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円満夫婦の後日談
廻天
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予兆はあった。
例年ならば、繁殖期には体も頭脳も溶かして弟で夫のクレイヴェルを迎え入れる期間である。
身体は十分に発情していた。だが、心はどこか理性的な部分が残っていて、フォルスは逆にいつも以上にクレイヴェルに翻弄されることになった。
好き、好きだよ、兄上。かわいい俺の雌、かわいい、かわいい、俺のフォルス。
こんな風に求められているのだ。例年ならばどこか夢うつつにしか覚えていなかった言葉と律動を、はっきりとその体に刻み込まれて、フォルスは深い耽溺に突き落されることとなった。
その年には結局、仔を成さなかった。
とうとう来たか、とフォルスは覚悟していた。だから医師からフォルスの体について話がある、とクレイヴェルと共に同席することになって、ただただ納得していたのだ。
「皇妃殿下は、生涯繁殖期を終えられたかと」
「そうか」
クレイヴェルの反応は凪いでいた。
もうフォルスが仔を成すことはなくとも、これまで十分に仔を成してきた。
それ故の反応だろうと、フォルスが弟の反応について内心を推し量っていれば、医師もまた、皇帝の反応を慎重に受け止めていた。
「その……皇帝陛下。側室をお迎えになさいますか?繁殖期同士でなければ、皇妃としてのご公務は少々……過酷かと」
「……兄上、どうだ」
言葉を選んで言った医師の話を、クレイヴェルはそのままフォルスへの問いにした。
側室の選定は正妃の役割だが、そもそも迎えるかどうかについては、フォルスに決定権はない。
「世継ぎをまだ必要とするのであれば、側室をお迎えになさった方がよろしいかと」
医師の手前、フォルスは臣下としての物言いで夫に答えた。途端、クレイヴェルが眉を寄せる。
「そのようなことは聞いていない。あなたが、耐えられるかどうかを聞いている」
クレイヴェルの返答は早かった。その声色がやや苛立ちをはらんでいる。久しぶりの反応だった。
最近では鷹揚を絵に描いたような皇帝が、そのように苛立つことがあるのを、我が子ですら知らずに過ごしている。
「……その時が、来てみぬことには」
「ならば、この話は終わりだ。……耐えられないというなら考える」
「御意に」
そのことを話したくもない、という振る舞いでクレイヴェルは言い捨てて、そうして足早に去っていった。
側室の話は、遥か昔、まだ長子が孵化する前には多くあった話だった。その頃は、フォルスは遠回りにクレイヴェルに勧めもした。
その頃のクレイヴェルは、少年期の待遇を思えば仕方のないことではあるが、他者への不信感と精神的不安定さを脱していなかった。ならばと自分以外にも信頼の置けるものを得た方がいいだろうと、フォルスがクレイヴェルに側室を持てと強く勧めたことも、一度や二度ならずあった。
だが、今となっては。
この弟を、独り占めしたい。
クレイヴェルへの恋を自覚してから、少しずつ育ち始めたその欲を、フォルスはずっと、飼い慣らしていた。兄で皇妃の分別で、ずっとずっと、飼い慣らしていた。
それを、クレイヴェルはまだ気付いていない。
クレイヴェルを襲ったのは飢えだった。
繁殖期が始まって、数日程度と思われるその日、飢えて、飢えて仕方がなかった。
折り悪く遠征が繁殖期にかかり、愛しい肌に触れずに長く過ごしたのも拍車をかけていた。
兄上、兄上。
俺の兄上、俺の雌。
早く、早く、俺を迎えてくれ。
竜身のまま屋上に降り立ち、人身に身を変え足早に王宮内を進む。触れなければ、満たされない、と思った。
兄がもう、仔を成せぬ身体だということさえ、どうでもいいことだった。あの優しくて美しい兄を、自分の寝台に引きずり込んで、自分のものにしなければ。
あの愛をしまい込んで、独り占めしなければ、耐えられなかった。
クレイヴェルは、涙するほど嬉しかった兄からの愛に、今や無ければ耐えられないと思うほどに溺れていた。
あなたが俺に愛を与えたんだから。
俺の、化け物の執着さえ愛したんだから。
化け物に、餌をやらないと駄目だろう。
ねぇ、兄上。
俺のフォルス。
「こ、皇帝陛下……!?お早いお帰りで……」
「皇妃は」
「執務室にいらっしゃるかと……」
出迎えた文官に礼も告げずにクレイヴェルは歩を進めた。異様な様子に、若い文官は恐れて顔を青くして、皇帝の背を見送った。
誰もが、クレイヴェルに声を掛けなかった。それほどに皇帝の威圧感は凄まじかった。古くから王宮に勤める者であれば、かつてこの皇帝が疎まれ忌まれていた王子だった頃を思い出すような。
そうしてクレイヴェルはようやく、求めた兄の姿を視界に収めた。
「……陛下」
そうしてそれに、フォルスが気づいた。気付いて、臣下の分別で、クレイヴェルに呼びかけた。
それが、クレイヴェルには耐えられなかった。
繁殖期であれば、情欲の隠しきれぬ顔で自分に縋っていた兄が。
正気に、戻ってしまった、と思った。
やはり、自分の化け物の執着を、愛してなどいなかったのだと、思った。
皇帝の異様な様子に、政王付きの政務官たちの視線が、二人の王の間で揺れ動く。
それすら、今のクレイヴェルには耐え難かった。
「……誰が俺の雌を見ていいと言った」
序列第一位覇王の座の威容が、場のすべてを支配した。
政務官たちは、その覇気に本能的に屈して、青い顔でその場に膝を付き、地にその視線を落とす。
クレイヴェルは、能動的に命じようと思ったわけではない。ただただ身に纏う覇王の権能が、発した言葉に乗って、群れの長としてすべての海竜を支配した。
唯一取り残されたフォルスは険しい顔をした。誠実で聡明の、政王の顔だった。
「陛下」
「皇妃、俺から逃げるつもりか。繁殖期が終わった程度のことで?あれも、これも、寝所の甘言か?」
兄が政王として、皇帝たる弟を諌めているのを分かっていながら、クレイヴェルは兄を皇妃と呼んだ。
正気に戻ったのなら、それもいいだろう、と諦めた。愛してなどいなかったと、平静に戻って思うのなら、それでもいいだろう、と兄の聡明を愛しく思った。
兄がどう思ったとして、皇妃であることは覆らない。覇王の権能で跪かせて、また一から体に教え込んで手籠めにしてやろう、とさえ思った。
あなたは、俺のものだ。
「私は、あなたのものです」
政王の顔のまま、フォルスは言った。
ああ、やはり兄は賢い。自分の立場をわかっている。
「信じられなければ、ここで証明します。あなたが望むなら、ここで股を開いても構わない」
「この淫売が。俺の他に誘惑したい雄でもいるのか」
「……陛下。そのような事を本気で言っているのですか」
「信じられなくしたのはお前だ、皇妃。俺の繁殖期とわかっていながら、他の雄と視線を交わし言葉を交わすなどと」
こんなものは子どもの癇癪と同じだ。わかっているのに止められなかった。
若い政務官の肩がガタガタと震えている。かわいそうに。そう思うのに、クレイヴェルの支配は変わらず漂ったまま。
「この度のことは、私の浅慮でした。他の者に責はありません。……陛下、どうかご寛恕を」
「は、はは、まさしく聡明の政王だな。俺にはとても真似出来ん振る舞いだ。……許す。お前が全てを捨て、俺の雌というだけの生き物になるのなら」
「……ずっと、そうです。あなたが皇帝になり、私を皇妃にしたその日から、ずっと」
兄の視線が、クレイヴェルを向いている。
クレイヴェルだけを、見ている。
だからようやく、クレイヴェルは人として、人の振る舞いで、かわいそうに思った政務官を開放してやれた。場の支配が解かれ、政務官たちの荒い息が執務室に満ちる。
「へ……いか、大変、失礼致し、ました……他の者にも、政王が皇妃のご公務に入られたと、申し付けておきます……」
政務官の中でも歴の長い者が、クレイヴェルにそう告げる。
職務に熱心で結構なことだ。皇帝としてはそう思うのに、クレイヴェルの内の苛烈な雄は、この雄が兄の補佐として長くあることに、ひどく嫉妬して再び暴れだしそうな激情を抱え込んでいた。
「……世話をかける。俺のくだらぬ悋気に付き合わせてすまなかった。よく休め」
「はっ……」
だからクレイヴェルは、この臣下がただただ職務に誠実なだけだとわかっているのに、その政務官と目を合わせることができなかった。
兄の治める国は、本当に美しい。
美しく聡明な政王、誠実な臣下たち、屈託なく無邪気な子どもたち。
美しい国だ。
その中で、どうして俺だけがずっとこのように醜く汚らしいのだろう。
最愛の兄が、ちゃんと自分のものでいてくれているというのに、どうしてそれだけで満足が出来ないのだろう。
どうして、こんなに、飢えているのだろう。
クレイヴェルは気付いていない。本当に、本当に欲しいものに、まだ気付いていない。
望むことも許されないと思っているから、まだ、気付かない。
二人が退室してからの執務室である。
初めて皇帝の支配の力を受けた若い政務官たちは腰を抜かして中々立つことができなかった。
「こ‥…皇帝陛下があのような苛烈な方だとは……」
「ああ……若手は知らないか。元よりああいう方だ。この所は落ち着いていたが……」
歴の長い政務官たちは顔を見合わせる。
皇帝となってすぐの頃のクレイヴェルの繁殖期と言えば、それはもう捕食と言っていい様相でフォルスを攫うのが常だったほどである。
それがまさか、フォルスの繁殖期を終えたいま、再発するとは長く勤める政務官も思っていなかったのだが。
「やはり皇妃殿下への惚れ込みようは尋常ではなかったな。それでなければそもそも皇帝となってすぐに番うということもなかっただろうが」
「あれは惚れているというよりむしろ……」
「ほとんど取り憑かれているも同然ではないか」
「だが、それを受け入れていらっしゃる皇妃殿下も、よほどの……」
「よせ、夫婦のことだ、深入りするな。両陛下共に公務をしかとして頂きさえすれば、お二方の才覚の庇護を十分に民に届けられるのだから」
その言葉に頷きあって、歴の長い政務官たちは若者たちを叱咤して、その場から立ち上がらせた。
長い回廊を、二人は沈黙して進む。
このように沈黙して並んで歩くのもいつぶりか。最近では、かつての少年時代のような気安さで、取り留めもない話をしながら並んで歩くことも多かった。
フォルスは、戴冠の日を思い出していた。
あの日も、クレイヴェルは無言だった。フォルスも雌に転化したばかりの体を一晩中暴かれた後で、何か言葉にする元気もなく、ただクレイヴェルが手を引くままに正妃への道に引きずられて行った。
まだ、あの日と変わっていないのか、俺たちは。
フォルスは悲しく思った。
自分だけが変わってしまったのだろうか。
まだこの弟は、兄を権力で手籠めにするしかできない、と思っているのだろうか。そうではないのに。
何か言葉を。
迷っている間に、回廊沿いの一室より、一人の青年が顔を出す。
フォルスとクレイヴェルの長子だった。二人で誕生を祝って笑った、初めての子。
「父上、母上。どうしました?」
「クレイン」
心配げに視線を向ける長子に、フォルスは言葉の一つや二つ、掛けてやるつもりだった。だがクレイヴェルがそれを阻む。
「やめろ」
「陛下」
「父上?」
あの日、クレインを包んでいた卵が孵化して、名を真剣に考えていたクレイヴェルが、その時とは違う切迫した雄の顔をしていた。
「俺以外の雄と、目を合わせるな」
「陛下、我が子です」
「わかっている!!」
小さいねぇ、そう少年の頃のような口調で言って、幼い子どもを触れるめるのに不慣れな手で、抱きしめていたのとは、全く、違う顔をしていた。
「だが俺はあなたが父だろうと母だろうと俺の雌にした!!ならば我が子だろうと今は耐えられない!!」
ぞく、とフォルスの背が震えた。それほどの、激情だった。それを、向けられている。
自分ももう、尋常ではない、とわかっていた。繁殖期でもないというのに、そんな激情を、喜んでいるなどと。
なんという悪徳。悪辣。
わかっているのに、フォルスにはもう、止められなかった。
「……父上、その……、では、弟妹たちにも、言い聞かせておきますのでそのような恫喝は、どうか、この場限りに」
この場で正気なのはこの長子だけだった。正気で、控えめに、だがしっかりと父に良心の釘を刺した。
「……クレイン。すまない、わかっている。お前に、お前たちに、そのような邪心がないことは。だが、今だけは無理だ。お前たちから母親を奪って、この国から政王を奪って……そうして何者でもなくなった兄を、俺だけが独占する。そうしなければ、耐えられない」
長子クレインの顔は、クレイヴェルに似ている。よく似た顔で、真っ直ぐと父の顔を見ている。
「軽蔑するといい。お前たちの父は、お前たちの母親の雄というだけの男だ」
クレイヴェルは苦しそうに言って、フォルスの手を引いた。フォルスはクレインと目を合わせなかった。
「父をどう思うかは、僕たち自身で決めます」
二人が完全に通り過ぎてから、クレインは声を上げた。迷いも揺らぎもない声だった。
「ただ、夫婦のことは……実の子だろうと立ち入れぬものとわかっております。だからそのことは、お二人で」
「……ああ」
そう告げたクレインに、クレイヴェルは呻くようにそう頷いた。
両親の影が見えなくなって、クレインが出てきた部屋から、ひょっこりと双子の末子は顔を出した。
成年を前にしてクレインよりひょろりと背を伸ばした二人は、父の恫喝を目の当たりにしてもなお、のんびりとした様相であった。
「びっ……………くりしたねぇ。父上、あんなになるんだ~」
「いや~よくあれを普段は落ち着かせてるよな……。逆に尊敬する……」
「ね~」
「お~いお前たち、呑気だな。父上がああなってんの他の兄弟にも教えに行くぞ」
「は~い」
「は~い」
長子の指示に、双子はおっとりと頷いて部屋から出た。そしてそれぞれ自然にクレインの肩と腰を抱く。
「兄さん、父上怖かった?」
「怖かったら俺たちの胸貸すからな~」
「いや別に。あれは母上が悪いだろ、ずっと父上のめちゃくちゃを甘やかしてんだから」
「それはそう」
「それはそう」
クレインの言葉に、双子が同時に同意するので、三人は揃ってくすくすと笑いだした。
それこそこの子どもたちにとって、両親の熱烈で猛烈な愛着と執着など、日常茶飯事の内だったので。
そんな風に子どもたちが気楽に捉えているなどと知りもしないクレイヴェルは、自己嫌悪の最中にいた。
やはり俺だけが、醜い。
「は、はは、クレインの方がよほど人格が出来ている」
「ヴェル」
「わかって、わかっているのに、なぁ?……あなたが、俺の、化け物の執着も、愛すから」
皇帝の私室。ここで何度も交わった。
何度も交わって、子を成して、途中からは愛も囁き交わした。
「自分の子すら威嚇する化け物になっちゃったんだ。ねぇ、兄上、ねぇ」
好きだと、愛してると。
そう言われて、満足出来ていればよかった。
もっともっとと、醜く求める化け物だったなんて、自分でも知らなかった。
「ねえ。……どうして俺だけが、こんなに醜い」
俺の見る世界は、こんなに美しいのに。
兄が見せてくれる世界は、こんなに美しいのに。
「俺は、きっと、もっと醜くなる。だから、だからもう」
「ヴェル」
こんな時でも兄の声は優しい。
俺の、俺の兄上。きれいで優しい、理想の王。
ねえ、どうかあなたの手で。
「……死なせてほしい」
叶うなら、あれを兄に見せる前に死ねれば良かった。あんな風に嫉妬で臣下を捻じ伏せて、かわいい我が子にすら化け物の顔で恫喝する前に。
その前に、死ねれば、良かった。
「兄上に、初めて愛してると言われた時に死んでおけば良かった」
「ヴェル……ヴェル」
「わかってるのに。わかってるのにな。……それでも化け物の俺は、あなたのこと犯したくてたまんないんだよ。壊れるまで犯して、俺のことしか考えられなくしてやりたい。俺のことしか分からなくなるまで、壊して狂わせて、俺に愛してるって囁くだけの、肉にしてやりたい……」
こんなもの、愛とは呼べないだろう。
わかっているから死にたかった。
かつて兄が死に損なったこの部屋で、死にたかった。
後ろに立っていたフォルスが、クレイヴェルの背に抱きつく。優しい手のひらだった。こんな時まで、この人は。
「……ヴェル」
「兄上。だめだよ、いま殺して。……そうじゃなきゃ、あなたの穴全部犯して壊すよ」
頭ではわかっているのに、肉体は愛しい雌の温度に熱を上げる。ビキビキと陰茎は立ち上がって、自分の雌に種を付けたがっている。
この雌を、侵掠して支配して征服して蹂躙したい。本能がクレイヴェルの肉体を追い立てる。雄として、目の前の雌を、犯せと叫んでいる。
だというのに、背に抱きついたフォルスは、微笑んだ。
「……ふふ、ヴェル、脅しのつもりか?全部俺が、気持ちよくなれるのを知っているくせに?」
「兄上。繁殖期と違うんだぞ。……博愛もここまでにしろ、政王」
クレイヴェルは強く強く、皇帝の言い方をした。というのに、フォルスは声を上げて笑った。クレイヴェルが困惑するほどに高らかに。
「ふ…ふ、あははっ、かわいいな、ヴェル。……お前に、もっと醜いものを見せてやる」
フォルスはゆらりと魔力を動かして、不可視の手でクレイヴェルをベッドへと突き飛ばした。
クレイヴェルは兄の顔を見た。それはそれは美しく微笑んだ皇妃の顔が、わずかに紅潮している。
「お前に、あんな風に求められて、欲情した」
「兄上」
「ちゃんと見ろ、クレイヴェル。お前の醜い雌はな、お前が死にたいと思うほど後悔した愚行で欲情して……、孕めもしない胎を疼かせている」
微笑んで言って、フォルスは自らの着衣を床に落としていく。いつもであれば、クレイヴェルがまさぐって剥いでいく服を、あるいはクレイヴェルに命じられて脱がねばならぬ服を。
自ら脱いで、見せつけている。
クレイヴェルが何度も何度も暴いて色付かせた肌を。どこもかしこも、クレイヴェルが何度も触れて、精液で汚した肌を。
すべて脱いだフォルスが、ぎしり、とベッドに乗る。美しい兄の顔が、クレイヴェルを見下ろしていた。
「そんなに、俺が欲しいのか、ヴェル」
囁くように、兄が問うた。
醜いものを見せてやる、と言った兄の目が、その頬の紅潮とは対照的に冷たく輝いている。
クレイヴェルの狂気を裁くような、目だった。
「ほしい」
だからクレイヴェルは、告げた。
裁きを、待つつもりで、告げた。
あの日と、互いに逆のことを言っている。
弟はわかっているだろうか。死と性と、同じような問答をしたことを。
「欲しいよ。ずっと欲しい。もう俺のものなのに、俺のもののはずなのに、明日も明後日も、また全部の兄上が欲しくなって、欲しくて、欲しくて……」
クレイヴェルは言葉を連ねた。兄への深い深い、尽きぬ思慕を。フォルスは身を震わせた。
「くるしい。くるしいんだ、兄上。あなたに触れていないと……ずっと、苦しい」
そうして告げられた苦しみに、ぞく、と背筋を快感が走る。
快感だけではない。
なんだ、これは。
これは。
狂おしいほどの、歓喜。喜びで、狂う。こんなにも、苦しむほどに欲しがられて、求められて、もうすでに全て明け渡したつもりだったのに、もっともっとと応えたくなって、心臓を抉り出して捧げたいほどの、歓喜。
「ヴェル」
この弟を、愛している。
弟で夫の、この男を愛している。愛しているから湧き出て、それでも愛しているからこそ身の内に留めた欲が、歓喜で解き放たれる。
捧げるだけでは、もう足りなかった。
「俺は、お前に何でもあげただろう。……まだ、足りないのか」
「足りない」
はっきりと、クレイヴェルは言った。
昂らせた陰茎を着衣のまま、素肌のフォルスの太腿に擦りつけて、獰猛に悲しげに言った。
「なら、俺の醜い欲を叶えてくれ」
「兄上」
完全に虚を突かれたのだろうクレイヴェルの困惑の狭間をついて、フォルスは弟の胸ぐらを掴んで噛み付くキスをした。口の端から血が零れ落ちる。それすら吸って、フォルスは弟の唇を何度も食んだ。
「俺以外の雌を見るな」
そうして、言った。
フォルスが理性では、言うまいと思っていた一言だった。
この醜い独占欲と執着の、みっともない欲だけが、ただ一つフォルスが隠し持っていたものだった。
「もうこの胎はお前の仔を孕むことはないし、繁殖期を過ぎて容貌も衰えていくだろう。老いて弱って、お前を置き去りにするかもしれない。……わかっているのに、お前が欲しい。お前を、他の雌にやりたくない」
クレイヴェルの目が驚きで見開いている。
軽蔑したかもしれないな。このような傲慢で厚かましい兄の欲など、この弟は知らなかっただろうから。
それでも繁殖期の興奮で固さを失わぬ陰茎を、フォルスは尻の割れ目で擦ってやった。そうしてクレイヴェルの衣服を、愛液で汚した。
「俺が、お前を独り占めしたい。俺のものにしたい。ヴェル、俺の、かわいい弟」
クレイヴェルがどう思っているかなど、まだ尋ねずに、フォルスは思いのままに告げて、弟の唇に、首筋に、胸元に、キスを落として噛みついて、自分勝手に跡を残していく。
「お前が俺の、俺だけの雄になるというなら、この醜い欲も全部、お前のもので……本当に、これで、全部だ」
フォルスが告げて、クレイヴェルの顔を見上げれば、弟の顔はまだ驚きから動かない。まるで少年のような、幼い顔をしている。
醜く悪い妻だ。フォルスは自嘲した。本来なら、繁殖の絶頂期にある皇帝に、新しく若い雌を迎え入れるように勧めるべきなのだ。
後年フォルスの産んだ仔はほとんどが肉体を持たず海の精霊となったのだから、後継者争いで揉めるほどのことではない。
わかっているのに、フォルスは言葉にするのをやめられなかった。
「……兄上も、俺が欲しいの」
「欲しいよ」
ようやく言葉を紡いだクレイヴェルに、フォルスは間髪を入れずに返した。
欲しい、と願うこの気持ちだけが、クレイヴェルに明け渡せる最後の一つだったから。
「欲しい。ヴェル、俺だけのものになって。俺だけの雄になって。俺だけを、欲しがってくれ」
「兄上」
「……なぁ、ヴェル。俺も、わかっている。俺の方がよほど醜い。お前の新しい子を望んでやるのが正妃で兄の、正しい在り方だとわかっているのに……お前に、俺だけを欲しがって欲しい」
「……あは、ははっ」
突然、クレイヴェルが笑い出した。
そうしてその手で、フォルスの頬を優しく包んだ。
「俺の、優しい優しい兄上。……いいんだ、そんな風に優しくしなくて。醜いのは、俺だけ」
「………信じていないのか」
「そんなの。……そんなの、あるわけない」
フォルスは懐かしく思った。
本当にあの時とは逆のことを言っている。
あの日、お前が俺を好きなはずがない、とフォルスはクレイヴェルに告げた。そうして、クレイヴェルは何度も何度もフォルスに教え込んだ。あなたのことが好きなんだ、と。
「俺も、昔はそう思っていた。俺が、誰かに愛されることなど、あるわけがないと」
「兄上のあれは、酷い思い込みだった。……誰もが、兄上のことが愛しているのに」
「だから今度は俺の番だ。ヴェル。お前が、俺に愛を信じさせたように」
クレイヴェルの体がどんどん熱くなっている。繁殖期の発情がもう堪えられないのだろう。フォルスは冷えた指先でそれを感じながら、後悔と劣情でぐちゃぐちゃになっている弟を愛おしく思う。
早く自分の手で、全てから解放させてやりたかった。皇帝も父もこの弟から剥ぎ取って、ただただ、自分の雄というだけの生き物にしてやりたかった。
「俺がお前を欲しいのだと、お前が信じるまで証明する」
「……あはは、兄上、どうやって?」
クレイヴェルは軽薄に笑う。
遊びに誘われたように、自分の思い通りの内にしか、物事は起こらないのだと思い込んでいる声で、笑う。
だからフォルスも笑った。その思い込みを俺が壊してやると。
「だから、醜いものを見せてやる、と言った。見ていろ、ヴェル。……お前の愛で狂った醜い雌が、みっともなく、無様に、お前を欲しがって縋っているのを……ちゃんと、見ていろ」
フォルスは言って、クレイヴェルに口付けた。
例年ならば、繁殖期には体も頭脳も溶かして弟で夫のクレイヴェルを迎え入れる期間である。
身体は十分に発情していた。だが、心はどこか理性的な部分が残っていて、フォルスは逆にいつも以上にクレイヴェルに翻弄されることになった。
好き、好きだよ、兄上。かわいい俺の雌、かわいい、かわいい、俺のフォルス。
こんな風に求められているのだ。例年ならばどこか夢うつつにしか覚えていなかった言葉と律動を、はっきりとその体に刻み込まれて、フォルスは深い耽溺に突き落されることとなった。
その年には結局、仔を成さなかった。
とうとう来たか、とフォルスは覚悟していた。だから医師からフォルスの体について話がある、とクレイヴェルと共に同席することになって、ただただ納得していたのだ。
「皇妃殿下は、生涯繁殖期を終えられたかと」
「そうか」
クレイヴェルの反応は凪いでいた。
もうフォルスが仔を成すことはなくとも、これまで十分に仔を成してきた。
それ故の反応だろうと、フォルスが弟の反応について内心を推し量っていれば、医師もまた、皇帝の反応を慎重に受け止めていた。
「その……皇帝陛下。側室をお迎えになさいますか?繁殖期同士でなければ、皇妃としてのご公務は少々……過酷かと」
「……兄上、どうだ」
言葉を選んで言った医師の話を、クレイヴェルはそのままフォルスへの問いにした。
側室の選定は正妃の役割だが、そもそも迎えるかどうかについては、フォルスに決定権はない。
「世継ぎをまだ必要とするのであれば、側室をお迎えになさった方がよろしいかと」
医師の手前、フォルスは臣下としての物言いで夫に答えた。途端、クレイヴェルが眉を寄せる。
「そのようなことは聞いていない。あなたが、耐えられるかどうかを聞いている」
クレイヴェルの返答は早かった。その声色がやや苛立ちをはらんでいる。久しぶりの反応だった。
最近では鷹揚を絵に描いたような皇帝が、そのように苛立つことがあるのを、我が子ですら知らずに過ごしている。
「……その時が、来てみぬことには」
「ならば、この話は終わりだ。……耐えられないというなら考える」
「御意に」
そのことを話したくもない、という振る舞いでクレイヴェルは言い捨てて、そうして足早に去っていった。
側室の話は、遥か昔、まだ長子が孵化する前には多くあった話だった。その頃は、フォルスは遠回りにクレイヴェルに勧めもした。
その頃のクレイヴェルは、少年期の待遇を思えば仕方のないことではあるが、他者への不信感と精神的不安定さを脱していなかった。ならばと自分以外にも信頼の置けるものを得た方がいいだろうと、フォルスがクレイヴェルに側室を持てと強く勧めたことも、一度や二度ならずあった。
だが、今となっては。
この弟を、独り占めしたい。
クレイヴェルへの恋を自覚してから、少しずつ育ち始めたその欲を、フォルスはずっと、飼い慣らしていた。兄で皇妃の分別で、ずっとずっと、飼い慣らしていた。
それを、クレイヴェルはまだ気付いていない。
クレイヴェルを襲ったのは飢えだった。
繁殖期が始まって、数日程度と思われるその日、飢えて、飢えて仕方がなかった。
折り悪く遠征が繁殖期にかかり、愛しい肌に触れずに長く過ごしたのも拍車をかけていた。
兄上、兄上。
俺の兄上、俺の雌。
早く、早く、俺を迎えてくれ。
竜身のまま屋上に降り立ち、人身に身を変え足早に王宮内を進む。触れなければ、満たされない、と思った。
兄がもう、仔を成せぬ身体だということさえ、どうでもいいことだった。あの優しくて美しい兄を、自分の寝台に引きずり込んで、自分のものにしなければ。
あの愛をしまい込んで、独り占めしなければ、耐えられなかった。
クレイヴェルは、涙するほど嬉しかった兄からの愛に、今や無ければ耐えられないと思うほどに溺れていた。
あなたが俺に愛を与えたんだから。
俺の、化け物の執着さえ愛したんだから。
化け物に、餌をやらないと駄目だろう。
ねぇ、兄上。
俺のフォルス。
「こ、皇帝陛下……!?お早いお帰りで……」
「皇妃は」
「執務室にいらっしゃるかと……」
出迎えた文官に礼も告げずにクレイヴェルは歩を進めた。異様な様子に、若い文官は恐れて顔を青くして、皇帝の背を見送った。
誰もが、クレイヴェルに声を掛けなかった。それほどに皇帝の威圧感は凄まじかった。古くから王宮に勤める者であれば、かつてこの皇帝が疎まれ忌まれていた王子だった頃を思い出すような。
そうしてクレイヴェルはようやく、求めた兄の姿を視界に収めた。
「……陛下」
そうしてそれに、フォルスが気づいた。気付いて、臣下の分別で、クレイヴェルに呼びかけた。
それが、クレイヴェルには耐えられなかった。
繁殖期であれば、情欲の隠しきれぬ顔で自分に縋っていた兄が。
正気に、戻ってしまった、と思った。
やはり、自分の化け物の執着を、愛してなどいなかったのだと、思った。
皇帝の異様な様子に、政王付きの政務官たちの視線が、二人の王の間で揺れ動く。
それすら、今のクレイヴェルには耐え難かった。
「……誰が俺の雌を見ていいと言った」
序列第一位覇王の座の威容が、場のすべてを支配した。
政務官たちは、その覇気に本能的に屈して、青い顔でその場に膝を付き、地にその視線を落とす。
クレイヴェルは、能動的に命じようと思ったわけではない。ただただ身に纏う覇王の権能が、発した言葉に乗って、群れの長としてすべての海竜を支配した。
唯一取り残されたフォルスは険しい顔をした。誠実で聡明の、政王の顔だった。
「陛下」
「皇妃、俺から逃げるつもりか。繁殖期が終わった程度のことで?あれも、これも、寝所の甘言か?」
兄が政王として、皇帝たる弟を諌めているのを分かっていながら、クレイヴェルは兄を皇妃と呼んだ。
正気に戻ったのなら、それもいいだろう、と諦めた。愛してなどいなかったと、平静に戻って思うのなら、それでもいいだろう、と兄の聡明を愛しく思った。
兄がどう思ったとして、皇妃であることは覆らない。覇王の権能で跪かせて、また一から体に教え込んで手籠めにしてやろう、とさえ思った。
あなたは、俺のものだ。
「私は、あなたのものです」
政王の顔のまま、フォルスは言った。
ああ、やはり兄は賢い。自分の立場をわかっている。
「信じられなければ、ここで証明します。あなたが望むなら、ここで股を開いても構わない」
「この淫売が。俺の他に誘惑したい雄でもいるのか」
「……陛下。そのような事を本気で言っているのですか」
「信じられなくしたのはお前だ、皇妃。俺の繁殖期とわかっていながら、他の雄と視線を交わし言葉を交わすなどと」
こんなものは子どもの癇癪と同じだ。わかっているのに止められなかった。
若い政務官の肩がガタガタと震えている。かわいそうに。そう思うのに、クレイヴェルの支配は変わらず漂ったまま。
「この度のことは、私の浅慮でした。他の者に責はありません。……陛下、どうかご寛恕を」
「は、はは、まさしく聡明の政王だな。俺にはとても真似出来ん振る舞いだ。……許す。お前が全てを捨て、俺の雌というだけの生き物になるのなら」
「……ずっと、そうです。あなたが皇帝になり、私を皇妃にしたその日から、ずっと」
兄の視線が、クレイヴェルを向いている。
クレイヴェルだけを、見ている。
だからようやく、クレイヴェルは人として、人の振る舞いで、かわいそうに思った政務官を開放してやれた。場の支配が解かれ、政務官たちの荒い息が執務室に満ちる。
「へ……いか、大変、失礼致し、ました……他の者にも、政王が皇妃のご公務に入られたと、申し付けておきます……」
政務官の中でも歴の長い者が、クレイヴェルにそう告げる。
職務に熱心で結構なことだ。皇帝としてはそう思うのに、クレイヴェルの内の苛烈な雄は、この雄が兄の補佐として長くあることに、ひどく嫉妬して再び暴れだしそうな激情を抱え込んでいた。
「……世話をかける。俺のくだらぬ悋気に付き合わせてすまなかった。よく休め」
「はっ……」
だからクレイヴェルは、この臣下がただただ職務に誠実なだけだとわかっているのに、その政務官と目を合わせることができなかった。
兄の治める国は、本当に美しい。
美しく聡明な政王、誠実な臣下たち、屈託なく無邪気な子どもたち。
美しい国だ。
その中で、どうして俺だけがずっとこのように醜く汚らしいのだろう。
最愛の兄が、ちゃんと自分のものでいてくれているというのに、どうしてそれだけで満足が出来ないのだろう。
どうして、こんなに、飢えているのだろう。
クレイヴェルは気付いていない。本当に、本当に欲しいものに、まだ気付いていない。
望むことも許されないと思っているから、まだ、気付かない。
二人が退室してからの執務室である。
初めて皇帝の支配の力を受けた若い政務官たちは腰を抜かして中々立つことができなかった。
「こ‥…皇帝陛下があのような苛烈な方だとは……」
「ああ……若手は知らないか。元よりああいう方だ。この所は落ち着いていたが……」
歴の長い政務官たちは顔を見合わせる。
皇帝となってすぐの頃のクレイヴェルの繁殖期と言えば、それはもう捕食と言っていい様相でフォルスを攫うのが常だったほどである。
それがまさか、フォルスの繁殖期を終えたいま、再発するとは長く勤める政務官も思っていなかったのだが。
「やはり皇妃殿下への惚れ込みようは尋常ではなかったな。それでなければそもそも皇帝となってすぐに番うということもなかっただろうが」
「あれは惚れているというよりむしろ……」
「ほとんど取り憑かれているも同然ではないか」
「だが、それを受け入れていらっしゃる皇妃殿下も、よほどの……」
「よせ、夫婦のことだ、深入りするな。両陛下共に公務をしかとして頂きさえすれば、お二方の才覚の庇護を十分に民に届けられるのだから」
その言葉に頷きあって、歴の長い政務官たちは若者たちを叱咤して、その場から立ち上がらせた。
長い回廊を、二人は沈黙して進む。
このように沈黙して並んで歩くのもいつぶりか。最近では、かつての少年時代のような気安さで、取り留めもない話をしながら並んで歩くことも多かった。
フォルスは、戴冠の日を思い出していた。
あの日も、クレイヴェルは無言だった。フォルスも雌に転化したばかりの体を一晩中暴かれた後で、何か言葉にする元気もなく、ただクレイヴェルが手を引くままに正妃への道に引きずられて行った。
まだ、あの日と変わっていないのか、俺たちは。
フォルスは悲しく思った。
自分だけが変わってしまったのだろうか。
まだこの弟は、兄を権力で手籠めにするしかできない、と思っているのだろうか。そうではないのに。
何か言葉を。
迷っている間に、回廊沿いの一室より、一人の青年が顔を出す。
フォルスとクレイヴェルの長子だった。二人で誕生を祝って笑った、初めての子。
「父上、母上。どうしました?」
「クレイン」
心配げに視線を向ける長子に、フォルスは言葉の一つや二つ、掛けてやるつもりだった。だがクレイヴェルがそれを阻む。
「やめろ」
「陛下」
「父上?」
あの日、クレインを包んでいた卵が孵化して、名を真剣に考えていたクレイヴェルが、その時とは違う切迫した雄の顔をしていた。
「俺以外の雄と、目を合わせるな」
「陛下、我が子です」
「わかっている!!」
小さいねぇ、そう少年の頃のような口調で言って、幼い子どもを触れるめるのに不慣れな手で、抱きしめていたのとは、全く、違う顔をしていた。
「だが俺はあなたが父だろうと母だろうと俺の雌にした!!ならば我が子だろうと今は耐えられない!!」
ぞく、とフォルスの背が震えた。それほどの、激情だった。それを、向けられている。
自分ももう、尋常ではない、とわかっていた。繁殖期でもないというのに、そんな激情を、喜んでいるなどと。
なんという悪徳。悪辣。
わかっているのに、フォルスにはもう、止められなかった。
「……父上、その……、では、弟妹たちにも、言い聞かせておきますのでそのような恫喝は、どうか、この場限りに」
この場で正気なのはこの長子だけだった。正気で、控えめに、だがしっかりと父に良心の釘を刺した。
「……クレイン。すまない、わかっている。お前に、お前たちに、そのような邪心がないことは。だが、今だけは無理だ。お前たちから母親を奪って、この国から政王を奪って……そうして何者でもなくなった兄を、俺だけが独占する。そうしなければ、耐えられない」
長子クレインの顔は、クレイヴェルに似ている。よく似た顔で、真っ直ぐと父の顔を見ている。
「軽蔑するといい。お前たちの父は、お前たちの母親の雄というだけの男だ」
クレイヴェルは苦しそうに言って、フォルスの手を引いた。フォルスはクレインと目を合わせなかった。
「父をどう思うかは、僕たち自身で決めます」
二人が完全に通り過ぎてから、クレインは声を上げた。迷いも揺らぎもない声だった。
「ただ、夫婦のことは……実の子だろうと立ち入れぬものとわかっております。だからそのことは、お二人で」
「……ああ」
そう告げたクレインに、クレイヴェルは呻くようにそう頷いた。
両親の影が見えなくなって、クレインが出てきた部屋から、ひょっこりと双子の末子は顔を出した。
成年を前にしてクレインよりひょろりと背を伸ばした二人は、父の恫喝を目の当たりにしてもなお、のんびりとした様相であった。
「びっ……………くりしたねぇ。父上、あんなになるんだ~」
「いや~よくあれを普段は落ち着かせてるよな……。逆に尊敬する……」
「ね~」
「お~いお前たち、呑気だな。父上がああなってんの他の兄弟にも教えに行くぞ」
「は~い」
「は~い」
長子の指示に、双子はおっとりと頷いて部屋から出た。そしてそれぞれ自然にクレインの肩と腰を抱く。
「兄さん、父上怖かった?」
「怖かったら俺たちの胸貸すからな~」
「いや別に。あれは母上が悪いだろ、ずっと父上のめちゃくちゃを甘やかしてんだから」
「それはそう」
「それはそう」
クレインの言葉に、双子が同時に同意するので、三人は揃ってくすくすと笑いだした。
それこそこの子どもたちにとって、両親の熱烈で猛烈な愛着と執着など、日常茶飯事の内だったので。
そんな風に子どもたちが気楽に捉えているなどと知りもしないクレイヴェルは、自己嫌悪の最中にいた。
やはり俺だけが、醜い。
「は、はは、クレインの方がよほど人格が出来ている」
「ヴェル」
「わかって、わかっているのに、なぁ?……あなたが、俺の、化け物の執着も、愛すから」
皇帝の私室。ここで何度も交わった。
何度も交わって、子を成して、途中からは愛も囁き交わした。
「自分の子すら威嚇する化け物になっちゃったんだ。ねぇ、兄上、ねぇ」
好きだと、愛してると。
そう言われて、満足出来ていればよかった。
もっともっとと、醜く求める化け物だったなんて、自分でも知らなかった。
「ねえ。……どうして俺だけが、こんなに醜い」
俺の見る世界は、こんなに美しいのに。
兄が見せてくれる世界は、こんなに美しいのに。
「俺は、きっと、もっと醜くなる。だから、だからもう」
「ヴェル」
こんな時でも兄の声は優しい。
俺の、俺の兄上。きれいで優しい、理想の王。
ねえ、どうかあなたの手で。
「……死なせてほしい」
叶うなら、あれを兄に見せる前に死ねれば良かった。あんな風に嫉妬で臣下を捻じ伏せて、かわいい我が子にすら化け物の顔で恫喝する前に。
その前に、死ねれば、良かった。
「兄上に、初めて愛してると言われた時に死んでおけば良かった」
「ヴェル……ヴェル」
「わかってるのに。わかってるのにな。……それでも化け物の俺は、あなたのこと犯したくてたまんないんだよ。壊れるまで犯して、俺のことしか考えられなくしてやりたい。俺のことしか分からなくなるまで、壊して狂わせて、俺に愛してるって囁くだけの、肉にしてやりたい……」
こんなもの、愛とは呼べないだろう。
わかっているから死にたかった。
かつて兄が死に損なったこの部屋で、死にたかった。
後ろに立っていたフォルスが、クレイヴェルの背に抱きつく。優しい手のひらだった。こんな時まで、この人は。
「……ヴェル」
「兄上。だめだよ、いま殺して。……そうじゃなきゃ、あなたの穴全部犯して壊すよ」
頭ではわかっているのに、肉体は愛しい雌の温度に熱を上げる。ビキビキと陰茎は立ち上がって、自分の雌に種を付けたがっている。
この雌を、侵掠して支配して征服して蹂躙したい。本能がクレイヴェルの肉体を追い立てる。雄として、目の前の雌を、犯せと叫んでいる。
だというのに、背に抱きついたフォルスは、微笑んだ。
「……ふふ、ヴェル、脅しのつもりか?全部俺が、気持ちよくなれるのを知っているくせに?」
「兄上。繁殖期と違うんだぞ。……博愛もここまでにしろ、政王」
クレイヴェルは強く強く、皇帝の言い方をした。というのに、フォルスは声を上げて笑った。クレイヴェルが困惑するほどに高らかに。
「ふ…ふ、あははっ、かわいいな、ヴェル。……お前に、もっと醜いものを見せてやる」
フォルスはゆらりと魔力を動かして、不可視の手でクレイヴェルをベッドへと突き飛ばした。
クレイヴェルは兄の顔を見た。それはそれは美しく微笑んだ皇妃の顔が、わずかに紅潮している。
「お前に、あんな風に求められて、欲情した」
「兄上」
「ちゃんと見ろ、クレイヴェル。お前の醜い雌はな、お前が死にたいと思うほど後悔した愚行で欲情して……、孕めもしない胎を疼かせている」
微笑んで言って、フォルスは自らの着衣を床に落としていく。いつもであれば、クレイヴェルがまさぐって剥いでいく服を、あるいはクレイヴェルに命じられて脱がねばならぬ服を。
自ら脱いで、見せつけている。
クレイヴェルが何度も何度も暴いて色付かせた肌を。どこもかしこも、クレイヴェルが何度も触れて、精液で汚した肌を。
すべて脱いだフォルスが、ぎしり、とベッドに乗る。美しい兄の顔が、クレイヴェルを見下ろしていた。
「そんなに、俺が欲しいのか、ヴェル」
囁くように、兄が問うた。
醜いものを見せてやる、と言った兄の目が、その頬の紅潮とは対照的に冷たく輝いている。
クレイヴェルの狂気を裁くような、目だった。
「ほしい」
だからクレイヴェルは、告げた。
裁きを、待つつもりで、告げた。
あの日と、互いに逆のことを言っている。
弟はわかっているだろうか。死と性と、同じような問答をしたことを。
「欲しいよ。ずっと欲しい。もう俺のものなのに、俺のもののはずなのに、明日も明後日も、また全部の兄上が欲しくなって、欲しくて、欲しくて……」
クレイヴェルは言葉を連ねた。兄への深い深い、尽きぬ思慕を。フォルスは身を震わせた。
「くるしい。くるしいんだ、兄上。あなたに触れていないと……ずっと、苦しい」
そうして告げられた苦しみに、ぞく、と背筋を快感が走る。
快感だけではない。
なんだ、これは。
これは。
狂おしいほどの、歓喜。喜びで、狂う。こんなにも、苦しむほどに欲しがられて、求められて、もうすでに全て明け渡したつもりだったのに、もっともっとと応えたくなって、心臓を抉り出して捧げたいほどの、歓喜。
「ヴェル」
この弟を、愛している。
弟で夫の、この男を愛している。愛しているから湧き出て、それでも愛しているからこそ身の内に留めた欲が、歓喜で解き放たれる。
捧げるだけでは、もう足りなかった。
「俺は、お前に何でもあげただろう。……まだ、足りないのか」
「足りない」
はっきりと、クレイヴェルは言った。
昂らせた陰茎を着衣のまま、素肌のフォルスの太腿に擦りつけて、獰猛に悲しげに言った。
「なら、俺の醜い欲を叶えてくれ」
「兄上」
完全に虚を突かれたのだろうクレイヴェルの困惑の狭間をついて、フォルスは弟の胸ぐらを掴んで噛み付くキスをした。口の端から血が零れ落ちる。それすら吸って、フォルスは弟の唇を何度も食んだ。
「俺以外の雌を見るな」
そうして、言った。
フォルスが理性では、言うまいと思っていた一言だった。
この醜い独占欲と執着の、みっともない欲だけが、ただ一つフォルスが隠し持っていたものだった。
「もうこの胎はお前の仔を孕むことはないし、繁殖期を過ぎて容貌も衰えていくだろう。老いて弱って、お前を置き去りにするかもしれない。……わかっているのに、お前が欲しい。お前を、他の雌にやりたくない」
クレイヴェルの目が驚きで見開いている。
軽蔑したかもしれないな。このような傲慢で厚かましい兄の欲など、この弟は知らなかっただろうから。
それでも繁殖期の興奮で固さを失わぬ陰茎を、フォルスは尻の割れ目で擦ってやった。そうしてクレイヴェルの衣服を、愛液で汚した。
「俺が、お前を独り占めしたい。俺のものにしたい。ヴェル、俺の、かわいい弟」
クレイヴェルがどう思っているかなど、まだ尋ねずに、フォルスは思いのままに告げて、弟の唇に、首筋に、胸元に、キスを落として噛みついて、自分勝手に跡を残していく。
「お前が俺の、俺だけの雄になるというなら、この醜い欲も全部、お前のもので……本当に、これで、全部だ」
フォルスが告げて、クレイヴェルの顔を見上げれば、弟の顔はまだ驚きから動かない。まるで少年のような、幼い顔をしている。
醜く悪い妻だ。フォルスは自嘲した。本来なら、繁殖の絶頂期にある皇帝に、新しく若い雌を迎え入れるように勧めるべきなのだ。
後年フォルスの産んだ仔はほとんどが肉体を持たず海の精霊となったのだから、後継者争いで揉めるほどのことではない。
わかっているのに、フォルスは言葉にするのをやめられなかった。
「……兄上も、俺が欲しいの」
「欲しいよ」
ようやく言葉を紡いだクレイヴェルに、フォルスは間髪を入れずに返した。
欲しい、と願うこの気持ちだけが、クレイヴェルに明け渡せる最後の一つだったから。
「欲しい。ヴェル、俺だけのものになって。俺だけの雄になって。俺だけを、欲しがってくれ」
「兄上」
「……なぁ、ヴェル。俺も、わかっている。俺の方がよほど醜い。お前の新しい子を望んでやるのが正妃で兄の、正しい在り方だとわかっているのに……お前に、俺だけを欲しがって欲しい」
「……あは、ははっ」
突然、クレイヴェルが笑い出した。
そうしてその手で、フォルスの頬を優しく包んだ。
「俺の、優しい優しい兄上。……いいんだ、そんな風に優しくしなくて。醜いのは、俺だけ」
「………信じていないのか」
「そんなの。……そんなの、あるわけない」
フォルスは懐かしく思った。
本当にあの時とは逆のことを言っている。
あの日、お前が俺を好きなはずがない、とフォルスはクレイヴェルに告げた。そうして、クレイヴェルは何度も何度もフォルスに教え込んだ。あなたのことが好きなんだ、と。
「俺も、昔はそう思っていた。俺が、誰かに愛されることなど、あるわけがないと」
「兄上のあれは、酷い思い込みだった。……誰もが、兄上のことが愛しているのに」
「だから今度は俺の番だ。ヴェル。お前が、俺に愛を信じさせたように」
クレイヴェルの体がどんどん熱くなっている。繁殖期の発情がもう堪えられないのだろう。フォルスは冷えた指先でそれを感じながら、後悔と劣情でぐちゃぐちゃになっている弟を愛おしく思う。
早く自分の手で、全てから解放させてやりたかった。皇帝も父もこの弟から剥ぎ取って、ただただ、自分の雄というだけの生き物にしてやりたかった。
「俺がお前を欲しいのだと、お前が信じるまで証明する」
「……あはは、兄上、どうやって?」
クレイヴェルは軽薄に笑う。
遊びに誘われたように、自分の思い通りの内にしか、物事は起こらないのだと思い込んでいる声で、笑う。
だからフォルスも笑った。その思い込みを俺が壊してやると。
「だから、醜いものを見せてやる、と言った。見ていろ、ヴェル。……お前の愛で狂った醜い雌が、みっともなく、無様に、お前を欲しがって縋っているのを……ちゃんと、見ていろ」
フォルスは言って、クレイヴェルに口付けた。
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