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ぷろとこる
『5話・ここから、ここまで』/ぷろとこる
しおりを挟む時計の針は九時を回っていた。
家で呑み始めて三時間経っても、酒が空になる勢いに衰える気配などなく豪快な笑い声が居間に響き渡る。
努氏は倒れたなんて話が嘘のように、上機嫌に酒瓶を空にしていった。
缶ビールから始まりワインを開けチューハイを煽り、今は日本酒を手酌でグラスに注いでいる。
私もつられて、いつもより早いペースで酒を吞んでいた。
そんな私の横で空音はコーラを片手に焼き鳥の串を暇そうに弄んでいた。
倒れた父の手前、席を離れるわけにもいかず。
また私の側を離れるのも心細いのだろう。
しかし酒の場に馴染めない空音は手持ち無沙汰といった感じであった。
努氏も折角の娘の帰省にも関わらず、その会話の矛先は武本や私の方に向くばかりだ。
お互いが触れぬようにしている感じがした。
空音が出奔した理由や、二人が和解できていない事実をなんとなく感じた。
「武本、お前結婚してないやろ。歳もいい歳やし、周りに良い人おらんのか」
赤ら顔の努氏がそんな話題を振った。
まだ早過ぎやしないか、と私は思ったが、高卒で入社した五年目の社員に対して、そんな気持ちを抱くのは親心だろうかと思った。
そして努氏からは、その言葉と共に空音への目配せを感じた気がした。
「うちの娘も、そろそろ落ち着いてくれればな」
それと同時に、武本の表情にどこか浮ついた様子が見えた。
色んな人の表情として何度も見たことのある、ある種の下心を感じる男の顔。
いつも側にいて、ダメな所ばかりが目につくから、空音の「価値」をつい忘れそうになる。
は美人だ。
綺麗な顔をしていて、女性としてのスタイルも良い、そして地元の有力企業の一人娘だ。
それにどれほどの価値があるだろう。
皆がどれだけ空音のことを欲しがるだろう。
そんな空音が私の事をこれからも選ぶだろうか、私は空音と一緒にいれるだけの価値を持ち合わせているだろうか。
その考えが脳裏を過って言葉が出なかった。
一瞬の間をおいて、私の横で空音はその綺麗な顔を不機嫌そうに歪めて言葉を返す。
「何が言いたいの」
その声は昂った感情が漏れ出て上擦っていた。
「私は奈子と……」
そこで言葉が止まる。
その先の言葉を私は意図せず期待してしまっていた。
空音と私の関係は何なのか、それを空音は父親の前で宣言してくれるのか。
けれど言葉は止まる。
酒のなくなったグラスの中で溶けた氷が崩れる音が静かに鳴った。
目を覚ます。
寝てしまったようだ。
私は応接間のソファに崩れた体勢で座っていた。
呼気にアルコールが混ざっているのが自分でも分かる。
隣の部屋からは深酒をした努氏の激しいイビキの音が聞こえた。
食卓に突っ伏して片手には空になったグラスを掴んだままだ。
起き上がると頭が鈍い。
努氏が寝返っても大丈夫な様に、食卓の上を軽く片付け、残っていた割り材のペットボトルのお茶を飲み干した。
火照った身体を鎮めるために私は庭に出た。
空音の実家には庭があり、倉庫を兼ねたガレージがあった。
昔、空音がそのシャッターに絵を描いたというのを覚えている。
ペンキを使って好き勝手に目一杯に絵を描いた。
だが、それは跡形もなく無くなっていた。
あの日、この街から逃げ出そうと決めた時。
思いきり書いてやる、と空音が描いたそれがどんな絵であったか、その仔細を私も忘れてしまった。
私達は此処から逃げ出して、それで。
意味があったのか、理由すら喪失してしまった私達の逃避行に。
そんな時、縁側で声がした、武本と空音の会話だ。
「なぁ空音、こっちに帰ってこないか。ヨリ戻さんか?」
聞こえてきた武本の言葉に私は足を止め息を止める。
気まずさからつい物陰に隠れてしまった。
盗み聞きするのもよくないと思いながらも、空音の返事が心配になって聞き耳を立ててしまう。
「えー、武本あたしの事好きなの?」
「あぁ。今も変わっとらん。別れたのだって空音が無理矢理言ったんだろ……」
「えー」
空音は会話をしながら手元を忙しなく動かしていた。
実家の部屋から引っ張り出してきたのかスケッチブックと鉛筆を手にしている。
縁側に腰かけ、窓から漏れる灯りを頼りに何かを描いている様子だった。
武本は立ったまま煙草に火をつけていた。
「親父さんもいい歳だろ。こっちに戻ってきて安心させてやればいいじゃねか。俺、結構仕事順調なんだ」
「社長の娘だから言っているんじゃないの」
「そんなことねぇけどよ。でもよ、社長の娘っていう立場からも逃げらんねぇだろ」
空音の手は止まる。
「その絵で食っていけると本気で思ってんのか。東京なんかよりこっちの方が良い生活できるだろ」
それは遠巻きながら、彼の方が幸せに出来るという宣言に他ならないと思った。
私はそっとその場を離れる。
まともな人生を私じゃ空音に担保できない、そんなことを考えてしまう。
逃げ出した先で何にもなれない
空音との関係を仕切りなおす時が来たのだろうかと。
居間に戻ると変わらず努氏のイビキの音が響いていた。
布団を拝借し客間に寝転がる。
アルコールで揺れ動く視界の中で天井が歪んでいる。
静寂の中、耳元で空音と武本の会話が反響している。
あの日私達は逃げ出した。
空音がそれを望んだから。
私の事を誘ってきたから。
母を亡くし、父との関係が微妙になって、美人で社長の一人娘だと誰もが値踏みする地元を逃げ出した。
上京した東京で何者にもなれず、大成することもなく、生活の為に慣れない仕事をして、日々摩耗している。
私は必死に社会に適応しようとしても上手くいかず、空音は社会に馴染めないままだった。
今の生活に何の意味があるのか、あの日逃げ出した事に意味はあったのか。
私達は道を間違えてしまったのではないか、と。
「ねぇ空音、あの日なんで私を誘ったの」
独り呟いた言葉に言葉が返ってくる。
私を見下ろすようにして、部屋の入口に空音が立っていた。
「どうしたの? 奈子、お酒臭いわ?」
一瞬、夢か幻かと思ったその姿はいつものように美しいままで、私は今、ひどく惨めなのではないのかと思ってしまう。
「私のことが好きだって言って、この街を出たいって言って、私を巻き込んだのはどうして」
「どうしたのよ、奈子?」
「武本との会話を盗み聞きしちゃった」
どう思われても構わないと、これ以上私の株は下がりようがないだろうと観念して呻く。
「正直潮時なのかもしれないって思ってさ」
「何の話?」
「今の生活はさ、遊びみたいなものだったでしょ、十分楽しんだでしょ。だけど私たちは人生ってやつをやっていく必要があるわけじゃん。これから先、また空音のお父さんが倒れたり、私が仕事を失くしたり病気したりする可能性だってあるし、もっとお金とか色々な物が必要になったりするでしょ。私じゃ空音にまともな人生を担保できないと思う。空音にはもっと良い人生を選べるだけの価値があるでしょ」
空音が私の側にしゃがみこんだ。
その細い眉を綺麗にしかめて、薄い唇を噛むように結んで。
その手を私の顔へと伸ばして、そして。
鼻をつままれた。
引き千切られそうなくらい強く。
息が詰まって私は口を開け痛みに喘ぐ。
「あたし今、怒ってるのよ」
空音は言った。
「なんでそんなことを言うのかって」
「だって空音にはもっと良い道が」
「奈子があたし達が一緒だって言ってくれたじゃない」
この期に及んでそんな話をするのかと、私も流石に頭にきた。
空音と私の約束は結局、ただのごっこ遊びみたいな物だった。
だから空音の為に、空音がより良い人生を選べるように、と空音の為に身を引こうとしているのに。
空音はそれを理解せず、好きだから一緒にいようなんて軽い言葉を、ただの遊びのような約束をまだ口にする。
「本当に私と結婚したなんて言うつもり? そんな気ないでしょ」
私の言葉に空音は顔を強張らせる。
何を今さらショックを受けているんだと私は拳を握りしめた。
私達の関係に名前も意味もない、そんな風にしたのは空音の方ではないかと。
私は間髪入れずに続ける。
「男連れ込んだり、お義父さんの前でも口ごもったり、空音にとって私との関係は結婚なんてものじゃなかったんでしょ」
「それが奈子にとって嫌なことだったの?」
「はぁ?」
空音の反応に私はつい呆けてしまう。
唖然として言葉が出ないままでいると、空音は立ち上がり派手な足音を立てて家の中を駆けていく。
一体何だと私はその背を追った。
空音は寝ている努氏の元へ駆け寄った。
気持ちよさそうに寝息を立てているその頬を空音は躊躇うことなくビンタした。
「何を寝ているのパパ、起きてちょうだい!」
意表を突かれて訳も分からず起きた努氏は、私と同じように呆然と空音の顔を見上げていた。
空音の大声を聞いて、どうしたんだと武本も居間へと顔を覗かせた。
叩き起こされた努氏が眠たそうに、酔いの抜けていない声で、困惑の声を上げると空音は大声でそれを遮った。
「あたしと奈子は結婚したのよ!」
高らかな宣言に、この場にいる誰もが反応できないまま静寂だけが満たされていた。
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