あこかりぷす。

雨庭 言葉

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僕の朝、彼女の朝。

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六月の入り。
その日は想定外の暑さだった。例年よりも早い梅雨入りで、空気はいつもより蒸していた。
僕はコップに少ない牛乳を注ぎ、一気に飲み干すと、乾ききったパンを口に放り込んだ。大体僕の朝食はこの二つのメニューとなっている。
僕が住まうアパートは駅近のわりに家賃が安い。その代わり、電車の音が目障りなくらいに五月蠅くて夜は特に寝れなかった。アダルトビデオを鑑賞している最中、今にもいきそうになった瞬間電車が通り、その音で逝った瞬間の快感が全然感じられなかったことが、このアパートに関しての一番の思い出だ。大体この話を友達にすると、自分がお笑い芸人になったかのように錯覚するくらいには笑いが取れる。
ベランダを出て、昨年大家さんから譲り受けたサボテンに水をやる。サボテンには水をやっていいものなのかは分からない、だが植物であるという認識だったので大丈夫だと思い、水やりは毎日欠かさなかった。
すると隣のベランダから煙の糸が流れ込んでくる。少し薄暗い雲と相まって、ゆらゆら揺れているその煙は、僕の目の前を通りすぎ、また一周と周って、僕の鼻の中へと流れ込んだ。
僕は煙草の匂いが嫌いで、軽く咽てしまった。
「煙草、辞めてくれませんか。」
すると隣の住民が塀の隙間から少しだけ顔を出した。
「嘘、そっちに煙いってるの?」
「すごく来てますよ、僕、煙草の匂いとか無理なんです。せめて煙をこっちまで流さないよう努力はしてください。」
僕の小言に無視するかの様に、彼女はまた吸い始めた。
彼女は僕の通っている大学の先輩で、学部は違えど、所属している運動サークルが同じであった分、知り合い以上友達未満という間柄である。
綺麗にトリートメントさせた髪は眩しい光沢に包まれ、お目目がぱっちりときたもんだ。あ、この人、色んな男に抱かれているなと、そう思わせるくらい綺麗で、魅力的で、何処か儚し気な女性だ。
「今日も水やりしてるの?」
「はい、なんか枯らしちゃったら申し訳なくないですか?」
「ふーん、律儀だね。」
雨の音が弱まる。しとしと。
「サボテンってそんなに水やりしなくていいんだよ。」
「えっ、そうなんですか?」
「大体一週間から二週間に一回、多めに水あげればそれで。」
「僕、毎日あげていたんですけど。」
「知らないよ。」
「ていうか、なんで知っているんですか?」
「私の母親、お花屋さんしてたんだ。」
彼女の姿は、また塀の反対側へと消える。
「あ、そうっすか。」
僕はなんだか、今までの「僕」が否定される様な感じがして悔しかったので、そのまま水をあげていた。
「君、さては意地っ張り?」
「何か問題でも?」
「いや、なんにも問題はないよ」
サボテンに水をやり終えると、部屋の中へ入ろうとした。雨に当たるのは苦手だ。まず濡れることがあまり好きではないから。
すると彼女が「ねえ」と僕を呼び戻した。
「なんですか。」
「また明日、水やりするの?」
「勿論です。」
「そ、じゃあまた明日」
そういって彼女が部屋へと入り、戸を閉める音が聞こえた。
彼女とは、かれこれずっとこういったやり取りをしている。
彼女は変に突っかかってくるところがあって、少しはイラつきを覚えるも、すぐに慣れてしまった自分がいる。
雨の日でも、雪の日でも、猛暑でも、彼女は毎朝ベランダで煙草を吸っている。
そして今日も彼女は「また明日」と言って、部屋に戻る。
ぽつぽつ。ぽつぽつ。
僕は塀の方をちらりと横見した後、部屋へ戻った。
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