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【本編】
ここで色欲の出番です。
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悪魔さん、見てる?
「生まれてこの方、物欲というものが無くて……。綺麗なドレスは着ていくところがないし、装飾品も使いようがないでしょう。食べ物はろくに喉を通らない……。少しでも重い本は持っていられない。私はいったい、何を欲しがれば良いというの」
アレンからレスターに頼んでひとまず用意していた最新の服飾カタログを指で繰りながら、クララは困惑をあらわにした。
アレンが屋敷を訪れて早七日。寝込んだ四日はともかく、五日目には起き上がれるようになり、六日目には少量ながらも用意された食事は完食。七日目現在、ずいぶんマシになった様子で、両脇をぬいぐるみに囲まれながらソファに腰掛けている。口数も増えてきた。
背後から椅子の背もたれに軽く片手を置いてカタログをのぞきこみ、アレンは力強く唆《そそのか》した。
「物欲が無いなんて言わないで。せっかく、悪魔が努力を認めて寿命を伸ばしてくれてるかもしれないんだ。この勢いに乗って、強欲を極めよう」
「そ、そう……? 私、あなたの目から見て、死にそうに見えない?」
肩越しに振り返ったクララが、ほのかに照れた様子で見上げてくる。
強い輝きの瞳と、視線がぶつかる。そこだけ見れば、ずいぶん元気そうだ。
けれど、少し引いて全体を見れば、やつれてこけた頬、かさかさの唇。しばらく洗った様子のない髪。どこをとっても病人そのものの見た目と認めざるを得ない。
「死にそうか死にそうじゃないかで言えば、返事は保留にさせて欲しい。というのは、世の中では死にそうに見えないひとが突然事故で死ぬこともあるわけだろう。そう考えると、見た目が死にそうかどうかなんて些細な」
「死にそうに見えるのね、私」
弱々しい声に、そっと遮られる。
詭弁で切り抜けようとしたが、勢いも屁理屈もまったく足りていなかった。アレンはがっくりと項垂れ、潔く謝罪した。
「ごめん……」
「良いの。このところ少し調子が良くて、もしかして寿命伸びちゃったかな~って思っていたけれど、そうそう伸びるものではないわね。自分でもわかってる……」
「お嬢さん、もうなんでも良いから、わがままめいっぱい言ってみてよ。悪魔も真っ青なやつ。初日は結構元気だったじゃない、あの頃を思い出して」
クララの沈んだ声に胸がキリキリと痛み、アレンはつい懇願してしまった。
言われたクララは一瞬、いかにも申し訳無さそうな顔をした。それから、「初日に残りの一生分の元気を使い切ってしまって……、生命力が無いと欲も減退していきますし……」と真理めいたことを口にする。
そこからかーと呟いてから、アレンは自分がこの場にいる理由を奇跡的に思い出した。
「ここは『色欲』の腕の見せどころか」
アレンをじっと見上げていたクララの翠の瞳に、ふっと不安が過《よぎ》った。カタログの端を指で弄くりながら、「でも……」と躊躇《ためら》いを口にして俯く。「そんなこと言ってる場合じゃなくて」とアレンは言いかけたが、よく見ると、クララは頬も耳も朱に染めていた。
照。
(う……初心《うぶ》な反応は当然だよな、うん。お嬢様に経験があるわけないないし、知識だってぼや~っとしたもので……)
ハハッ、とそこで乾いた笑みが漏れた。経験どころか知識が曖昧なのは自分も同じだな、と。
もちろん、悪魔的な「色欲」の権化として招かれた身、そんなことをクララに知られるわけにはいかない。決して。
もし本当に名目通りの仕事に従事することになったら、すべてスマートに事を運ばねば……、手取り足取り。
そのとき、何かを振り切るように、クララが顔を上げた。
翠眼はかすかに潤み、きらきらとした輝きが強まっている。
「あの、アレン。あなたにとっては慣れたことかもしれないけど……。私はすべて初めてなの」
「う、うん」
余裕綽々な対応をするつもりだったのに、早速声が上ずった。幸い、クララもまたいっぱいいっぱいなのか、気づいた様子もなく、指と指を祈るように組み合わせて続けた。
「こういうときって……、私はあなたになんて言えば良いの? 『優しくして』?」
濡れた瞳の上目遣い。紅潮した頬。強く組み合わされた指。とどめの「優しくして」というお願い。
ボンッ、と。
血流が良くなりすぎて、顔が火を噴いた。
うわ、と悲鳴を上げそうになって、アレンは片手で顔を覆い、横を向く。隠しきれていないと気付いていたが、それどころではない。
「ちょ……お嬢さん、いまのきついってマジで。やばいから。そういうの」
「変でしたか?」
「変っていうか」
(可愛すぎて。心臓痛い。胸に血の滝が出来たみたい。ドクドクすごいうるさい。人体の立てる音じゃないだろ。これ、お嬢様に聞こえてない? いやいやさすがに冗談でしょ、奥手だって言っても俺そこまで純じゃないでしょ……!?)
アレンは片手を心臓に置いて必死になだめようとする。しずまれ、しずまれと無闇に心の中で唱える。
相手は病気の女の子! 手を出すなんて全方位無理! 死んじゃう!
あっ、でもキスくらいなら……? 優しく? 優しくとは?
瞬きくらいの時間に、猛烈に自問自答した。
そのとき、くすっ、という小さな笑い声が耳に届いた。
我に返ってクララを見ると、肩を震わせて笑っている。笑って……?
呆然としたアレンの前で、クララは堪えるのを諦めたらしく、笑い声を弾けさせた。
明るく部屋に響くその声に身を浸し、落ち着くのを待ってからアレンは目を細めて軽く睨みつける。
「笑いすぎ」
「だって……、本当に焦って見えたから……。経験人数『星の数』はふかしすぎでしょうって思っていたけど……、アレン、あなた本当にそれでお仕事できてるの?」
「心配しないで。売れっ子高級男娼だから。いまのはちょっとした技術《テク》だよ」
言ってて虚しくなってきたが、引くに引けない事情ゆえに胸を張って言う。
ほんの一瞬、クララの瞳に寂しげな色が浮かんだように見えた。確認する前に、クララはさりげなくアレンに背を向けた。伸びをするように背中をソファの背もたれに押し付け、んん~、と声を上げる。その後に。
そっか、と小さな呟き。
それを最後に、ふたりとも押し黙る。
静寂。
沈黙が長引く前に、先に声をあげたのはクララだった。くるっとアレンを振り返る。
「なんだか私、さっきより元気になってきた気がする……」
アレンはその言い分を否定することなく、受け入れた。
「笑ったからじゃない? 笑うと健康になるって言うし」
「本当?」
思いがけないほど、真剣に聞き返される。アレンもまた真剣にその目を見て、(ここは間違えられない場面だ)と気合を入れて答える。
「嘘か本当かで言えば根拠は無いよ。病気を治すのは迷信じゃなく、一にも二にも適切な治療だと思う。だけど……、お嬢さんには悪魔が取り憑いているっていうし。もしかしたらいまの『色欲』が悪魔のお気に召したのかもね」
「いまので、情欲を交わしたことになるの? 本当?」
重ねて問われる。その瞳には、明らかに希望の光が宿っている。それを見たら「なるわけないよ」と否定で塗り潰すのはもう、無理だった。
慎重に答えよう。
そう思ってアレンが口を開いた刹那。
激しい破砕音とともに、窓ガラスが砕け散った。
「生まれてこの方、物欲というものが無くて……。綺麗なドレスは着ていくところがないし、装飾品も使いようがないでしょう。食べ物はろくに喉を通らない……。少しでも重い本は持っていられない。私はいったい、何を欲しがれば良いというの」
アレンからレスターに頼んでひとまず用意していた最新の服飾カタログを指で繰りながら、クララは困惑をあらわにした。
アレンが屋敷を訪れて早七日。寝込んだ四日はともかく、五日目には起き上がれるようになり、六日目には少量ながらも用意された食事は完食。七日目現在、ずいぶんマシになった様子で、両脇をぬいぐるみに囲まれながらソファに腰掛けている。口数も増えてきた。
背後から椅子の背もたれに軽く片手を置いてカタログをのぞきこみ、アレンは力強く唆《そそのか》した。
「物欲が無いなんて言わないで。せっかく、悪魔が努力を認めて寿命を伸ばしてくれてるかもしれないんだ。この勢いに乗って、強欲を極めよう」
「そ、そう……? 私、あなたの目から見て、死にそうに見えない?」
肩越しに振り返ったクララが、ほのかに照れた様子で見上げてくる。
強い輝きの瞳と、視線がぶつかる。そこだけ見れば、ずいぶん元気そうだ。
けれど、少し引いて全体を見れば、やつれてこけた頬、かさかさの唇。しばらく洗った様子のない髪。どこをとっても病人そのものの見た目と認めざるを得ない。
「死にそうか死にそうじゃないかで言えば、返事は保留にさせて欲しい。というのは、世の中では死にそうに見えないひとが突然事故で死ぬこともあるわけだろう。そう考えると、見た目が死にそうかどうかなんて些細な」
「死にそうに見えるのね、私」
弱々しい声に、そっと遮られる。
詭弁で切り抜けようとしたが、勢いも屁理屈もまったく足りていなかった。アレンはがっくりと項垂れ、潔く謝罪した。
「ごめん……」
「良いの。このところ少し調子が良くて、もしかして寿命伸びちゃったかな~って思っていたけれど、そうそう伸びるものではないわね。自分でもわかってる……」
「お嬢さん、もうなんでも良いから、わがままめいっぱい言ってみてよ。悪魔も真っ青なやつ。初日は結構元気だったじゃない、あの頃を思い出して」
クララの沈んだ声に胸がキリキリと痛み、アレンはつい懇願してしまった。
言われたクララは一瞬、いかにも申し訳無さそうな顔をした。それから、「初日に残りの一生分の元気を使い切ってしまって……、生命力が無いと欲も減退していきますし……」と真理めいたことを口にする。
そこからかーと呟いてから、アレンは自分がこの場にいる理由を奇跡的に思い出した。
「ここは『色欲』の腕の見せどころか」
アレンをじっと見上げていたクララの翠の瞳に、ふっと不安が過《よぎ》った。カタログの端を指で弄くりながら、「でも……」と躊躇《ためら》いを口にして俯く。「そんなこと言ってる場合じゃなくて」とアレンは言いかけたが、よく見ると、クララは頬も耳も朱に染めていた。
照。
(う……初心《うぶ》な反応は当然だよな、うん。お嬢様に経験があるわけないないし、知識だってぼや~っとしたもので……)
ハハッ、とそこで乾いた笑みが漏れた。経験どころか知識が曖昧なのは自分も同じだな、と。
もちろん、悪魔的な「色欲」の権化として招かれた身、そんなことをクララに知られるわけにはいかない。決して。
もし本当に名目通りの仕事に従事することになったら、すべてスマートに事を運ばねば……、手取り足取り。
そのとき、何かを振り切るように、クララが顔を上げた。
翠眼はかすかに潤み、きらきらとした輝きが強まっている。
「あの、アレン。あなたにとっては慣れたことかもしれないけど……。私はすべて初めてなの」
「う、うん」
余裕綽々な対応をするつもりだったのに、早速声が上ずった。幸い、クララもまたいっぱいいっぱいなのか、気づいた様子もなく、指と指を祈るように組み合わせて続けた。
「こういうときって……、私はあなたになんて言えば良いの? 『優しくして』?」
濡れた瞳の上目遣い。紅潮した頬。強く組み合わされた指。とどめの「優しくして」というお願い。
ボンッ、と。
血流が良くなりすぎて、顔が火を噴いた。
うわ、と悲鳴を上げそうになって、アレンは片手で顔を覆い、横を向く。隠しきれていないと気付いていたが、それどころではない。
「ちょ……お嬢さん、いまのきついってマジで。やばいから。そういうの」
「変でしたか?」
「変っていうか」
(可愛すぎて。心臓痛い。胸に血の滝が出来たみたい。ドクドクすごいうるさい。人体の立てる音じゃないだろ。これ、お嬢様に聞こえてない? いやいやさすがに冗談でしょ、奥手だって言っても俺そこまで純じゃないでしょ……!?)
アレンは片手を心臓に置いて必死になだめようとする。しずまれ、しずまれと無闇に心の中で唱える。
相手は病気の女の子! 手を出すなんて全方位無理! 死んじゃう!
あっ、でもキスくらいなら……? 優しく? 優しくとは?
瞬きくらいの時間に、猛烈に自問自答した。
そのとき、くすっ、という小さな笑い声が耳に届いた。
我に返ってクララを見ると、肩を震わせて笑っている。笑って……?
呆然としたアレンの前で、クララは堪えるのを諦めたらしく、笑い声を弾けさせた。
明るく部屋に響くその声に身を浸し、落ち着くのを待ってからアレンは目を細めて軽く睨みつける。
「笑いすぎ」
「だって……、本当に焦って見えたから……。経験人数『星の数』はふかしすぎでしょうって思っていたけど……、アレン、あなた本当にそれでお仕事できてるの?」
「心配しないで。売れっ子高級男娼だから。いまのはちょっとした技術《テク》だよ」
言ってて虚しくなってきたが、引くに引けない事情ゆえに胸を張って言う。
ほんの一瞬、クララの瞳に寂しげな色が浮かんだように見えた。確認する前に、クララはさりげなくアレンに背を向けた。伸びをするように背中をソファの背もたれに押し付け、んん~、と声を上げる。その後に。
そっか、と小さな呟き。
それを最後に、ふたりとも押し黙る。
静寂。
沈黙が長引く前に、先に声をあげたのはクララだった。くるっとアレンを振り返る。
「なんだか私、さっきより元気になってきた気がする……」
アレンはその言い分を否定することなく、受け入れた。
「笑ったからじゃない? 笑うと健康になるって言うし」
「本当?」
思いがけないほど、真剣に聞き返される。アレンもまた真剣にその目を見て、(ここは間違えられない場面だ)と気合を入れて答える。
「嘘か本当かで言えば根拠は無いよ。病気を治すのは迷信じゃなく、一にも二にも適切な治療だと思う。だけど……、お嬢さんには悪魔が取り憑いているっていうし。もしかしたらいまの『色欲』が悪魔のお気に召したのかもね」
「いまので、情欲を交わしたことになるの? 本当?」
重ねて問われる。その瞳には、明らかに希望の光が宿っている。それを見たら「なるわけないよ」と否定で塗り潰すのはもう、無理だった。
慎重に答えよう。
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