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prick The bubble
しおりを挟む「何か」を売るために、広告は存在する。
ありとあらゆる媒体、技術、手法、機会、理論、戦略を用いて、広告というものは多様化と発展を続けてきた。最先端の科学技術を最初に検討するのは軍事産業であるが、その次は広告産業だとまで言われるほどだ。
だが、思い出という最高の体験型広告にはどんな広告も敵わない。
素晴らしい瞬間を共にした「何か」は一生の相棒となる。
私にとっては、それが「Earth」という炭酸飲料だった。
物心ついてから三十数余年、飽きることなく飲み続けてきた。
瓶に入った半透明な青の液体をグラスに注ぐ。耳に心地の良い炭酸の音が静かに響く。
鮮やかなコバルトブルーから「Earth」と名付けられたこの炭酸飲料は、世界で最も有名で最も売れている炭酸飲料としてギネスに記録があるほどだ。
青い背景に白抜きの文字でEarthとのみ描かれたシンプルで洗練されたパッケージを街で目にしない日はない。飲食店で、食料品店で、ホテルの冷蔵庫で、ライブハウスで、人里離れた無人の販売機で、どこにでもEarthは置かれている。
都心の喧騒から離れた小さな地下のバーであっても、だ。
店内に客は私と若い女性の二人だけで静かな夜だった。
「相変わらずお好きなんですね、Earth」
顔なじみのバーのマスターが私に言った。丁寧にグラスを磨く骨ばった手を止めず、少し苦笑を滲ませた様子で。加齢で刻まれた頬の深い皺が笑顔に合わせてぐにゃりと曲がる。
アルコール類を頼むこともなく毎晩Earthの瓶を開けて帰る私はさぞ奇特な客に映ることだろうが、私にとってそれだけ思い入れのある飲み物なのだ。
「ここでEarthを楽しんだ後、帰ってシャワーを浴びてからも、冷やしたEarthを飲みますよ」
「それは筋金入りだ」
低いながらもよく通る声で彼は言い、マスターの笑顔に私はグラスを傾けて応えた。
透き通った青色が満たされたグラスの表層にはEarthのロゴが印字されている。グラスをタダで提供する代わりに商品広告を載せる、今では一般的となった広告と無償サービスの相互関係も、元を辿ればEarthが始めたことだった。
このバーにも同様の手法で広告が掲載されている。
落ち着いた色合いのカウンターテーブルには洒落た模様に混じってハウスメーカーのロゴと謳い文句が書き込んである。それだけではない、天井のシャンデリアから床に至るまで建物の内装の全てに様々なロゴが雰囲気を壊さないよう苦心しながら描かれている。
グラス、食器、マスターのネクタイにもだ。
宣伝されているものは多岐に渡り、飲料会社は無論のこと、生命保険や一般人には馴染みのない先端素材についてまで存在している。
この店が異質なのではない。
私の手にしているスマートフォンも広告が四六時中流れる代わりに、デバイス自体の値段から通信サービスまで全て無償で利用できる。
この店まで来るのに使った電車も車両内の殆どを広告で埋め尽くしている代わりに乗車料金は無料だ。
広告とのトレードオフによって提供される無償サービスは街中、いや世界中に溢れている。無償サービスに付属する広告の製品が、また別の広告と引き換えに無償で提供されることさえある、そんな笑い話もあるほどだ。
至る所で目につく広告に辟易することも多いが、その点でもEarthは違う。シンプルなロゴだけで景観を邪魔しないEarthの広告はそのブランド価値に絶対の自信を感じさせる。
派手な広告などなくとも、誰もが飲んだことがあるEarthの味と思い出だけで十分なのだ。
マスターは言う。
「そんなにもEarthがお好きなのには何か理由が」
「私の思い出にはいつもEarthがあったのですよ」
「今夜は静かな夜です、一つ語ってもらえませんか。あなたとEarthの思い出を」
「そんな大層な話では」
私がそう謙遜するとカウンターの隅で静かにしていた女性客がこちらを見た。
「私も興味がありますね」
一人でカクテルを嗜むのに飽きたのか私達の話に聞き耳を立てていたようだ。
彼女はEarthの瓶を二本頼み、それを手土産に私の隣の席に移動してきた。
奇妙なことになったのと思いながらも、二人に乞われるがまま私は語ることにした。
別に大した話ではない。
Earthは世界的に有名な飲料だ。
幼少期の頃から名前を知っている飲み物であったし、大好物でもあった。店で並ぶ青いラベルの瓶を見かけるたびに親にねだったものだ。
異国の海を思わせる青色と、口の中一杯に広がる爽やかな甘味と、喉と舌を刺激する炭酸の弾ける音。
甘くて美味しい、子供にとってそれだけで魅力的だったのも確かだが、それだけではない。
誰もがEarthを飲んでいた、Earthはいつもポップカルチャーと共にあった。スポーツカーを駆る若者が、ギターを抱えたロックスターが、映画の中の異国の人々が、誰もがEarthをイケてる飲み物として飲んでいた。
そんなEarthを飲む時、童心ながらに大人達と肩を並べている誇らしい気持ちにもなれたのを覚えている。
Earthは私の人生の相棒だった。
心躍る瞬間に、傷ついた心を癒す時に、憧れの女の子と一夜を過ごす時に、いつもEarthを飲んでいた。
その記憶がEarthの味を鮮やかに彩り、味に一層の深みと刺激を与えていた。
記憶を思い起こす時、今でも鮮明に蘇る特別な思い出の中には必ずEarthがいる。そのことが私のEarthに対する深い愛の根源になっている。
ただの嗜好品という枠を飛び越えた、愛すべき相棒だ。
「入院中にどうしてもEarthが飲みたくてこっそり病室を抜け出したこともあったね」
今となっては笑い話になった若かりし頃の無謀さを自嘲気味に漏らすと、隣で静かに聞いていたばかりの女性客が初めて反応を示した。
「事故に遭われたのですか?」
「海外旅行先の事故で大怪我をしまして。今は後遺症もないのですが」
私はそう言って首筋に手をやった。肌に微かに残っている手術の跡を示す。もう十数年前のものだ、完治してからは誰にも気付かない程度の微かな傷。
旅行先で交通事故に巻き込まれたのだ。長期入院を強いられるほどの大きな怪我であった。
「事故の際に脳の一部に損傷を受けたんです。海外での手術と入院で当初は不安に思いましたが、最新技術のサンプルとして使いたいとのことで格安で手術を受けることができました」
私の話を聞いていた女性は、その表情を変えた。
おもむろに胸元から名刺を取り出す。
「先端マーケティング被害者の会」という団体の名が載っていた。その肩書の意味を彼女は語る。
消費者に不利益をもたらす広告は法規制されているが、最新の技術や手法に関しては法整備が追いついていない状況だ。それらの法の抜け穴をついた広告によって不利益、被害を被った人々の相談窓口や集団訴訟を支援する団体であるという。
彼女が反応したのは、広告掲載によって手術代を肩代わりするという事例が、その団体にいくつも寄せられているからだった。
「商品広告を埋め込む代わりに手術代を肩代わりするという手法があり、一部の患者は正常な判断ができない状態でその契約に同意させられたと当団体にも相談があります」
彼女の話を聞いたマスターが不安そうな声を漏らす。
「広告を埋め込む、というのは」
「その人の記憶にです。過去の記憶に商品広告を埋め込むことで購買意欲を煽るというもの。法律で禁止されているサブリミナル広告にあたるのではないかと現在弁護士と協議しています」
「サブリミナル広告?」
「人の潜在意識に働きかける広告です。例えば、宣伝したい製品とは無関係の映像の中に、見ている人が認識できないほど僅かな一瞬で商品画像を挿入する。コマ送りでないと気付かないほどに。ですが人の潜在意識はそれを無意識の内に認識してしまう。それによって購買意欲が掻き立てられる、というものです」
記憶に広告を埋め込む。
あの日見た光景に、あの日経験した瞬間に、広告が入る。さり気なく、気づけないほど、あまりに自然にその広告は記憶の一部となる。
そう説明する彼女の言葉がどこか遠くの方で反響しているようで。
あの時私の喉を潤していったものが、あの日私と共に青春を過ごしたものが、突然得体の知れない味のしないものになってしまったようで。
私が愛していたのは本当にEarthだったのか。
記憶を思い起こしてみてもあの爽やかな青色ばかりが脳裏を過る。
手の熱でグラスの中の氷は溶けきっている。
少し薄くなった青色の水面がたゆたう。
その半透明の向こう側に見慣れたロゴが揺れていた。
【完】
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