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あのにます
【9話・目覚めても、尚残るもの(前編)】/あのにます
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翌朝、出掛ける準備をしながらも私は寂しさを感じていた。
たった少しの時間でしかなかったのに、野乃花が今私の部屋に居ない事が部屋全体の空気を淀ませてしまっている様だった。
つい、ふとした拍子に部屋の隅に目を遣ってしまう。
野乃花がいるのではないか、という淡い期待どころか妄想の様なモノを抱いてしまう。
自分がこんな人間だとは思ってもいなかった。
携帯を見ると鈴乃からメッセージが入っていた。
待ち合わせの時間通りにいけるという旨で、私は返事のメッセージを送って家を出る。
鈴乃とは新宿で待ち合わせをしていた。
話をしたいと言って、私が誘ったのである。
11時になる少し前に新宿駅の東口に着くと、待ち合わせている鈴乃の姿を見つけた。
平日の昼間であったが、新宿駅前となると人で混み合っていた。
待ち合わせをしている人達のテンションが違っているくらいだ。
人混みの中の鈴乃に向けて手を振る。
鈴乃とは一昨年の即売会で会ったのが最後だ。
一年振りに顔を合わせたが、雰囲気は変わっていない。
ネイビーのダッフルコートとデニムシャツにジーンズという服装からはボーイッシュな印象を受ける。
キャスケットを被っているのもあって、その印象はより強い。
鈴乃はよくキャスケットを被っている。
以前会った時もそうだった。
癖毛なので、と恥ずかしそうに言っていたのを思い出す。
「アオトさん、お久しぶりです」
「待たせちゃいましたか?」
「大丈夫です」
駅前から少し歩いて喫茶店に入る。
私が紅茶のストレートを頼むと、鈴乃も同じ物を頼んだ。
恥ずかしながらも私は、鈴乃に今まであった事を全て話した。
話していないと、不安に押しつぶされてしまいそうだったからだ。
私が野乃花を好きな事も含めて、少し迷ったが全て話した。
鈴乃は決してネガティブな言葉を挟まずに私の話に頷いていた。
「それで、アオトさんはどうしたいのですか」
「どうって……」
「野乃花さんに現実は残酷だから諦めろと伝えるのですか」
鈴乃がそう聞いてきた。
それは麻希と同じだ。
そして私が逃げ出したものと同質だと思った。
残酷な現実に傷付かないように、最初から諦めてしまえと。
そう私は私に言い聞かせた。
けれど野乃花にその言葉を伝えるのは間違いであるとも思った。
矛盾しているかもしれない。
それでも答えなど分からなかった。
どうすればいいのか、どうしたいのか。
それはまるで歌の詩の様な問いに聞こえた。
もし、これが歌ならば。
私はきっとこう歌う。
「現実との付き合い方なんてものを教える、いや押し付けるなんて事は間違っていると思うんです。好きなら、好きだって言えばいい」
「それをアオトさんが言えなかったのは何故ですか。アオトさんならきっとそう歌ったと私は思います」
鈴乃が私のことを「アオト」と呼ぶのはその名前しか知らないからだ。
鈴乃にとっては「アオト」なのだ、私は。
野乃花の言葉を思い出す。
「アオト」なら、きっとそういう言葉を言うだろう。
希望を歌っていたかったから、私はそういう存在を作り出した。
鈴乃が知っているのは、野乃花が好きだと言ったのは、そういう存在だ。
「アオト」という存在だ。
私は言葉を吐き出す。
「でも。それは決して私じゃない。アオトは本当の私なんかじゃないから」
歌うことが好きで、未来への希望を謳っていたかったから造り出した私でない存在。
現実の私、その未来という進路は、既に決まっていたから。
きっとそれから、逃げ出したかったのだ。
私であって私でない存在を作り出した。
けれども、いつしかそれは枷となった。
「アオト」という存在は、大きな壁にぶつかった。
音楽という生き方を選べる人間になれなかった。
「私はアオトであって、アオトじゃない。違う名前をもって違う存在になっていった。私が演じる理想の誰かに。だから理想の言葉を歌うことなんていくらでも出来た。優しい言葉でも誰かに寄り添える言葉でも、いくらだって歌に出来る。だってそれは私自身じゃないからです」
でも気が付けば、アオトは私に重なろうとしている。
ネットワーク上にしか存在しない存在だったアオトは、徐々に現実世界へと浸食してくるように。
私といつしか重なるようになってしまった。野乃花に鈴乃に、「アオト」と呼ばれるたびに。
私がアオトであることを改めて突き付けられているようで。
「アオト」として生きる事が出来なかった私にそれはあまりにも鋭くて。
そんな纏まりのない私の言葉を頷き聞きながら、鈴乃がティーカップを手の平で包んだ。
語る言葉を手繰り寄せる様に指先をカップの表面で踊らせて。
そこから昇る湯気を鈴乃は見上げながら、段々と視線を上げていき、そして私の目を見る。
何かを思い出している素振りにも見えた。
そして口を開く。
「だってそれはあなただったから、ですよ。憧れから生じた振る舞いでも、それがたとえ本物ではなかったとしても。あなただった」
鈴乃は私の事を名前で呼ばなかった。
「アオト」という存在でなく、私に言おうとしているのだと思った。
私は鈴乃を、鈴乃という存在の向こう側を知らない。
その名前の由来も、その名前に込められた意味も知らない。
彼女が本当はどんな人間なのか、どんな生活を送っているのか知らない。
彼女の語る言葉の何処までが、本当なのかを知らない。
それでも、私は、鈴乃という存在の言葉を信じたかった。
鈴乃の向こう側を、私は知らないから。
それはもはや、名前の無い誰かでしかないから。
嗚呼、そうか。
きっと誰もが同じなのだ。
私が鈴乃の向こう側を知らないように、誰だってアオトの裏にいる私の存在なんて知らない。
それでも私が今、鈴乃の言葉を信じたいように。
誰かにとってアオトはきっと信じたい存在になっていたのかもしれない。
私の知らないうちに。
「野乃花さんだって、あなただって。現実と向き合わなくてはいけない瞬間がきっとある。それが好ましい結果をもたらさなくても。そうだとしても、それでも」
「それでも?」
「歌のような理想の言葉を謳わなくては」
「それは現実を相手にして苦しむだけじゃないんですか」
「だって、そうしなかったら。アオトという存在が、あなたという存在だって、きっと消えてしまう。現実に迎合し続けた先にあるのは無味無臭な存在。顔も名前もない何者かでしかないんです」
鈴乃の言葉は力強く、私は目を逸らすことが出来なかった。
鈴乃の言葉が終わっても、私の口は動かなかった。
今まで耳に入ってこなかった周囲の雑音が、急に戻ってくる。
鈴乃が私の携帯電話に目を遣った。気が付いていなかったが、着信音が鳴り続けていた。
鈴乃に断りを入れて、出ようとした私の手が止まる。
相手は野乃花だった。
私が迷っている間に着信は途絶えた。
間髪入れずメッセージが入る。
それを読んで私は携帯から顔を上げた。
「すいません。いかないと」
私の言葉に頷いた鈴乃がティーカップの紅茶を飲み干して、私は手付かずのティーカップへと目を落とした。
私は夢見た。
野乃花はそんな私に夢を見た。
所詮夢と、所詮叶わぬ物と、切って捨ててしまえるように線を引いて。
分かったフリをして捨ててしまおうと思った。
それでも。
鈴乃は謳えと言う。
「次の作品の返事、待ってますね」
鈴乃はそう言って、私のことを見送った。
たった少しの時間でしかなかったのに、野乃花が今私の部屋に居ない事が部屋全体の空気を淀ませてしまっている様だった。
つい、ふとした拍子に部屋の隅に目を遣ってしまう。
野乃花がいるのではないか、という淡い期待どころか妄想の様なモノを抱いてしまう。
自分がこんな人間だとは思ってもいなかった。
携帯を見ると鈴乃からメッセージが入っていた。
待ち合わせの時間通りにいけるという旨で、私は返事のメッセージを送って家を出る。
鈴乃とは新宿で待ち合わせをしていた。
話をしたいと言って、私が誘ったのである。
11時になる少し前に新宿駅の東口に着くと、待ち合わせている鈴乃の姿を見つけた。
平日の昼間であったが、新宿駅前となると人で混み合っていた。
待ち合わせをしている人達のテンションが違っているくらいだ。
人混みの中の鈴乃に向けて手を振る。
鈴乃とは一昨年の即売会で会ったのが最後だ。
一年振りに顔を合わせたが、雰囲気は変わっていない。
ネイビーのダッフルコートとデニムシャツにジーンズという服装からはボーイッシュな印象を受ける。
キャスケットを被っているのもあって、その印象はより強い。
鈴乃はよくキャスケットを被っている。
以前会った時もそうだった。
癖毛なので、と恥ずかしそうに言っていたのを思い出す。
「アオトさん、お久しぶりです」
「待たせちゃいましたか?」
「大丈夫です」
駅前から少し歩いて喫茶店に入る。
私が紅茶のストレートを頼むと、鈴乃も同じ物を頼んだ。
恥ずかしながらも私は、鈴乃に今まであった事を全て話した。
話していないと、不安に押しつぶされてしまいそうだったからだ。
私が野乃花を好きな事も含めて、少し迷ったが全て話した。
鈴乃は決してネガティブな言葉を挟まずに私の話に頷いていた。
「それで、アオトさんはどうしたいのですか」
「どうって……」
「野乃花さんに現実は残酷だから諦めろと伝えるのですか」
鈴乃がそう聞いてきた。
それは麻希と同じだ。
そして私が逃げ出したものと同質だと思った。
残酷な現実に傷付かないように、最初から諦めてしまえと。
そう私は私に言い聞かせた。
けれど野乃花にその言葉を伝えるのは間違いであるとも思った。
矛盾しているかもしれない。
それでも答えなど分からなかった。
どうすればいいのか、どうしたいのか。
それはまるで歌の詩の様な問いに聞こえた。
もし、これが歌ならば。
私はきっとこう歌う。
「現実との付き合い方なんてものを教える、いや押し付けるなんて事は間違っていると思うんです。好きなら、好きだって言えばいい」
「それをアオトさんが言えなかったのは何故ですか。アオトさんならきっとそう歌ったと私は思います」
鈴乃が私のことを「アオト」と呼ぶのはその名前しか知らないからだ。
鈴乃にとっては「アオト」なのだ、私は。
野乃花の言葉を思い出す。
「アオト」なら、きっとそういう言葉を言うだろう。
希望を歌っていたかったから、私はそういう存在を作り出した。
鈴乃が知っているのは、野乃花が好きだと言ったのは、そういう存在だ。
「アオト」という存在だ。
私は言葉を吐き出す。
「でも。それは決して私じゃない。アオトは本当の私なんかじゃないから」
歌うことが好きで、未来への希望を謳っていたかったから造り出した私でない存在。
現実の私、その未来という進路は、既に決まっていたから。
きっとそれから、逃げ出したかったのだ。
私であって私でない存在を作り出した。
けれども、いつしかそれは枷となった。
「アオト」という存在は、大きな壁にぶつかった。
音楽という生き方を選べる人間になれなかった。
「私はアオトであって、アオトじゃない。違う名前をもって違う存在になっていった。私が演じる理想の誰かに。だから理想の言葉を歌うことなんていくらでも出来た。優しい言葉でも誰かに寄り添える言葉でも、いくらだって歌に出来る。だってそれは私自身じゃないからです」
でも気が付けば、アオトは私に重なろうとしている。
ネットワーク上にしか存在しない存在だったアオトは、徐々に現実世界へと浸食してくるように。
私といつしか重なるようになってしまった。野乃花に鈴乃に、「アオト」と呼ばれるたびに。
私がアオトであることを改めて突き付けられているようで。
「アオト」として生きる事が出来なかった私にそれはあまりにも鋭くて。
そんな纏まりのない私の言葉を頷き聞きながら、鈴乃がティーカップを手の平で包んだ。
語る言葉を手繰り寄せる様に指先をカップの表面で踊らせて。
そこから昇る湯気を鈴乃は見上げながら、段々と視線を上げていき、そして私の目を見る。
何かを思い出している素振りにも見えた。
そして口を開く。
「だってそれはあなただったから、ですよ。憧れから生じた振る舞いでも、それがたとえ本物ではなかったとしても。あなただった」
鈴乃は私の事を名前で呼ばなかった。
「アオト」という存在でなく、私に言おうとしているのだと思った。
私は鈴乃を、鈴乃という存在の向こう側を知らない。
その名前の由来も、その名前に込められた意味も知らない。
彼女が本当はどんな人間なのか、どんな生活を送っているのか知らない。
彼女の語る言葉の何処までが、本当なのかを知らない。
それでも、私は、鈴乃という存在の言葉を信じたかった。
鈴乃の向こう側を、私は知らないから。
それはもはや、名前の無い誰かでしかないから。
嗚呼、そうか。
きっと誰もが同じなのだ。
私が鈴乃の向こう側を知らないように、誰だってアオトの裏にいる私の存在なんて知らない。
それでも私が今、鈴乃の言葉を信じたいように。
誰かにとってアオトはきっと信じたい存在になっていたのかもしれない。
私の知らないうちに。
「野乃花さんだって、あなただって。現実と向き合わなくてはいけない瞬間がきっとある。それが好ましい結果をもたらさなくても。そうだとしても、それでも」
「それでも?」
「歌のような理想の言葉を謳わなくては」
「それは現実を相手にして苦しむだけじゃないんですか」
「だって、そうしなかったら。アオトという存在が、あなたという存在だって、きっと消えてしまう。現実に迎合し続けた先にあるのは無味無臭な存在。顔も名前もない何者かでしかないんです」
鈴乃の言葉は力強く、私は目を逸らすことが出来なかった。
鈴乃の言葉が終わっても、私の口は動かなかった。
今まで耳に入ってこなかった周囲の雑音が、急に戻ってくる。
鈴乃が私の携帯電話に目を遣った。気が付いていなかったが、着信音が鳴り続けていた。
鈴乃に断りを入れて、出ようとした私の手が止まる。
相手は野乃花だった。
私が迷っている間に着信は途絶えた。
間髪入れずメッセージが入る。
それを読んで私は携帯から顔を上げた。
「すいません。いかないと」
私の言葉に頷いた鈴乃がティーカップの紅茶を飲み干して、私は手付かずのティーカップへと目を落とした。
私は夢見た。
野乃花はそんな私に夢を見た。
所詮夢と、所詮叶わぬ物と、切って捨ててしまえるように線を引いて。
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