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第一話 The Black Ones (7)

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   ◆◆◆

 夕暮れが近づいた頃、わたし達は移動することになった。
 船内にあるパーティー会場に場所を移す。
 飾り付けの趣向が違うが、わたしはこっちのほうが好きだった。
 大きなシャンデリアがいくつもぶらさがっており、宝石のように輝いて床を照らしている。
 壁にはシルクと思われる赤いカーテンがかけられており、美しい光沢を放っている。
 並んでいるテーブルの上には昼間のよりも豪華な料理が置かれている。
 わたしは当然、料理に次々と手を伸ばした。
 お父さんとお母さんとおばあちゃんはここでも軍人っぽい人達と話してる。
 お姉ちゃんは少し離れたところでカッコイイ男の人と話してる。あれは大人の会話とかそういうアレなのかな?
 気にはなるけど、そこまで興味があるわけでもないし、もしかしたらお姉ちゃんの邪魔をしてしまうかもしれない。だから食べまくることにしよう。そうしよう。そうすべきだ。
 しかしこのジュースもおいしいなあ。
 ……おっといけない。ちょっと飲みすぎたかも。ええと、トイレはたしか……この会場をそこから出て右だったかな?
 はやくすませてしまおう。迷惑にならない程度の駆け足で。まあ、急がなくても食事は逃げない――いや、もしかしたらわたし以上の食いしん坊がいるかもしれない。やっぱり迷惑にならない程度に急ごう。
 トイレとは思えないほどに豪華なトイレで、鏡で身だしなみをささっと手早くチェック。
 その時、

「……?」

 わたしの意識は鏡に映る部屋の隅にとらわれた。
 黒い染みが広がっている。
 カビのように見える。きっとカビだ。
 気持ち悪いなあ、そう思ったわたしは身だしなみを終え、トイレから出た。
 その直後に気付いた。
 あんな染み、トイレに入った時は無かったことに。
 その瞬間、

「――っ!!」

 叫び声が廊下に響き渡った。

「何をする!」
「痛い! 痛い痛い痛い! やめ……いやあああああぁっ! 誰か! たすけ……っ!」
「うわああっ!」

 次々と響く悲鳴に足が止まる。
 会場から聞こえてくる。一体何が起きてるの?!
 そうだ! お父さん、お母さん、おばあちゃん、お姉ちゃんは会場にいる! 行かないと!
 そう思ったわたしは恐怖にすくんだ足に活を入れた。
 けど、

「……っ!!?」
 
 わたしの足はすぐに止まってしまった。
 家族への思いをもってしても、わたしの体はそれ以上動けなかった。
 ドアはあの黒い染みにびっしりと覆われていた。
 染みは天井から垂れ流れており、うねうねと脈打つように動いていた。
 絶対に触ってはいけないと、わたしの直感が叫んでいる。
 本能からの恐怖と警告で体がまったく動かない。
 それはまるで金縛りのようだったけど、
 
「!」
 
 ドン! という重い何かがドアの向こうからぶつかった音に、わたしの金縛りはとけて体が跳ね上がった。
 ドンドン! と、音は響き続ける。
 誰かがドアを開けようとしている? ドアノブのところは染みがついてない。ならばこちらから開けられる?
 わたしは勇気を振り絞って手を伸ばした。
 が、

「っ!」

 わたしの体はまたしても止まってしまった。
 つま先に触れたからだ。ドアの下の隙間から流れ出てきたものが。
 流れ出てきたものが広がり、わたしの足元に赤い水たまりができる。
 その赤をおぞましく感じたわたしは慌てて後ろに下がった。
 瞬間、

「!?」

 ドアに張り付いている黒い染みが髪の毛を振り乱すように伸び、わたしに襲い掛かったのだ。
 血だまりを嫌がって後ろに下がっていなかったら捕まっていた。
 そして感じた。
 ドアノブだけ染みがついていなかったのは罠だったのだと。
 罠は失敗に終わった。ならばもう隠す必要は無い、動きが鈍いフリをする必要は無い、そう示すかのように黒い染みは勢いよく次々と伸び始めた。
 何本もの黒い触手がのたうち、わたしに迫る。
 広い通路じゃない。わたしの背中はあっという間に壁にはりついた。
 逃げないと。でも黒い触手は既にわたしの左右をふさいでいる。
 もうダメ――わたしがあきらめかけた瞬間、

「!!」

 重い衝撃音と共にドアは勢いよく開かれた。
 体当たりしたと思われる男の人が足をもつれさせてわたしの足元に倒れる。
 直後にその人の後ろから洪水のように人が走り出てきた。
 男の人を踏みながら廊下へと逃げ出していく。
 みんな赤い化粧をしていた。血がついていた。
 そしてわたしは足元の男の人に大丈夫ですかと声をかけることはできなかった。
 わたしに襲い掛かろうとしていた触手が男の人に巻き付き始めたからだ。
 
「うわああああああっ!」

 男の人が顔面を掻きむしりながらのたうち回る。
 はっきりとは見えなかったけど、触手が目から入っているように見えた。
 そして男の人は激しく転がってしまったせいで、ドアから伸びていた触手を自ら自分の体に巻き付けてしまっていた。
 もう真っ黒だ。
 これはわたしでは助けられない、どうにもならない、それが一目でわかる有様。
 しかしこの人が触手の気を引いてくれたおかげで逃げ道ができていた。
 パーティー会場に入って家族を探す気にはなれなかった。
 会場は目を背けたくなるような有様だった。あちこち真っ赤だった。赤いカーテンが怪しく紅い光沢を放っていた。
 その赤い世界の中で、黒い染みがこびついている人達が食事用のナイフを振り回していた。
 倒れて動かない人に向かって。何度も何度も何度も何度も。
 だからわたしはすぐに目をそむけ、廊下を走り出した。
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