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第三章 アランが己の中にある神秘を自覚し、体得する

第二十話 嵐の前の静けさ(2)

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   ◆◆◆

 夕食を済ませた一同は軽い雑談の後、解散となった。

「それじゃあ部屋に帰るか」
「ああ、そうしよう」

 ディーノに声を掛けられたアランは席を立ち、二人で食堂を後にした。
 いや、正確には三人だった。アランとディーノの後ろにはアンナがくっついていた。
 アランとディーノはアンナがついて来ていることに気づいていたが、方向がたまたま同じなのだろうと思い、特に気にしていなかった。
 しかしこの後のアンナのある発言が二人の呑気さを吹き飛ばすのである。

「あの、お兄様、変なことを聞くようですが、一体どこに向かっているのですか?」
「どこって、自分の部屋だけど?」
「なら何故、外に向かっているのですか?」
「何故って……俺は外にある兵舎で寝泊りしているからだよ」

 アランの回答にアンナの表情は一瞬固まった。そしてそれに気づいたディーノは咄嗟に口を開いた。

「ああ、いや、勘違いしないでもらいたいんだが、クリス様はこの城にアランの部屋をちゃんと用意したんだ。決してアランのことをないがしろにしているわけじゃないぞ。アランがあのボロい……じゃない、そう、粗末な兵舎で寝泊りしているのは、アラン自身の意思なんだよ。そうだよな、アラン!?」
「え? あ、ああ、その通りだ」

 まくしたてるように喋るディーノに気圧されたのか、アランの返事はどこか間が抜けていた。

「……まあ、そういうことだから、俺らは先に部屋に帰らしてもらうわ」

 ディーノはそう言ってアランの肩を叩き、早く歩くよう急かした。

「それじゃあお休み、アンナ」

 ディーノの意を汲んだアランはそう言ってアンナに対し背を向け、歩き出した。
 しかしアンナはそれでも二人の後ろをついてくるのをやめなかった。別れようという意思をはっきり示したにもかかわらずである。
 アランはディーノと顔を見合わせたあと立ち止まり、振り返って口を開いた。

「……どうしてついてきてるんだ?」

 アランはその答えをわかっていながら、恐る恐る尋ねた。

「今晩はお兄様の部屋にお邪魔しようかと思いまして」
「「……」」

 予想通りの言葉にアランとディーノは絶句した。

「……いけませんか?」

 妹からの無垢な願いにアランは抗うことができなかった。

「……アンナには勝てないな。でも先に言っておくが、決して良い部屋じゃないからな? 後で文句を言わないでくれよ?」

 この言葉にアンナは美しい笑みを浮かべ、アランの隣に並んで歩き始めた。

   ◆◆◆

 兵舎に着いたアランは、アンナとディーノを部屋に招きいれた。
 兄の部屋に入ったアンナは、まず中をうろうろと歩き回った。
 アランは妹を部屋に入れたことをすぐに後悔した。なぜもっと掃除しておかなかったのかと。
 広い部屋では無いし、置いてある物も少ない。真ん中に粗末なテーブルが一つ、その傍に簡素な作りの椅子が二つ、入り口から最も遠い壁際に固そうなベッドがあるくらいで、あとは服や雑貨を詰めた木箱等が部屋の隅に追いやられるように置かれているくらいだ。
 目を引きそうなものと言ったら、壁に掛けられている数本の剣くらいであった。アランが愛用している刀もその中にあった。
 そんな地味な部屋であったが、アンナは何がおもしろいのか、嘗め回すように部屋の中をゆっくりと観察して回っていた。

「きゃっ」

 その時、下を見ていたアンナは突然そんな声を上げながら小さく飛び上がった。アランが妹の視線を追ってみると、そこには一匹の小さなネズミがいた。
 注目されていることに気づいたネズミは素早くどこかへ走り去っていった。この部屋はそこら中隙間だらけであり、ネズミの通り道が出来てしまうのは仕方の無いことであった。

「……今の、飼ってるんですか?」
「いや……飼ってないよ……」

 この兄妹の問答は場の空気を不思議なものに変えた。

「まあ、とにかく座ろうぜ」

 そんな空気を変えようと思ったのか、ディーノはそう言いながら二人に椅子を勧めた。

「あ、ああ。そうだな」

 部屋の主であるはずのアランはどこか緊張したような様子で椅子に腰掛け、アンナもそれに習った。椅子はそれで満席になってしまったので、ディーノはベッドに腰掛けた。
 しかし腰を下ろしたのはいいが、三人の間には会話が無かった。こういうときいつも真っ先に口を開くのはディーノなのだが、今はそのディーノでさえ軽々しく喋ることをためらっていた。

(……すげえ気まずい。アンナの心中がわからねえ。大事な兄貴をこんな汚いところに住まわせていたから怒ってんのか? でもここに住むと言い出したのはアラン本人だし、俺にやましいところは何もねえんだが……)

 何か話さなくては、ディーノはそう思っていたが、浮かんだのはどうでもいい言い訳だけであった。
 しかしその時、意外な助っ人が訪れたのである。
 突然場に響いたノックの音に、部屋の主であるアランは「どうぞ」と即答した。今のアランはとにかくなんでもいいから声を出すきっかけが欲しかったからだ。
 その訪問者はクラウスであった。

「夜分遅く失礼しますアラン様。おや、アンナ様もご一緒でしたか」
「まあ遠慮せずに入ってくれ。それで、こんな時間にどうしたんだ?」

 アランに招き入れられたクラウスはその手にある大きめの瓶を見せながら口を開いた。

「今日は過ごしやすい良い夜ですから。せっかくなので、お酒でもいかがかと思いまして」
「さすがクラウスだ、気が利いてるな。まあ俺の隣に座れよ」

 クラウスの提案に、ディーノは身を乗り出した。酔ってしまえばこんな嫌な空気も吹き飛ぶだろうとディーノは考えていた。
 ディーノはまるで勝手知ったる我が家のように、てきぱきと人数分のコップを用意して皆の手に持たせ、いつの間にかその手に握っていた酒瓶を傾けて皆のコップに注いでいった。
 全員に酒が行き渡ったあと、ディーノはコップを掲げながら口を開いた。

「それじゃあ、乾杯」

 一同はコップを突き合わせ、酒に口をつけた。
 ディーノは勢いよくコップを傾け、あおるように飲み干した。一方、それほど酒に強くないアランは数口飲んだところでコップから口を離した。
 そしてそれはクラウスも同様であった。酒を持ってきた張本人であるが、彼自身は嗜む程度であった。
 そしてまだコップに口をつけているままであったアンナは三人の注目を浴びた。その咽の動きの緩やかさから、ゆっくりと飲んでいることが窺い知れた。
 しばらくして口を離したアンナのコップはきれいに空になっていた。

「お? 妹さんはアランと違っていける口なのか。それじゃあもう一杯」

 ディーノは何がうれしいのか、その顔に笑みを浮かべながらアンナのコップに「とくとく」と酒を注いだ。
 そしてアンナは先の繰り返しのように、コップに口をつけ「こくこく」と飲み干した。

 とくとくとく。
 こくこくこく。
 とくとくとく。
 ごくごくごく。

 その様子を呆然と眺めていたアランであったが、妹の顔がみるみる赤くなってきたのを見て声を上げた。

「おいおい、そんなに勢いよく飲んで大丈夫なのか? 真っ赤になってるぞ」

 アランの声にはっとなったディーノは思わず手を止めた。
 そして場は再び沈黙に包まれた。真っ赤な顔で空のコップを握り締めるアンナ、そしてそれを見守るかのように見つめる周りの男達、誰も喋らない、誰も動かない、奇妙な絵面であった。
 その沈黙を破ったのはアンナであった。

「お兄様」
「はい」

 アランは何故か敬語になっていた。

「お兄様は御自分の立場を理解されていないのではないですか?」

 これにアランは何も言えなかったが、代わりにディーノが口を開いた。

「まあ確かに名のある貴族が住む部屋じゃ「私が言いたいのはそういうことではありません」

 ディーノが言い終わる前に、アンナは横から否定の言葉を差し込み、そのまま言葉を続けた。

「お兄様はどうして戦うのですか? 無謀な戦いに身を晒して良いほど、お兄様の命は軽いものでは無いのですよ?」

 真を突いた良い質問であった。酔ってはいたが、アンナの理性はその力を失ってはいなかった。

「……」

 これにアランは即答できなかった。アンナはそんな兄に対しさらに言葉を浴びせた。

「平原からこちらに来る際、お父様と話す機会がありました。お父様も同じことを心配しておられました」

 アランは暫し考え込んだあと、口を開いた。

「……昔は『名誉』のためだった。ディーノのように『武』で名を上げたい、ただそれだけだった。
 でもいつからか、俺はディーノのようにはなれないと思うようになった。俺にはディーノのような腕っ節の強さや、父上のような魔法力は絶対に手に入らない、なら違う道を歩むべきだ、そう思うようになった」

 アランはこれまで自分が歩んできた道を語っていた。
 何か嫌な思い出があるのだろう、アランは僅かに眉をひそめながら言葉を続けた。

「それから……リリィを失って……」

 これにディーノは驚きながら声を上げた。

「おい、それはどういうことだ!?」
「そういえばディーノは知らなかったんだな。リリィは……ある日突然行方が分からなくなったんだ」
「なんてこった、そりゃあ……」

 ディーノが口を閉じてしばらくしてから、アランは話を再開した。

「それからの俺は、父や家の力に頼らずに自分の力だけで何が出来るのかばかり考えるようになった。ここに来たのはそれが理由なんだ」

 アランは手にある酒を一口含んだ後、言葉を続けた。しかしその口調は先よりも少し弱弱しいものであった。

「でも……ここに来て俺が得たのは、自分の無力さを痛感したことだけなんだ。
 父や、俺の傍にいてくれているクラウスは、もっと広く、遠いところを見ていて、俺よりも深く考えていて、俺はそんな人達に支えられていて……それで、やっぱり俺はまだまだ未熟な半端者なんだって気づかされた」

 アランは力強い眼差しでそう言った。それはまるで自分に言い聞かせているようであった。

「……アンナの言う通りだと思う。俺は帰るべきなんだと思う。でも、俺の中にある未練のような感情がそれを邪魔するんだ」

 アランはクラウスのほうに視線を移して口を開いた。

「俺はろくでもない人間なんだと思う。俺のわがままのせいで多くの人に迷惑を掛けている。クラウスのその左目だってそうだ。そもそも、俺が戦いに身を置かなければクラウスも左目を失うことは無かっただろう」

 アランはクラウスの左目を見ながらそう言った。クラウスは頭に巻いた布で左目を覆い隠していたが、その下から覗いて見える頬にまで達した傷跡が、生々しさと凄みを与えていた。
 アランの弁に、クラウスはすぐに言葉を返した。

「アラン様がそんなことを気になさるのはお門違いです。全て私自身が望んでやったこと。
 この目についてもそうです。元はと言えば、アラン様の真似をして未熟なまま光の剣に手を出したことが原因」

 光の剣という部分に食いついたのか、アンナが口を開いた。

「クラウス様の左目がそうなってしまったのは光の剣が原因なのですか」
「ええ、そうです」
「それは……所謂、光の剣の暴走というものでしょうか?」
「私は光の剣のことはよく知らないのですが……あれが暴走と呼べるものだったかと問われれば、そうであると答えます」
「……光の剣は今も使っているのですか? その暴走した時というのは、普段とどう違うのですか?」

 一度に複数の質問を浴びせられたクラウスであったが、丁寧に答えた。

「今は使っておりません。さすがにもう懲りましたので。暴走した時との違いですが……どう表現すれば良いのか……普段の感覚をゆらゆらとした穏やかなものと例えると、それが徐々に激しくなり、それが剣から溢れ出した、というのが近いと思います」

 この答えにアンナが黙り込んだのを見たクラウスは、アランに話し掛けた。

「しかし、アラン様は流石ですな。あの光の剣を見事に使いこなしていらっしゃる」

 これにアランが口を開いた。

「それは違うんだクラウス、俺がすごいんじゃない、俺が使っている『刀』がすごいんだ」

 そう言ってアランは壁に掛けてあった刀を手に取り、クラウスに手渡した。

「それに光を通してみればわかる」

 言われたクラウスは、恐る恐るその手にある刀に魔力を這わせた。

「……!」

 その感覚にクラウスは驚きの表情を浮かべ、口を開いた。

「これは……全然違いますな。なんというか、透き通っているというか……」

 透き通っている、クラウスがそう表現したことに興味を示したのか、アンナが口を開いた。

「私にも貸してくれませんか?」

 これにアランが頷くのを見たクラウスは、アンナに刀を手渡した。
 そしてその刀身に魔力を這わせたアンナは、クラウスとほぼ同じ反応を見せた。

「これは、すごいですね……。なんというか、とても素直……」

 アンナはそれを素直であると表現した。アンナはその感覚をしばらく堪能した後、アランに刀を返した。
 アランは受け取った刀を壁に掛けながら口を開いた。

「これと同じものが作れないかと、色々試しているんだけど、上手くいかないんだ」

 アランが壁に掛けてある他の剣を眺めていると、アンナが口を開いた。

「お兄様はここでも鍛冶仕事をしているのですか」

 アンナの問いにアランは少し照れくさそうな様子で答えた。

「兵士達の武具の修理が俺の仕事なんだ。俺が出来ることってそれくらいしかないし」

 アランは壁に掛けてある剣に視線を戻して言葉を続けた。

「質の違う鋼を重ねることによってこの反りを生み出していることはわかったんだけど……光魔法を通した時の感覚はまだ刀には遠く及ばない。近づいたのは間違い無いんだが」

 言いながらアランは一本の剣を手に取った。その剣は刀と同じ片刃の剣で、微妙な反りを有していた。

「これはただの憶測なんだけど、鋼そのものに秘密があると思うんだ。鋼の質が全く違うんだと思う」

 アランは片刃の剣を壁に戻し、再び刀を手にとって言葉を続けた。

「こんな見事な鋼をどうやって生み出したのか、想像もつかない」

 刀を見つめるアランの眼差しは、見事な技に敬意を払う一人の職人のそれであった。
 その後、軽口を叩けない雰囲気を皆が感じたのか、場は静寂に包まれた。暫くしてから、そんな空気を作った張本人であるアランが口を開いた。

「そろそろいい時間だし、解散にしよう」

 まだ深夜と呼ぶには早い時間であったが、もう酒を呑んで騒ぐ雰囲気にはなれそうもないと皆思ったのか、三人はアランに頷きを返した。

   ◆◆◆

 その後、アランはアンナを城まで送ることにした。これにはディーノとクラウスもついて来ることになった。
 アンナはアランの部屋に泊まりたいと願い出たが、

「こんなところで寝るよりも、城に帰ってちゃんとしたベッドで休んだほうがいい。アンナはかなり酔っているみたいだからそうすべきだ」

 と言われ却下された。

 アンナを送る間、誰一人口を開くことは無かった。
 それは先ほどアランがした話のせいであった。アランの話は皆に刺激を与えていた。
 皆が抱いた感情は様々であった。ある者は共感し、またある者は僅かに感動し、思うところがあれどもあえて口に出さない者もいた。

 しかしある二人、アンナとディーノには共通したある意識があった。それは「自身の将来、未来について」であった。
 アランは悩み、考えながら生きている。自分は今までそうだっただろうか? これから自分はどうしたらいいのだろうか? そんな思いが皆の心の中にあった。そしてこの問いに正解と呼べるものなど存在しないことも皆理解していた。

 未来は誰にもわからない。しかし行動によって切り開くことはできる。そして自身のことを真に理解し、自身が思い描く未来のために行動できる人間、それはやはり自分しかいないのだ。

 そしてアランが今になって刀の持つ優位性を人に明かしたのには理由があった。
 以前のアラン、戦いによる「名誉」を強く求めていた頃のアランであればその秘密を人に明かすことはなかっただろう。
 自身が上に登るために、望みを叶えるために何かを秘密にする、それ自体は全く悪いことでは無い。
 しかし今のアランの心の中には「名誉」よりも価値あるものが生まれていた。
 それが何なのか、アラン自身まだ気がついていない。アランがそれを自覚するのはまだ先の話である。
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