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第四章 神秘はさらに輝きを増し、呪いとなってアランを戦いの場に連れ戻す

第三十四話 武技乱舞(9)

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   ◆◆◆

 その夜――
 ヨハンはとぼとぼと山の中を歩いていた。
 普段使われていない道なのか、やや歩き難い。
 来るときには通らなかった道だ。
 ヨハンは自身の足元に注意しながら歩いていた。
 ゆえにその歩みはゆっくりとしたものだ。
 ヨハンの後ろには兵士の渋滞が出来ている。
 しかしその数は少ない。数十名ほどだ。
 うちの一人が石につまづき、周囲にいた者を巻き込みながら倒れる。
 派手でみっともない音が周辺に木霊した後、山の中に吸い込まれて消えた。
 その兵士は先ほどから何度も転んでいた。
 しかしヨハンはそれを注意しようとはしなかった。
 彼は足を負傷しているのかもしれない、などと気遣ったからでは無い。
 単純にその気力が無かったからだ。
 ヨハンはその兵士のことなぞ気にかけず、周囲を見回した。
 相変わらず暗い森しか見えない。
 ヨハンは自分がどこにいるのか分かっていなかった。
 あの後――戦場を離れ、来た道を戻り撤退していたところまでは問題無かった。
 しかしその途中、追いついていきたリックの部隊と鉢合わせてしまったのだ。
 戦いにもならなかった。統率が無くなっていた我等は精鋭でもなんでもない敵に蹴散らされた。
 そして森の中に逃げ込み、現在に至る。

「……」

 これは本格的に迷ったか、そんな考えがヨハンの脳裏に浮かび上がった。
 しかし、その事実が気にならないほどに、ヨハンの心は重く暗い場所に沈んでいた。
 ヨハンの意識は「またなのか」という言葉に支配されていた。
 あの時と、カルロに負けた時と同じなのだ。

(また、またあんな思いをすることになるのか、私は――)

 あの敗北の後、周囲の者達は私を見る目を変えた。

「あんな負け方をするとは。失望したね」
「あんなやつを英雄だなんだともてはやしていた馬鹿は誰だ?」
「次の王はあいつだと思っていたが、どうやら勘違いだったようだ」

 そんな視線。噂。民達の声。あれを、あんな嫌な思いをもう一度味合うことになるのか、私は。
 かつての私はそこから這い上がった。しかし次はどうだろうか? また同じことがやれるのだろうか? 私はもう若くない。

「……」

 状況はあの時と同じだが、ヨハンの心境は全く違っていた。
 あの時は心の中に燃えるような執念があった。
 しかし今は何も無い。何も湧かない。

「……」

 ヨハンはその虚無感を引き摺るかのように、重くなった足を一歩前に出した。
 瞬間、

「前方に人影!」

 真後ろから飛んできた声に、ヨハンの背筋は「ぴん」となった。
 ヨハンを守るために兵士達が前へ出る。
 ヨハンは後退しながら、前方に目を凝らした。
 確かに人影のようなものが見える。闇の中にぼんやりと人の形をした輪郭が見える。
 しかもひとつやふたつじゃない。相当な数だ。
 そして直後、正面の闇に「ぼう」っと、小さな光の輪が浮かび上がった。
 光源はたいまつ。
 それを握っている者の顔が照らし出される。
 その者の顔を見たヨハンは、自身の体から緊張が抜けるのを感じた。
 ヨハンはよく知っているその者の名を呼ぼうと口を開こうとした。
 が、相手のほうが先に声を上げた。

「ご無事でしたか! ヨハン様!」

 呼ばれたヨハンは兵士の壁を掻き分けながら前に出で、声を返した。

「その声はサイラスか!」

 たいまつを持ったサイラスが歩み寄ってくる。
 瞳の中で大きくなるその姿を見つめているうち、ヨハンは「どうしてここに?」などの当然の疑問を抱いたが、

「ここは危険です。近くを敵がうろついておりますゆえ。まずは安全な場所へご案内いたします。細かい話はその後で」

 危機感を煽るサイラスの台詞に、ヨハンは素直に従ってしまった。

 このサイラスの台詞は嘘である。サイラスは周辺に敵がいないことを知っている。
 そしてこの時、サイラスはヨハンでは無く、別の者を見ていた。
 それはヨハンの後ろにいる一人の兵士。
 何度も転んでいたあの兵士である。
 サイラスはその者に「よくやった」という視線を送った。
 彼はわざと転び、その音で位置を知らせていたのだ。
 彼はサイラスの私兵であった。ヨハンの部隊が壊走を始めた時に紛れ込んでいたのだ。
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