくない。中には税の支払い等で逼迫したが為に、不慣れな事をする人も少なくないのだから。

 ヤゴが鍛錬に沈んでいき、ミラノとアリアが集中し、カティアが休息で疲労と向き合っている中で何かに気が付いたように体が跳ねた。そして手足を突き出したままに数秒ほど硬直し、ゆっくりと弛緩していく。それを見た公爵夫人は「あらまあ」と驚き、アークリアに医者を呼ぶように言いかけてしまった。

「あ、違うの! えっと……ご主人様から、ちょっと声が届いて」
「あら、そうなの? けど、本当に少しでも調子が悪くなったら遠慮なく言って頂戴」
「は、はい。有難う、御座います」

 カティアはそう言って、席から立ち上がろうとした。しかし、普段やらないような運動や負荷を続けたが為に力が入らずに一歩目で地面へと転んだ。タダでさえ猫であった所が抜け切っていないが故に、手足の動かし方を少し間違えてしまう事がある。感情が高ぶったり、驚いたりすると顕著であり、彼女はちょくちょく転んだりしていた。
 それでも公爵夫人が手助けをするようにとアークリアに告げる前に、自力で何とか起き上がり、ヤゴが座っていた席まで歩いていった。当然、空白だった空間に何かしらの存在が現れたことでミラノとアリアの意識はそちらへと割かれた。

「ミラノ様、アリア様。少し、お時間いただけますかしら? それとお耳を少しばかり」
「──主人から何か言われたの?」
「ええ、そうですわ」

 カティアは余裕が幾らか戻り、口調を演技にする事でミラノやアリアが耳を寄せる事に意味を持たせた。彼女なりに”聞かれたくない”と言うことを言外に伝えたつもりなのだろう。
 そして、彼女は静かに告げる。

「”ヤクモ”が、着ましたわ」

 当然、事情を知っている二人からしてみれば何を言ってるんだと言う話になる。しかし、声を潜めながらも隠し切らない声量だった事や事前に演技をしていた事から、察する。そして少し離れた位置に居る公爵夫人とアークリアがその名前を聞き、それぞれに反応していた。

「ヤクモというと、ミラノが召喚した人でしたっけ?」
「ええ、そのように聞いております、奥様」
「あらあら。娘達が世話になった方だから、大切にしてあげてね」
「承知しております。ですが、此方にではなくクライン様の方へ行ったと言う事でしょうか?
 腑に落ちません、まずはこちらに顔を出すのが順だった行動ではありませんか」
「いいえ、アークリア。聞けば彼の者はツアル皇国の人に近い性質を持ってると娘達から聞いています。
 兵士達を鍛える為にヴァレリオ家との演習がされると聞いて、この家の主人もそちらに居ると聞いたのではありませんか?」
「──そうかもしれませんね」

 そんなやり取りを聞いて、アリアが先に口を開いた。

「……って事は、”来た”って事だよね?」
「っ──。え? でも、こっちじゃなくて、あっちに?」
「ええ、直接だとか」
「ねえ、アリア。兄……いえ、アイツが軍事演習を知っていたとしたら、どっちに真っ先に行くか聞いても良い?」
「それを私に聞くの?」

 二人とも、少しおぼろげになり掛けている兄の事を思い返した。何故屋敷にではなく、直接軍事演習の場へ向かったのかを考えるために。しかし、それでも直ぐに互いの表情が変化した事で、思い当たる節があるようであった。

 興味がある事に対して、必要だと思う事に対して夢中になりやすいと言う事だった。そして二人の中では「この軍事演習を見逃したら、次はいつになるか分からないし」と言っているクラインがありありと想像出来た。

「ねえ、二人とも。ヤクモという人はお世話されるのは嫌いかしら?」
「アイツは──分からないけど、たぶんあまり好きじゃないと思う」
「うん、何でも自分でやるような感じだったよ」

 二人の言葉通り、ヤクモは多くの事柄を自分でやる事を良しとしていた。最近でこそある程度カティアも”お願い”されるようになってきていたが、それまでは本当に自分だけで多くを対処していた。今は幾らか口を割るように──否、悩みながらでもあるが色々と語るようになってきてはいたが、それでも多くの事柄を抱えているような状態である。そんな人物が果たして”客人”として、ちやほやされるのを好むかどうかを考えると、否定的になるのも仕方がなかった。
 ──事実、クラインを演じている間もメイドの手伝いだのなんだのと、大半の事を突っぱねているのでその認識で間違っていないのだが。

「あら、そうなの? けど、どうしようかしら。二人が世話になった事を、少しでもお礼をしたいのに」
「それだったら、お茶とお酒と紅茶と自由な時間を上げれば一番喜ぶんじゃないかしら」
「それで良いの?」
「アルバート……ヴァレリオ家の三男の彼と、ちょくちょく誘われてお酒を飲んだりしてるし。それに、英雄とかなんとか言われてるけど、基本的にやるべき事をやったら後はノンビリしているのが好きな人だから」
「そう?」
「あ、けど。食事は一番好きみたいだから、肉料理とか、味付けが少し濃い目の食べ物とか喜ぶかも」

 ミラノは少しだけ──ほんの少しだけ、思い至った事を付け足した。それは”そうしないほうが良い”と言うものではなく”こうした方が良いかも”と言った、相手を思いやる言葉だった。後ろ向きな発言ではなく、前向きな発言に公爵夫人とアリアが幾らか目を見開いた。そして不自然な空気にミラノがいぶかしむ。

「え、なに?」
「──いいえ、何でも有りませんよ、ミラノ。けど、そうね。貴女の言ったことを参考にさせてもらいます」
「そ、そう? なら良いけど──。アリアも、なんで笑みを浮かべてるの」
「ん~ん? 姉さんが、少し変わったなって」

 そう言ってアリアは笑顔だった。かつての事件でクラインを目の前で害され、父親からは療養と聞いてはいたが死んだのだと……父親の優しい嘘なのだと思っていたミラノは、学園に入って今の今まで他人と深く関わる事をしなかった。その結果”公爵家の娘”という呼ばれ方に恥じぬほどの優秀さを発揮したが、特定の誰かと親しくなるような事は無かった。

 そんな彼女が、前向きに「こうした方が良い」と言った事にアリアは喜びを感じていたのだ。少しでは有るが、姉のミラノの心が解れているのではないかと思えたから。ただ、ミラノは自分が変な事を言ったつもりは無いのでやはり怪訝そうにしている。

「何か気になるけど、そういうことだから。ただ母さま、驚かないでね?」
「似ていると言う事だったかしら」
「ええ。その……言葉遣いとかは違うけど、考え方とかは似てるから」
「大丈夫ですよ、ミラノ。分かっていますから」

 そんなやり取りをしてから、幾らかアリアとミラノの表情は和らいでいた。前倒し休暇、その原因は自分達の居た都市が魔物によって襲撃を受けた事である。何事も無ければ二人はもっと気楽で、気負わないままに帰省を楽しんでいた事だろう。その場合、ヤクモは死ぬ事も使い魔としての繋がりを失う事も無く、英雄と呼ばれる事も無いままに地位の低い扱いを受けていただろう。

 決して明るい気分で入った休暇でもなく、以前のような気楽さでの滞在にはなって居なかった。二人とも、二度と同じような目に会わないようにと魔法に対して必死になっているが、それもある種の逃避に近かった。だからこそ、カティアの報せてくれた”ヤクモが来た”という、遠まわしな表現に肩の力が幾らか抜けたようでもあった。
 話したい事は沢山あり、聞きたい事だって有った。けれども、何よりもその存在が確かで身近に感じたいというのが素直な所なのだろうが──。

「あの、私は詳しい事は聞かされてないのだけれども。演習って、何時までかしら?」
「アリア、何か分かる?」
「えっと、父さまが帰ってくるのは明日って事は分かってるけど──」
「じゃあ、なに? 屋敷を素通りした挙句、明日までは帰ってこないって事?」
「そ、そうじゃないかな……あは、は──」

 しかし、周囲の感情や思惑とは無関係な行動に、喜ばしく思うと同時に肩透かしを食らわせて言ったような所に気が付くと、頭が痛い思いをするのであった。元気な姿を見たいと言う感情よりも、軍事演習を見たいと言う個人の想いの方が勝ったと言うのも腹立たしかったようだが。

「アリア。兄さんって、こんなに自由奔放だったかしら」
「そうだよ、姉さま。兄さまは昔から自由奔放だったよ」
「──それも似てるのかしら」
「似てるよ、大分」

 そして、そう言った行動が”誰か”を想起させられる二人であった。

 ──☆──

 二日目も終わった、後は明日の昼前には終了して昼には相互の交流をするのが流れのようだ。クラインは昼、夕と先日の俺のように戦闘糧食を食べていた。そして似たような評価をしていて、四人は困惑したり苦笑したりとそれぞれの反応を見せていた。
 そして先日はハッコがクライン──と言うか、俺の世話係をしてくれたのだが、それは俺の役目になった。先日俺が寝泊りした幕舎で、俺が使ったベッドでクラインは寝る事になる。俺はハッコがそうしたように、数段ランクの下がった寝床で寝ることになる。

「いや~、間に合って良かったよ。昔から気になってたけど、何年も寝たきりだったから気になってて」
「それは良いけどさ。その……良いのか?」
「何が?」
「俺が世話役──と言うか、ここで寝ても。エリックなんか凄い顔をしてたぞ」

 夕食時に、今後の行動に関して話をしていた。屋敷に戻るのか、それともここで寝るのか~とか、明日はどうするのか~と言った事を踏まえた、全ての事に関してリヒターやエリックが聞いて来たのだ。
 当然のように俺は少し輪から外れた場所で、話を聞きながらも部外者のように同じ食事を口にする。けれども、やはり保存を利かせる為にと塩分が少し多いので飲み物が恋しくなるが、それもスープによって何とか補填できた。

 当然のようにクラインはここに泊まって行く事を告げ、世話役にハッコが続投される事となりかけたけれども、それすらもクラインは封殺。リヒターとエリックはそれぞれの表現で反対をしたけれども、クラインは譲りはしなかった。

「前は話が出来なかったからさ、これくらいの恩返しはしても良いんじゃない?」
「恩返しと優遇は違うからな? そこは勘違いして将来に関わらないようにしろよ」
「それくらいは分かってるよ。けれども、僕は命を救われたんだからそれくらいのお礼はしたいと思うのは変かな?」
「変じゃないけど、時と場合と場所を選んでそうしてくれると有りがたいかな。あっちの皆は長年公爵家に使えてきた人たち、対する俺はまだ一年も関わってない上に最近出てきたばかりの若造だし。変な噂でも立ったら将来難しくなると思うんだが」
「理由は話すけど、それでも納得がいかないのは仕方が無いし、だからと言って子供のように反発するようなら要らないかな。少なくとも僕も、妹達も──父さんも、母さんも恩義がある。それを軽視しろと言うのなら、到底飲めない」

 わぁお、メタメタに現実的。とは言え、これ以上変な事を言って過激な発言をされても困るので、俺は先日のように魔法の勉強でもすることにした。ハッコが居たときは”ストレージ”というものは隠したけれども、クラインとは通話だのなんだのと色々なものを教え込んでいるので隠す必要性を感じなかった。

 つい癖で視界に移るメニュー画面を手で触れて操作してしまうけれども、音声認識だったり意識するだけでも操作できる事が分かっている。なので目線を出来るだけ動かす事無く、目的の魔導書を取り出した。淡い粒子を纏いながら出現するそれを受け止めると、パラパラとページをめくる。

「君は、不思議な魔法を知ってるね。遠くの人と会話が出来たり、会話をする余裕が無くても文章を相手に送っておく事ができる。しかも──なんだっけ? 一つの集団みたいに登録をしておく事で相互の状態を確認しておけるとか、たぶん何処の国も知らないと思うよ」
「あ~、えっと。それは……」

 どう説明しようかと思い、直ぐに茶化そうと思った。一度死んだときに、神様が色々と加護を与えてくれたんだとか、そう言おうとしたのだ。けれども俺が何かを言おうとするよりも先に、彼はヘラッと笑みを浮かべた。

「いや、いいよ。根掘り葉掘り聞こうとは思ってないし、誰にだって言いたくない事、言えない事、言うのが難しい事、伝えづらい事が有るってのは分かってるから。
 隠し事があったとしても、それが当たり前だよ。僕だって色々隠してること有るんだからね」
「それは聞いてくれってフリだったりする?」
「さあ、どうだろうね」

 そう言ってクラインは自分でお茶を作り始めた。本来であれば俺がそうしたほうが良いのだろうが、彼が何も言わずに慣れた手つきで簡易ティーセットへと手をつけたので「俺がやろうか」と言いそびれたのだ。逆に「君も要る?」と言われてしまったので、辞退する。昨日開けたワインがまだ残っているし、そっちが俺の夜のお供なのだから。
 暫く互いにそれぞれの作業に没頭していたが、幕舎内に良い香りが溢れてクラインが自分のお茶の準備を終え、口をつけて一息ついた所で再び会話が始まる。

「君は、二人と仲良くしてるのかな」
「ミラノとアリアの事か? ──さあ、どうだろう。仲良くって言われると微妙だし、なんと言うか……こんなこと言うとおかしいかもしれないけど、そういう関係じゃないんだよ」
「そうなんだ?」
「俺は放り出されたら自分と使い魔を養わなきゃいけないけど、それをするにはいろいろな事を知らなさ過ぎて──。言ってしまえば、俺はミラノに仕えてるけれども、その理由が生きる手段を確立できてないから縋ってるだけとも言えるような関係なんだ。
 信じられるかどうかでなら語れるけど、親しいかどうかって言われると……分からない」

 それは事実であり、真実だ。俺はこの世界に呼び出されてミラノと出会った時から、言ってしまえば”ビジネスライク”な関係で今までやってきた訳だ。
 当初は使い魔として、一度死んで英雄として評価されてからはお抱えの騎士、付き人としてミラノは俺を付き従えている。その対価として給金や寝床、食事、教育を保証してくれていると言う訳だ。
 逆に俺は自分の都合や理由、感情を幾らか抑制され、制限され、誘導されたりしながらも、ミラノ──そして妹であるアリアに降りかかる火の粉は全力で振り払わなければならない。そんな関係だ。

 確かにミラノやアリアに恩は売れたかもしれない。あの騒乱の中で二人を無事かつ安全に学園まで送り届けたと言うのは決して安くない評価になっただろう。
 しかもアルバートやグリム……それとマルコまで助けたのだから他家に恩義まで売れて最大の功績と言っても良いかも知れない。

 ただ──だからといって俺とミラノの関係が近くなったかと言われれば、俺は首を傾げるだろう。確かに色々とあった気はするけれども、歩み寄れているかどうかと言われれば自信が無い。

「悪い奴じゃないんだろうなって思ってるし、大分融通して貰ってると思う」
「けど、親しいと思うのは難しいんだ」
「それは──詰られても仕方が無いけど、俺がそういった関係を構築するのが下手だって思ってくれれば」
「そっか……」

 そう言って彼はお茶を飲む。紅茶に……牛乳比率三、砂糖を小さじ二杯くらいだろうか? なんというか、そこも俺に似るのかと呆れそうになるが、そもそも勉強しながら飲酒をしていると言うあたりで俺も大概だと思う。それでも、酒に頼れるのなら酒に頼るしかない。上手く眠れないのだから。

「嫌いだとか、信じられないとか、そういうのは無い?」
「それは、まあ、無いけど──。何でそんなことを?」
「いや、ほら。まあ……長年顔も見てない僕が言うのも何だけど、目の前で僕が大怪我したわけだし、やっぱり心配なんだよ」
「だったら一度屋敷に顔を出せば良いだろうに。それからこっちに戻ってきても良かっただろ」
「屋敷に行ったら、たぶん二人とも僕を屋敷に拘束しようとするよ。そうしたら明日の演習が見られない可能性があるし、夜中に窓から抜け出す羽目になる」

 あ、じっとしていてはくれないのね。夜に抜け出すとなると、窓は当然開け放たれているだろうし、夜警の皆さんが譴責処分をされても仕方が無い。そうならなかったのは好と出るのだろうか? それよりも顔を出さなかった事でミラノとアリアの口撃がヤバそうだけれども、俺にはもう無関係な事だ。

「そう言えば、オルバと姫さんが来てたな」
「え、オルバ? オルバって、あのオルバ・ダーク・フォン・ライラントのこと?
 それに姫さんって……ヴィトリー・アルカドゥケ・フォン・ヴィスコンティであってる?」

 ……オルバ、フルネームだとそういう呼び方になるんだな。やっぱり『ダーク・フォン』で公爵家だ、じゃ無きゃそもそもクラインと親しげに出来てはいないだろうが、クラインが素直すぎる分あちらは穿ちすぎている。親の影響だろうか?

「二人とも正解。オルバはもともとここに来る事になってたらしい、姫さんは……面白そうで抜け出してきたんだと。それに──クラインが戻ってきたって噂を聞きつけて昨日接触してきた」
「あぁ、姫さま……。なんでお城抜け出してるんだろう──。と言うか、なんでオルバがここに?」
「クラインが居なくなってから直ぐに学園に行って、最優秀かつ最年少で卒業して、今じゃ姫さんの教育係なんだってさ。今回の演習とどう関係が有るのかは分からないけど、ヴァレリオ家が新しい試みをすると聞いて来たらしいね」
「オルバが、教育係……? そっか、頑張ったんだね。そっか、そっかあ──」

 クラインは一人で何かを納得するかのように、何度か頷いて思考の海へと潜って行ったようだった。彼とオルバとの関係は幼い頃にまで遡るらしいし、それなりに思い入れや思う所があるのだろう。そこには俺は立ち入れず、ワインを飲んだ。

 その姿は、俺にも存在する可能性だと思うとどう捉えてよいか分からない。けれども、たぶん──その内、弟や妹等の事を聞きたくなった俺がアーニャに聞いて、同じように「そっか……」と呟いて、何度か頷いてからかつての思い出に沈む所もきっと一緒なんだと思う。

 一つ息を吐いて、そこそこ酒を飲んだなと思いながら、クラインとの会話の影響で表面を撫でるように目線が滑っていたのに気が付いて本をしまった。今日はもう勉強にならないだろう、それでも魔法の種類と幅を広めていくのは重要な事なのだが。

『もし──』

 幕舎の外から声が聞こえ、俺は静かに居住まいを正して剣へと手を伸ばしていた。その動作は先日のハッコのようだなと思いながら、視界の隅っこでクラインも同じように武器に手を伸ばしてなにかあった時の為にいつでも抜けるようにしていた、そこも俺と同じ行動か。

 咳払いをしてゆっくりと立ち上がり、剣を帯びるとそのまま幕舎の外へと出た。中に招いてしまった場合は何かあった場合マイナスにしかならないので、出来る限り外で応対して突っ返せるモノは突っ返した方が良いだろう。
 だが──

「あ、いっ……」

 そこに居るのは、先日のように頭からスッポリとローブを纏った女性で、一発で誰なのかを理解してしまう。そして何を言っていいのか分からずに表情や口が変わり続けたが、諦めてさっさと中へと入れることにした。垂れ幕を捲るとクラインとご対面、昨日もハッコの声が聞こえなくて俺が同じようにしてたんだなと思い出すが、今はそれ所じゃなかった。

 幕舎の中にローブの女性を入れ、誰も周囲にいない事を確認するとさっと閉ざした。それとほぼ同時に彼女はローブの頭部の箇所だけ外している、思い切りが良すぎる。こんな所に姫さんが居るだなんて知られたらどうするつもりだったんだ? 最悪ヴァレリオ家方面で演習を見ていたオルバが馬を走らせて此方にきかねないぞ、そうなったら俺はもうどうしようもない。

 ただ──クラインは姫さんが顔を見せてもキョトリとしている上に首を傾げていた。そして姫さんも俺とクラインを見比べているようで、何がどうなってるのかを理解してない様子。だからため息を一つ吐いた。

「姫さん。こっちが、クライン。クライン・ダーク・フォン・デルブルグ。
 クライン、こっちが姫さん。ヴィトリー・アルカドゥケ・フォン・ヴィスコンティ」
「えっ──」

 クラインが驚きの声を上げる。そりゃそうか、クラインの中ではオルバと同じように昔のイメージしか残っていない訳だ。昔がどうであったにしろ、今に比べてその年月の分だけ幼かったのは当たり前だろう。
 クラインが戸惑っているので、俺は少しだけ考えてから姫さんに付け足す。

「──本人だよ」

 そう言ってから、俺は席を外すように幕舎から出た。久しぶりの再会に俺が居ては邪魔だろうし、先日は肩透かしや失望させたという罪がある。幕舎から出て、空を眺めれば星が見える。それも昨日と同じだ。ただ、後ろめたさや罪悪感が無いので幾らかマシに眺められる。喜ばしい事だ。

 ただ、やはり寂しさのようなものは感じる。こう──例えるのなら、一番仲が良いのは自分だと思っていたのに、その友人が同じくらい──或いはそれ以上に親しくしている相手が居て、その場面を見てしまったような感じ。
 或いは、好きな相手が居たけれども、その女性が嬉々として「うん、あのね。あの人と付き合う事になったんだ」と告げられたとか、「入籍しました」という連絡が来るようなものだ。なお、その女性とは毎日話ができる程度に互いの関係が良好なものとする。

 ダメージは決して小さくない上に、数ヶ月は抜け殻になれるような案件だが──残念ながら今回は交際開始や入籍の連絡を受けた訳じゃないのでダメージは少ない。大分具体的な話だなと思うだろうが、これに関しては実体験である。

「──日が落ちると寒いな」

 今までは屋敷の中だったり、ともかく建物の中だったので外気に晒される事は殆ど無かった。しかし、今は野営地だ。森林が目に見える範囲にあるとは言っても、風を遮ってくれるようなものは皆無に等しい。この世界に来てからずっとTシャツの上に一枚羽織っているだけの夏に準じた格好だった。フードつきシャツは流石に耐寒ではない、何か冬に入っても大丈夫なものは無いだろうかとストレージを眺めると、様々な軍事品だの金だの糧食だので埋め尽くされた欄の最下層あたりに私服が入っていた。

 私服ってなんだよと思ったけれども、どうやら俺が自衛隊入隊前から死ぬに至るまでの間に好んで着ていた衣類らしい。たぶんアーニャが気を回してくれたのだろうが、ニートになってデブった頃の服まであるので、それは流石にブカブカだろうなと思った。
 戦闘面でマイナスにならない上に、寒さ対策が出来るとしたら何だろう? そんな事を考えながら私服を見ていたが、どうやら自衛隊に入るまでの俺と、入った後でだいぶ寒さ対策の仕方が違うらしい。邪魔になるのを厭わずに重ねたり分厚いのを着て温もりを求めるか、ある程度の寒さは仕方がないと割り切って行動しやすかったり身軽さを追及したかだ。

 まあ、当たり前だ。寒いのが嫌だからと着込んで行動の邪魔をしたら、作戦行動の段階で真っ先にへばってしまう。それに、戦闘行動に連続して移行した場合着替える時間なんてない。皆が突撃や浸透行動で草木を掻き分けてる中で大汗かいて水分と体力を喪失するなんて、余りにも馬鹿げている。
 そんな事を考えて自分の衣類をどうするか考えていた俺だったが、こちら側へと歩み寄ってくる一人の人物に気が付き、即座にシステム画面を全て閉ざした。そして、嫌な汗がどっと吹き出るのを感じる。いや、積みだろ──これ。

「おや、貴方は──」
「オルバ……」

 中には姫さん、目の前にはその教育係。これが遭遇──否、合流した場合の化学反応はな~んだ? 答えは、”どう考えても悪い方向へと転がるしかない”と言うものだった。
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高校3年生の神野千明(かみの ちあき)。 今年のメインイベントは受験、 あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。 だがそんな彼は飛行機が苦手だった。 電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?! あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな? 急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。 さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?! 変なレアスキルや神具、 八百万(やおよろず)の神の加護。 レアチート盛りだくさん?! 半ばあたりシリアス 後半ざまぁ。 訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前 お腹がすいた時に食べたい食べ物など 思いついた名前とかをもじり、 なんとか、名前決めてます。     *** お名前使用してもいいよ💕っていう 心優しい方、教えて下さい🥺 悪役には使わないようにします、たぶん。 ちょっとオネェだったり、 アレ…だったりする程度です😁 すでに、使用オッケーしてくださった心優しい 皆様ありがとうございます😘 読んでくださる方や応援してくださる全てに めっちゃ感謝を込めて💕 ありがとうございます💞

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