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短編集
ゆびさきの意義
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インターフォンの呼び出し音で私は目を覚まし、枕元の携帯を見てみれば朝の8時であった。しがない私立大学生である私を、平日の朝早くから尋ねてくるような人物に心当たりはなく、呼び出し音は何かの聞き間違いではなかろうかと呑気に構えていると、間違いなく我が家の呼び出し音がもう一度鳴った。早朝の訪問者という事で私がイメージしたのは、令状片手に犯人の家を訪れる刑事ドラマのワンシーンである。縁起でもないし、心当たりもない。
何の自慢になるわけでもないが、この年になるまで警察のお世話になった事が無い。重犯罪は勿論の事、駐禁をした事は無いし、財布を落とした事も無く、飲み会で記憶の殆どを喪失した時もご迷惑をかけた事はない。別にその事を誇示する気は毛頭なく、つまるところ、私は普通の一市民に過ぎないという話である。
三度目の呼び出し音が鳴った。我が根城であるこのワンルームアパートは、大学生向けの物件だけあって、その家賃の割には、それなりの防音とオートロック機能が備わっている。インターフォンのカメラで早朝の来訪者の姿を確認してみれば、スーツ姿の若い男がそこには立っていた。彼の端正な顔立ちと綺麗に撫でつけた髪に一切の見覚えは無く、大方このアパートに住む女子大生の彼氏か、それに準ずる立場の人間であろうと思った。私の部屋の番号を間違えているのであろう、と思った私は渋々インターフォンの受話器を取った。
「もしもし」
「おはようございます。飯田様でお間違いないでしょうか。わたくし、東京拘置所の者です。郵便にて御連絡させて頂いた通り、本日の迎えに参りました」
意外にも彼は私の名前を呼んだ。身に覚えがなく私は問い返す。
「何の話でしょうか」
「本日の死刑執行員として飯田様が当選されております。三か月前に書面にて連絡を差し上げていると思うのですが」
おぼろげながらではあるが、そんな郵便が来ていた事を思い出した。失念していたと、正直に彼に伝えれば、出掛ける準備が整うまで待つと言われた。急ぎ髭を剃り、寝癖混じりの髪を梳かし、とりあえずジャケットを羽織って、財布と携帯だけをジーンズの尻ポケットに突っ込み、家を出た。迎えに来ていた彼に言われるがまま乗用車の後部座席に乗せられ、彼がハンドルを握る。
死刑執行員制度。二年程前に運用が始まった制度であり、死刑執行員を民間から選出するというものである。そんなニュースをやっていたな、と思う程度で私も詳しくは知らない。書面での通知とやらも、酔っている時に斜め読みしてそのまま何処かへ放った覚えがある。そういった旨を私が伝えると、彼は規約らしき文を長々と諳んじてみせた。
「今、東京拘置所に向かっております。到着してから、今回の死刑執行についての規約と説明をさせて頂きます。その後、死刑執行のボタンを押していただきます」
説明は簡易的で、しかしながら、私が行う行為自体はその程度のものなのであろうと思った。ならば、それを私が担う必要はあるのだろうか。私の疑問に、彼は死刑執行員制度の意義について長々と語る。今まで国民に詳細が開示されていなかった死刑制度であるが、国民がその一端に関わる事で、その理解を深める為の役割を果たす、という事らしい。死刑の流れは通常と変わりませんと、彼が説明を始めた所で目的地に到着した。
東京拘置所は予想していたよりも広い敷地であった。私の身の丈よりもずっと高いフェンスが何処までも続いている。正面の入り口は守衛付きの物々しい雰囲気で、正面入り口からは舗装された道が真っ直ぐ伸びていた。幅員からして、バスの類の乗り入れが想定されている様に思える。道は敷地の中央にあるビルまで延びており、その高いビルこそが囚人が収容されている庁舎であるらしい。中央の細長いビルから、Vの字に四つのビルが横長に伸びているという独特の形をしている。拘置所という言葉の割に暗さや退廃的な雰囲気はなく、大企業の本社の様な印象を受けた。
彼に案内されて件のビルに入る。その入り口の佇まいからは、御役所らしい雰囲気を感じた。彼に連れられるままエレベーターに乗せられ、リノリウム張りの廊下を歩いていき、見分けの付かない無数の白い扉の一つに通され、六畳程の殺風景な個室へと着いた。部屋の真ん中にはパイプ椅子とステンレスのオフィスデスク一つだけが置いてあり、彼に言われて私は腰掛ける。
サインを、と請われて書類が私の前に置かれた。先程彼が諳んじていた規約が長々と記載してある。読む気力が起こらず、私は別の事を聞く。
「具体的には、私は何をすれば良いんでしょうか」
「飯田様を含め、民間から選ばれた五人の死刑執行員がいらっしゃいます。別室に移動し、時間になりましたら五人同時に死刑執行のボタンを押していただきます。ボタン5つのうち、どれかが死刑執行の為のボタンとなっています」
端的に言えば、死刑囚の首に縄がかけられており、死刑囚の立っている床が開く。それによって落下と同時に首が絞まるという事である。床が開く為のボタンは、五つの内のどれか一つが有効なもので、誰が「正しい」ボタンを押したのかは分からない様になっているとの事である。
そして私を含め、選ばれた五人にはその他の情報は何も知らされないらしい。今日、どんな人間が、どのような罪によって、死刑が執行されるのか。その一切は知らされず、私達は当たりかどうかも分からぬボタンを押すだけである。彼の長々しい説明を要約すれば、心理的負担を軽減する為であるらしい。
「通達されないのは分かりました。執行される死刑囚の名前を、希望すれば知ることは出来ますか」
「出来ません。また具体的な死刑執行日は民間に公表されませんので、通常の生活の中で、飯田様がどの死刑囚に関係したのかを知る事はありません」
「この制度に意味はあるんでしょうか」
「制度を作ったのは私達ではありません。民衆が望み、国会で承認されたものです」
それについて私が異を唱えた事はない、諸手を挙げた事もない。私の知らない所で、私の知らない誰かがそれを望み、私の知らない内にそれは決まった。そして何の意図もなく、今日私は選ばれた。
彼に促されて、私は書類にサインをした。部屋を移動する。次の部屋はクリーム色の壁紙で、広さは先程の部屋と大差はない。部屋の隅には、簡易なついたてが立てられており、その先は別の部屋に繋がっている様である。何となく、その先が死刑囚がいる部屋なのではないかと思った。
部屋の壁には、金属の箱らしきものが床から1.5メートル程の高さに設置してあった。等間隔に5つ並んでおり、箱には拳大程の黒いボタンが備え付けられている。何が起こるボタンなのかを分かっていても、無機質なままに見えた。
暫くして、残りの四人も入室してきた。それぞれ性別も年代も様々で、初老の白髪交じりの男性、杖を突いた老婆、ジャージ姿の中年女性、大学生らしき女性だった。私はどうしていいか分からず、軽く会釈をする。それぞれ入ってきた順にボタンの前に並び立つと、彼から暫く待つように指示された。私は、目の前のボタンを見つめたままその時を待っていた。部屋は静寂で満たされていて、私の心もひどく平穏であった。
部屋の内線電話がなって、彼が応対した。彼は無表情のまま、短く受け答えをして、電話を切る。そうして私達に向き直った。
「3、2、1で、同時に押してください」
その言葉から直ぐにカウントが始まって、私は慌ててボタンに指を添える。彼のカウントが早いように感じられて、一瞬に過ぎていくようだった。考える暇も、悩む暇もなく、急かされるように指先に力を込める。彼の「1」という掛け声が消えた時、私はボタンを押し込んだ。躊躇いなく、呆気無く、ボタンは軽くて、何が起こるわけでもなかった。押したのかどうかも定かでは無かった。私以外の四人もそう思っていたのではなかろうか。それぞれ無言で、それぞれ顔色一つ変わっていない。内線がまた鳴って、彼が受話器を取る。彼は一つ頷いて直ぐに受話器を置いた。
「お疲れさまでした」
その言葉一つで、何かが終わったのだと察した。それぞれ五人は別室に戻されて、私は彼から再び説明を受けた。PTSDがどうだとか、守秘義務についてだとか、私は上の空でそれを聞いていた。適当に相槌を打っている内に、車に乗せられて帰路に就いていた。車のバックミラーにあのビルが見える。
私は、今日、ボタンを押した。死刑執行が行われるボタンを押した。心に少しの動揺も無い事に、むしろ動揺していた。
今日、誰が選ばれたのか、誰が死んだのか、私は知らない。私の知らない誰かを死刑にしたのは、私の知らない誰かである。死刑執行を今日と決めたのも、私の知らない誰かで。死刑囚を部屋まで連れて行ったのも、死刑囚に最期の言葉を聞いたのも、死刑囚の首に縄をかけたのも、落下した死刑囚を確認したのも、死刑囚だったものを床に下ろしたのも、何れも私の知らない誰かによるもので。心理的負担をかけぬように細分化された作業の内の一つを、ボタン一つを、私は押した。私の知らない誰かは、私がボタンを押した事で重荷を降ろす事が出来たのだろうか。この行為に、私の知らない誰かが謳った様な大きな意義があるのだろうか。指先には、何の感触も残っていない。
後日、ニュースを見た。刑執行が行われた死刑囚に関連する、新たな証拠が十年ぶりに見つかったらしい。死刑判決は誤審なのではないか、と「Twitter」上で有識者が騒いでいた。有象無象の意見が、何人ものユーザーを経て、リツイートされてきた。私の指先が止まって、携帯を見るのを止めた。
あの日、死んだのは誰なのか。私は今も知らない。
何の自慢になるわけでもないが、この年になるまで警察のお世話になった事が無い。重犯罪は勿論の事、駐禁をした事は無いし、財布を落とした事も無く、飲み会で記憶の殆どを喪失した時もご迷惑をかけた事はない。別にその事を誇示する気は毛頭なく、つまるところ、私は普通の一市民に過ぎないという話である。
三度目の呼び出し音が鳴った。我が根城であるこのワンルームアパートは、大学生向けの物件だけあって、その家賃の割には、それなりの防音とオートロック機能が備わっている。インターフォンのカメラで早朝の来訪者の姿を確認してみれば、スーツ姿の若い男がそこには立っていた。彼の端正な顔立ちと綺麗に撫でつけた髪に一切の見覚えは無く、大方このアパートに住む女子大生の彼氏か、それに準ずる立場の人間であろうと思った。私の部屋の番号を間違えているのであろう、と思った私は渋々インターフォンの受話器を取った。
「もしもし」
「おはようございます。飯田様でお間違いないでしょうか。わたくし、東京拘置所の者です。郵便にて御連絡させて頂いた通り、本日の迎えに参りました」
意外にも彼は私の名前を呼んだ。身に覚えがなく私は問い返す。
「何の話でしょうか」
「本日の死刑執行員として飯田様が当選されております。三か月前に書面にて連絡を差し上げていると思うのですが」
おぼろげながらではあるが、そんな郵便が来ていた事を思い出した。失念していたと、正直に彼に伝えれば、出掛ける準備が整うまで待つと言われた。急ぎ髭を剃り、寝癖混じりの髪を梳かし、とりあえずジャケットを羽織って、財布と携帯だけをジーンズの尻ポケットに突っ込み、家を出た。迎えに来ていた彼に言われるがまま乗用車の後部座席に乗せられ、彼がハンドルを握る。
死刑執行員制度。二年程前に運用が始まった制度であり、死刑執行員を民間から選出するというものである。そんなニュースをやっていたな、と思う程度で私も詳しくは知らない。書面での通知とやらも、酔っている時に斜め読みしてそのまま何処かへ放った覚えがある。そういった旨を私が伝えると、彼は規約らしき文を長々と諳んじてみせた。
「今、東京拘置所に向かっております。到着してから、今回の死刑執行についての規約と説明をさせて頂きます。その後、死刑執行のボタンを押していただきます」
説明は簡易的で、しかしながら、私が行う行為自体はその程度のものなのであろうと思った。ならば、それを私が担う必要はあるのだろうか。私の疑問に、彼は死刑執行員制度の意義について長々と語る。今まで国民に詳細が開示されていなかった死刑制度であるが、国民がその一端に関わる事で、その理解を深める為の役割を果たす、という事らしい。死刑の流れは通常と変わりませんと、彼が説明を始めた所で目的地に到着した。
東京拘置所は予想していたよりも広い敷地であった。私の身の丈よりもずっと高いフェンスが何処までも続いている。正面の入り口は守衛付きの物々しい雰囲気で、正面入り口からは舗装された道が真っ直ぐ伸びていた。幅員からして、バスの類の乗り入れが想定されている様に思える。道は敷地の中央にあるビルまで延びており、その高いビルこそが囚人が収容されている庁舎であるらしい。中央の細長いビルから、Vの字に四つのビルが横長に伸びているという独特の形をしている。拘置所という言葉の割に暗さや退廃的な雰囲気はなく、大企業の本社の様な印象を受けた。
彼に案内されて件のビルに入る。その入り口の佇まいからは、御役所らしい雰囲気を感じた。彼に連れられるままエレベーターに乗せられ、リノリウム張りの廊下を歩いていき、見分けの付かない無数の白い扉の一つに通され、六畳程の殺風景な個室へと着いた。部屋の真ん中にはパイプ椅子とステンレスのオフィスデスク一つだけが置いてあり、彼に言われて私は腰掛ける。
サインを、と請われて書類が私の前に置かれた。先程彼が諳んじていた規約が長々と記載してある。読む気力が起こらず、私は別の事を聞く。
「具体的には、私は何をすれば良いんでしょうか」
「飯田様を含め、民間から選ばれた五人の死刑執行員がいらっしゃいます。別室に移動し、時間になりましたら五人同時に死刑執行のボタンを押していただきます。ボタン5つのうち、どれかが死刑執行の為のボタンとなっています」
端的に言えば、死刑囚の首に縄がかけられており、死刑囚の立っている床が開く。それによって落下と同時に首が絞まるという事である。床が開く為のボタンは、五つの内のどれか一つが有効なもので、誰が「正しい」ボタンを押したのかは分からない様になっているとの事である。
そして私を含め、選ばれた五人にはその他の情報は何も知らされないらしい。今日、どんな人間が、どのような罪によって、死刑が執行されるのか。その一切は知らされず、私達は当たりかどうかも分からぬボタンを押すだけである。彼の長々しい説明を要約すれば、心理的負担を軽減する為であるらしい。
「通達されないのは分かりました。執行される死刑囚の名前を、希望すれば知ることは出来ますか」
「出来ません。また具体的な死刑執行日は民間に公表されませんので、通常の生活の中で、飯田様がどの死刑囚に関係したのかを知る事はありません」
「この制度に意味はあるんでしょうか」
「制度を作ったのは私達ではありません。民衆が望み、国会で承認されたものです」
それについて私が異を唱えた事はない、諸手を挙げた事もない。私の知らない所で、私の知らない誰かがそれを望み、私の知らない内にそれは決まった。そして何の意図もなく、今日私は選ばれた。
彼に促されて、私は書類にサインをした。部屋を移動する。次の部屋はクリーム色の壁紙で、広さは先程の部屋と大差はない。部屋の隅には、簡易なついたてが立てられており、その先は別の部屋に繋がっている様である。何となく、その先が死刑囚がいる部屋なのではないかと思った。
部屋の壁には、金属の箱らしきものが床から1.5メートル程の高さに設置してあった。等間隔に5つ並んでおり、箱には拳大程の黒いボタンが備え付けられている。何が起こるボタンなのかを分かっていても、無機質なままに見えた。
暫くして、残りの四人も入室してきた。それぞれ性別も年代も様々で、初老の白髪交じりの男性、杖を突いた老婆、ジャージ姿の中年女性、大学生らしき女性だった。私はどうしていいか分からず、軽く会釈をする。それぞれ入ってきた順にボタンの前に並び立つと、彼から暫く待つように指示された。私は、目の前のボタンを見つめたままその時を待っていた。部屋は静寂で満たされていて、私の心もひどく平穏であった。
部屋の内線電話がなって、彼が応対した。彼は無表情のまま、短く受け答えをして、電話を切る。そうして私達に向き直った。
「3、2、1で、同時に押してください」
その言葉から直ぐにカウントが始まって、私は慌ててボタンに指を添える。彼のカウントが早いように感じられて、一瞬に過ぎていくようだった。考える暇も、悩む暇もなく、急かされるように指先に力を込める。彼の「1」という掛け声が消えた時、私はボタンを押し込んだ。躊躇いなく、呆気無く、ボタンは軽くて、何が起こるわけでもなかった。押したのかどうかも定かでは無かった。私以外の四人もそう思っていたのではなかろうか。それぞれ無言で、それぞれ顔色一つ変わっていない。内線がまた鳴って、彼が受話器を取る。彼は一つ頷いて直ぐに受話器を置いた。
「お疲れさまでした」
その言葉一つで、何かが終わったのだと察した。それぞれ五人は別室に戻されて、私は彼から再び説明を受けた。PTSDがどうだとか、守秘義務についてだとか、私は上の空でそれを聞いていた。適当に相槌を打っている内に、車に乗せられて帰路に就いていた。車のバックミラーにあのビルが見える。
私は、今日、ボタンを押した。死刑執行が行われるボタンを押した。心に少しの動揺も無い事に、むしろ動揺していた。
今日、誰が選ばれたのか、誰が死んだのか、私は知らない。私の知らない誰かを死刑にしたのは、私の知らない誰かである。死刑執行を今日と決めたのも、私の知らない誰かで。死刑囚を部屋まで連れて行ったのも、死刑囚に最期の言葉を聞いたのも、死刑囚の首に縄をかけたのも、落下した死刑囚を確認したのも、死刑囚だったものを床に下ろしたのも、何れも私の知らない誰かによるもので。心理的負担をかけぬように細分化された作業の内の一つを、ボタン一つを、私は押した。私の知らない誰かは、私がボタンを押した事で重荷を降ろす事が出来たのだろうか。この行為に、私の知らない誰かが謳った様な大きな意義があるのだろうか。指先には、何の感触も残っていない。
後日、ニュースを見た。刑執行が行われた死刑囚に関連する、新たな証拠が十年ぶりに見つかったらしい。死刑判決は誤審なのではないか、と「Twitter」上で有識者が騒いでいた。有象無象の意見が、何人ものユーザーを経て、リツイートされてきた。私の指先が止まって、携帯を見るのを止めた。
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