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第一章
十二話 その人は、私を信じなかった
部屋で紅茶を楽しんでいると、ドアがノックされた。
「イリス」
ディートリッヒの声に思わず身構えたが──
「イリス、開けてくれ」
扉越しに聞こえる声は落ち着いている。
エレノアが何か吹き込んで、いつものように文句を言ってくるかと思ったが、どうも様子が違う。
私は小さく息を吐き、扉を開けた。
「どうしたの?」
「話がある」
短い言葉。
私の顔色を窺っているようだ。
「散歩でもしないか。庭が綺麗だと聞いた」
「……今から?」
「ああ」
少し緊張している様子だ。何か話があるのだろう。
面倒だが、婚約解消承諾書の件なら聞きたい。
私は頷き、羽織りを手に取った。
◇◇◇
庭園は、さすが一流ホテルというべきか、美しく整えられた景観だ。
スイートルームから見下ろすことはあっても、庭は歩いていなかったから、新鮮な気分で気持ちも良い。
「寒くないか?」
「ええ、平気よ」
ディートリッヒが珍しく気遣ってくれた。
驚いたが、悪い気はしなかった。
別れる相手と仲良く庭園を散策するのは変な気分だが、思いの外楽しんでいる。
こんな穏やかな日常を、私は夢見ていたのに……。
噴水の前に人影があった。
エレノアだ。
「あら、イリスさん。ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
足をかばうように立つその姿は、相変わらず『健気』そのものだ。
「エレノア。どうしてここに?医者からは安静にするよう言われていただろう?」
ディートリッヒはいつものように、エスコートしていた私の腕をほどいてエレノアのもとへ行った。
そう、いつものこと。
ディートリッヒが私を気遣う態度を取っていたとしても、結局は『エレノアの次』だ。
もう、散々目の当たりにしているのに、愚かにも楽しんだ自分が滑稽だった。
バカなイリス。何度も惑わされるな。
「イリスが心配で……。ごめんなさい、邪魔だったわよね」
「そんなことはない。心配してここまで来てくれるとは、本当にエレノアは心が優しいな」
「そんな……。イリス、怒ってる?」
いつものように被害者を装うエレノア。
ありがとう。
現実を突きつけてくれて。
「イリス」
ディートリッヒが口を開いた。
「エレノアから聞いた。君、伯爵夫人になることが重荷だと悩んでいるそうだな」
「?」
思わずエレノアを見た。
ああ、そういうこと。
「君は昔から、無理をするだろう。俺にはわかる」
わかる?
あなたに私の何がわかるの?
「結婚したら君は何もしなくていい。必要なことは指示するから大丈夫だ。君を侮る輩からも守る。安心してくれ」
「……」
指示するってなに……。
守るって、あなたの横でこちらを見下すエレノアを、どうにかしてから言ってちょうだい。
もう庭園を散策する気分ではなくなった。
さっさと戻ろうと口を開こうとしたとき──
「伯爵様」
庭園の入り口から、ホテルの支配人が姿を現した。
「先ほどご相談いただいていた件ですが……少々、確認をお願いしたく」
「もう準備は整ったのだろう?」
「はい。ただ、配置の最終確認を……」
ディートリッヒは一瞬だけ私を見た。
「すぐ戻る」
「……ええ」
ディートリッヒは、私とエレノアを残して、支配人とともにホテルへと入っていった。
──そして、空気が変わる。
「……ふふ」
エレノアが、扇を閉じて口元を隠した。
「あんたのこと、侮ってたわ」
「……なんですか、急に」
「褒めてるのよ。ディートリッヒはどんなことがあっても、あんたと結婚するみたい」
「……」
敗北宣言にしては、雰囲気が怪しい……。
「何が言いたいの?」
「簡単なことよ」
一歩、距離を詰めてくる。
「あんたにディートリッヒは渡さない」
「……」
「ディートリッヒは私を信用してる。あんたよりも」
いつの間にか噴水の近くに、立たされていることに気付く。
嫌な予感がする……。
距離を取ろうと一歩下がった、その瞬間だった。
「知ってるでしょ?」
エレノアは噴水の縁に立つ。
「あんたは信用されてない」
「っ!!」
次の瞬間、エレノアが噴水に飛び込んだ。
「きゃあああっ!!」
エレノアが悲鳴を上げる。
彼女は、震えながら叫ぶ。
「イリスさん……どうして……!」
その声に、駆け寄る足音。
「エレノア!」
ディートリッヒだった。
彼に押し退けられ、私は地面に倒れた。
その彼は、服が濡れることも厭わず、噴水に入り濡れそぼったエレノアを抱き上げる。
「大丈夫か?!」
「……私、話していただけなのに……急に……」
彼女の指先が、かすかに私を指す。
私は必死に言葉を絞り出した。
「違う……! エレノア様が、自分から噴水に……!」
ディートリッヒはすごい形相で睨んできた。
「嘘をつくな!!」
空気を切り裂くような大声。
反射的に身構えてしまう。
「エレノアが、そんな真似をする理由がどこにある!」
さっき倒れた拍子に足首を捻ったようだ。
立ち上がれない。
「エレノアは怪我をしているんだぞ!」
「私は……!」
「黙れ!」
その声は、怒りに満ちていた。
「代償は必ず払わせてやる!」
彼はエレノアを抱え上げ、私には一度も視線を向けずに走り去った。
取り残された私は、ホテルのスタッフに支えられながら、スイートルームへ戻った。
大きなバラの花束や、チーズタルトと紅茶が知らぬ間に準備されていたのを見たとき、支配人がディートリッヒを呼びに来た姿が思い浮かんだ。
「ふっ……」
失笑しかない。
その後、医者の手配をしたが、エレノアの治療が優先だと連絡が来たっきり、医者は現れなかった。
痛みで熱も出てきたのに、私の側には誰もいない。
時折、誰かが廊下を歩く音がしたが、それだけだ。
ただ……耐えるしかなかった……。
「イリス」
ディートリッヒの声に思わず身構えたが──
「イリス、開けてくれ」
扉越しに聞こえる声は落ち着いている。
エレノアが何か吹き込んで、いつものように文句を言ってくるかと思ったが、どうも様子が違う。
私は小さく息を吐き、扉を開けた。
「どうしたの?」
「話がある」
短い言葉。
私の顔色を窺っているようだ。
「散歩でもしないか。庭が綺麗だと聞いた」
「……今から?」
「ああ」
少し緊張している様子だ。何か話があるのだろう。
面倒だが、婚約解消承諾書の件なら聞きたい。
私は頷き、羽織りを手に取った。
◇◇◇
庭園は、さすが一流ホテルというべきか、美しく整えられた景観だ。
スイートルームから見下ろすことはあっても、庭は歩いていなかったから、新鮮な気分で気持ちも良い。
「寒くないか?」
「ええ、平気よ」
ディートリッヒが珍しく気遣ってくれた。
驚いたが、悪い気はしなかった。
別れる相手と仲良く庭園を散策するのは変な気分だが、思いの外楽しんでいる。
こんな穏やかな日常を、私は夢見ていたのに……。
噴水の前に人影があった。
エレノアだ。
「あら、イリスさん。ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
足をかばうように立つその姿は、相変わらず『健気』そのものだ。
「エレノア。どうしてここに?医者からは安静にするよう言われていただろう?」
ディートリッヒはいつものように、エスコートしていた私の腕をほどいてエレノアのもとへ行った。
そう、いつものこと。
ディートリッヒが私を気遣う態度を取っていたとしても、結局は『エレノアの次』だ。
もう、散々目の当たりにしているのに、愚かにも楽しんだ自分が滑稽だった。
バカなイリス。何度も惑わされるな。
「イリスが心配で……。ごめんなさい、邪魔だったわよね」
「そんなことはない。心配してここまで来てくれるとは、本当にエレノアは心が優しいな」
「そんな……。イリス、怒ってる?」
いつものように被害者を装うエレノア。
ありがとう。
現実を突きつけてくれて。
「イリス」
ディートリッヒが口を開いた。
「エレノアから聞いた。君、伯爵夫人になることが重荷だと悩んでいるそうだな」
「?」
思わずエレノアを見た。
ああ、そういうこと。
「君は昔から、無理をするだろう。俺にはわかる」
わかる?
あなたに私の何がわかるの?
「結婚したら君は何もしなくていい。必要なことは指示するから大丈夫だ。君を侮る輩からも守る。安心してくれ」
「……」
指示するってなに……。
守るって、あなたの横でこちらを見下すエレノアを、どうにかしてから言ってちょうだい。
もう庭園を散策する気分ではなくなった。
さっさと戻ろうと口を開こうとしたとき──
「伯爵様」
庭園の入り口から、ホテルの支配人が姿を現した。
「先ほどご相談いただいていた件ですが……少々、確認をお願いしたく」
「もう準備は整ったのだろう?」
「はい。ただ、配置の最終確認を……」
ディートリッヒは一瞬だけ私を見た。
「すぐ戻る」
「……ええ」
ディートリッヒは、私とエレノアを残して、支配人とともにホテルへと入っていった。
──そして、空気が変わる。
「……ふふ」
エレノアが、扇を閉じて口元を隠した。
「あんたのこと、侮ってたわ」
「……なんですか、急に」
「褒めてるのよ。ディートリッヒはどんなことがあっても、あんたと結婚するみたい」
「……」
敗北宣言にしては、雰囲気が怪しい……。
「何が言いたいの?」
「簡単なことよ」
一歩、距離を詰めてくる。
「あんたにディートリッヒは渡さない」
「……」
「ディートリッヒは私を信用してる。あんたよりも」
いつの間にか噴水の近くに、立たされていることに気付く。
嫌な予感がする……。
距離を取ろうと一歩下がった、その瞬間だった。
「知ってるでしょ?」
エレノアは噴水の縁に立つ。
「あんたは信用されてない」
「っ!!」
次の瞬間、エレノアが噴水に飛び込んだ。
「きゃあああっ!!」
エレノアが悲鳴を上げる。
彼女は、震えながら叫ぶ。
「イリスさん……どうして……!」
その声に、駆け寄る足音。
「エレノア!」
ディートリッヒだった。
彼に押し退けられ、私は地面に倒れた。
その彼は、服が濡れることも厭わず、噴水に入り濡れそぼったエレノアを抱き上げる。
「大丈夫か?!」
「……私、話していただけなのに……急に……」
彼女の指先が、かすかに私を指す。
私は必死に言葉を絞り出した。
「違う……! エレノア様が、自分から噴水に……!」
ディートリッヒはすごい形相で睨んできた。
「嘘をつくな!!」
空気を切り裂くような大声。
反射的に身構えてしまう。
「エレノアが、そんな真似をする理由がどこにある!」
さっき倒れた拍子に足首を捻ったようだ。
立ち上がれない。
「エレノアは怪我をしているんだぞ!」
「私は……!」
「黙れ!」
その声は、怒りに満ちていた。
「代償は必ず払わせてやる!」
彼はエレノアを抱え上げ、私には一度も視線を向けずに走り去った。
取り残された私は、ホテルのスタッフに支えられながら、スイートルームへ戻った。
大きなバラの花束や、チーズタルトと紅茶が知らぬ間に準備されていたのを見たとき、支配人がディートリッヒを呼びに来た姿が思い浮かんだ。
「ふっ……」
失笑しかない。
その後、医者の手配をしたが、エレノアの治療が優先だと連絡が来たっきり、医者は現れなかった。
痛みで熱も出てきたのに、私の側には誰もいない。
時折、誰かが廊下を歩く音がしたが、それだけだ。
ただ……耐えるしかなかった……。
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