月が奇麗な夜にもう一度君とキスがしたい

月白いと

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第三章

秘密の場所

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「彰人。一限お疲れ様」
 振り返ると、そこには中村陽がいた。彼は唯一の僕の友人で、僕の幼馴染だった。
「陽。久しぶりだな」
「久しぶり。元気してた?」
「まあね」
 陽は相変わらず、人懐っこい笑顔を浮かべていた。大学は同じだが学科が違うため、こうして会うのは入学式以来かもしれない。
「お前、最近どう? 大学生活楽しんでる?」
「普通だよ。講義受けて、図書館行って、家に帰る」
「相変わらずだな」
 陽は少し呆れたように笑った。
「サークルとか入らないの?」
「興味ない」
「だろうな」
 そう言って、陽は僕の肩を軽く叩いた。
「でもさ、なんかお前、変わったな」
「え?」
「なんていうか……前より、表情が柔らかくなったっていうか」
「そんなことないだろ」
「いや、絶対変わった。何かあった?」
 陽の目は、子供の頃から変わらない。まっすぐで、嘘を見抜く目だ。
「別に、何もないよ」
「ふーん」
 陽は疑わしそうに僕を見たが、それ以上は追求しなかった。
「まあいいや。また今度飯でも行こうぜ」
「ああ」
 陽は手を振って、廊下の向こうへ消えていった。図書館へ向かう。二階、西側の机。いつもの場所に着くと、僕は思わず足を止めた。
 すずが、いない。
いつもなら、もうここに座っているはずなのに。机の上には何もなく、椅子も動いた形跡がない。
「……まあ、別にいいか」
 そう呟いて、僕は席に座った。鞄から教科書を取り出す。ノートを開く。いつも通りの時間が、始まるはずだった。でも、集中できなかった。視線が、何度も隣の空いた席に向かう。時計を見る。スマホを確認する。また隣の席を見る。
「……何やってんだ、俺」
 苛立ちとも、焦りともつかない感情が胸の中でざわついた。すずがいないだけだ。ただそれだけのことなのに。一ヶ月前まで、僕は一人でここにいた。それが当たり前だった。今日は、ただその日常に戻っただけだ。なのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。気づけば、僕は席を立っていた。
 図書館を出て、館内を歩く。学食、ラウンジ、中庭。どこにもすずの姿はない。
「どこ行ったんだよ」
 独り言が、自然と口をついて出た。すずがいない。それだけで、世界が少しだけ色を失ったような気がした。僕の日常は、もう完全にすずに侵食されていた。いつの間にか、彼女がいることが前提になっていた。
 ふと、ある場所が頭に浮かんだ。本校舎と旧校舎を繋ぐ、縦の通路。四つあるうちの、一番上。古くて、誰も通らない場所。なぜそこが思い浮かんだのかわからない。でも、足は自然とそこへ向かっていた。階段を上り、薄暗い廊下を歩く。静かだ。人の気配がまったくない。廊下の突き当たりに、小さな窓が一つだけある。そして、その窓の前に、すずがいた。月を見上げながら、小さく鼻歌を歌っている。
「月島さん」
 僕が声をかけると、すずは振り返った。
「あ、彰人君」
 彼女はいつもの笑顔を浮かべた。
「こんなところで何してるの?」
「ちょっと疲れちゃって。ここ、落ち着くから」
 すずは再び窓の方を向いた。そこからは、まだ昼間の空に薄く浮かぶ月が見えた。
「月、きれいだね」
「……まだ昼なのに」
「うん。でも見えるよ。昼の月も、夜の月と同じくらいきれいだと思わない?」
 僕は窓に近づいて、月を見上げた。確かに、薄く白い月が空に浮かんでいる。
「サン=テグジュペリが言ったんだ。『大切なものは目に見えない』って」
「星の王子さま、だっけ」
「そう。でもね、私は思うの。大切なものは、見えないんじゃなくて、見ようとしなきゃ見えないんだって」
 すずは月を見つめたまま、続けた。
「この月だって、昼間はみんな見上げないでしょ。太陽が眩しいから。でも、ちゃんと見ようとすれば、ここにある」
「……そうだね」
「彰人君は、ちゃんと見ようとしてる?」
「何を?」
「大切なもの」
 すずは僕の方を向いた。その目は、いつもより少しだけ真剣だった。
「わからない」
「わからない、か」
 彼女は少し寂しそうに笑った。
「でも、いつかわかるよ。きっと」
 風が吹いて、窓が小さく音を立てた。すずの髪が、ふわりと揺れる。
「ねえ彰人君」
「なに?」
「私ね、この場所が好きなの。誰も来ないし、月がきれいに見えるから」
「そう」
「だから、秘密ね」
「秘密?」
「うん。私たちだけの、秘密の場所」
 すずはそう言って、にっこりと笑った。僕たちだけの、秘密の場所。その言葉が、妙に心に残った。
「図書館、探したよ」
 気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
「え?」
「いつもいるのに、いなかったから」
 すずは一瞬、驚いたような顔をした。それから、少しだけ頬を染めて笑った。
「心配してくれたの?」
「別に、心配とかじゃなくて……」
「ありがと」
 すずは嬉しそうに言った。それから、窓枠に軽く腰を下ろした。
「ねえ、もう少しここにいよ」
「講義は?」
「四限、今日は休講なの。彰人君は?」
「……俺も」
「じゃあ、決まりだね」
 すずはそう言って、隣を軽く叩いた。僕も窓枠に腰を下ろす。それから、僕たちはいろんな話をした。すずが最近読んだ本の話。僕が好きな作家の話。どうでもいい日常の断片。
「ねえ彰人君、もし今すぐどこか行けるとしたら、どこに行きたい?」
「急だな」
「いいから、答えて」
「……海、かな」
「へえ、意外。彰人君、インドア派だと思ってた」
「インドア派だけど、海は好きだよ」
「どうして?」
「わからない。ただ、波の音を聞いてると落ち着く」
「そっか」
 すずは嬉しそうに笑った。
「じゃあいつか、一緒に行こうね」
「……うん」
 気づけば、窓の外は夕暮れに染まっていた。オレンジ色の光が廊下を照らす。
「もうこんな時間か」
「うん。でも、もう少しだけ」
 すずはそう言って、空を見上げた。
「もうすぐ、月が出るから」
 太陽が沈み、空が深い青色に変わっていく。そして、東の空から、月が昇り始めた。ストロベリームーン。六月の満月。その名の通り、少しピンクがかった、温かみのある光を放っている。夜空に浮かぶ月は幻想的で、まるで絵画の中の風景のようだった。柔らかな光が、静かに世界を包み込んでいく。
「きれい……」
 すずが、小さく呟いた。月の光が、彼女の横顔を照らしている。その表情は、どこか切なげで、でもどこか幸せそうで。
「ねえ彰人君」
「なに?」
「私ね、月が大好きなの」
「うん」
「どうしてかわかる?」
「……わからない」
「月はね、いつもそこにあるから」
 すずは月を見つめたまま、続けた。
「太陽みたいに眩しすぎることもない。星みたいに遠すぎることもない。いつも、ちゃんとそこにいてくれる」
「そうだね」
「だから、寂しくないの」
 その言葉に、僕は少しだけ胸が痛んだ。すずは寂しいのだろうか。いつも笑っている彼女が。
「彰人君は、寂しくない?」
「今は……」
 僕は少し間を置いてから、答えた。
「今は、寂しくない」
「どうして?」
「君がいるから」
 すずは驚いたように目を見開いた。それから、少しだけ頬を染めて、嬉しそうに笑った。
「そっか」
 彼女は小さく呟いた。
「私も。彰人君がいるから、寂しくない」
 
 風が吹いて、窓がカタカタと音を立てた。月は静かに、僕たちを見下ろしていた。この瞬間が、ずっと続けばいいのに。そんなことを、初めて思った。
「そろそろ帰ろっか」
 すずが立ち上がった。
「うん」
 僕も立ち上がる。
 廊下を歩き、階段を降りて、校舎を出る。夜風が心地よい。空には、さっきの月が静かに輝いている。僕たちは並んで歩いた。月明かりが、二人の影を地面に落としている。
「ねえ彰人君」
「なに?」
「また明日ね」
「……うん。また明日」
すずは嬉しそうに笑った。ストロベリームーンの光の下、僕たちは静かに帰路についた。
その光は、どこまでも優しく、僕たちを照らしていた。
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