ゆびきたす/あのにます/ぷろとこる

茶竹抹茶竹

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あのにます

【10話・あのにます】/あのにます

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 卒論という一大イベントに追われて、私と新菜の冬は一瞬で過ぎていった。
 顔を合わせても、ちょっとした近況報告で終わるばかりで長い時間話し込むことも無かった。
 年末には無事卒論の提出を終えたが、私は正月を迎える為に実家に戻り、新菜はバイトで年末年始を慌ただしくし過ごしているようであった。
 電話もメッセも何となく送る気にもなれず、新年の挨拶すら逃していた。
 そんなわけで新菜とゆっくり話が出来る様になったのは、1月の半ばが過ぎた頃だった。
 久しぶりに私の部屋に泊まりに来た新菜が、いつもの様に夕飯を作る。
 年末はどうしていただとか、バイトがどうであったとか、他愛のない話をした。
 シャワーを浴びて、私が実家から持ってきた地ビールを呑んで、借りてきた他愛もない映画を観て、最近読んだ小説の話をして、何となく眠気に従って欠伸をした。
 今日はもう寝ようか、と私が提案すると新菜が少し間を開けて頷いた。
 狭いベッドでいつもの如く私は二人で寝ようとする。
 冷たいフローリングの床から逃れるように私がベッドに潜り込むと、ベッドの前で突然に立ち尽くした新菜が居た。
「私、今日はソファで寝るよ」
 新菜はそう言った。
 そんな風に言う事など、今までに一度も無かった。
 冷気が布団の隙間から滑り込んできて、私は足の指先を摩りながら新菜に問いかける。
「寒いし、背中痛くなるし、止めた方が良いよ」
「でも」
「いつもこっちで寝てるじゃん」
 私がそう言っても新菜の態度は曖昧で煮え切らなかった。
 私は新菜の手を引っ張ってベッドへと引っ張る。
 短く悲鳴を上げながら新菜がベッドの上に倒れ込んだ。
 寝転がった私の目の前に、新菜の顔があって。
 私と目が合った彼女は視線を逸らし、身を強張らせた様子であった。
 新菜は言葉に迷った様子の末に、小さく口を開く。
 それは小さな声で掠れた音が混ざる。
「杏は嫌じゃなかった?」
「何が」
「私が杏を好きなこと」
 ベッドの上で新菜は言う。
 その小さな声は、毛布の中に吸い込まれてしまいそうで。
 新菜にとって、それは重要な事で、目を背ける事が出来ない事で。
 だから、立ちすくんでしまったのだろう。
 何と答えたものだろうか、と私は少し悩んだ。
 そして何も言わずに私は、彼女の手を取る。
 冷たく冷え切った指先が触れる。
 彼女の吐き出す息の音しか聞こえない。
 それはまるで、このベッドの上が、何処とも繋がっていないようだった。
 新菜の指が何処かへすり抜けてしまいそうになって、私はそっと指先に力を入れた。
 指先は未だ冷たくて、私との境界がはっきりと分かる。
 彼女の指先に熱を奪われそうで、寒くなる前に毛布を二人でかぶった。
 私の家のシャンプーの香りの中に新菜の香りがして、それで毛布の中は一杯になった。
「あのさ、新菜に言いたい事があるんだ」
 
 
【最終話・あのにます】
 
 
 試験の終わった大学は春休みに入り、新菜がサークルの仲間と卒業旅行に出かけて行った頃。
 久しぶりに入ったレンタルスタジオで私は思いきり深呼吸をする。
 身体の奥まで空気を送り込むような感触を確かめる。
 そんな私を見て鈴乃が控えめに笑顔を作っていた。
 スタジオを借りるのも、鈴乃と一緒に音楽をやるのも、そもそも誰かの前で歌う事すらも久しぶりの事だった。
 正直、少し緊張している。
 今日の為にキーボードを練習してきていたが、ブランクが故に随分と弾けなくなっていて、家で練習中に何度か唸った。
 ノートPCを覗きこんでいた鈴乃が顔を上げて親指を立てる。
 ネット配信の準備が整った、と合図を送ってくる。
 私はキーボードの前に座って、傍らに置いたタブレットPCを覗きこむ。
 動画配信サイトのページにはアオトと鈴乃の名前が載っていた。
 カメラとマイクの準備は鈴乃が全てやってくれたので、私は何も手伝えていない。
 相変わらず頼りになる人だ。
 高校時代にパソコン同好会とやらに所属していたのが切っ掛けでそういう類の事に強くなったらしい。
「アオトさん、一分後に始めますけど、いいですか?」
「お願いします」
「久しぶりですね」
 鈴乃が楽しそうに言う。
 一分というのは存外長くて、時計の秒針を見ながら、私はふと問いかける。
「鈴乃さんの名前って、どういう由来があるんですか」
「どうしました、急に」
「聞いた事無かったなぁと思って」
 私は「鈴乃」という彼女しか知らない。
 彼女はその名前に、どんなモノを託したのだろう。
 アオトと私の差異などないと語った鈴乃は、その名前にどんな意味を持たせたのだろうかと。
「大切な友達から貰った名前なんです」
 放送時間になる。
 弾き語り配信と銘打っている動画に、何人かの視聴者が既に集まってきていた。
 私がアオトとして久しぶりに行う音楽活動だ。
 待っていてくれたんですよ、と鈴乃が手振りで示す。
 私は一つ深呼吸をして、滑舌良くしようと、ゆっくりと喋る。
「皆さん、お久しぶりです。そうでない人は始めまして」
 数日前からTwitterで告知していたのもあって、徐々に視聴者数が増えてきた。
 幾つかのコメントが寄せられているのが傍らに置いたタブレットPCで確認出来る。
 寄せられたコメントの横にハンドルネームが表示されるが見知った名前を幾つか見つけた。
 活動していた時に、何度もコメントをくれたユーザーである。
 もう忘れられていてもおかしくない程、時間が空いていたのに。
 またこうして私の応援をしてくれている事が単純に嬉しかった。
 マイクの音量調整をしていた鈴乃が問題ナシ、とジェスチャーを出してくる。
「活動を休止していましたが、この度再開することになりました。その報告を最初にさせて下さい」
 PCを覗きこんでいた鈴乃が立ち上がった。
 PCの前から離れてアコースティックギターを構え、私の横に座る。
 鈴乃が指先で弦を撫でてから、私にウィンクをする。
 いつでも良い、という「キザ」な合図だった。
 演奏の準備に入る前に言葉を紡ぐ。
 それは何度も組みなおした言葉。
「歌う前に少しだけ。歌う事でならどんな希望の言葉でも歌えると良いと思って、私は歌ってきました。でも、それで現実の何かを変えられるわけでもなくて。私はその……、そっぽを向きました。夢を諦めて歌うことを止めようとしました」
 それでも。
 私はまた、「此処」に戻ってきた。
「アオトという名前を、私は名前のない誰かにしたくないから」
 鈴乃に目配せをして、鍵盤の上に指を乗せる。
 最後に語る言葉を探す。
「それでも、って歌わなきゃ駄目だって思うから。それを伝えたくて、伝えたい人が居て。だから、私はまた歌い続けます」
 タブレットPCで視聴者の反応を見ていた鈴乃が、声を出さずに私に合図を出した。
 鈴乃の合図に、私はタブレットを横目に見る。
 視聴者の名前が並ぶ中で一つの名前を見つけた。
 無数の、有象無象の中で。
 それだけではきっと意味をなさない、名前の行列の中で。
 ノノカという名前が、其処にはあった。
 
§§

  一時間程度の生配信を終えて鈴乃がノートパソコンを閉じた。
 久しぶりの演奏と配信で指の先まで強張っていた。
 緊張で喉が上手く使えず声も掠れている。
 それでも歌い切った達成感があった。
 鈴乃が口を開く。
「久しぶりで、リズムも音もところどころ外してましたけど」
「はい……」
 返す言葉がなかった。
 音楽から逃げていたことが実体を持って今の私を殴りに来たみたいだった。
 それでも、と前置きして鈴乃は言葉を次ぐ。
「楽しかったですね」
 彼女の言葉に私は頷いた。
「もう喋っていいの!?」
 借りていたスタジオの隅で大人しく膝を抱えていた新菜が叫んだ。
 鈴乃が小さく笑って言う。
「いいですよ」
 新菜が立ち上がりスカートの埃を払う仕草をする。
 大変な思いをしながら運んできたキーボードを、今度は持ち帰るために片付ける作業をする。
 それを眺めながら新菜が私に言う。
「歌ってるの初めて見たけどカッコよかったよ」
 新菜にそう言われて私は照れてしまう。
 鈴乃が意味深な目線をこちらに向けていた。
 スタジオの利用時間が来て私達は退出した。
 スタジオの出口で鈴乃に別れを告げる。
「それじゃあ、私達はこれで」
「また連絡します」
 鈴乃のまた、という言葉が嬉しくて私は強く頷く。
 去っていく後ろ姿を見送ると、新菜が私の腕を組んだ。
 大胆に、でも少し恥ずかしそうに。
 そんな姿に私もつい照れてしまう。
 スタジオのある駅前の繁華街の通りを、気恥ずかしくも腕を組んだまま私達は歩いた。
 新菜からの告白を私は受けた。
 彼女からの好きという感情を、まだ上手くは整理できていないが、それでも私は彼女を受け止めた。
 友人のような恋人のような曖昧な関係。
 二人でデートして、街中で腕を組んで、二人で一つのパフェを食べて、映画館のチケットを手を繋いだまま買う。
 そんな私達は街を行き交う人々の目にどう映っているだろうか。
 その関係になんて名前を付けるだろうか。
 新菜が映画館の売店へポップコーンを買いに行っている間、スマホの通知が鳴った。
 SNSからの通知だった。
 ノノカというハンドルネームのユーザーからメッセージが届いていた。
 それは麻希との近況だった。
 改めて話し合い、それでもまだ諦めたくないという意志の言葉だった。
 そのメッセージに少し悩んでから私は返事をするのを止める。
 あの子は今、何者でもない誰かになってしまわぬように戦おうとしているのだ。
 それに応えるべきは、示すべきは、きっと言葉でなくて。
 戻ってきた新菜がスマホの画面を見つめていた私に対して首を傾げる。
「どうしたの?」
「例の件、ネットで意思表明しようかなって」
「今?」
「待ってる人がいるから」
 私はそう言ってSNSの投稿画面にメッセージを載せた。
 休止していた音楽活動を再開したこと。実家の家業を継がないと両親に伝えたこと。
 音楽の世界で生きていこうと、決意したこと。
 アオトという存在は憧れを肩代わりさせる存在でなく、私の夢を叶える為の存在として。
 今、改めて生まれ変わったこと。
 そのメッセージは無数の誰かの元へ届くだろう。
 きっとそこに、野乃花もいるのだろう。
 私達は線を引く。
 本当の自分と誰かに見せる自分との間に線を引く。
 自分ではない自分を作り上げていく。
 そして。
 私達は線を引く。
 昨日までの自分と。
 願った自分になる為に。
 
【あのにます 完】 
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