ゆびきたす/あのにます/ぷろとこる

茶竹抹茶竹

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ぷろとこる

『1話・波打ち際の景色』/ぷろとこる

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 好きな人と結婚をした。
 いや違う。
 結婚のようなものをした。
 互いの人生を相手と分かち合うという誓いをした。
 同性同士、結婚のような契りを結んだ。
 当時の私達は十八歳で高校を卒業したばかりだった。
 青くて未熟な私達はその意味をよく分かっていなかったと今更ながら思う。
 でも、そんな選択をしてしまうくらい彼女は眩しかった。
 私は彼女に惹かれていた。
 何物にも縛られない自由奔放で夢見がちな所だとか。
 誰かの顔色を伺うことなく好き嫌いをはっきり言う所だとか。
 私は彼女が本当に好きだったのだ。



 都心部に接続する私鉄が二路線横断し、閑静な住宅街と豊かな自然が特徴の東京二十三区最西端、練馬区。
 その街並みは夕暮れの光でオレンジ色に染まっていた。
 傾いた陽射しに私は目を細めながら、駅から自宅に向かって自転車で十分ほど漕ぐ。
 強い向かい風を街路樹の青々しい葉と共に耐え忍ぶと、カットしたばかりの前髪が視界の端で揺れた。
 買い出しの帰りであろう多くの主婦達が行き交うバス通りを外れ、細い路地を抜けた一帯は真新しい戸建て住宅が立ち並ぶ。
 手入れされた庭や玄関周りから余裕やゆとりといった言葉を連想する。
 その中にある、浮いた外観の築年数の古いマンション。
 まるで取り残されたかの如く様相の建物こそ我が家である。
 一階の部屋のドアを開ける。
 木製の年季の入ったドアが金切り声を上げると同時に、部屋の中からは慌ただしい足音がした。
 そして見知らぬ若い男が部屋の中から出てきた。
 部屋の奥から差し込む夕日が逆光になって顔に深い影が落ちる。
 大学生くらいだろう、黒髪にパーマを当てた色白な男だ。
 ゆったりとしたシルエットと無地のシャツとテーパードパンツといった出で立ちは、殺菌されたような妙な清潔感があった。
 私とすれちがう際に会釈をして、そして彼は逃げるようにして部屋を出ていく。
 知らない香水と私の家の洗剤が混ざった残り香がする。
 玄関から部屋の中に目をやると、遅れて奥から頭を覗かせたのは空音だった。
「奈子! おかえりなさい!」
 私の名前を呼ぶ彼女の表情に、後ろめたさだとか気まずさだとかを感じている様子はない。
 空音は胸元の緩い着古したTシャツとショートデニム姿で、引っ掛けただけになっているベルトを引きずり、乱れた長い髪も崩れた化粧も直さずにいる。
 それでも整った顔立ちなのは見れば誰もが分かるだろう。
 綺麗な鼻筋と細い顎のラインはどこか少年のようで中性的な美しさがあった。
 下着もまともに付けず取り繕うようにTシャツだけ着たのだろう、シミのない白い肌と華奢な身体、丸い胸が無防備に襟口から覗く。
 空音のその姿と部屋を飛び出していった若い男から連想されるものは一つで、私の脳裏をその想像が過る。
 私は不機嫌さを隠さず口調を強める。
「知らない男、連れ込まないでよ」
「前辞めたバイトで会った子よ」
 空音は私の言葉を否定も肯定もせず、気の抜けた喋り方をした。
 就労から一ヶ月も経たずに無断欠勤したまま退職したバイト先の事だろう。
 間取り1Kの狭い部屋に残った湿気と情事の残り香に私は抗議の意も込めて顔をしかめる。
 好きな人と結婚した。
 結婚のようなものをした。
 だが月日は私に現実を突き付ける。
 何物にも縛られない自由奔放で夢見がちな所は、性にだらしなく仕事が続かない所に変わった。
 誰かの顔色を伺うことなく好き嫌いをはっきり言う所は、人の神経を逆なでする不躾さに変わった。
 彼女の浮世離れした感性が、私が普通の人間だということを浮き彫りにして。
 常人とは相まみえない思考が、この世界を生きていくことを難しくする。
 それはいつしか生活の中で私の精神を徐々にすり減らすノイズになっていった。
「奈子、今日は早いのね」
 空音がスマホの画面で時間を見て私に言う。
「この前の振替えで午後休になるって伝えたじゃん」
 声の調子はいつも通りで、男と二人、家で何をしていたのか私にバレても気にも留めていない様子だった。
 そういう事はせめて私の居ない内に、そう付け加えようとしてやめた。
 それを口にしたら名実共に認めてしまうと思ったから。
 空音はリビングのテーブルに放置され、時間が経って湯気の消えた紅茶を飲みだす。
「彼も絵を描くのよ」
 空音が言う。
 マグカップを握るその手の甲には乾燥したインクの跡が幾つもあった。
 狭い部屋の隅にインクの漏れた缶が積み重なって、幾つかは床に転がっている。
 生活感の拭えない雑多な部屋の景色の合間に破れたキャンバスや汚れた筆が混じる。
 机の上に積み重ねられたシワだらけの紙の束にはデッサンらしきものが書き殴ってある。
 空音には芸術的な感性があった。
 彼女は繊細で自分の気持ちに正直で、そして絵を描くことが自己表現だった。
 そしてそれは。
 生活の糧にはなりそうになかった。
「あたしの絵が素敵だって」
 そんな言葉は、男がただ抱きたいだけの台詞であろう。
「それが一体なんだっていうの」
 私は床に落ちたコーラの缶を拾い上げてシンクに放りながら答える。
 身体を許す理由がそんなもので、それが回り回って私という存在の価値を毀損しているように感じた。
 共に生きると契りを結んで、同じ家に住んで、好きという言葉を交わして、彼女の為に私は人生の一部を捧げたのに。
 私以外の誰かが上辺だけの言葉で彼女に触れる。
「あの男がいいの?」
 私は尋ねた。
 好きという言葉を使わず私は確かめた。
 きっと返ってくる言葉に意味なんてないだろうけど、と思いながらも。
「なぁに? 嫉妬した?」
 空音はその美しい顔を愛嬌たっぷりの笑顔に変えて。
「あたしは奈子が一番好きに決まってるじゃない」
 それは真実なのだ。
 彼女にとって嘘偽りのない言葉。
 そしてそれと同時に、見知らぬ年下の男に安い言葉で抱かれるのも彼女にとっての真実なのだ。
 私が、いや私達が所属する社会が、彼女の感性に寄り添えていないだけなのだ。
 私が不機嫌であることに気が付いたのか空音が私の元に寄ってきた。
 肩を寄せて私の腕に手を絡める。
 甘えた様子であった。
 それで許してもらえると思っているのだ。
「ねぇ奈子」
 誘うような甘い声。
 私はその手を払いのけた。
 肌に触れる湿気の元があの男であるような気がして。
「早くシャワー浴びてきて」
「ね、奈子。一緒に浴びましょ」
「夕飯作るから」
 私の答えに空音は寂しそうな表情を作る。
 空音は自分が全ての人に無条件に愛されると思っている。
 世界の悪意だとかに鈍感で、優しい世界だけしか知らない。
 裏切られたと感じた私から漏れ出た冷たい態度を感じ取った彼女は訳も分からず怯えてしまうのだ。
 裏切られたのは私の筈なのに、空音にその理屈は通じない。
 ただ好意を伝えられたから応えて、その結果空音と誰かは幸せな気持ちになれる。
 それは彼女にとって正しい事で何を責められているのか理解できない事で。
 空音がシャワーを浴びる音を聞きながら私は狭いキッチンに立つ。
 空音の残したカップ麺のゴミや飲みかけのペットボトルを私は片付けた。
 積み上げられた洗い物を一つずつ崩していく。
 立ったまま仕事のメッセージをスマホから返信し、そのまま夕飯の仕込みを始める。
 背後で物音がして空音がシャワーから出たのが分かった。
 生ぬるい空気が室温に混ざって濡れ身のまま出てきたのを察する。
 私の背に抱きついてきた空音の質感と湿気を感じた。
「怒ってる?」
 空音の囁くようなお伺いに私は手を止めずに返す。
「怒ってるよ」
「どうして?」
 それは私の方が聞きたい、と言葉を呑み込む。
 空音にとって私と共に生きると誓い合った言葉はきっと偽りなどなかった。
 けれども、空音にとってその意味とそれを現実に落とし込む方法を理解するのは難しいことだった。
 結婚の様な契りを結んだ相手と共に暮らしているならば、その身体を誰かに許すなんてことはしてはいけない。
 そんな常識、そう私が信じているもの、を空音は理解できない。
 誰かに教えてもらったわけでもなく、それが明文化されて目につく場所に貼ってあるわけでもない。
 壁に貼っておけばいいのかと今更に思ったが。
 そして共に生きると無邪気に願うだけでは実際に生活をしていくことなど出来ない。
 そこには日銭を稼ぐだとか、家事をするだとか、役所や水道の手続きをするだとか、そういう具体的で現実的な手段を取る必要があるのだ。
 でもそれは空音にとって理解が難しいことであるようだった。
「ねぇ、仲直りしましょ」
 私の背に抱き着いて空音は言う。
 その二つの手は私の腕に絡みつき、方や私の背を撫でる。
 愛情を、好意を、示す態度。
 怒った私に対して、その意味を理解できず、ただ私の機嫌を取ろうとするかのような行動だった。
 空音はただ怒られているという状況だけを回避したいのであって、彼女の過失を反省したり顧みたりするのではない。
 私以外の相手にも、そして社会という物に対しても、空音はそうだった。
「奈子にはいつでも笑顔でいて欲しいの、もっと楽しいことをしましょ」
「……楽しくないこともしなくちゃいけない時もあるよ。生きてるんだから」
「そんなことないわ。そうやってしかめっ面をしてたらハッピーの方から逃げてしまうわ、ね? 奈子」
「別に、もう怒ってないよ」
「そう? じゃあ、あたしと奈子は仲直りね」
 部屋に乱雑に積まれたままの洗濯物。
 畳もうとして力尽きたシャツの隙間から下着が見える。
 潰したペットボトルを詰め込んだゴミ袋は本当は今朝出さなければならなかった物だ。
 床に落ちている読みもしないチラシ。
 使うアテもないコンビニのクーポン券。
 机にあるのは、給料日が来るまで払えない電気料金の払込票。
 片付ける先も決まっていない転がったボールペン達。
 私達が夢見た幸せな生活は現実の煩わしさに浸食されて押しつぶされそうになっている。
 けれども空音はそれに気が付かない。
 私が何に苦心して、どういう問題に直面しているのかを理解できない。
 空音という存在を、あの日の私はちゃんと理解できていなかった。
 空音という生き方を、あの日の私はとても想像できていなかった。
「ね、奈子。絵を見てほしいの。今日の朝からずっと描いていた絵なのよ」
「今日の午前中ってバイトの予定だったよね?」
「だって、筆が止まらなかったのよ」
 社会という物に、どう繋がればよいのか分からない。
 私が憧れ、好きになった子は。
 そんなエラーに直面していた。
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