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第一章
手帳と月
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「月がきれいだな」
かの有名な小説家である夏目漱石は、この言葉を使って想いを寄せる人に告白をしたといわれている。けれどこの告白は、依然として僕にとって納得のいかないことが多すぎる。なぜ漱石はその人の容姿や仕草ではなく、月を褒めたのか。なぜ相手はそれを告白だと受け取ることができたのか。今でも知らない人はいないであろうこの逸話の真意は、漱石がいない今、細かく明かされることは二度とないのだろう。けれど僕は、この言葉が嫌いではなかった。むしろ、羨ましいとさえ思っていた。
言葉が、ちゃんと届く世界。そんなものが、本当にあるのだろうか。
図書館を出ると、夜空にはきれいなフラワームーンが静かに浮かんでいる。五月の満月は、いつもより少しだけ赤みを帯びて見える。辺りにはサークルやゼミ終わりの学生たちが疲弊しきった顔をして、それぞれ学校を後にしていく。笑い声、話し声、スマホの通知音。僕にとっては全て、雑音だ。
学校から一人暮らしの家までが近い僕は、毎朝一限から大学に行く。一週間を通して必修科目のない二限と四限を空きコマとし、講義が終わり次第、図書館の二階、最も西側にある少し古びた机に真っ先に向かう。そこで一人の時間を楽しむ。そして大学全体が静かになるこの時間に家に帰る。
これが僕、佐藤彰人の、大学に入って一ヶ月でできた日常だった。人との距離を保つこと。それが、僕の生き方だった。
昔、親友がいた。ずっと味方だと言ってくれた。でも、都合が悪くなると、僕を切り捨てた。それ以来、僕は人の言葉を信じられなくなった。信じようとしても、どこかで疑ってしまう。言葉の裏を探してしまう。だから、最初から深く関わらない方がいい。そう決めていた。
翌日、一限の講義が終わった。
「今日の講義はここまでだな。みんな大学生活楽しめよ。勉強だけじゃなく、遊びもな」
教授の声に、教室全体がざわつく。僕はすでに広げたノートと教科書をまとめ終えていた。誰よりも早く教室を出て、いつもの場所へ向かう。
図書館二階、西側の机。静かで、誰も来ない。ここが僕の居場所だった。
けれど今日は、違った。机の上に、何かが置かれていた。メルヘン調に描かれたウサギとビオラの花の表紙の、手帳らしきもの。
「忘れ物、か」
その手帳は、どうぞ読んでくださいと言わんばかりに丁寧に机の上に置かれている。席取りというより、誰かが拾ってここに置いたように感じた。どうするべきか。悩んでいると、不意に後ろから声が聞こえた。
「すみません、ここら辺にウサギの絵が描かれた手帳、落ちてませんでしたか?」
後ろを振り返ると、そこには女の子がいた。肩にかかるくらいのミディアムの髪がきれいに揃えられており、整った目元、通った鼻筋、静かに結ばれた唇。どの部分も目立ちすぎないのに、全体として完成されている。僕は直感的に、この人とは住む世界が違うと思った。
「これですか。誰かが拾ってくれたみたいですよ」
「あ、それです! よかった。どこに落としたかわからなくて」
彼女は少し声を弾ませて、すぐ近くまで歩み寄った。距離は近いのに、圧迫感はない。人に話しかけることに慣れている人の動きだった。
僕は手帳を手渡した。彼女の手が、一瞬だけ僕の指先に触れる。
「ありがとうございます」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、どこか懐かしいような気がした。いや、そんなはずはない。初めて会った人だ。
「よかったです。それじゃ、僕はここで」
容姿や距離の詰め方からして、嫌いではない。けれど苦手な部類の人だと思った。僕はそう言うことで会話を終わらせるはずだった。しかし彼女は、そのまま立ち去らず、周囲を一度だけ見渡した。それから、僕の方を向いて言った。
「国文学科一年生の、月島すずです」
「え、あ……同じく国文学科一年の、佐藤彰人です」
突然の自己紹介に動揺し、反射的に自分も名乗ってしまった。
「彰人君。今日はありがと。またね」
そう言うと、月島すずは軽く会釈して歩き出した。拾ったのは僕じゃない。だからありがとうを言われる筋合いなんてない。それなのに、台風のように現れ消えていった彼女は、確実に僕の記憶に残った。机の上には、もう何もない。それなのに、さっきまでなかったはずの気配だけが、しばらく残っていた。
きっと、この出来事を家族や友人なんかに話したら、それを「運命の出会い」だとあざ笑ってくるだろう。アニメや漫画では、この後少し時間が経ってからまるで物語のような再会をして、僕と彼女は結ばれる。そういった定番の未来になっていたのかもしれない。
でも、そんなことにはならなかった。
なぜかって?
再会などではない。彼女は、いつでも僕の前に現れるようになったのだ。僕の日常は、その日から、少しずつ変わり始めていた。
かの有名な小説家である夏目漱石は、この言葉を使って想いを寄せる人に告白をしたといわれている。けれどこの告白は、依然として僕にとって納得のいかないことが多すぎる。なぜ漱石はその人の容姿や仕草ではなく、月を褒めたのか。なぜ相手はそれを告白だと受け取ることができたのか。今でも知らない人はいないであろうこの逸話の真意は、漱石がいない今、細かく明かされることは二度とないのだろう。けれど僕は、この言葉が嫌いではなかった。むしろ、羨ましいとさえ思っていた。
言葉が、ちゃんと届く世界。そんなものが、本当にあるのだろうか。
図書館を出ると、夜空にはきれいなフラワームーンが静かに浮かんでいる。五月の満月は、いつもより少しだけ赤みを帯びて見える。辺りにはサークルやゼミ終わりの学生たちが疲弊しきった顔をして、それぞれ学校を後にしていく。笑い声、話し声、スマホの通知音。僕にとっては全て、雑音だ。
学校から一人暮らしの家までが近い僕は、毎朝一限から大学に行く。一週間を通して必修科目のない二限と四限を空きコマとし、講義が終わり次第、図書館の二階、最も西側にある少し古びた机に真っ先に向かう。そこで一人の時間を楽しむ。そして大学全体が静かになるこの時間に家に帰る。
これが僕、佐藤彰人の、大学に入って一ヶ月でできた日常だった。人との距離を保つこと。それが、僕の生き方だった。
昔、親友がいた。ずっと味方だと言ってくれた。でも、都合が悪くなると、僕を切り捨てた。それ以来、僕は人の言葉を信じられなくなった。信じようとしても、どこかで疑ってしまう。言葉の裏を探してしまう。だから、最初から深く関わらない方がいい。そう決めていた。
翌日、一限の講義が終わった。
「今日の講義はここまでだな。みんな大学生活楽しめよ。勉強だけじゃなく、遊びもな」
教授の声に、教室全体がざわつく。僕はすでに広げたノートと教科書をまとめ終えていた。誰よりも早く教室を出て、いつもの場所へ向かう。
図書館二階、西側の机。静かで、誰も来ない。ここが僕の居場所だった。
けれど今日は、違った。机の上に、何かが置かれていた。メルヘン調に描かれたウサギとビオラの花の表紙の、手帳らしきもの。
「忘れ物、か」
その手帳は、どうぞ読んでくださいと言わんばかりに丁寧に机の上に置かれている。席取りというより、誰かが拾ってここに置いたように感じた。どうするべきか。悩んでいると、不意に後ろから声が聞こえた。
「すみません、ここら辺にウサギの絵が描かれた手帳、落ちてませんでしたか?」
後ろを振り返ると、そこには女の子がいた。肩にかかるくらいのミディアムの髪がきれいに揃えられており、整った目元、通った鼻筋、静かに結ばれた唇。どの部分も目立ちすぎないのに、全体として完成されている。僕は直感的に、この人とは住む世界が違うと思った。
「これですか。誰かが拾ってくれたみたいですよ」
「あ、それです! よかった。どこに落としたかわからなくて」
彼女は少し声を弾ませて、すぐ近くまで歩み寄った。距離は近いのに、圧迫感はない。人に話しかけることに慣れている人の動きだった。
僕は手帳を手渡した。彼女の手が、一瞬だけ僕の指先に触れる。
「ありがとうございます」
彼女は微笑んだ。その笑顔は、どこか懐かしいような気がした。いや、そんなはずはない。初めて会った人だ。
「よかったです。それじゃ、僕はここで」
容姿や距離の詰め方からして、嫌いではない。けれど苦手な部類の人だと思った。僕はそう言うことで会話を終わらせるはずだった。しかし彼女は、そのまま立ち去らず、周囲を一度だけ見渡した。それから、僕の方を向いて言った。
「国文学科一年生の、月島すずです」
「え、あ……同じく国文学科一年の、佐藤彰人です」
突然の自己紹介に動揺し、反射的に自分も名乗ってしまった。
「彰人君。今日はありがと。またね」
そう言うと、月島すずは軽く会釈して歩き出した。拾ったのは僕じゃない。だからありがとうを言われる筋合いなんてない。それなのに、台風のように現れ消えていった彼女は、確実に僕の記憶に残った。机の上には、もう何もない。それなのに、さっきまでなかったはずの気配だけが、しばらく残っていた。
きっと、この出来事を家族や友人なんかに話したら、それを「運命の出会い」だとあざ笑ってくるだろう。アニメや漫画では、この後少し時間が経ってからまるで物語のような再会をして、僕と彼女は結ばれる。そういった定番の未来になっていたのかもしれない。
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