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第一章
十四話 自ら選んだ終わり
馬車までの道を、歩くディートリッヒ。足音から苛立ちが伝わってくる。
その苛立ちが胸の奥で燻り、どうしても収まらないようだ。
(あの女は、どこまで俺を怒らせれば気が済むんだ)
婚約解消承諾書。
(また、それだ。まるで切り札のつもりで、何度も突きつけてくる。自分が今どういう立場にいるのか、少しも理解していない)
「……まったく」
馬車に乗り込むと、エレノアが座席に身を預け、うつらうつらと舟を漕いでいた。
長い睫毛が伏せられ、顔色はまだ優れない。
「エレノア……」
ディートリッヒは、はっと我に返る。
(俺は、何をしている。イリスに謝らせるために、エレノアに来てもらったのに、結果はどうだ。エレノアに、こんな無用な負担をかけてしまった)
「すまない……」
彼女を起こさぬよう、彼は声を落とす。
そのとき、エレノアが小さく身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。
「……ディートリッヒ……?」
「ああ。起こしてしまったか」
「いえ……大丈夫……」
そう言って、微笑む。
それだけで、ディートリッヒの胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「イリスさんは……?」
その名前を聞いた瞬間、再び苛立ちが蘇る。
「……ああ。相変わらずだ」
ディートリッヒは、吐き出すように言った。
「不満ばかり口にしてな。挙げ句、またあの婚約解消承諾書だ。俺を試すつもりなのか、まったく理解できん」
エレノアは、少し困ったように眉を下げた。
「……イリスさんは、不安なのよ」
「不安?」
「ええ。きっと……ディートリッヒの気持ちを、確かめたいだけ」
そう言って、彼女は静かに続けた。
「きっと、駆け引きしているのよ」
「駆け引き……?」
「うん。本当に解消する気など、ないはずよ」
エレノアは、控えめに微笑んだ。
「もし、ディートリッヒが先にサインをして、それを突きつけたら……イリスさんは、きっと慌てて縋りついてくると思うわ」
(なるほど)
その考えが、驚くほど自然に腑に落ちた。
(確かに、そうだ。イリスは、そういう女だ。俺を失うかもしれないと知った途端、泣いて謝り、縋ってくる)
「……そうか」
ディートリッヒは、口元を緩めた。
「確かに、その通りだな」
(生意気に、俺に楯突いたのだから、一度、思い知らせてやる必要がある)
──立場というものを。
(そして、その後で、これまで以上に甘やかしてやればいい。二度と、婚約解消など口にできないように)
優越感が、じわりと胸に広がった。
「ありがとう、エレノア。君のおかげで、冷静になれた」
「いいえ……」
エレノアは、ほっとしたように微笑む。
「二人が私のせいで別れることになったら、嫌だもの。早く、すべて丸く収まるといいわね」
「ああ。必ずな」
◇◇◇
翌日。
ディートリッヒは教会で正式な婚約解消承諾書を受け取り、その場で迷いなくサインをした。
書類を手に、イリスのもとへ向かう。
彼女は、ベッドの上に身を起こしたまま、俯いていた。
「ほら」
ディートリッヒは、承諾書を投げるように差し出した。
「望み通りだろ。これで俺たちは終わりだ」
イリスの肩が、わずかに震える。
「だがな」
彼は、冷たく続けた。
「エレノアに謝るなら、これまでのことは水に流してやる。提出するかどうかは……よく考えろ」
イリスは、顔を上げない。
声も、出さない。
(泣いているな)
ディートリッヒは、そう判断した。
(やはりだ。イリスは俺を愛している。この書類を、本当に提出する勇気などあるはずがない)
彼は、内心でほくそ笑んだ。
(さあ、どうする。すぐに、縋ってくるがいい!)
彼は優越感に浸りながら、イリスの居る部屋を後にした。
彼女が俺を失う選択など、できるはずがない。すぐにでも自分を追いかけてくると、信じて疑わなかった。
このことを、のちほど、とんでもなく後悔すると知らずに……。
その苛立ちが胸の奥で燻り、どうしても収まらないようだ。
(あの女は、どこまで俺を怒らせれば気が済むんだ)
婚約解消承諾書。
(また、それだ。まるで切り札のつもりで、何度も突きつけてくる。自分が今どういう立場にいるのか、少しも理解していない)
「……まったく」
馬車に乗り込むと、エレノアが座席に身を預け、うつらうつらと舟を漕いでいた。
長い睫毛が伏せられ、顔色はまだ優れない。
「エレノア……」
ディートリッヒは、はっと我に返る。
(俺は、何をしている。イリスに謝らせるために、エレノアに来てもらったのに、結果はどうだ。エレノアに、こんな無用な負担をかけてしまった)
「すまない……」
彼女を起こさぬよう、彼は声を落とす。
そのとき、エレノアが小さく身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。
「……ディートリッヒ……?」
「ああ。起こしてしまったか」
「いえ……大丈夫……」
そう言って、微笑む。
それだけで、ディートリッヒの胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「イリスさんは……?」
その名前を聞いた瞬間、再び苛立ちが蘇る。
「……ああ。相変わらずだ」
ディートリッヒは、吐き出すように言った。
「不満ばかり口にしてな。挙げ句、またあの婚約解消承諾書だ。俺を試すつもりなのか、まったく理解できん」
エレノアは、少し困ったように眉を下げた。
「……イリスさんは、不安なのよ」
「不安?」
「ええ。きっと……ディートリッヒの気持ちを、確かめたいだけ」
そう言って、彼女は静かに続けた。
「きっと、駆け引きしているのよ」
「駆け引き……?」
「うん。本当に解消する気など、ないはずよ」
エレノアは、控えめに微笑んだ。
「もし、ディートリッヒが先にサインをして、それを突きつけたら……イリスさんは、きっと慌てて縋りついてくると思うわ」
(なるほど)
その考えが、驚くほど自然に腑に落ちた。
(確かに、そうだ。イリスは、そういう女だ。俺を失うかもしれないと知った途端、泣いて謝り、縋ってくる)
「……そうか」
ディートリッヒは、口元を緩めた。
「確かに、その通りだな」
(生意気に、俺に楯突いたのだから、一度、思い知らせてやる必要がある)
──立場というものを。
(そして、その後で、これまで以上に甘やかしてやればいい。二度と、婚約解消など口にできないように)
優越感が、じわりと胸に広がった。
「ありがとう、エレノア。君のおかげで、冷静になれた」
「いいえ……」
エレノアは、ほっとしたように微笑む。
「二人が私のせいで別れることになったら、嫌だもの。早く、すべて丸く収まるといいわね」
「ああ。必ずな」
◇◇◇
翌日。
ディートリッヒは教会で正式な婚約解消承諾書を受け取り、その場で迷いなくサインをした。
書類を手に、イリスのもとへ向かう。
彼女は、ベッドの上に身を起こしたまま、俯いていた。
「ほら」
ディートリッヒは、承諾書を投げるように差し出した。
「望み通りだろ。これで俺たちは終わりだ」
イリスの肩が、わずかに震える。
「だがな」
彼は、冷たく続けた。
「エレノアに謝るなら、これまでのことは水に流してやる。提出するかどうかは……よく考えろ」
イリスは、顔を上げない。
声も、出さない。
(泣いているな)
ディートリッヒは、そう判断した。
(やはりだ。イリスは俺を愛している。この書類を、本当に提出する勇気などあるはずがない)
彼は、内心でほくそ笑んだ。
(さあ、どうする。すぐに、縋ってくるがいい!)
彼は優越感に浸りながら、イリスの居る部屋を後にした。
彼女が俺を失う選択など、できるはずがない。すぐにでも自分を追いかけてくると、信じて疑わなかった。
このことを、のちほど、とんでもなく後悔すると知らずに……。
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