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煙突とスパイと大芝居
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「おい、お前、顔色悪くないか?」
「そう? 暗いせいでそう見えるのかしら?」
私はすっとぼけて天上を見上げた。
陽は随分と傾くような刻限だけれど、煙突掃除の準備を整えた私たちは、例の秘密の部屋にいた。
「それよりも、ほら、来たわよ」
指差した先は、水晶玉の上だ。するすると縄が下りてきたところに、ヴァルが手を伸ばし、一度だけ軽く引っ張った。事前に決めてあった合図なんだろう。縄が止まった。
「はい、落ちないようにしてね」
本当は、体重の軽い私がやりたかったのだが、ヴァルにきつく止められてしまったのでボロ布の塊を差し出す。仏頂面で受け取ったヴァルは、意外と器用な手つきでくくりつけた。
「ちゃんと煙突にはまる?」
「あぁ、ちょうどいいな。軽く押し込んで全体が入るぐらいだ」
台座に片足をかけて煙突に布を嵌めてみたヴァルは、危なげなく地面に下りると、縄を三回、くいくいくいっと引っ張った。
すると、上から下ろされていた縄がぐいぐいと引かれ、そのまま煙突の奥へ消えていった。
「三人とも、ちゃんと上まで引っ張っていけるかしら?」
そう、屋上から縄を垂らし、そして今まさに引き上げているのはあの三人組だ。この部屋のことは口外できないが、先日の一件の罰として協力させたのだ。
「大丈夫だろう。ザイルとヨークはともかく、シオンは水取りをやってるからな」
「水取り?」
「お前にも見せただろ? 地面に棒を突き刺して……」
「え? あんな重労働を?」
もちろん、城内で使う全ての水を賄っているわけではないけれど、絞って濾過した水も使われているのだとか。確かにあの三人組の中でシオンだけが使用人の身分だけれど、あんな重労働をしているのかと思うと、この砂漠化をどうにかしなければ、という決意にも力がこもる。
なんとなく会話が途切れて無言で待っていると、突然、煙突から強い光が差し込んだ。
「……!」
私もヴァルも手でひさしを作って目を庇う。外では陽が十分に傾いているはずなのに、ひどく密度の濃い光が煙突真下の水晶玉へ降り注いでいた。いや、降り注ぐなどという生易しいものではなく、まるで空から光の矢が水晶を貫いているようだった。
「……水晶が、光を反射していない?」
ヴァルの呟きが聞こえていたけれど、私は別の声に耳を傾けていた。
『あ……あ……、光、光だ。――――何年ぶりか』
『これで、これで、みんなに力をあげられる。役割を果たせる……!』
歓喜の声に続いて、温かな力の波紋が水晶玉を中心に広がっていく。その恩恵は、砂漠へも広がり、苦悶に呻いていた彼らが解放を喝采し、互いの無事を確かめ合う声を上げる。もちろん、その中には聞き覚えのあるキャズのものもあった。
『長い夜が終わったよ』
『絶望の夜が明けたよ』
生命の息吹を取り戻した緑たちが、その幸福を歌い出す。
「これで、終わったのね」
私の目頭がじんわりと熱くなる。ぼやける視界を、瞬きで戻したところに、とんでもない声をかけられた。
「ありがとう。私を再び動かしたものよ」
その声はヴァルにも聞こえたらしく、彼は「なんだ?」と室内を見回している。
「……貴方が、話しているの?」
私の目は、まっすぐに水晶玉を捉えていた。常識で考えれば、水晶玉が話すなんてことはない。けれど、そうとしか考えられなかった。
「それは肯定だ。そなたらのおかげで、わたしは再び光を得た。これでこの地も昔のように緑豊かな土地に戻るだろう」
ヴァルは目の前のことが信じられないらしく、あんぐりと口を開けたまま、声一つ出せないでいるようだった。
「だが、感謝とともに謝罪をせねばならぬ。わたしは光を……光によって得られる源の代替物として、人から力を拝借してしまった」
ようやく口を閉じたヴァルを窺うけれど、『人から力を拝借する』という意味を理解できていないようだった。
「……えぇと、なんとお呼びしたらよいのかしら? 名前やお姿はありますか?」
「そのようなことを尋ねられたのは初めてだ。わたしを造った主人はわたしにそのようなものを与えてはくれなかった歴代の主も同様だ」
「――――歴代の主?」
聞き返したのは、私ではなくヴァルだった。
「お前は、いつからここにいるんだ?」
「わたしを造った主人は、わたしを最初の主のために捧げた。最初の主はフェ・ラテという名前だ」
水晶のもたらした名前に、ヴァルの顔付きが変わった。それまで夢心地のように目の前のことを信じられないでいたのに、一気に真剣な目になる。
「建国王フェーラテのことだろうな。緑一つない荒野をその軌跡の力で実り多い土地に変えたというが、まさか……いや、そういうことなのか」
一人で納得するけれど、おそらくその伝説がこの水晶玉の力によるものなのだろう。
「オレに見えるよに姿を出せるのか? 声だけではどうにも落ち着かない」
これだけの不思議現象なのに、あまり動じた様子もなくずけずけと要求を突きつけるヴァルは、もしかして大物なのかもしれない。
「新しい主の所望とあらば。しかし、どのような姿を望む?」
「フェーラテ。お前の言うフェ・ラテの姿を覚えているなら」
ヴァルの声に呼応して、水晶玉の前に白い靄《もや》が集まった。それはゆっくりと壮年の目つきの鋭い男の姿をかたどる。
「湧き出ずる泉を持つ姫よ。力を貸してくれ。もうすぐ陽が落ちる。だが、月が出るまでにはまだ間がある」
(なんて名称で呼ぶのよ!)
私はヴァルの反応を気にしながら、水晶に手をかざした。一気に脱力感が襲ってきたけれど、いつか倒れたときの比じゃないぐらいに軽いものだった。
「すまぬ。だが、これで姿もとれるだろう」
やや沈黙があって、さらに2つの靄が各々の記憶している形をとっていった。
「は、ははさま?」
いつもの乱暴な口調にそぐわない単語が、ヴァルの口から飛び出した。
「ヴァル……?」
1つは私も知っている女性だ。キャズの守っていた女性――ヴァルの母と見つめ合う彼を視界の端に収めつつ、わたしは残りの靄に向き直った。
シンプルながらこざっぱりと清潔感を漂わせる佇まいの老人は、きまり悪そうに頭を掻いていた。
「わしは、この部屋の掃除を任されとったんじゃ。だが、この筒まで掃除せんといかんとは、ついぞ思わんかってな」
何代前のことなのかは分からないけれど、おそらく煙突の掃除を怠ったことで、この老人が一番最初に水晶玉に力を持って行かれたんだろうと想像がついた。そして、そのまま命を落としたんだと。
「この水晶玉を、恨んでいらっしゃいますでしょうね」
かける言葉に迷って、そんなことを口にすると、老人は大きく手を振った。
「とんでもない。そりゃ、確かにどうしてこんなことになったのかと嘆いた時期もあったが、あの方の事情を知ってはなぁ。それに、わしの掃除の落ち度じゃし」
「泉を持つ姫。そなたにならば、この者に新しい身体を与えることができるのではないか?」
フェーラテの姿をした水晶に懇願されたけれど、わたしには首を横に振ることしかできなかった。
「無理をおっしゃらないで。私にはそんなことはできないわ」
「構わんて。それよりもあの方をちゃんと元気にしたってくだされ」
老人の目線が示すのは、息子と話す母の姿があった。
「しかし……」
「自由はないが、わしはもう十分に生きた。いや、生きてはないが。――――それに、曾孫の顔まで見れた」
渋るフェーラテとは対照的に、老人は満足そうに見えた。
「曾孫ですか?」
「あぁ、わしの名まで継いでくれたら、言うことはなかろうもん」
「お名前ですか?」
「シオン・ハーミット。泉の姫さんとやらも、会うたことがあるじゃろ?」
なるほど。あのシオンの曾祖父にあたる方なのか。ということは代々、このお城で働いているのね。
「申し訳ない。わたしの力が至らぬばかりに……」
「いやいや、元はと言えば、掃除が不十分だったんがいけんかったんじゃし。気にせんでもいいですわ」
穏やかに笑う老人は、申し訳なさそうに眉を下げるフェーラテの肩をぽんぽん、と叩くと、その形をゆっくりと失っていく。フェーラテや私が止める間もなかった。
残されたフェーラテと、おそらく同じような想いを抱えて視線を合わせる。
「あら、まだお別れをしておりませんでしたのに……」
おっとりとした声に振り返れば、ヴァルの母親が残念そうな表情を浮かべていた。だけど、私と目が合った途端に、なぜか顔を輝かせる。
「まぁまぁ、あなたがリスティアのネリス王女ね。初めまして、トレイラと申しますの。一応この不肖の息子の母親をしています」
好奇心を隠さずに近づいてくるトレイラに、私は曖昧な愛想笑いを浮かべた。いや、そうすることしかできなかった。あれだ。やたらと縁談を進めてくる大叔母様に通じるものがある。
「話は息子から聞きましたわ。人質になってしまったのですってね。いっそのことここに残って……あぁ、ごめんなさいね。あなたの都合も考えずにまくし立ててしまって――――」
*+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+*
「どうぞこちらへ」
真夜中、人目につかない時間帯を狙って、私はトレイラ(の靄)を西棟の部屋――彼女の身体が眠る場所へ誘導していた。さすがに彼女が亡霊として出てきたと噂されてはまずい、そうヴァルと意見が一致したからだ。
3階の奥の部屋でノックをすると、程なく鍵の開く音がした。
「思ったより遅かったな」
「見回りをやり過ごすのに手間取ったのよ」
ヴァルと軽く言葉を交わし、私は蔦に覆われたトレイラの身体に視線を移す。
『大丈夫。きっとおかあさんは戻れるよ』
「あ……もしかして、この子は、わたしをずっと守ってくれていた?」
「母上?」
いつの間にか呼び方は「母様《ははさま》」から「母上」に定着したみたい。まぁ、いいけど。
「キャズ……、返事をして」
『おかあさん。大丈夫だよ。だから身体にこのまま……』
「身体に戻ったら、もうあなたとは話せなくなってしまうのね。哀しいわ」
『いいんだ。そもそも話すことができないのは当然だし。でも、おかあさんの身体を守ることができた。ぼくは役に立てただけで嬉しいよ。だから、今度は、本当の息子さんをちゃんと抱きしめてあげてよ』
「……ありがとう」
トレイラの姿をした靄が、身体に吸い込まれるように消えた。
息をひそめてトレイラの様子を見守るヴァルの姿を、満月が照らしている。
「――――どうだ?」
ヴァルに促され、私はそっとキャズの葉に触れた。すっかり元気を取り戻した蔦を通じて、トレイラの身体はしっかり機能しているのだと伝わってくる。
そして、さわさわと葉擦れの音をたてて、体中に絡まっていた蔦がその身体を解放するように動いた。
「!」
驚きの声を上げそうになったヴァルが、自分の口を押さえたのが見えた。
私とヴァルの目の前で、トレイラの指が微かに動く。そして、瞼が震えたかと思うと、ゆっくりと持ち上げられた。ヴァルと同じ色の瞳が彷徨うように揺れる。
「母上!」
ヴァルの声に、トレイラの手が差し伸べられる。
こうして、眠り母《ひめ》は息子の手によって目覚めたわけだ。めでたし、めでたし。
*+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+*
トレイラが目覚めた翌朝、デュアルバリス城は大騒ぎだった。
城の者の中には「何故か腐敗しないご遺体」があの部屋に安置されていることを知っている者もいたようだけど、それが生き返ると思っていた人はいなかったらしい。
トレイラのこと以外にも、枯れ井戸や泉だった場所からこんこんと水が湧き始めたことも騒ぎに拍車をかけた。慢性的な水不足に喘いでいた人たちにとっては、まさに天の助けだっただろう。
そして、私の未来を左右する客――王都からの一個小隊が訪れたのだ。
彼らがやってきたとき、私は味方だと知れたジィグと顔を突き合わせ、今後の逃げ方について検討していたところだった。本当は、対処できそうな地位を持つトレイラやヴァルと相談すべきなのかもしれないけど、この城の管理を任されているヴァルはそれどころではなかったし、トレイラはむしろ私にこのまま残って欲しいと口にしている。そうすれば自分を救ってくれたキャズと意志の疎通が図れるし、息子にできた嫁が捕まえられるという考えのようだ。
正直、この砂漠化の原因があの水晶玉による無差別な力の徴収だと分かったし、ここの植物たちが救われた今、私にここへ残る意志はない。でも、逃げるように帰ったら、残されたヴァルの立場は悪くなるだろう。そう考えると後味が悪かった。
念のために言っておくけれど、ヴァルに恋愛的な感情を抱いてはいない。問題を解決するために協力していただけであって、それが終わってしまえば……うーん、戦友みたいな感じだろうか。なんかマザコンぽい一面も見たし、正直そういう対象に見れない。
「困りましたねぇ」
「そうなのよ。私に何か特別な力があると知れてしまったのは間違いないと思うの」
あの水晶玉め。何度も「湧き出ずる泉を持つ姫」だのなんだのと呼ぶから、せっかく曖昧にしてきたのに、確定事項になっちゃったじゃないの。
「でしたら、こういう手段はいかがでしょう」
そうジィグが切り出した案は、悪くないように思えた。さすがにスパイとして長く潜伏している人間は違う。主に発想が。
「それなら、こういうのはどう?」
私が付け加えた案に、ジィグも頷いてくれた。
そうして二人で脱出の流れを確認し合ったところで、ぱたぱたと慌ただしく走りながら私の名前を呼ぶ声が聞こえた。どうやらシオンのようだ。
「何かしら……?」
密談をしていた空き部屋から、私一人だけが廊下に出る。ジィグは部屋に残したままだ。さすがに二人でいることがばれてはまずい。
「シオン、昨日はご苦労様。それで、何かあったの?」
「あっ! 大変なんです!」
大変なことなら、もう十分に起きた気がするけれど。王妃のことと、水のことと、さてどっちだろう?
「王都からの物騒な使いが、えぇと、軍隊が、ネリス様を差し出すように、って」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。王都から? 軍が?
「今はヴァル様が外に出ていますけど、その、あの方も血の気の多い人なので」
「分かったわ。ありがとう」
シオンの頭をくしゃりと撫でて、私はがばっと服の裾を持ち上げた。
「ネリス様っ!? な、ななな、何を……」
あまりにシオンが狼狽するので、たくしあげ過ぎたかと思ったけれど、とにかく急がなくちゃと正門に向かって駆けだす。
(お願いだから、短気は起こさないでよね……!)
シオンの言う軍隊がどれほどのものかは分からないけれど、狙いが「リスティアの王女」であるからには、きっとヴァルの兄達の誰かなんだろう。おそらく国境から戻った兵からもたらされた「とびきりの戦利品」の情報が伝わったということで、そこから先に待っているのは、今度こそ政略結婚だ。冗談じゃない。
しかも、トレイラが「生き返った」ことまで伝わってしまえば、現王に寵愛された妃の生んだ末息子を、ここで消してしまおうという短絡的思考に行きつかないとも限らない。
「ネリス様! 行ってはなりません!」
外に出ようとした私の前に立ちはだかったのは、髭爺……じゃない、ロングウェイだ。
「ごめんなさい。通してね」
深窓の姫君を装うことを、今だけはやめることにして、私は城下の子供らに教えてもらったように、少しだけフェイントをかけて横をすり抜けた。
さんさんと容赦なく照り付ける太陽の下、私の目には仁王立ちして声を張り上げるヴァルの後ろ姿が見える。
ここまで来れば、そろそろ相手にも見えるかもしれない。駆け足からぎりぎり気品を醸し出せる早足で問題の軍隊に近寄っていく。
「それ見たことか! お前の後ろに歩くあの姿こそ、ネリス・イ・リスティアその人であろう!」
相手方の隊長だろうか。すごく汚いだみ声が耳を響く。
「お前、どうして来た?」
苦々しい顔付きのヴァルに、私は無言の微笑みで返す。
――――さぁ、茶番劇を演じよう。
やって来たという軍はおよそ30名ほど。少ないと思われるかもしれないけれど、人が極端に少ないこの城を落とすには十分な数だろう。ちらりと窺えば、城内で働く人々が窓から不安そうに見ているのが分かった。その中にはもちろん、ジィグの姿もある。
それら全ての視線が、私の一挙一動に注がれてると思うと、こちらも演じる甲斐があるというものね。
「そちらの代表者はどなたですか?」
私の声に、だみ声の主が一歩踏み出した。
「不肖、私ハッシド・ゲイルがバリステ第一王子クォード様の命により、ネリス様の御身柄を預からせていただくために参上つかまつった!」
決して整えられていない無精ヒゲの男くさいオッサンの姿に、思わず呻きそうになった。つまり、承諾すれば、あの人と一緒に王都まで行くことになる、と。……もうちょっと人選が、いや、どちらにしても一緒にはいかないので、何も言うまい。
「では、ゲイル様。そして、私の声の届く方々。どうか気を静めてお聞きになってください。……私は」
ここからが本番。私は大きく息を吸い込んだ。
「私は、ネリス・イ・リスティアではありません」
想像通り、ざわざわと動揺が広がる。
「お、お前、いったい何を」
ヴァルの唖然とした声が耳に届いたので、ちらりと隣に立つ彼を見て「騙していて、ごめんなさい」と口だけの謝罪を告げた。
もちろん、大嘘である。
ゆっくりと、でも確かな足取りであちらの将軍の方へ踏み出しながら、私は用意していた嘘八百を並べ始めた。
「私は、貴方たちが古来より地霊と崇める方に仕える者です。この地の荒れ様をお嘆きになった彼の方より、遣わされた者です」
地霊(仮)は、あの水晶玉を仮定している。この国では、建国王と共に在ったのは地霊と伝えられているからだ。せっかくなので威光だけでも借りることにする。
「もちろん、信じられない方もいらっしゃるでしょう。私は、人に見える形を取るときに、ネリス王女を模倣しましたから。しかも、両国の調停の場を借りて、この地に向かうことにしてしまいましたし」
「そ、そうだ! ネリス・イ・リスティア王女はもともと人間外の力を持っていると言うではないか! そんな芝居を打ったところで騙されるわけがなかろう!」
すっと感情が冷えていくのを感じた。そう、人のことを「人間外」呼ばわりするの。私は至って自分のことを人間だと思っているのだけれどねぇ。
「では、証拠を」
髭……もとい、ゲイル隊長の目の前まで来たところで、私はためらいなく相手の腰のものを抜いた。躊躇も何もない自然な動作だったせいか、その刃が陽光を反射するまで、誰も咎めなかった。無防備なことだ。
「な、何をする気だ! 返せ!」
「すぐに返します」
私は自分の腕にその刃を滑らせた。もちろん、痛い。一文字の傷口から、赤い流れが腕をつたった。
「ご覧の通り、ネリス王女に、人間に化けていますから、赤い物が流れています。でも、これは血ではありません。全く別のものです」
乾ききった大地に血が落ちるのを確認し、私はゲイル隊長に向き直る。
「ただの血ではないか! 驚かせるな!」
こんな近くにいるのだから、無駄に声を張り上げないで欲しい。耳が痛い。
私は治癒の力を自分に向けた。そして、言葉はいらないとばかりに、目の前の髭面に腕を向け、傷口を指でなぞって見せる。残っていた血の筋が消え、そこには傷一つないなめらかな肌があった。
「私の身体には血ではなく『源』が流れています。地霊である彼の方より与えられた、あらゆる生命の『源』が」
自分でも、何を言っているんだか、という説明を並べ立てる。案の定、ゲイル隊長は「何を訳のわからないことを……」と反論の口を開いた。……けれど、それは周囲のどよめきに掻き消される。
地面から私の手に向かうように蔦が生えてきたのだ。乾ききったはずの、大地から。もちろん、これは事前に打ち合わせておいたあのキャズだ。
「な……、ななな……!」
ゲイル隊長が言葉にならない声を上げる間に、彼らにとっては甘露だという私の血を得たキャズは、ぐんぐんと蔓を伸ばし、わたしの腕を覆うように葉を生い茂らせる。はっきり言おう。やり過ぎだ。
『そうかな? こういうのは勢いが肝心でしょう?』
(あとで枯れたりしないでしょうね)
『大丈夫だよ。あの水晶も協力してくれてる。恩を返すのは今しかないからって』
(そうなの? それなら、まぁ、いいのかしら)
私は周囲にアピールするように、キャズの葉に口づけを落とす。すると、私の腕に絡みついていた蔓が自らほどけていった。
「騙していてごめんなさい」
私はゲイル隊長にくるりと背を向けると、城の前で立ち尽くしていたヴァルに声をかけた。
「ヴァル。この服はもらっていって構わないかしら? 動きやすくて気に入ったのだけど」
「どこへ、行く気だ?」
「私は貴方と約束したわよね? この急激な砂漠化の原因を突き止め、解決したなら……私を返してくれると貴方は言ったわよね?」
少し、名残惜しい気持ちはあるけれど、それを表に出さないように彼を見つめた。
「……そうだったな」
どうやら約束はちゃんと守る性格のようで、私は安堵して城の方へと視線を移した。
窓辺にザイル・シオン・ヨークの姿が見える。トレイラ様も寂しげなのは、やっぱりヴァルと一緒にならないことを惜しんでいるからだろうか。
そんな中、自信満々でジィグが頷いているのが見えた。どうやら無事に到着しているらしい。
「カーマ! いらっしゃい!」
ややあって、鳥のような羽ばたきが聞こえ、羽の生えた白馬の姿が誰の目にも映るほどになると、ヴァルが口を開いた。
「どこに……帰るんだ?」
それは考えていなかった。仕方がないので「秘密」と人差し指を唇に当てて答えた。
「とりあえず、アリバイのために預かってた本物のネリス王女を返して、それから主の所へ行くわ。貴方も、あの水晶に名前くらいあげたらどうかしら?」
そう提案したところで、カーマが私の隣に降り立った。
「お前は? お前の名前は――――?」
「……まだ、私はネリスよ」
私はひらりとカーマにまたがった。
「はぐらかすな……っ!」
取り縋ろうとするヴァルに「また会えることもあるかもね」と謎めいた言葉を残してみてから、私はカーマを上空高くに向かわせた。
空から見降ろせば、確かにあの城を中心にして砂漠が広がっているのが分かる。考えてみれば当然のこと、あの水晶は月光や陽光で取り込めなかった分の力を周囲の緑から補っていたのだ。同心円状に広がるのは仕方がないことだろう。
「今回はなんだか疲れたわ。……私だけじゃどうにもなんなかったわよ。ジィグがリスティアのスパイで助かったわ。やっぱり、私は頭脳労働派じゃないわよね」
カーマに話しかけていると、バリステ・リスティア国境上空まで来てしまった。
「まさか、あんな大芝居を打つことになるとはねぇ……」
私が感慨深く呟くと、カーマは鼻を鳴らして同意してくれた。
「なんで、こんな力を持っちゃったのかしら。今回は『人間外』とまで言われるし……。そういえば、あの水晶にも、湧き出ずる泉を持つ姫とかどうとか言われたけど、どういうことなのかしら」
まだ厄介事が待っていそうな気がして、なんだか気が滅入る。
再びカーマが鼻を鳴らして注意を引いた。どうやら、慰めてくれているらしい。
「ありがとう。まぁ、そのうち分かるといいんだけどね、私のこの力のことも」
空高く吹く風に髪を遊ばせながら、私は眼下に見え始めたいくつもの街を眺めた。
「それじゃ、カーマのペースで構わないから、王都までお願いね」
「そう? 暗いせいでそう見えるのかしら?」
私はすっとぼけて天上を見上げた。
陽は随分と傾くような刻限だけれど、煙突掃除の準備を整えた私たちは、例の秘密の部屋にいた。
「それよりも、ほら、来たわよ」
指差した先は、水晶玉の上だ。するすると縄が下りてきたところに、ヴァルが手を伸ばし、一度だけ軽く引っ張った。事前に決めてあった合図なんだろう。縄が止まった。
「はい、落ちないようにしてね」
本当は、体重の軽い私がやりたかったのだが、ヴァルにきつく止められてしまったのでボロ布の塊を差し出す。仏頂面で受け取ったヴァルは、意外と器用な手つきでくくりつけた。
「ちゃんと煙突にはまる?」
「あぁ、ちょうどいいな。軽く押し込んで全体が入るぐらいだ」
台座に片足をかけて煙突に布を嵌めてみたヴァルは、危なげなく地面に下りると、縄を三回、くいくいくいっと引っ張った。
すると、上から下ろされていた縄がぐいぐいと引かれ、そのまま煙突の奥へ消えていった。
「三人とも、ちゃんと上まで引っ張っていけるかしら?」
そう、屋上から縄を垂らし、そして今まさに引き上げているのはあの三人組だ。この部屋のことは口外できないが、先日の一件の罰として協力させたのだ。
「大丈夫だろう。ザイルとヨークはともかく、シオンは水取りをやってるからな」
「水取り?」
「お前にも見せただろ? 地面に棒を突き刺して……」
「え? あんな重労働を?」
もちろん、城内で使う全ての水を賄っているわけではないけれど、絞って濾過した水も使われているのだとか。確かにあの三人組の中でシオンだけが使用人の身分だけれど、あんな重労働をしているのかと思うと、この砂漠化をどうにかしなければ、という決意にも力がこもる。
なんとなく会話が途切れて無言で待っていると、突然、煙突から強い光が差し込んだ。
「……!」
私もヴァルも手でひさしを作って目を庇う。外では陽が十分に傾いているはずなのに、ひどく密度の濃い光が煙突真下の水晶玉へ降り注いでいた。いや、降り注ぐなどという生易しいものではなく、まるで空から光の矢が水晶を貫いているようだった。
「……水晶が、光を反射していない?」
ヴァルの呟きが聞こえていたけれど、私は別の声に耳を傾けていた。
『あ……あ……、光、光だ。――――何年ぶりか』
『これで、これで、みんなに力をあげられる。役割を果たせる……!』
歓喜の声に続いて、温かな力の波紋が水晶玉を中心に広がっていく。その恩恵は、砂漠へも広がり、苦悶に呻いていた彼らが解放を喝采し、互いの無事を確かめ合う声を上げる。もちろん、その中には聞き覚えのあるキャズのものもあった。
『長い夜が終わったよ』
『絶望の夜が明けたよ』
生命の息吹を取り戻した緑たちが、その幸福を歌い出す。
「これで、終わったのね」
私の目頭がじんわりと熱くなる。ぼやける視界を、瞬きで戻したところに、とんでもない声をかけられた。
「ありがとう。私を再び動かしたものよ」
その声はヴァルにも聞こえたらしく、彼は「なんだ?」と室内を見回している。
「……貴方が、話しているの?」
私の目は、まっすぐに水晶玉を捉えていた。常識で考えれば、水晶玉が話すなんてことはない。けれど、そうとしか考えられなかった。
「それは肯定だ。そなたらのおかげで、わたしは再び光を得た。これでこの地も昔のように緑豊かな土地に戻るだろう」
ヴァルは目の前のことが信じられないらしく、あんぐりと口を開けたまま、声一つ出せないでいるようだった。
「だが、感謝とともに謝罪をせねばならぬ。わたしは光を……光によって得られる源の代替物として、人から力を拝借してしまった」
ようやく口を閉じたヴァルを窺うけれど、『人から力を拝借する』という意味を理解できていないようだった。
「……えぇと、なんとお呼びしたらよいのかしら? 名前やお姿はありますか?」
「そのようなことを尋ねられたのは初めてだ。わたしを造った主人はわたしにそのようなものを与えてはくれなかった歴代の主も同様だ」
「――――歴代の主?」
聞き返したのは、私ではなくヴァルだった。
「お前は、いつからここにいるんだ?」
「わたしを造った主人は、わたしを最初の主のために捧げた。最初の主はフェ・ラテという名前だ」
水晶のもたらした名前に、ヴァルの顔付きが変わった。それまで夢心地のように目の前のことを信じられないでいたのに、一気に真剣な目になる。
「建国王フェーラテのことだろうな。緑一つない荒野をその軌跡の力で実り多い土地に変えたというが、まさか……いや、そういうことなのか」
一人で納得するけれど、おそらくその伝説がこの水晶玉の力によるものなのだろう。
「オレに見えるよに姿を出せるのか? 声だけではどうにも落ち着かない」
これだけの不思議現象なのに、あまり動じた様子もなくずけずけと要求を突きつけるヴァルは、もしかして大物なのかもしれない。
「新しい主の所望とあらば。しかし、どのような姿を望む?」
「フェーラテ。お前の言うフェ・ラテの姿を覚えているなら」
ヴァルの声に呼応して、水晶玉の前に白い靄《もや》が集まった。それはゆっくりと壮年の目つきの鋭い男の姿をかたどる。
「湧き出ずる泉を持つ姫よ。力を貸してくれ。もうすぐ陽が落ちる。だが、月が出るまでにはまだ間がある」
(なんて名称で呼ぶのよ!)
私はヴァルの反応を気にしながら、水晶に手をかざした。一気に脱力感が襲ってきたけれど、いつか倒れたときの比じゃないぐらいに軽いものだった。
「すまぬ。だが、これで姿もとれるだろう」
やや沈黙があって、さらに2つの靄が各々の記憶している形をとっていった。
「は、ははさま?」
いつもの乱暴な口調にそぐわない単語が、ヴァルの口から飛び出した。
「ヴァル……?」
1つは私も知っている女性だ。キャズの守っていた女性――ヴァルの母と見つめ合う彼を視界の端に収めつつ、わたしは残りの靄に向き直った。
シンプルながらこざっぱりと清潔感を漂わせる佇まいの老人は、きまり悪そうに頭を掻いていた。
「わしは、この部屋の掃除を任されとったんじゃ。だが、この筒まで掃除せんといかんとは、ついぞ思わんかってな」
何代前のことなのかは分からないけれど、おそらく煙突の掃除を怠ったことで、この老人が一番最初に水晶玉に力を持って行かれたんだろうと想像がついた。そして、そのまま命を落としたんだと。
「この水晶玉を、恨んでいらっしゃいますでしょうね」
かける言葉に迷って、そんなことを口にすると、老人は大きく手を振った。
「とんでもない。そりゃ、確かにどうしてこんなことになったのかと嘆いた時期もあったが、あの方の事情を知ってはなぁ。それに、わしの掃除の落ち度じゃし」
「泉を持つ姫。そなたにならば、この者に新しい身体を与えることができるのではないか?」
フェーラテの姿をした水晶に懇願されたけれど、わたしには首を横に振ることしかできなかった。
「無理をおっしゃらないで。私にはそんなことはできないわ」
「構わんて。それよりもあの方をちゃんと元気にしたってくだされ」
老人の目線が示すのは、息子と話す母の姿があった。
「しかし……」
「自由はないが、わしはもう十分に生きた。いや、生きてはないが。――――それに、曾孫の顔まで見れた」
渋るフェーラテとは対照的に、老人は満足そうに見えた。
「曾孫ですか?」
「あぁ、わしの名まで継いでくれたら、言うことはなかろうもん」
「お名前ですか?」
「シオン・ハーミット。泉の姫さんとやらも、会うたことがあるじゃろ?」
なるほど。あのシオンの曾祖父にあたる方なのか。ということは代々、このお城で働いているのね。
「申し訳ない。わたしの力が至らぬばかりに……」
「いやいや、元はと言えば、掃除が不十分だったんがいけんかったんじゃし。気にせんでもいいですわ」
穏やかに笑う老人は、申し訳なさそうに眉を下げるフェーラテの肩をぽんぽん、と叩くと、その形をゆっくりと失っていく。フェーラテや私が止める間もなかった。
残されたフェーラテと、おそらく同じような想いを抱えて視線を合わせる。
「あら、まだお別れをしておりませんでしたのに……」
おっとりとした声に振り返れば、ヴァルの母親が残念そうな表情を浮かべていた。だけど、私と目が合った途端に、なぜか顔を輝かせる。
「まぁまぁ、あなたがリスティアのネリス王女ね。初めまして、トレイラと申しますの。一応この不肖の息子の母親をしています」
好奇心を隠さずに近づいてくるトレイラに、私は曖昧な愛想笑いを浮かべた。いや、そうすることしかできなかった。あれだ。やたらと縁談を進めてくる大叔母様に通じるものがある。
「話は息子から聞きましたわ。人質になってしまったのですってね。いっそのことここに残って……あぁ、ごめんなさいね。あなたの都合も考えずにまくし立ててしまって――――」
*+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+*
「どうぞこちらへ」
真夜中、人目につかない時間帯を狙って、私はトレイラ(の靄)を西棟の部屋――彼女の身体が眠る場所へ誘導していた。さすがに彼女が亡霊として出てきたと噂されてはまずい、そうヴァルと意見が一致したからだ。
3階の奥の部屋でノックをすると、程なく鍵の開く音がした。
「思ったより遅かったな」
「見回りをやり過ごすのに手間取ったのよ」
ヴァルと軽く言葉を交わし、私は蔦に覆われたトレイラの身体に視線を移す。
『大丈夫。きっとおかあさんは戻れるよ』
「あ……もしかして、この子は、わたしをずっと守ってくれていた?」
「母上?」
いつの間にか呼び方は「母様《ははさま》」から「母上」に定着したみたい。まぁ、いいけど。
「キャズ……、返事をして」
『おかあさん。大丈夫だよ。だから身体にこのまま……』
「身体に戻ったら、もうあなたとは話せなくなってしまうのね。哀しいわ」
『いいんだ。そもそも話すことができないのは当然だし。でも、おかあさんの身体を守ることができた。ぼくは役に立てただけで嬉しいよ。だから、今度は、本当の息子さんをちゃんと抱きしめてあげてよ』
「……ありがとう」
トレイラの姿をした靄が、身体に吸い込まれるように消えた。
息をひそめてトレイラの様子を見守るヴァルの姿を、満月が照らしている。
「――――どうだ?」
ヴァルに促され、私はそっとキャズの葉に触れた。すっかり元気を取り戻した蔦を通じて、トレイラの身体はしっかり機能しているのだと伝わってくる。
そして、さわさわと葉擦れの音をたてて、体中に絡まっていた蔦がその身体を解放するように動いた。
「!」
驚きの声を上げそうになったヴァルが、自分の口を押さえたのが見えた。
私とヴァルの目の前で、トレイラの指が微かに動く。そして、瞼が震えたかと思うと、ゆっくりと持ち上げられた。ヴァルと同じ色の瞳が彷徨うように揺れる。
「母上!」
ヴァルの声に、トレイラの手が差し伸べられる。
こうして、眠り母《ひめ》は息子の手によって目覚めたわけだ。めでたし、めでたし。
*+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+**+:。.。:+*
トレイラが目覚めた翌朝、デュアルバリス城は大騒ぎだった。
城の者の中には「何故か腐敗しないご遺体」があの部屋に安置されていることを知っている者もいたようだけど、それが生き返ると思っていた人はいなかったらしい。
トレイラのこと以外にも、枯れ井戸や泉だった場所からこんこんと水が湧き始めたことも騒ぎに拍車をかけた。慢性的な水不足に喘いでいた人たちにとっては、まさに天の助けだっただろう。
そして、私の未来を左右する客――王都からの一個小隊が訪れたのだ。
彼らがやってきたとき、私は味方だと知れたジィグと顔を突き合わせ、今後の逃げ方について検討していたところだった。本当は、対処できそうな地位を持つトレイラやヴァルと相談すべきなのかもしれないけど、この城の管理を任されているヴァルはそれどころではなかったし、トレイラはむしろ私にこのまま残って欲しいと口にしている。そうすれば自分を救ってくれたキャズと意志の疎通が図れるし、息子にできた嫁が捕まえられるという考えのようだ。
正直、この砂漠化の原因があの水晶玉による無差別な力の徴収だと分かったし、ここの植物たちが救われた今、私にここへ残る意志はない。でも、逃げるように帰ったら、残されたヴァルの立場は悪くなるだろう。そう考えると後味が悪かった。
念のために言っておくけれど、ヴァルに恋愛的な感情を抱いてはいない。問題を解決するために協力していただけであって、それが終わってしまえば……うーん、戦友みたいな感じだろうか。なんかマザコンぽい一面も見たし、正直そういう対象に見れない。
「困りましたねぇ」
「そうなのよ。私に何か特別な力があると知れてしまったのは間違いないと思うの」
あの水晶玉め。何度も「湧き出ずる泉を持つ姫」だのなんだのと呼ぶから、せっかく曖昧にしてきたのに、確定事項になっちゃったじゃないの。
「でしたら、こういう手段はいかがでしょう」
そうジィグが切り出した案は、悪くないように思えた。さすがにスパイとして長く潜伏している人間は違う。主に発想が。
「それなら、こういうのはどう?」
私が付け加えた案に、ジィグも頷いてくれた。
そうして二人で脱出の流れを確認し合ったところで、ぱたぱたと慌ただしく走りながら私の名前を呼ぶ声が聞こえた。どうやらシオンのようだ。
「何かしら……?」
密談をしていた空き部屋から、私一人だけが廊下に出る。ジィグは部屋に残したままだ。さすがに二人でいることがばれてはまずい。
「シオン、昨日はご苦労様。それで、何かあったの?」
「あっ! 大変なんです!」
大変なことなら、もう十分に起きた気がするけれど。王妃のことと、水のことと、さてどっちだろう?
「王都からの物騒な使いが、えぇと、軍隊が、ネリス様を差し出すように、って」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。王都から? 軍が?
「今はヴァル様が外に出ていますけど、その、あの方も血の気の多い人なので」
「分かったわ。ありがとう」
シオンの頭をくしゃりと撫でて、私はがばっと服の裾を持ち上げた。
「ネリス様っ!? な、ななな、何を……」
あまりにシオンが狼狽するので、たくしあげ過ぎたかと思ったけれど、とにかく急がなくちゃと正門に向かって駆けだす。
(お願いだから、短気は起こさないでよね……!)
シオンの言う軍隊がどれほどのものかは分からないけれど、狙いが「リスティアの王女」であるからには、きっとヴァルの兄達の誰かなんだろう。おそらく国境から戻った兵からもたらされた「とびきりの戦利品」の情報が伝わったということで、そこから先に待っているのは、今度こそ政略結婚だ。冗談じゃない。
しかも、トレイラが「生き返った」ことまで伝わってしまえば、現王に寵愛された妃の生んだ末息子を、ここで消してしまおうという短絡的思考に行きつかないとも限らない。
「ネリス様! 行ってはなりません!」
外に出ようとした私の前に立ちはだかったのは、髭爺……じゃない、ロングウェイだ。
「ごめんなさい。通してね」
深窓の姫君を装うことを、今だけはやめることにして、私は城下の子供らに教えてもらったように、少しだけフェイントをかけて横をすり抜けた。
さんさんと容赦なく照り付ける太陽の下、私の目には仁王立ちして声を張り上げるヴァルの後ろ姿が見える。
ここまで来れば、そろそろ相手にも見えるかもしれない。駆け足からぎりぎり気品を醸し出せる早足で問題の軍隊に近寄っていく。
「それ見たことか! お前の後ろに歩くあの姿こそ、ネリス・イ・リスティアその人であろう!」
相手方の隊長だろうか。すごく汚いだみ声が耳を響く。
「お前、どうして来た?」
苦々しい顔付きのヴァルに、私は無言の微笑みで返す。
――――さぁ、茶番劇を演じよう。
やって来たという軍はおよそ30名ほど。少ないと思われるかもしれないけれど、人が極端に少ないこの城を落とすには十分な数だろう。ちらりと窺えば、城内で働く人々が窓から不安そうに見ているのが分かった。その中にはもちろん、ジィグの姿もある。
それら全ての視線が、私の一挙一動に注がれてると思うと、こちらも演じる甲斐があるというものね。
「そちらの代表者はどなたですか?」
私の声に、だみ声の主が一歩踏み出した。
「不肖、私ハッシド・ゲイルがバリステ第一王子クォード様の命により、ネリス様の御身柄を預からせていただくために参上つかまつった!」
決して整えられていない無精ヒゲの男くさいオッサンの姿に、思わず呻きそうになった。つまり、承諾すれば、あの人と一緒に王都まで行くことになる、と。……もうちょっと人選が、いや、どちらにしても一緒にはいかないので、何も言うまい。
「では、ゲイル様。そして、私の声の届く方々。どうか気を静めてお聞きになってください。……私は」
ここからが本番。私は大きく息を吸い込んだ。
「私は、ネリス・イ・リスティアではありません」
想像通り、ざわざわと動揺が広がる。
「お、お前、いったい何を」
ヴァルの唖然とした声が耳に届いたので、ちらりと隣に立つ彼を見て「騙していて、ごめんなさい」と口だけの謝罪を告げた。
もちろん、大嘘である。
ゆっくりと、でも確かな足取りであちらの将軍の方へ踏み出しながら、私は用意していた嘘八百を並べ始めた。
「私は、貴方たちが古来より地霊と崇める方に仕える者です。この地の荒れ様をお嘆きになった彼の方より、遣わされた者です」
地霊(仮)は、あの水晶玉を仮定している。この国では、建国王と共に在ったのは地霊と伝えられているからだ。せっかくなので威光だけでも借りることにする。
「もちろん、信じられない方もいらっしゃるでしょう。私は、人に見える形を取るときに、ネリス王女を模倣しましたから。しかも、両国の調停の場を借りて、この地に向かうことにしてしまいましたし」
「そ、そうだ! ネリス・イ・リスティア王女はもともと人間外の力を持っていると言うではないか! そんな芝居を打ったところで騙されるわけがなかろう!」
すっと感情が冷えていくのを感じた。そう、人のことを「人間外」呼ばわりするの。私は至って自分のことを人間だと思っているのだけれどねぇ。
「では、証拠を」
髭……もとい、ゲイル隊長の目の前まで来たところで、私はためらいなく相手の腰のものを抜いた。躊躇も何もない自然な動作だったせいか、その刃が陽光を反射するまで、誰も咎めなかった。無防備なことだ。
「な、何をする気だ! 返せ!」
「すぐに返します」
私は自分の腕にその刃を滑らせた。もちろん、痛い。一文字の傷口から、赤い流れが腕をつたった。
「ご覧の通り、ネリス王女に、人間に化けていますから、赤い物が流れています。でも、これは血ではありません。全く別のものです」
乾ききった大地に血が落ちるのを確認し、私はゲイル隊長に向き直る。
「ただの血ではないか! 驚かせるな!」
こんな近くにいるのだから、無駄に声を張り上げないで欲しい。耳が痛い。
私は治癒の力を自分に向けた。そして、言葉はいらないとばかりに、目の前の髭面に腕を向け、傷口を指でなぞって見せる。残っていた血の筋が消え、そこには傷一つないなめらかな肌があった。
「私の身体には血ではなく『源』が流れています。地霊である彼の方より与えられた、あらゆる生命の『源』が」
自分でも、何を言っているんだか、という説明を並べ立てる。案の定、ゲイル隊長は「何を訳のわからないことを……」と反論の口を開いた。……けれど、それは周囲のどよめきに掻き消される。
地面から私の手に向かうように蔦が生えてきたのだ。乾ききったはずの、大地から。もちろん、これは事前に打ち合わせておいたあのキャズだ。
「な……、ななな……!」
ゲイル隊長が言葉にならない声を上げる間に、彼らにとっては甘露だという私の血を得たキャズは、ぐんぐんと蔓を伸ばし、わたしの腕を覆うように葉を生い茂らせる。はっきり言おう。やり過ぎだ。
『そうかな? こういうのは勢いが肝心でしょう?』
(あとで枯れたりしないでしょうね)
『大丈夫だよ。あの水晶も協力してくれてる。恩を返すのは今しかないからって』
(そうなの? それなら、まぁ、いいのかしら)
私は周囲にアピールするように、キャズの葉に口づけを落とす。すると、私の腕に絡みついていた蔓が自らほどけていった。
「騙していてごめんなさい」
私はゲイル隊長にくるりと背を向けると、城の前で立ち尽くしていたヴァルに声をかけた。
「ヴァル。この服はもらっていって構わないかしら? 動きやすくて気に入ったのだけど」
「どこへ、行く気だ?」
「私は貴方と約束したわよね? この急激な砂漠化の原因を突き止め、解決したなら……私を返してくれると貴方は言ったわよね?」
少し、名残惜しい気持ちはあるけれど、それを表に出さないように彼を見つめた。
「……そうだったな」
どうやら約束はちゃんと守る性格のようで、私は安堵して城の方へと視線を移した。
窓辺にザイル・シオン・ヨークの姿が見える。トレイラ様も寂しげなのは、やっぱりヴァルと一緒にならないことを惜しんでいるからだろうか。
そんな中、自信満々でジィグが頷いているのが見えた。どうやら無事に到着しているらしい。
「カーマ! いらっしゃい!」
ややあって、鳥のような羽ばたきが聞こえ、羽の生えた白馬の姿が誰の目にも映るほどになると、ヴァルが口を開いた。
「どこに……帰るんだ?」
それは考えていなかった。仕方がないので「秘密」と人差し指を唇に当てて答えた。
「とりあえず、アリバイのために預かってた本物のネリス王女を返して、それから主の所へ行くわ。貴方も、あの水晶に名前くらいあげたらどうかしら?」
そう提案したところで、カーマが私の隣に降り立った。
「お前は? お前の名前は――――?」
「……まだ、私はネリスよ」
私はひらりとカーマにまたがった。
「はぐらかすな……っ!」
取り縋ろうとするヴァルに「また会えることもあるかもね」と謎めいた言葉を残してみてから、私はカーマを上空高くに向かわせた。
空から見降ろせば、確かにあの城を中心にして砂漠が広がっているのが分かる。考えてみれば当然のこと、あの水晶は月光や陽光で取り込めなかった分の力を周囲の緑から補っていたのだ。同心円状に広がるのは仕方がないことだろう。
「今回はなんだか疲れたわ。……私だけじゃどうにもなんなかったわよ。ジィグがリスティアのスパイで助かったわ。やっぱり、私は頭脳労働派じゃないわよね」
カーマに話しかけていると、バリステ・リスティア国境上空まで来てしまった。
「まさか、あんな大芝居を打つことになるとはねぇ……」
私が感慨深く呟くと、カーマは鼻を鳴らして同意してくれた。
「なんで、こんな力を持っちゃったのかしら。今回は『人間外』とまで言われるし……。そういえば、あの水晶にも、湧き出ずる泉を持つ姫とかどうとか言われたけど、どういうことなのかしら」
まだ厄介事が待っていそうな気がして、なんだか気が滅入る。
再びカーマが鼻を鳴らして注意を引いた。どうやら、慰めてくれているらしい。
「ありがとう。まぁ、そのうち分かるといいんだけどね、私のこの力のことも」
空高く吹く風に髪を遊ばせながら、私は眼下に見え始めたいくつもの街を眺めた。
「それじゃ、カーマのペースで構わないから、王都までお願いね」
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