尽くしてきた婚約者に裏切られたので、婚約を解消しました〜彼が愛に気づいたのは、すべてを失ったあとでした〜

ともどーも

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第一章

十六話 さようなら

「イリ──」
 ディートリッヒが駆け寄ろうとする前に、シュタール男爵は素早く動き、イリスの元へと移動していた。

「足を怪我してるのか?」
 イリスが頷く。
 シュタール男爵はすぐにイリスを抱き抱え、部下の御者に「イリスの荷物を受け取ってくれ」と指示を出した。

「イっ、イリス。遅かったじゃないか、心配したよ」
 出遅れたディートリッヒだったが、心配しているような優しい声でイリスに話しかけた。
「……」
 しかし、イリスは何も言わなかった。

 (イリス?)

 シュタール男爵はそのままイリスを、自身が乗ってきた馬車へ連れていく。

 (どうして馬車に?) 

 その光景に、ディートリッヒの胸に、ざらついた感情が湧いた。
「イリス」 
 声が震えそうになる。
「どこへ行くつもりだ」 
 イリスは、ようやくディートリッヒを見た。
 その視線には、何もなかった。
 
「帰ります」 

 (帰る?)

 ディートリッヒの頭は状況についていけず、真っ白になる。

「帰る?今、帰ってきたじゃないか。どこに帰るんだ?」
 ディートリッヒは、本当はわかっていた。状況からして、イリスは『実家に帰る』と言っているのを察していた。
 しかし、感情がそれを認めない。

「お前は俺の婚約者だ。もうすぐ俺たち、結婚するんだぞ。それなのに、どっ、どこに帰るんだ」
「その結婚をキャンセルされたのは、ヴァルデンベルク卿でしょう」
「違う!キャンセルじゃない、延期だ!」
「同じことです。結婚式は永遠に延期にいたしましょう」

 (なっ、なんなんだ?!イリスの口調も変だし、何故『ヴァルデンベルク卿』と呼ぶんだ?)

「結婚式の延期については、イリスも了承してくれたじゃないか。今さら怒っているのか?」
「いいえ」
「じゃあ、何で帰るんだ。おかしいだろう!」

 (こんなの、認められない!)

 ディートリッヒはイリスを連れ戻そうと、馬車に乗り込もうとするが、シュタール男爵によって阻まれ、イリスに触れることもできなかった。

「お前は俺の婚約者だ。どこへも行くな。イリス!」
 むなしい叫びが周りに響く。
 イリスは鞄から一枚の書類を取り出し、ディートリッヒへ向けて見せた。

 婚約解消証明書。

 見た瞬間、ディートリッヒはその場で固まった。
「もう婚約関係はありません」
「……だっ、出したのか?」
「はい」
「どうして!?」

 (何故だ。どうして出したんだ!だってイリスは、俺を愛している。ずっと俺だけを愛してきたのに!どうして……)

「ご縁がなかった。ただ、それだけでございます。お父様、これを」
 イリスは男爵に何かを渡した。
 
「っ!おい、その口調を止めろ」
「……」
「俺のことを『ディートリッヒ』と呼べ」
「……」
「俺を愛していると言ってくれ!」

 ディートリッヒの悲しい叫びが木霊するが、イリスは悲しい笑顔を向けて、首を横に振るだけだった。

「イリス!」
 またも馬車に乗り込もうとするが、シュタール男爵はそれを許さなかった。

「ヴァルデンベルク卿。我々はそろそろお暇するよ。イリスを医者に見せたいのでね」
「医者ならこの領にも──」
 男爵の冷たい視線に気づき、ディートリッヒの喉が鳴った。
 言葉が、続かない。
 
「結構だ」

 今まで穏やかな口調だった男爵の声は、まるで鋭利な刃物のように鋭くなった。

「それから、これはお返しする」
 男爵がディートリッヒの前に手を伸ばす。
「手を」
 逆らえない圧に、ディートリッヒは思わず手を差し出す。
 そこへ男爵は、音も立てず婚約指輪を置いた。
「……以上だ」

 指輪の冷たい重みだけが、手に残った。
 ディートリッヒは言葉を失い呆然とする。

「では、失礼」
 また穏やかな口調にもどり、男爵は素早く馬車に乗り込んだ。
 馬車が出発する。

「まっ、待って。イリス!話を、話をしよう!」
 イリスは馬車の窓越しに何かを言った。
 声は聞こえなかったが、口の動きでディートリッヒにはわかった。

 『さようなら』

 イリスの別れの言葉に、ディートリッヒは追いかけることもできず、ただ、その場で馬車を見送ることしかできなかった。

 ディートリッヒは、このときはじめて、自分が失ったものの大きさを知った。
 それが、もう……二度と取り戻せないものだとも。
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