緑担う姫と砂漠の真相

長野 雪

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騎士と秘密と姫君と

-ジョシュア-

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 なんて不甲斐ない。
 僕は王妃様の御前で膝をついたまま、涙をぐっと堪えていた。最も馬の扱いに長けているからと、最前線から城への伝令に抜擢されたが、その結果がこれだった。

「申し訳ございません!」

 僕は勢いよく頭を下げる。膝をついている状態でさらに頭を下げたせいで、ゴン、と床に額を打ち付けてしまった。痛い。でも本当に痛いのは胸だ。

「私は、七日後の陽が頂点に昇る時までと言われてあちらを出立しました! しかし、ここへ来るまでに五日も……」

 これではとても間に合わない。もちろん、そもそも相手方――バリステに出された期限が無茶なものだったと知っている。けれど、僕ならばあるいは、と送り出してくれた上司のことを考えると、もう、情けなさしか残らない。

 オルガ王子の妻、フィリア様が倒れ、いつもは気丈なウィルミナ王妃様でさえ額を押さえている。その表情は曇っていた。
 僕は頭を絨毯に擦りつけながら、王妃がネリス王女様を呼び出すのを黙って聞いていた。

「ジョシュアと言いましたね。この度はご苦労様でした。……もしかすると、明日、案内役として再びイェルの地に戻ってもらうことになるかもしれません」
「……はい」

 僕は自分の耳を疑った。王妃様が自分の名前をしっかりと口にしたことにも驚いた。僕は特に役職もない、単なる一兵卒でしかない。……いや、驚いたのはそこじゃない。

 明日、案内役として、戻る?

 とても間に合う筈もないことは、王妃様だってご承知のはずだ。それなのにどうして……

 恐る恐る顔を上げてみても、王妃様の意図を汲むことはできそうにもなかった。厳しい顔をしているが、そこには何故か絶望の色を見つけられない。

 ゆっくりと立ち上がった僕は、重い足取りで広間を出るべく動き出す。とても王妃様の意図を問い返すほどの気力はない。ただ命じられたままに休みに戻るだけだ。
 出口まであと二、三歩というところで、扉が勝手に開く。
 そこに現れたのは、金の髪に青の瞳を持つ美しい少女だった。深い海の色をしたドレスを身に纏い、急いで来たのか、息が少し弾んでいる。その容貌から「太陽と空の姫」と称されるネリス王女だとすぐに気づいた。今までは遠目でしか見たことがなかったけれど、至近距離で会うと、整った顔立ちに心臓がざわめくほどだった。

「あら、ごめんなさい。お先にどうぞ」

 躊躇することなく一介の兵に道を譲る王女に、僕は目を見開いた。

「いいえ、姫君。わたくしのような者にお気遣いは無用です。お気持ちだけいただいておきます」

 広間に居並ぶ大臣たちから咎めるような声がないのは、もしかしたら王女にとっては普段の振る舞いなのかもしれない。けれど、さすがに僕が道を譲られるわけにはいかなかった。

「……ごめんなさい」

 すれ違う際に、小さい声で謝られた気がした。むしろ、謝らなければならないのは僕の方だ。
 僕は広間を出て……その違和感に気付いた。疲労感が随分と和らいでいる気がするのだ。強行軍で五日間も馬を換えながら走らせ続けてきたのに、疲れていないわけはない。事実、王妃様の前で報告をしていたときは、疲労で倒れるかとさえ思っていた。

(まさか……、いや、でも、あの噂が本当だとしたら……?)

 まことしやかに囁かれる、ネリス王女様の噂は僕も知っていた。けれど、そんなことがあるわけないと一笑に付していた。
 結局、僕は首を傾げながら兵舎の自分の部屋へと向かうことになる。


*+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+*


 僕は自分のベッドにの転がって、一人悶々としていた。横になったものの、高揚した気分がなかなか落ち着かず、眠れないでいたのだ。
 この戦が始まる前は、まだ新兵とはいえ近衛の候補として扱われていたし、バルドウィン様からも、直々に声をかけられた。
――――だけど、戦いが始まってからはどうだろう。結局、自分は傷らしい傷も負わないまま、伝令として城に戻ることになってしまっている。

(傷は深ければ深いほど、多ければ多いほど、男の勲章だ)

 先輩に言われた言葉を思い出す度、涙が滲む。
 そんな沈みがちな思考を打ち破るかのように、コンコン、と軽いノックの音が響いた。

「ジョシュアさん、起きていますか?」

 聞き覚えのない女性の声に、僕は狸寝入りを決め込んだ。知らない声だし。僕は強行軍で疲れているんだから、起きているとは相手だって考えていないだろう。
 単にふてくされているだけだけど、ベッドから身を起こして鍵を開けに行くのも億劫だった。

「手紙を置いておきます。あまり時間はありませんが、どうかゆっくり休んでくださいね」
(手紙……?)

 足音が遠ざかるのを待ってから、僕はのろのろとドアの下からはみ出した封筒を取りに動く。

『明日、朝方に中庭のバラのゲートまでお越しください。イェル砂漠に一番近い駐屯地までの案内をお願いいたします』

 その言伝ことづてにも驚いたが、何より、最後に付け加えられた書名に目を丸くした。そこには『ネリス・イ・リスティア』と書かれている。二度、三度と見直したところで、それは変わらないし、見間違いでもなかった。

(まさか、ネリス様本人がこんな場所に? いや、それ以前にこの内容は――――)

 間に合うはずもないのに、案内を頼むのか? 何のために?
 いくつもの疑問が泡のように次々と浮かんでは消える。だが、それも、たった1つの仮定によって180度違ったものになった。

(もし、あの噂が真実なら? ネリス様がそうだとしたら……?)

 今まで信じようともしなかった常識を逸脱した噂。だけど、ここへ来て僕は、信じたいと思ってしまった。

――――奇妙な安心とともに眠りに入ってしまったのがよくなかったのか、僕が目を覚ましたときには、既に陽が顔を出そうとしていた。

「まさか、こんな時に限って寝過ごしてしまうなんて……!」

 急いで着替え、水を一杯飲んだだけで部屋を飛び出した。指定された中庭に向かうと、そこには白い馬を連れたフードとマント姿の人影があった。その裾からは白いドレスがちらちらと見えている。馬には水や食料がくくりつけられているようだったが、半日も持たない量で、ネリス様の服装とあいまって、まるでピクニックに行くかのようだった。

「お疲れの所、早くから呼び立ててしまって、ごめんなさい」
「いえ、ですが……、そのような軽装で、よろしいのでしょうか」

 僕の疑問にネリス様は問題ないとあっさり答えた。そして、僕の名前を呼ぶと、予想もしないことを尋ねてきた。

「ジョシュア、貴方は口が重い方ですか?」

 この後に起こったことは、今でも信じられない。
 ネリス様の愛馬の背中から、は、羽が生えて、しかも空を駆けて……!
 僕が死にもの狂いで五日かけて駆け続けた道のりを、たった半日足らずで戻ってしまった。あり得ない。

 駐屯地へ到着し、兵に囲まれたネリス様がここへ到着した(嘘の)経緯を説明するのを半ば呆然と眺めていた僕は、いつの間にか傍に来ていた痛々しい包帯姿のバルドウィン団長に肩を叩かれ、ネリス様を囲む輪から離れた。
 人気のない端のテントへと到着するなり、バルドウィン団長に神妙な顔で囁かれる。

「お前、知っちまっただろ」
「……な、なんのことでしょう?」

 僕は慌ててそらっとぼけた。でも、バルドウィン団長はどうやら『知っている側』だったらしい。血の染みのついた腕の包帯をするりとほどくと、僕に見せつけてきた。

「え? ……どういうことですか、これは?」

 包帯とともに固まっていた血が剥がれ落ち、そこには何のケガもない、きれいな腕があった。腕の毛に絡みついた血の塊だけが、そこにケガがあったことを物語っているだけだ。

「姫さんの仕業さ。知っている者には惜しみなくその力を使う。明日になれば、他の奴らも全体的に何故か・・・傷の治りが早くなっているだろうさ」
「火のないところに煙は立たないというわけですか」
「まぁ、そうだな」

 バルドウィン団長はニヤリと嗤った。

――――この国、リスティアだけでなく、近隣の国々でも囁かれているまことしやかな噂のことだ。色々と噂の種類は多いけれど、大雑把に言ってしまえば、リスティア第一王女ネリス・イ・リスティアは、魔女である。天使である。女神である。人ならぬ力を持っている。……そういうことだ。
 細かいものを拾い上げれば、「空を飛んでいるのを目撃」「王女の周囲には野生の動物も集まる」「彼女が生まれてから、リスティアには大規模な自然災害がない」「城の周囲の植物は成長が早い」だの色々だ。大半の人々が夢物語のような噂だと思っているだろうが、そう思わない者たちもいる。バリステからの侵略軍もその類だろう。あの人質交換の条件を聞けば、誰だってそう判断するはずだ。

「俺が確認したかったのは、お前がこれを他のヤツにしゃべるのかどうかってことだ」

 視界の端で、団長の右手が腰に下げた剣にさりげなく触れているのが映った。

「僕がしゃべったとしたら、むしろ僕らのような戦闘要員が迷惑を被るだけですよね?」

 緊張して声が裏返りそうになったが、団長が口の端を持ち上げたところを見ると、合格の答えだったらしい。

「とりあえずは大丈夫そうだな。ま、しゃべろうものなら、どうなるかは分かってるよね? 何もこのことを知っているのは俺だけじゃないしな」

 団長は郷かいに笑って僕の肩を強く叩くと、くるりと背を向けて去って行ってしまった。途端に冷や汗がどっと出る。

(とんでもない国家機密に触れてしまったのかもしれない……)

 それは幸運なことなのか不運なことなのか、僕には判断できなかった。


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