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弟が旦那様になったので、全力で尽くした結果
4.その後の話
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これが、本当に、あの噂の皇妃さま、なんだ。
少年はあんぐりと口を開けた。
金髪に紫の目の美しい海竜。皇妃にして政務の長たる政王フォルス、皇帝クレイヴェルの兄にして唯一の皇妃。
皇帝の寵愛を一身に受けている皇妃には、市井ではさまざまな下卑た噂が飛び交っていた。
皇帝を誘惑した妖妃。
弟を咥え込んで離さない淫乱。
子宮で命乞いした雄くずれ。
少年のいる貧民街では特に、下劣な噂はその下限を争うように口悪く罵るものになっていった。
それは、歴代の王に比べて貧民向けの施策も充実させていたフォルスへの、期待への裏返しでもある。
政王として変わらず務めているとはいえ、いつ皇帝がその方針を変えるか。それこそ政王とて、雌になったなら逆らえぬだろうと嘲笑して。
年若い少年にとっては、大人たちの言葉たちが全てで、少年が思い描く皇妃は、脇目も振らずに男を誘惑する、食うに困った娼婦のものに似通った。
だが、実際の、皇妃である。
「疫病の蔓延は抑えられているな。だが根絶にはほど遠いか。やはり死骸廃棄物の除去と……」
「……あの、ほんとに、皇妃さま、ですか」
役人となにやら話し込んでいた皇妃が、顔を上げた。天使みたい。少年は純粋にそう思った。美しい顔立ちばかりではない。この地を良くしようとするその真剣さが、まるで神の使いのようだと。
「ああ、そうだ。政王として、皇帝陛下より政治を任されてもいる。何か直談判があるなら、聞こう」
「お……っ弟の雌なんかにされてっ恥ずかしくないんですか……っ!」
勢い余って人の噂話のまま、言葉にした少年に、周囲がざわめく。役人たちだけでなく、普段あれほどフォルスを嘲っていた酔っぱらいたちまで。
「こ、こいつ……政王陛下っすぐに下がらせます!!」
「いや、いい。少年。どうしてそう思う?」
焦って少年の体に手を伸ばした役人を、フォルスが制す。序列第二位の威容が、言葉だけで場のざわめきを落ち着かせる。
「雌…雌にされるのは、情けないことだって、おじちゃんたちが……」
「ふむ……」
ちら、と少年が酔っぱらいたちを見るが、目を合わさないようにうろうろと視界を漂わせている。普段あんな風に、言ってたくせに。
「まあ、雄の方が勝手気ままに振る舞える場面も多いのは間違いではないな。だが少年、自由なばかりがこの世で最も尊いものか?」
「意味、わかんない、です……」
頭のいい人なんだ、と少年は思った。でも、少年についていける話の内容ではなく、ただただ不理解を告げれば、その正直を褒めるように、フォルスの顔が笑みにに変わる。
「ならば問いを変えよう。大事なものはあるか」
「……別に……」
「ふふ、正直でよろしい。ならばいつか、わかってくれればいい」
そう言って、皇妃は少年の両手を手で握った。インクで汚れた爪先と、硬いペンだこが印象的な手だった。
「大事なもののためになら、何に成っても構わない、と思うこともある」
「……弟の為なら、情けなくても、雌になってもいいって、思ったんですか」
「雌が情けないとは思わんが、まあ……そうだな。大事な、大事な弟が、俺を望んだ。だから、望む形になれるのだから、ただ成っただけだ」
変なの。
あんな悪口、全部嘘だったんだ。
こんなの、ただのおにいちゃんだ。
弟とか妹を守る、ただの、おにいちゃんだ。
「こわく、ないの」
「……帰りたい場所がないほうが、余程怖い」
「いまはあるんですか」
「ああ。……少年、君がいつか大事なものが出来た時に、共にある場所としてこの国を選べるよう、尽力する」
「……うん、がんばって、ね」
「ああ」
「悪口、言って、ごめんなさい……」
「いい。だが……次言ったら怒るからな。次はないぞ」
「……はい」
次、など、あるかどうかもわからぬのに皇妃は言う。少年はその顔に釘付けになった。
やっぱり、ただのおにいちゃんだ。
貧民街の視察を終え、フォルスが政務室でその内容を取りまとめているときであった。時刻としては、城中の文官たちがほとんど仕事を終わらせた頃である。
バタン、と大きい音を立てて扉を開く者がいた。政王の執政室にそのように入る者は一人しかおらず、フォルスは手を止めて、顔を上げた。
「皇帝陛下」
公的立場にある時、フォルスはクレイヴェルをそう呼ぶ。呼びかけを受けたクレイヴェルは、感情の乗らない目で室内を一瞥する。
「皇妃。執務官を下がらせて構わないか」
「はい。今日は終わりでいい、ご苦労だった。明日も頼む」
張り詰めた緊張が溶ける。政務官たちは安堵の溜息をついて、それぞれ自分の仕事の道具を抱えて退室した。
皇帝が、フォルスのことを政王ではなく皇妃と呼ぶ時には、単に恋人同士の逢瀬であるからだ。
政務官たちのみならず、近臣たちは皇帝の精力旺盛には困ってもいたが、意外にも皇帝にそれ以外の欠落もさしてなく、ならばと円満すぎる夫婦を見守るだけにとどめているのが最近のことである。
「……ヴェル、おいで」
「兄上……」
二人きりになって、フォルスもクレイヴェルも、ごく私的な呼びかけをした。
「俺を持たせるなんて、ひどいな、兄上」
椅子を立ったフォルスの肩に、クレイヴェルはすり寄って頭を乗せた。
「すまない。集中すると時間を忘れるのは俺の悪い癖だな。政務官たちももう少し早く帰してやるべきだった」
「兄上はいつになっても頑張りやさんだからなぁ……」
「……ん……」
弟が甘えた声で褒めてくるので、フォルスの意識は政務から一気に離れる。
政王のものから、皇妃のものに。すり寄ってくる弟の体を抱きしめて、フォルスは帰ってきた、と安堵した。
かつてフォルスにとって、帰らなければならない義務の場所としてのこの王城が、クレイヴェルがいるから帰りたい場所になった。
「兄上、兄上……♡早く俺の全身よしよしして……♡」
「本当に、お前の甘えたは治らないな」
くすくすと笑うフォルスの声が溶けている。愛しい雄に欲しがられて、幸せに熱を上げる雌の声だった。
「治るわけないだろ♡こんなに甘やかし上手の俺のお嫁さんが甘やかしてくれんのに♡」
そうしてクレイヴェルは褒めもするのだから、フォルスの心まで溶けて、この弟になんでもしてやりたくなる。甘えられることに、甘えきってしまいたくなって、フォルスはクレイヴェルの肩に頭を預けた。
「……ふふ、かわいいヴェル。今日も皇帝がんばったな……偉いぞ」
「うん……♡」
「今日も、たくさん撫でてやるからな……♡」
そうしてフォルスは、ちゅう、と夫の頬にキスをしてやって、後のことは全部、寝台の上で叶えてやって、叶えてもらうことにした。
そうやって、甘やかしあう夜がいくつもあった。いくつもいくつも重ねて。
そうして数年後。
その朝の、前夜もまた。
朝の陽射しの中、十分に甘えて気力を取り戻したクレイヴェルを見送って、フォルスが身支度を整えていれば、扉をノックする音が部屋に響く。
「入れ」
相手が誰だか分かっているフォルスは端的に返し、若い海竜を出迎えた。
「政王陛下。今日の政務ですが……」
老齢で退任した国務大臣の代わりに、フォルスとの連絡役を務める青年は、通る声で次々と連絡事項を伝えていく。フォルスは書類を受け取りながら、若者の勤勉を微笑ましく眺めていた。
「………それと、あの」
「どうした?」
突然、若者の声が、私的な響きになる。
職務と私情をしかと分けられる分別に、フォルスはいつものことながら感心して、続きの言葉を待つ。
「母上。父上を甘やかしすぎじゃないですか?」
「……わかったか」
フォルスは思わず苦笑した。
青年はクレイヴェルとフォルスの長子である。
皇妃となって最初の年、三体産んだ卵の一つ、唯一肉体を持って産まれた子は、外見はクレイヴェルに、内面はどちらかといえばフォルスに似て育った。
「いやわかりますよ!!見てくださいよあの父上のデレッデレした顔!!威厳もなにもありませんよ!?」
この長子は、危うい頃のクレイヴェルを知らない。
知っているのは、妻で兄のフォルスの手を子どもと取り合うような、しょうもない父の顔だった。
「二人きりの時に比べたらキリッとした顔をしているぞ」
「ウワーッ!やだな、親のそういう話!!」
相変わらず自由気ままに好き勝手言う。フォルスは苦笑した。だが、そうして育ってくれたことに、少しは親としてちゃんとやれているのだろうか、という思いもある。
自分や、夫で弟のクレイヴェルが、親に対して出来なかったことだったから。
「まあ実利もあることだしな。見逃してくれ」
「いや確かに母上とイチャついた後の父上、めちゃくちゃ頭脳も武勇も冴えてはいますけど……」
ぶつくさ言う長子の頭をポンと撫でて、フォルスは執政の間へと向かうために歩き出した。半歩遅れて長子も続く。
長い回廊を、親子は進む。
クレイヴェルが夫にならねば、もっといえば皇帝にならねば、なかった光景だろう、と自分の隣に急いで並んだ長子の顔を見てフォルスは思った。
天空からの光を通す海面が揺れて、廊下に影がかかる。
「父上」
思わず、という言い方で長子がその影を呼ぶ。竜身になったクレイヴェルが、その巨体を翻して、海流に乗っていく。今回の遠征はずいぶんと遠い。だからフォルスは思うままに甘やかして、弟の帰る場所を教え込んで、送り出した。
じっと、フォルスがクレイヴェルの背を眺める横で、長子もまた、父の後ろ姿を見ていた。口を半開きにして、目をきらきらとさせて。
そういう時だけ、似た表情をする。
フォルスは夫と長子の共通点を思って、小さく笑った。
「かっこいいだろう、お前の父親は」
「む……、……まぁ、かっこ悪いとは思ってませんけど」
「ふふ」
笑って、フォルスは再び歩き出した。その後を長子の足音が続く。呆れた顔をしているのはわかっていた。
「……いや母上、いま惚気ましたよね」
「許せ。他の者に惚気を言えば、お前の父は自分に直接言えと、すぐにやきもちを焼く」
「いやだからそれ母上が甘やかした結果ですよね!?」
そのような他愛のないやりとりを重ねていれば、緩く湾曲した回廊の先から、子どもの泣き声が響いてくる。
ぽてぽて、という擬音が似合いそうな、二人の幼児が駆け寄ってくるところだった。後ろから使用人が焦ってついてくる。
二人は一つの卵から産まれた双子であった。クレイヴェルとフォルスの、今のところは末子、ということになる。
「あ~ははうえぇ~~~~~」
「ぅあーん、うぁーん!」
「どうした?」
自分とよく似た金髪の双子に、フォルスは膝をついて目線を合わせる。長子もまた、身を屈めた。
「けんかっけんかしたぁっ」
「にいに、にいにぃ、こいつがぶったぁ……!」
「おーよしよし、いつも仲良しなのにどうしたんだ、今日は」
『だいすきなおにいちゃん』に問いかけられて、双子は少し落ち着きを取り戻す。
フォルスとクレイヴェルが揃って不在の時に孵化したこの双子は、最初に抱き上げたのがこの長子ということも相まって、刷り込みのように長兄を慕っていた。
それを、微笑ましく見守りつつ、少し、自分の経験に思い当たる節があり、まさかな、と思っていたフォルスではあるが。
「ぼくがにいにをお嫁さんにするんだもん~!」
「うるさいっおれがにいちゃんを嫁にするんだ!!」
「……………」
まさにこの時、フォルスとクレイヴェルとの思い出と完全にかさなり、さしもの政王も沈黙した。
「か……かわい~……喧嘩の内容それなんだぁ……」
「…………」
一方、兄の了見ですっかり末子にメロメロになっている長子は、母親が危惧していることなど、何一つ気づいていなかった。
何一つ気づかずに、母親と同じ過ちを、した。
「うんうん♡二人ともお婿さんにしてあげるからな♡」
フォルスは王家の歴史に思索を巡らす。
兄弟間の近親婚が二代続いた前例は……あったな。その子孫にも肉体的にも魔力的にも異常はなかったはず。
それと、雌が雄二人をつがいに持つのは……、ああ、たしか豪傑女王が二人どころか十人近く。
特別強固に反対する理由がない結論に達して、フォルスは複雑ながらも見守ることとした。
相手が他人ならばともかく、この双子の末子もフォルスの愛しい子どもたちだったので。
「むぅ……ほんとはおれだけがいいけど……やい!お前だから一緒でもいいんだからな!」
「わかってるよぉ……ぼくだって、お前じゃなきゃ、にいにを譲ったりしないもん……」
「仲良しで偉いな~!」
呑気に感心して双子の頭をよしよしと撫でている長子に、双子の二人ともが嬉しそうに、幸せそうに笑っている。
「じゃあ仲直りもしたとこで、兄ちゃん母上を送っていくからな。また後で」
姿勢をピンと正した長子を、双子は憧れの目で見ている。フォルスもまた、双子と同じ視点から長子を見上げて、目を細めた。
「ははうえ~おしごとがんばってね~!」
「ははうえ、がんばってね……」
「ああ、お前たちもいい子にしてるんだぞ」
「わかった!」
「うん、いいこでまってるから……」
そうして、双子の二人ともを抱きしめて、世話役の使用人に二人を任せると、フォルスと長子は、再び二人で回廊を歩く。
フォルスは、忠告だけはしておくか、と声を潜めた。
「……子どもの遊びと思わない方がいいぞ」
「え~?なんですか、深刻な顔して」
「お前の父親も、子どもの頃、ああいうことを俺に言ったぞ」
デレデレとした顔をしている長子に、フォルスは一番効きそうな言い方で釘をさした。
「いや、父上と一緒にしないでください」
急に真顔になった長子に、フォルスは苦笑する。
本当に、クレイヴェルもあのような可愛らしさで俺に言ったのを、お前は知らないから。
だがまだ未来は見えない。だからフォルスはそれ以上は兄弟の愛らしいやり取りに影を差すかと思考して、もう一度だけ念を押して終わりにすることにした。
「……忠告はしたからな。迂闊になんでも約束するなよ」
「わかってますよ~」
そう聞いているのやら、聞いていないのやら、ふわふわと答えた長子であった。
数年後、美しく成長した双子に迫られて、この長子は母親に泣きつくことになる。フォルスはだから言っただろう、と苦笑して、若い子どもたちの行く末を、ただただ見守ることとした。
少年はあんぐりと口を開けた。
金髪に紫の目の美しい海竜。皇妃にして政務の長たる政王フォルス、皇帝クレイヴェルの兄にして唯一の皇妃。
皇帝の寵愛を一身に受けている皇妃には、市井ではさまざまな下卑た噂が飛び交っていた。
皇帝を誘惑した妖妃。
弟を咥え込んで離さない淫乱。
子宮で命乞いした雄くずれ。
少年のいる貧民街では特に、下劣な噂はその下限を争うように口悪く罵るものになっていった。
それは、歴代の王に比べて貧民向けの施策も充実させていたフォルスへの、期待への裏返しでもある。
政王として変わらず務めているとはいえ、いつ皇帝がその方針を変えるか。それこそ政王とて、雌になったなら逆らえぬだろうと嘲笑して。
年若い少年にとっては、大人たちの言葉たちが全てで、少年が思い描く皇妃は、脇目も振らずに男を誘惑する、食うに困った娼婦のものに似通った。
だが、実際の、皇妃である。
「疫病の蔓延は抑えられているな。だが根絶にはほど遠いか。やはり死骸廃棄物の除去と……」
「……あの、ほんとに、皇妃さま、ですか」
役人となにやら話し込んでいた皇妃が、顔を上げた。天使みたい。少年は純粋にそう思った。美しい顔立ちばかりではない。この地を良くしようとするその真剣さが、まるで神の使いのようだと。
「ああ、そうだ。政王として、皇帝陛下より政治を任されてもいる。何か直談判があるなら、聞こう」
「お……っ弟の雌なんかにされてっ恥ずかしくないんですか……っ!」
勢い余って人の噂話のまま、言葉にした少年に、周囲がざわめく。役人たちだけでなく、普段あれほどフォルスを嘲っていた酔っぱらいたちまで。
「こ、こいつ……政王陛下っすぐに下がらせます!!」
「いや、いい。少年。どうしてそう思う?」
焦って少年の体に手を伸ばした役人を、フォルスが制す。序列第二位の威容が、言葉だけで場のざわめきを落ち着かせる。
「雌…雌にされるのは、情けないことだって、おじちゃんたちが……」
「ふむ……」
ちら、と少年が酔っぱらいたちを見るが、目を合わさないようにうろうろと視界を漂わせている。普段あんな風に、言ってたくせに。
「まあ、雄の方が勝手気ままに振る舞える場面も多いのは間違いではないな。だが少年、自由なばかりがこの世で最も尊いものか?」
「意味、わかんない、です……」
頭のいい人なんだ、と少年は思った。でも、少年についていける話の内容ではなく、ただただ不理解を告げれば、その正直を褒めるように、フォルスの顔が笑みにに変わる。
「ならば問いを変えよう。大事なものはあるか」
「……別に……」
「ふふ、正直でよろしい。ならばいつか、わかってくれればいい」
そう言って、皇妃は少年の両手を手で握った。インクで汚れた爪先と、硬いペンだこが印象的な手だった。
「大事なもののためになら、何に成っても構わない、と思うこともある」
「……弟の為なら、情けなくても、雌になってもいいって、思ったんですか」
「雌が情けないとは思わんが、まあ……そうだな。大事な、大事な弟が、俺を望んだ。だから、望む形になれるのだから、ただ成っただけだ」
変なの。
あんな悪口、全部嘘だったんだ。
こんなの、ただのおにいちゃんだ。
弟とか妹を守る、ただの、おにいちゃんだ。
「こわく、ないの」
「……帰りたい場所がないほうが、余程怖い」
「いまはあるんですか」
「ああ。……少年、君がいつか大事なものが出来た時に、共にある場所としてこの国を選べるよう、尽力する」
「……うん、がんばって、ね」
「ああ」
「悪口、言って、ごめんなさい……」
「いい。だが……次言ったら怒るからな。次はないぞ」
「……はい」
次、など、あるかどうかもわからぬのに皇妃は言う。少年はその顔に釘付けになった。
やっぱり、ただのおにいちゃんだ。
貧民街の視察を終え、フォルスが政務室でその内容を取りまとめているときであった。時刻としては、城中の文官たちがほとんど仕事を終わらせた頃である。
バタン、と大きい音を立てて扉を開く者がいた。政王の執政室にそのように入る者は一人しかおらず、フォルスは手を止めて、顔を上げた。
「皇帝陛下」
公的立場にある時、フォルスはクレイヴェルをそう呼ぶ。呼びかけを受けたクレイヴェルは、感情の乗らない目で室内を一瞥する。
「皇妃。執務官を下がらせて構わないか」
「はい。今日は終わりでいい、ご苦労だった。明日も頼む」
張り詰めた緊張が溶ける。政務官たちは安堵の溜息をついて、それぞれ自分の仕事の道具を抱えて退室した。
皇帝が、フォルスのことを政王ではなく皇妃と呼ぶ時には、単に恋人同士の逢瀬であるからだ。
政務官たちのみならず、近臣たちは皇帝の精力旺盛には困ってもいたが、意外にも皇帝にそれ以外の欠落もさしてなく、ならばと円満すぎる夫婦を見守るだけにとどめているのが最近のことである。
「……ヴェル、おいで」
「兄上……」
二人きりになって、フォルスもクレイヴェルも、ごく私的な呼びかけをした。
「俺を持たせるなんて、ひどいな、兄上」
椅子を立ったフォルスの肩に、クレイヴェルはすり寄って頭を乗せた。
「すまない。集中すると時間を忘れるのは俺の悪い癖だな。政務官たちももう少し早く帰してやるべきだった」
「兄上はいつになっても頑張りやさんだからなぁ……」
「……ん……」
弟が甘えた声で褒めてくるので、フォルスの意識は政務から一気に離れる。
政王のものから、皇妃のものに。すり寄ってくる弟の体を抱きしめて、フォルスは帰ってきた、と安堵した。
かつてフォルスにとって、帰らなければならない義務の場所としてのこの王城が、クレイヴェルがいるから帰りたい場所になった。
「兄上、兄上……♡早く俺の全身よしよしして……♡」
「本当に、お前の甘えたは治らないな」
くすくすと笑うフォルスの声が溶けている。愛しい雄に欲しがられて、幸せに熱を上げる雌の声だった。
「治るわけないだろ♡こんなに甘やかし上手の俺のお嫁さんが甘やかしてくれんのに♡」
そうしてクレイヴェルは褒めもするのだから、フォルスの心まで溶けて、この弟になんでもしてやりたくなる。甘えられることに、甘えきってしまいたくなって、フォルスはクレイヴェルの肩に頭を預けた。
「……ふふ、かわいいヴェル。今日も皇帝がんばったな……偉いぞ」
「うん……♡」
「今日も、たくさん撫でてやるからな……♡」
そうしてフォルスは、ちゅう、と夫の頬にキスをしてやって、後のことは全部、寝台の上で叶えてやって、叶えてもらうことにした。
そうやって、甘やかしあう夜がいくつもあった。いくつもいくつも重ねて。
そうして数年後。
その朝の、前夜もまた。
朝の陽射しの中、十分に甘えて気力を取り戻したクレイヴェルを見送って、フォルスが身支度を整えていれば、扉をノックする音が部屋に響く。
「入れ」
相手が誰だか分かっているフォルスは端的に返し、若い海竜を出迎えた。
「政王陛下。今日の政務ですが……」
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「………それと、あの」
「どうした?」
突然、若者の声が、私的な響きになる。
職務と私情をしかと分けられる分別に、フォルスはいつものことながら感心して、続きの言葉を待つ。
「母上。父上を甘やかしすぎじゃないですか?」
「……わかったか」
フォルスは思わず苦笑した。
青年はクレイヴェルとフォルスの長子である。
皇妃となって最初の年、三体産んだ卵の一つ、唯一肉体を持って産まれた子は、外見はクレイヴェルに、内面はどちらかといえばフォルスに似て育った。
「いやわかりますよ!!見てくださいよあの父上のデレッデレした顔!!威厳もなにもありませんよ!?」
この長子は、危うい頃のクレイヴェルを知らない。
知っているのは、妻で兄のフォルスの手を子どもと取り合うような、しょうもない父の顔だった。
「二人きりの時に比べたらキリッとした顔をしているぞ」
「ウワーッ!やだな、親のそういう話!!」
相変わらず自由気ままに好き勝手言う。フォルスは苦笑した。だが、そうして育ってくれたことに、少しは親としてちゃんとやれているのだろうか、という思いもある。
自分や、夫で弟のクレイヴェルが、親に対して出来なかったことだったから。
「まあ実利もあることだしな。見逃してくれ」
「いや確かに母上とイチャついた後の父上、めちゃくちゃ頭脳も武勇も冴えてはいますけど……」
ぶつくさ言う長子の頭をポンと撫でて、フォルスは執政の間へと向かうために歩き出した。半歩遅れて長子も続く。
長い回廊を、親子は進む。
クレイヴェルが夫にならねば、もっといえば皇帝にならねば、なかった光景だろう、と自分の隣に急いで並んだ長子の顔を見てフォルスは思った。
天空からの光を通す海面が揺れて、廊下に影がかかる。
「父上」
思わず、という言い方で長子がその影を呼ぶ。竜身になったクレイヴェルが、その巨体を翻して、海流に乗っていく。今回の遠征はずいぶんと遠い。だからフォルスは思うままに甘やかして、弟の帰る場所を教え込んで、送り出した。
じっと、フォルスがクレイヴェルの背を眺める横で、長子もまた、父の後ろ姿を見ていた。口を半開きにして、目をきらきらとさせて。
そういう時だけ、似た表情をする。
フォルスは夫と長子の共通点を思って、小さく笑った。
「かっこいいだろう、お前の父親は」
「む……、……まぁ、かっこ悪いとは思ってませんけど」
「ふふ」
笑って、フォルスは再び歩き出した。その後を長子の足音が続く。呆れた顔をしているのはわかっていた。
「……いや母上、いま惚気ましたよね」
「許せ。他の者に惚気を言えば、お前の父は自分に直接言えと、すぐにやきもちを焼く」
「いやだからそれ母上が甘やかした結果ですよね!?」
そのような他愛のないやりとりを重ねていれば、緩く湾曲した回廊の先から、子どもの泣き声が響いてくる。
ぽてぽて、という擬音が似合いそうな、二人の幼児が駆け寄ってくるところだった。後ろから使用人が焦ってついてくる。
二人は一つの卵から産まれた双子であった。クレイヴェルとフォルスの、今のところは末子、ということになる。
「あ~ははうえぇ~~~~~」
「ぅあーん、うぁーん!」
「どうした?」
自分とよく似た金髪の双子に、フォルスは膝をついて目線を合わせる。長子もまた、身を屈めた。
「けんかっけんかしたぁっ」
「にいに、にいにぃ、こいつがぶったぁ……!」
「おーよしよし、いつも仲良しなのにどうしたんだ、今日は」
『だいすきなおにいちゃん』に問いかけられて、双子は少し落ち着きを取り戻す。
フォルスとクレイヴェルが揃って不在の時に孵化したこの双子は、最初に抱き上げたのがこの長子ということも相まって、刷り込みのように長兄を慕っていた。
それを、微笑ましく見守りつつ、少し、自分の経験に思い当たる節があり、まさかな、と思っていたフォルスではあるが。
「ぼくがにいにをお嫁さんにするんだもん~!」
「うるさいっおれがにいちゃんを嫁にするんだ!!」
「……………」
まさにこの時、フォルスとクレイヴェルとの思い出と完全にかさなり、さしもの政王も沈黙した。
「か……かわい~……喧嘩の内容それなんだぁ……」
「…………」
一方、兄の了見ですっかり末子にメロメロになっている長子は、母親が危惧していることなど、何一つ気づいていなかった。
何一つ気づかずに、母親と同じ過ちを、した。
「うんうん♡二人ともお婿さんにしてあげるからな♡」
フォルスは王家の歴史に思索を巡らす。
兄弟間の近親婚が二代続いた前例は……あったな。その子孫にも肉体的にも魔力的にも異常はなかったはず。
それと、雌が雄二人をつがいに持つのは……、ああ、たしか豪傑女王が二人どころか十人近く。
特別強固に反対する理由がない結論に達して、フォルスは複雑ながらも見守ることとした。
相手が他人ならばともかく、この双子の末子もフォルスの愛しい子どもたちだったので。
「むぅ……ほんとはおれだけがいいけど……やい!お前だから一緒でもいいんだからな!」
「わかってるよぉ……ぼくだって、お前じゃなきゃ、にいにを譲ったりしないもん……」
「仲良しで偉いな~!」
呑気に感心して双子の頭をよしよしと撫でている長子に、双子の二人ともが嬉しそうに、幸せそうに笑っている。
「じゃあ仲直りもしたとこで、兄ちゃん母上を送っていくからな。また後で」
姿勢をピンと正した長子を、双子は憧れの目で見ている。フォルスもまた、双子と同じ視点から長子を見上げて、目を細めた。
「ははうえ~おしごとがんばってね~!」
「ははうえ、がんばってね……」
「ああ、お前たちもいい子にしてるんだぞ」
「わかった!」
「うん、いいこでまってるから……」
そうして、双子の二人ともを抱きしめて、世話役の使用人に二人を任せると、フォルスと長子は、再び二人で回廊を歩く。
フォルスは、忠告だけはしておくか、と声を潜めた。
「……子どもの遊びと思わない方がいいぞ」
「え~?なんですか、深刻な顔して」
「お前の父親も、子どもの頃、ああいうことを俺に言ったぞ」
デレデレとした顔をしている長子に、フォルスは一番効きそうな言い方で釘をさした。
「いや、父上と一緒にしないでください」
急に真顔になった長子に、フォルスは苦笑する。
本当に、クレイヴェルもあのような可愛らしさで俺に言ったのを、お前は知らないから。
だがまだ未来は見えない。だからフォルスはそれ以上は兄弟の愛らしいやり取りに影を差すかと思考して、もう一度だけ念を押して終わりにすることにした。
「……忠告はしたからな。迂闊になんでも約束するなよ」
「わかってますよ~」
そう聞いているのやら、聞いていないのやら、ふわふわと答えた長子であった。
数年後、美しく成長した双子に迫られて、この長子は母親に泣きつくことになる。フォルスはだから言っただろう、と苦笑して、若い子どもたちの行く末を、ただただ見守ることとした。
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性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)
悪役令息に転生したらしいけど、何の悪役令息かわからないから好きにヤリチン生活ガンガンしよう!
ミクリ21 (新)
BL
ヤリチンの江住黒江は刺されて死んで、神を怒らせて悪役令息のクロエ・ユリアスに転生されてしまった………らしい。
らしいというのは、何の悪役令息かわからないからだ。
なので、クロエはヤリチン生活をガンガンいこうと決めたのだった。
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