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愛は冷めるもの
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季節は移ろい行く。あんなに雪深かった景色も、今では跡形も無いほどに青々としている。草が生い茂り、膨らんだ蕾やレースのような小さな花が地面に顔を覗かせていた。
カルミアが住まう部屋の窓からは、王城の憩いの場である庭園が見える。大陸一の規模を誇る王城の庭園は、まるで迷路のようだ。中央には六角形の噴水があり、虹色の光を纏った水飛沫を放ちながら、水が踊っている。
広大な庭園は、白薔薇が誇らしげに咲き誇っていて、見る者全ての目を楽しませていた。
カルミアはソファーに腰掛け、頬杖をつきながら、窓の外に視線を送っていた。その白い足首には、黒い鉄鋼が嵌められている。ギルバートと想いを通わせても尚、カルミアの監禁生活は続いていた。
「カルミア様、今日はローズヒップの紅茶を用意しました。先日入手したライムラルム産の茶葉ですよ」
クロエは近くのサイドテーブルの上に、紅茶で満たされたカップを置いた。ソーサーの上には、透明のフィルムで包まれたチョコレートが置いてある。紅茶の芳醇な薔薇の香りに、庭園でお茶をしているかのような錯覚を覚える。
「いい匂いだね。ありがとう、クロエ」
カルミアはクロエにお礼を言うと、カップを手に取り、口に含んだ。茶葉の深い苦味と、砂糖の甘味が口内で絡み合う。本当にクロエの淹れる紅茶は美味しい。カルミアはソーサーの上にカップを置いて、チョコレートを手に取った。包みを剥いて、口に頬り投げる。濃厚なミルクチョコレートが、舌の上で優しく溶けた。
「美味しい。何でクロエが用意するものはこうも美味しいんだろう
」
「お褒めの言葉ありがとうございます。自慢ではありませんが、私以上にカルミア様の好みを把握している者はおりません。なにせ三年間行動を共にしている仲ですからね」
そう宣言したクロエは普段通りの鉄仮面であったが、何処か誇らしげにも見えた。カルミアはそんなクロエに微笑んで、再び窓の外に視線を向けた。
「月日が経つのって早いね。もうクロエと出会って三年になるのか」
「...はい。初めてカルミア様と出会った時、私本当に驚いたんですよ。小さな人形が瞬きをするのですから。私と同じ人間だと知った時、空いた口が塞がりませんでした」
「僕も驚いたよ。だってクロエの髪と目は、黒に近かったから」
「それであんなに驚いたような顔をされていたんですね」
クロエと初めて出会ったあの日が脳内を遮る。
ーーカルミアがクロエと初めて出会った日は、カルミアが離宮に移された日だった。カルミアの宮廷は王城から遠く離れている。ギルバートは足しげく通う事は目に見ていたが、それでも同じ空気を吸う時間が少しは減る。ギルバートとの一連の騒動もあって、宮に移されると知った時、少し安堵した。
ギルバートの部屋に身を置いていた時は、ギルバートの侍女に身の回りの世話をしてもらっていたカルミアだったが、宮に移った時に、ギルバートは専属の侍女をカルミアに付けた。
強い日光が差し込む午後の一室。穏やかな時間が流れるその場所に、ギルバートは五人の女性が連れてきた。どの女性も髪を結わえ、フリルのついた帽子を被っている。カーテンのように円形に舞うワンピースを纏い、その上に純白のエプロンを身に着けていた。
『カルミア。君の身の回りの世話をする使用人達だよ。必要な事があれば何でも彼女達に言うんだよ。手と足のように使って欲しい。くれぐれも他の者に姿を見せてはいけないよ』
ギルバートは何に怯えているんだろう、とカルミアは思った。この宮は、許された人間しか出入りする事の出来ない、牢屋のような場所だ。しかもカルミアは罪人のように鎖で繋がれている。心配せずとも、ギルバート以外、誰にも会えないというのに。
ギルバートが連れた使用人は、皆見目のいい者ばかりだ。その中でも一際存在感を放っていたのが、クロエだった。灰色や藍色、赤栗色に橙色。使用人の髪色は実に色豊かだった。その中でも濃褐色の髪は、日が当たらなければ黒色に近い。魔族を匂わせる色に、カルミアは目を奪われた。
モダン調の椅子に両足を揃えて座るカルミアに、使用人達は言葉を失っていた。カルミアの膝には、ギルバートに買い与えられた本が広げてある。
『...ギルバート。僕一人のために多すぎやしない?』
カルミアは別に贅沢な暮らしを望んでいるわけではない。世話人一人いれば十分だ。
ギルバートは怪訝そうな顔で首を傾げた。
『少なくて困る事はあっても、多くて困る事はないだろ?』
『そうだけど。でも僕は一人で十分だよ』
カルミアは本を閉じ、使用人を指差した。その指先は、クロエを向いている。
『彼女だけで、十分』
カルミアがそう言うと、使用人達の間でどよめきが起こった。使用人達の表情は、何でよりによって魔族の子供を?と言いたげな顔だった。
当のクロエは無表情だったが、瞳を瞬かせていた。
ーーカルミアがクロエを選んだのには理由がある。大陸を横断して、西海を越えた先に魔族は国を構えている。名前は魔王国連邦。通称、魔国。魔族と人間は大昔から仲が悪い。領土と資源を求めて、争いを繰り広げてきた。今では大陸中の国々が、魔国と国交を断絶する程だ。魔の血を嫌う者が、この大陸には大勢いる。魔族は黒髪黒目の民族だ。黒に近い色素を備えたクロエは、誰が見てもすぐに魔族と人間の愛の子だと分かるだろう。おそらくクロエは、幼い頃からその見た目で差別されて来たはずだ。そして先の使用人達の反応を見るに、この城内においても差別されているのだろう。
カルミアはそんなクロエを傍に置こうと考えた。次期国王の妃候補と噂された少年の専属の侍女。城内での地位もそれなりに上るだろう。さすれば裏切らない駒になるだろう、とカルミアは考えた。
あのギルバートの一件で、カルミアは自身を遠くの場所に連れて行ってくれる人間を探していた。
クロエは長い髪の毛を揺らし、カルミアの傍に歩み寄った。スカートの裾を持ち、ふわりと持ち上げる。
『クロエ・エーデルワイスです。誠心誠意、貴方様にお仕え致します。どうぞ私を手足のようにお使いください、カルミア様』
「ーーカルミア様!!」
クロエの大きな声で白昼夢が消えた。不機嫌そうに眉間に皺を寄せたクロエが、カルミアの顔を覗き込んでいる。
「お茶が冷めてしまいますよ!紅茶は温度が命なのですから、冷めない間に飲んでください!」
「ご、ごめん」
カルミアは苦笑いした。慌ててクロエが淹れてくれた紅茶を再び啜る。
(...まだ十分温かいけど、ちょっと冷めてしまったな)
カルミアは心の中で謝罪を述べた。それはせっかくクロエが淹れてくれた紅茶を冷ましてしまった事ではない。クロエに出会った時、打算的な考えでクロエを見てしまった事に対してだった。
(何も知らないクロエは本当の姉のような優しさを注いでくれる。それなのにも関わらず、僕はクロエを道具のように見ていたのだから。最悪だ)
カルミアは己の心の卑しさが、恥かしくて仕方がなかった。
今ではクロエは大事な家族のような存在だ。自身の足枷を外して、城外から抜け出すなんて恐ろしい事をクロエにはさせられない。ギルバートと相思相愛の関係になった今、ギルバートの執着はさらに酷くなった。カルミアが一歩でも外に出ようものなら、周囲の人間の首が飛んで行くかも知れない。
「--カルミア!」
重たい扉が開き、ギルバートの低い声が広い室内に響く。相変わらずノックをせずに入ってくる男だ。一国の王太子らしからぬ行動だが、今のカルミアはそれが微笑ましかった。一瞬の時間すら惜しい程に、カルミアに会いたかった証拠なのだから。
カルミア達に近寄ったギルバートは、疲れ切った表情を浮かべていた。ギルバートはクロエの横をすり抜けて、ソファーで寛いでいるカルミアの横に座った。ソファーが沈む感覚が広がる。
次の瞬間、ポスっと重たい感触がカルミアの肩に伸し掛かかり、カルミアは視線を落とした。それはギルバートの頭だった。
「...疲れた。もう一文字も書けない」
「お疲れ様です、ギルバート」
最近のギルバートは身を粉にして執務に当たっている。なんでも現国王が体調を崩し、執務を行えなくなったらしい。そこで次期国王であるギルバートに白羽の矢が立った。ギルバートの机は、連日時計塔のような書類が積み重なっている。朝から晩まで書類に向かっているギルバートは、疲労困憊の様子だった。
「...俺はもう駄目かも知れない。カルミア不足で死にそうだ」
「その割には朝、昼、晩、としっかりここに来るけどね。夜も一緒に寝てるし」
「この宮殿に執務部屋を移そうかな」
「...僕の話を聞いてる?」
肩にもたれかかっているギルバートは、カルミアの話を全く聞いていない。ギルバート曰く、カルミアと一時でも共にいないと、魂を抜かれたみたいになってしまうそうだ。だからと言って執務室を、この宮に移されるのは困る。
ギルバートの事だから、執務そっちのけでカルミアの部屋に遊びに来そうだ。覇気のないギルバートにカルミアは溜息を溢す。
(仕方ないなぁ、もう)
カルミアは自身の膝を叩いた。
「...今日だけ特別だよ」
ギルバートは視線をカルミアの膝に移した。
意図をすぐに理解したギルバートは、カルミアの膝を枕にして仰向けに寝転んだ。ギルバートは手を伸ばし、肩下まで伸びた白みを帯びている金の髪を指に絡ませた。ギルバートの蒼眼が、射抜くようにカルミアを見上げる。
「...髪、伸びたね」
「そういえばそうだね。秋口から切ってないし。切った方がいい?」
「いや、いい。似合ってるから伸ばして。前みたいに」
カルミアは肯定とも取れる微笑みを浮かべた。
ギルバートの癖一つない赤毛を優しく指で梳く。ギルバートは気持ちよさそうに瞼を閉じた。
「頑張れそう?」
「...頑張れない。でもカルミアからキスされたら頑張れそうだ」
「調子に乗るな馬鹿」
ギルバートの鼻を強くつまむと、ギルバートは苦しそうに顔を歪ませた。カルミアはクスクスと笑う。その笑い声は鈴を転がしたように可憐だった
暫くすると、目の下に隈を作ったギルバートがうとうとし始める。
時間が止まったかのような、穏やかな時間が流れる。カルミアはこんな時間がずっと続けばいいと思った。
「--ギルバート様!」
クロエの怒鳴り声で、ハッとした。カルミアは眠たげに瞼を擦る。
(いけない。ギルバートと一緒に眠ってしまった)
昨日は眠れなかったからその反動だろう。ギルバートに膝枕をしていたカルミアは、何故かソファーで寝かされ、シーツがかけられている。窓の外はまだ明るい。寝落ちしてから、まだそんなに時間が経ってないのだろう。クロエがいる方向に視線を移すと、何やらクロエとギルバートが口論をしていた。
「いつまでカルミア様にお隠しになるおつもりですか!?いずれ嫌でも分かる事。カルミア様だって、お覚悟というものがあります。なるべく早くカルミア様にお伝えください!」
「...分かっている」
「分かっているのならば、何故国王の容態すらカルミア様にお伝えしないのですか!?恐い、などという感情がもしギルバート様の中に存在するのならば、今すぐお捨てください。ギルバート様は、地位も名誉も、カルミア様のお気持ちまで手に入れているではありませんか。さらには子まで設けようとするなんて...。それをカルミア様に伝えようとすらせずに逃げてばかり。貴方は狡いです。カルミア様はギルバート様のせいで、夢も、希望も、人として尊厳も。全部捨ててばかりなのにっ!」
「--クロエ?どうしたの?」
クロエのあまりの声の荒げように驚き、カルミアは思わず尋ねた。
まさかカルミアが起きているとは思ってもいなかったのだろう。クロエは無表情の仮面を崩し、真っ青な顔でカルミアを見た。
カルミアは上体を起こす。膝の上のシーツが、パラリ、と床に落ちた。
「...カルミア様、起きてらしたんですね」
「そりゃ、あんな大声を出されればね。また僕の事で揉め事?」
クロエは視線を逸らした。言いにくそうに言い淀んでいる。
ーーギルバートとクロエは仲が悪い。ギルバートは一国の王太子。クロエは侍女。身分は天と地の差がある。それなのにクロエはギルバートを子供のように叱る時がある。口論に発展する事も絶えない。それはカルミアのためを思っての事なのだが、不敬罪で処罰されるのでは、といつもカルミアはひやひやしていた。今回も発端は僕の事なんだろう。
「...クロエ?震えてるよ?」
クロエは俯き、両手を強く握りしめている。その体は小刻みに震えていた。
カルミアはクロエの元に近づき、クロエの頭を撫でた。カルミアとクロエの背は同じくらいであるために、すぐ手を伸ばした先に頭がある。顔を上げたクロエの瞳は涙で潤んでいて、今にも零れ落ちそうだった。
「...もしかして、具合が悪い?」
「っ違います。私は全然平気です。でもカルミア様の事を思うとっ。胸が詰まってしまって」
「僕の事?」
カルミアは首を傾げる。
(僕の身に、悪い何かが迫っているのだろうか。それこそあのクロエが取り乱すくらいの)
クロエはカルミアに抱きついた。クロエは耳元で小さな泣き声を上げている。カルミアは赤子をあやすように、そんなクロエの背中を擦る。
ギルバートはそんなカルミア達を尻目に、背中を向けた。
「俺はもう執務に戻らないといけない。クロエの事頼んだよ。また、来るよ」
それだけ残して、ギルバートは去って行った。重たい扉が厳重に閉まる音がする。静まりかえた部屋には、クロエの啜り声だけが響き渡っていた。
穏やかな時間が終わる音がする。
カルミアが住まう部屋の窓からは、王城の憩いの場である庭園が見える。大陸一の規模を誇る王城の庭園は、まるで迷路のようだ。中央には六角形の噴水があり、虹色の光を纏った水飛沫を放ちながら、水が踊っている。
広大な庭園は、白薔薇が誇らしげに咲き誇っていて、見る者全ての目を楽しませていた。
カルミアはソファーに腰掛け、頬杖をつきながら、窓の外に視線を送っていた。その白い足首には、黒い鉄鋼が嵌められている。ギルバートと想いを通わせても尚、カルミアの監禁生活は続いていた。
「カルミア様、今日はローズヒップの紅茶を用意しました。先日入手したライムラルム産の茶葉ですよ」
クロエは近くのサイドテーブルの上に、紅茶で満たされたカップを置いた。ソーサーの上には、透明のフィルムで包まれたチョコレートが置いてある。紅茶の芳醇な薔薇の香りに、庭園でお茶をしているかのような錯覚を覚える。
「いい匂いだね。ありがとう、クロエ」
カルミアはクロエにお礼を言うと、カップを手に取り、口に含んだ。茶葉の深い苦味と、砂糖の甘味が口内で絡み合う。本当にクロエの淹れる紅茶は美味しい。カルミアはソーサーの上にカップを置いて、チョコレートを手に取った。包みを剥いて、口に頬り投げる。濃厚なミルクチョコレートが、舌の上で優しく溶けた。
「美味しい。何でクロエが用意するものはこうも美味しいんだろう
」
「お褒めの言葉ありがとうございます。自慢ではありませんが、私以上にカルミア様の好みを把握している者はおりません。なにせ三年間行動を共にしている仲ですからね」
そう宣言したクロエは普段通りの鉄仮面であったが、何処か誇らしげにも見えた。カルミアはそんなクロエに微笑んで、再び窓の外に視線を向けた。
「月日が経つのって早いね。もうクロエと出会って三年になるのか」
「...はい。初めてカルミア様と出会った時、私本当に驚いたんですよ。小さな人形が瞬きをするのですから。私と同じ人間だと知った時、空いた口が塞がりませんでした」
「僕も驚いたよ。だってクロエの髪と目は、黒に近かったから」
「それであんなに驚いたような顔をされていたんですね」
クロエと初めて出会ったあの日が脳内を遮る。
ーーカルミアがクロエと初めて出会った日は、カルミアが離宮に移された日だった。カルミアの宮廷は王城から遠く離れている。ギルバートは足しげく通う事は目に見ていたが、それでも同じ空気を吸う時間が少しは減る。ギルバートとの一連の騒動もあって、宮に移されると知った時、少し安堵した。
ギルバートの部屋に身を置いていた時は、ギルバートの侍女に身の回りの世話をしてもらっていたカルミアだったが、宮に移った時に、ギルバートは専属の侍女をカルミアに付けた。
強い日光が差し込む午後の一室。穏やかな時間が流れるその場所に、ギルバートは五人の女性が連れてきた。どの女性も髪を結わえ、フリルのついた帽子を被っている。カーテンのように円形に舞うワンピースを纏い、その上に純白のエプロンを身に着けていた。
『カルミア。君の身の回りの世話をする使用人達だよ。必要な事があれば何でも彼女達に言うんだよ。手と足のように使って欲しい。くれぐれも他の者に姿を見せてはいけないよ』
ギルバートは何に怯えているんだろう、とカルミアは思った。この宮は、許された人間しか出入りする事の出来ない、牢屋のような場所だ。しかもカルミアは罪人のように鎖で繋がれている。心配せずとも、ギルバート以外、誰にも会えないというのに。
ギルバートが連れた使用人は、皆見目のいい者ばかりだ。その中でも一際存在感を放っていたのが、クロエだった。灰色や藍色、赤栗色に橙色。使用人の髪色は実に色豊かだった。その中でも濃褐色の髪は、日が当たらなければ黒色に近い。魔族を匂わせる色に、カルミアは目を奪われた。
モダン調の椅子に両足を揃えて座るカルミアに、使用人達は言葉を失っていた。カルミアの膝には、ギルバートに買い与えられた本が広げてある。
『...ギルバート。僕一人のために多すぎやしない?』
カルミアは別に贅沢な暮らしを望んでいるわけではない。世話人一人いれば十分だ。
ギルバートは怪訝そうな顔で首を傾げた。
『少なくて困る事はあっても、多くて困る事はないだろ?』
『そうだけど。でも僕は一人で十分だよ』
カルミアは本を閉じ、使用人を指差した。その指先は、クロエを向いている。
『彼女だけで、十分』
カルミアがそう言うと、使用人達の間でどよめきが起こった。使用人達の表情は、何でよりによって魔族の子供を?と言いたげな顔だった。
当のクロエは無表情だったが、瞳を瞬かせていた。
ーーカルミアがクロエを選んだのには理由がある。大陸を横断して、西海を越えた先に魔族は国を構えている。名前は魔王国連邦。通称、魔国。魔族と人間は大昔から仲が悪い。領土と資源を求めて、争いを繰り広げてきた。今では大陸中の国々が、魔国と国交を断絶する程だ。魔の血を嫌う者が、この大陸には大勢いる。魔族は黒髪黒目の民族だ。黒に近い色素を備えたクロエは、誰が見てもすぐに魔族と人間の愛の子だと分かるだろう。おそらくクロエは、幼い頃からその見た目で差別されて来たはずだ。そして先の使用人達の反応を見るに、この城内においても差別されているのだろう。
カルミアはそんなクロエを傍に置こうと考えた。次期国王の妃候補と噂された少年の専属の侍女。城内での地位もそれなりに上るだろう。さすれば裏切らない駒になるだろう、とカルミアは考えた。
あのギルバートの一件で、カルミアは自身を遠くの場所に連れて行ってくれる人間を探していた。
クロエは長い髪の毛を揺らし、カルミアの傍に歩み寄った。スカートの裾を持ち、ふわりと持ち上げる。
『クロエ・エーデルワイスです。誠心誠意、貴方様にお仕え致します。どうぞ私を手足のようにお使いください、カルミア様』
「ーーカルミア様!!」
クロエの大きな声で白昼夢が消えた。不機嫌そうに眉間に皺を寄せたクロエが、カルミアの顔を覗き込んでいる。
「お茶が冷めてしまいますよ!紅茶は温度が命なのですから、冷めない間に飲んでください!」
「ご、ごめん」
カルミアは苦笑いした。慌ててクロエが淹れてくれた紅茶を再び啜る。
(...まだ十分温かいけど、ちょっと冷めてしまったな)
カルミアは心の中で謝罪を述べた。それはせっかくクロエが淹れてくれた紅茶を冷ましてしまった事ではない。クロエに出会った時、打算的な考えでクロエを見てしまった事に対してだった。
(何も知らないクロエは本当の姉のような優しさを注いでくれる。それなのにも関わらず、僕はクロエを道具のように見ていたのだから。最悪だ)
カルミアは己の心の卑しさが、恥かしくて仕方がなかった。
今ではクロエは大事な家族のような存在だ。自身の足枷を外して、城外から抜け出すなんて恐ろしい事をクロエにはさせられない。ギルバートと相思相愛の関係になった今、ギルバートの執着はさらに酷くなった。カルミアが一歩でも外に出ようものなら、周囲の人間の首が飛んで行くかも知れない。
「--カルミア!」
重たい扉が開き、ギルバートの低い声が広い室内に響く。相変わらずノックをせずに入ってくる男だ。一国の王太子らしからぬ行動だが、今のカルミアはそれが微笑ましかった。一瞬の時間すら惜しい程に、カルミアに会いたかった証拠なのだから。
カルミア達に近寄ったギルバートは、疲れ切った表情を浮かべていた。ギルバートはクロエの横をすり抜けて、ソファーで寛いでいるカルミアの横に座った。ソファーが沈む感覚が広がる。
次の瞬間、ポスっと重たい感触がカルミアの肩に伸し掛かかり、カルミアは視線を落とした。それはギルバートの頭だった。
「...疲れた。もう一文字も書けない」
「お疲れ様です、ギルバート」
最近のギルバートは身を粉にして執務に当たっている。なんでも現国王が体調を崩し、執務を行えなくなったらしい。そこで次期国王であるギルバートに白羽の矢が立った。ギルバートの机は、連日時計塔のような書類が積み重なっている。朝から晩まで書類に向かっているギルバートは、疲労困憊の様子だった。
「...俺はもう駄目かも知れない。カルミア不足で死にそうだ」
「その割には朝、昼、晩、としっかりここに来るけどね。夜も一緒に寝てるし」
「この宮殿に執務部屋を移そうかな」
「...僕の話を聞いてる?」
肩にもたれかかっているギルバートは、カルミアの話を全く聞いていない。ギルバート曰く、カルミアと一時でも共にいないと、魂を抜かれたみたいになってしまうそうだ。だからと言って執務室を、この宮に移されるのは困る。
ギルバートの事だから、執務そっちのけでカルミアの部屋に遊びに来そうだ。覇気のないギルバートにカルミアは溜息を溢す。
(仕方ないなぁ、もう)
カルミアは自身の膝を叩いた。
「...今日だけ特別だよ」
ギルバートは視線をカルミアの膝に移した。
意図をすぐに理解したギルバートは、カルミアの膝を枕にして仰向けに寝転んだ。ギルバートは手を伸ばし、肩下まで伸びた白みを帯びている金の髪を指に絡ませた。ギルバートの蒼眼が、射抜くようにカルミアを見上げる。
「...髪、伸びたね」
「そういえばそうだね。秋口から切ってないし。切った方がいい?」
「いや、いい。似合ってるから伸ばして。前みたいに」
カルミアは肯定とも取れる微笑みを浮かべた。
ギルバートの癖一つない赤毛を優しく指で梳く。ギルバートは気持ちよさそうに瞼を閉じた。
「頑張れそう?」
「...頑張れない。でもカルミアからキスされたら頑張れそうだ」
「調子に乗るな馬鹿」
ギルバートの鼻を強くつまむと、ギルバートは苦しそうに顔を歪ませた。カルミアはクスクスと笑う。その笑い声は鈴を転がしたように可憐だった
暫くすると、目の下に隈を作ったギルバートがうとうとし始める。
時間が止まったかのような、穏やかな時間が流れる。カルミアはこんな時間がずっと続けばいいと思った。
「--ギルバート様!」
クロエの怒鳴り声で、ハッとした。カルミアは眠たげに瞼を擦る。
(いけない。ギルバートと一緒に眠ってしまった)
昨日は眠れなかったからその反動だろう。ギルバートに膝枕をしていたカルミアは、何故かソファーで寝かされ、シーツがかけられている。窓の外はまだ明るい。寝落ちしてから、まだそんなに時間が経ってないのだろう。クロエがいる方向に視線を移すと、何やらクロエとギルバートが口論をしていた。
「いつまでカルミア様にお隠しになるおつもりですか!?いずれ嫌でも分かる事。カルミア様だって、お覚悟というものがあります。なるべく早くカルミア様にお伝えください!」
「...分かっている」
「分かっているのならば、何故国王の容態すらカルミア様にお伝えしないのですか!?恐い、などという感情がもしギルバート様の中に存在するのならば、今すぐお捨てください。ギルバート様は、地位も名誉も、カルミア様のお気持ちまで手に入れているではありませんか。さらには子まで設けようとするなんて...。それをカルミア様に伝えようとすらせずに逃げてばかり。貴方は狡いです。カルミア様はギルバート様のせいで、夢も、希望も、人として尊厳も。全部捨ててばかりなのにっ!」
「--クロエ?どうしたの?」
クロエのあまりの声の荒げように驚き、カルミアは思わず尋ねた。
まさかカルミアが起きているとは思ってもいなかったのだろう。クロエは無表情の仮面を崩し、真っ青な顔でカルミアを見た。
カルミアは上体を起こす。膝の上のシーツが、パラリ、と床に落ちた。
「...カルミア様、起きてらしたんですね」
「そりゃ、あんな大声を出されればね。また僕の事で揉め事?」
クロエは視線を逸らした。言いにくそうに言い淀んでいる。
ーーギルバートとクロエは仲が悪い。ギルバートは一国の王太子。クロエは侍女。身分は天と地の差がある。それなのにクロエはギルバートを子供のように叱る時がある。口論に発展する事も絶えない。それはカルミアのためを思っての事なのだが、不敬罪で処罰されるのでは、といつもカルミアはひやひやしていた。今回も発端は僕の事なんだろう。
「...クロエ?震えてるよ?」
クロエは俯き、両手を強く握りしめている。その体は小刻みに震えていた。
カルミアはクロエの元に近づき、クロエの頭を撫でた。カルミアとクロエの背は同じくらいであるために、すぐ手を伸ばした先に頭がある。顔を上げたクロエの瞳は涙で潤んでいて、今にも零れ落ちそうだった。
「...もしかして、具合が悪い?」
「っ違います。私は全然平気です。でもカルミア様の事を思うとっ。胸が詰まってしまって」
「僕の事?」
カルミアは首を傾げる。
(僕の身に、悪い何かが迫っているのだろうか。それこそあのクロエが取り乱すくらいの)
クロエはカルミアに抱きついた。クロエは耳元で小さな泣き声を上げている。カルミアは赤子をあやすように、そんなクロエの背中を擦る。
ギルバートはそんなカルミア達を尻目に、背中を向けた。
「俺はもう執務に戻らないといけない。クロエの事頼んだよ。また、来るよ」
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