尽くしてきた婚約者に裏切られたので、婚約を解消しました〜彼が愛に気づいたのは、すべてを失ったあとでした〜

ともどーも

文字の大きさ
21 / 82
第一章

二十話 潮の匂いと、ただいま

 馬車がゆっくりと止まる。
 扉を開き、お父様が先に降りる。
 潮風の匂いが流れ込んでくる。

 帰ってきた……。

 そう思った瞬間、足が動かなかった。
 医師に診てもらい、腫れも痛みも引いているのに。
 それでも膝がわずかに震えているのは、怪我のせいではない。
 
 膝の上の拳に力が入る。
 白くなるほど強く握っていることに気付き、そっと息を吐いた。

 大丈夫。
 
 ゆっくりと馬車を降りる。
 見慣れた屋敷。
 変わらない石畳。
 幼い頃から働いてくれている使用人たち。 
 そして──家族。
 
 お母様。
 お兄様。
 
 みんなが、優しく微笑んでいた。
 胸が締め付けられる。
 視線を逸らしそうになって、必死に踏みとどまり、腹に力を込める。

 肺いっぱいに空気を吸い込んでから、口を開いた。
「お久しぶりです。ただいま戻りました」
 声が震えそうになるのを噛み殺す。
「ご心配をお掛けしてしまい──」
 そのときだった。
 お母様が、そっと私の手を包み込んだ。
 温かい。
 それだけで、作っていた笑顔が崩れた。
 
「お帰りなさい。イリス」
 柔らかい声。
 変わらない、安心する響き。
 喉が熱くなる。
 
「ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ありません」
 どうにか言葉を絞り出すと、お母様は小さく首を振った。
「お腹空いたでしょう? あなたの好きなミートパイに、カボチャのスープも用意してあるの。食後には──」
 少しだけ間を置いて、優しく微笑む。
 
「モンブランもあるのよ」
 
 胸が、きゅっと痛んだ。
 ……チーズタルトじゃない。
 
「髪も乱れてるわね」
 頭に触れた指先が、そっと髪を整える。
「お風呂も準備してあるわ。ゆっくり浸かって、旅の疲れを癒しなさい」
 
 優しすぎる。
 
 胸の奥が、軋む。
 こんな顔で迎えられる資格なんて──
 一歩、後ずさりそうになる。
 その瞬間、背後で小さく咳払いがした。
 
「……立ち話も何だ。中へ入ろう」
 お父様だった。
 いつも通りの落ち着いた声。
 けれど、背を向けたまま少しだけ肩が強張っている。
 
「妹が戻ってきたんだ。厨房も腕を振るっている。冷める前に食べさせてやれ」
 お兄様が、軽く肩をすくめて笑った。
「……帰ってきてくれて、よかった」
 短い一言。
 それだけで、視界が滲む。
 
 お母様がそっと私を抱き寄せた。
 逃げようとした腕が、空中で止まる。

 固まって、抱き締め返せない。 
 
「……ごめんなさい」
 喉から、勝手に零れ落ちた。
 
「私……みんなの忠告……聞かなかった……」
 言った瞬間、涙が溢れた。
 
「バカで……結局……迷惑……ごめ、なさい……」
 声にならない嗚咽が漏れる。
 
 お母様は、何も言わなかった。
 ただ、強く抱き締める。
 その胸元から、甘い香りがした。
 焼き上がったばかりの、クッキーの匂い。
 
 幼い頃。
 失敗して泣いた日。
 怪我をして帰った日。
 いつも、この匂いがしていた。
 
「いいのよ」
 静かな声が、耳元で響く。
「帰ってきてくれた。それだけで十分よ」
 堰を切ったように、涙が溢れた。

 どれくらい泣いていたのか分からない。
 気付けば、胸の奥の重石が少しだけ軽くなっていた。
 お母様の肩に額を預けたまま、ゆっくりと息を吐く。
 潮の匂いが、胸に流れ込んでくる。
 
 帰ってきた。
 
 ようやく、そう思えた。
 お母様の体に手を回すと、その柔らかさに涙がまた溢れた。
感想 289

あなたにおすすめの小説

【完結】私を裏切った不倫夫に「どなたですか?」と微笑むまで 〜没落令嬢の復讐劇〜

恋せよ恋
恋愛
「早くあんな女と別れて、可愛い子と一緒になりたいよ」 不倫中の夫が笑う声を聞き、絶望の中で事故に遭うジェシカ。 結婚五年目に授かったお腹の子を失った彼女は、 「記憶を失ったフリ」で夫と地獄の婚家を捨てることを決意。 元男爵令嬢の薄幸ヒロインは、修道院で静かに時を過ごす。 独り身領主の三歳の男の子に懐かれ、なぜか領主まで登場! 無実の罪をなすりつけ、私を使い潰した報いを受けなさい。 記憶喪失を装った没落令嬢による、「ざまぁ」が幕を開ける! ※本作品には、馬車事故による流産の描写が含まれます。  苦手な方はご注意ください。主人公が絶対に幸せになる  物語ですので、安心してお読みいただければ幸いです。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

夫は私を愛していないそうなので、遠慮なく離婚します。今さら引き止められても遅いです

藤原遊
恋愛
王妃付き護衛騎士である夫に、「お前を愛したことはない」と告げられた。 理由は単純。 愛などなくても、仕事に支障はないからだという。 ──そうですか。 それなら、こちらも遠慮する必要はありませんね。 王妃の機嫌、侍女たちとの関係、贈り物の選定。 夫が「当然のように」こなしていたそれらは、すべて私が整えていたもの。 離婚後、少しずつ歯車は狂い始める。 気づいたときにはもう遅い。 積み上げてきた信用は、静かに崩れていく。 一方で私は、王妃のもとへ。 今さら引き止められても、遅いのです。

文句を言わない婚約者は、俺の愛する幼馴染みを許していなかった【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
幼馴染を優先しても、婚約者アウローラは何も言わない。だから、これからも幼馴染みとイチャイチャできる── 侯爵令息トリスタンは、そんな甘い幻想を信じていた。 だが婿入りした瞬間、彼の“軽んじた態度”はすべて清算される。 アウローラは冷徹に、トリスタンの傲慢と欲望を1つずつ暴き、労働と屈辱を与える。 そして最後に残ったのは、誰にも必要とされない現実だけ。 「どうして……俺は、こんなにも愚かだったんだ」 これは愛を勘違いし、身分を過信し、自分の価値を見誤った男の終焉を描くダークドラマ。 ⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。過激ざまぁタグあります。 4/1「エステルに対する殺意」の内容を一部変更しました。

〖完結〗では、婚約解消いたしましょう。

藍川みいな
恋愛
三年婚約しているオリバー殿下は、最近別の女性とばかり一緒にいる。 学園で行われる年に一度のダンスパーティーにも、私ではなくセシリー様を誘っていた。まるで二人が婚約者同士のように思える。 そのダンスパーティーで、オリバー殿下は私を責め、婚約を考え直すと言い出した。 それなら、婚約を解消いたしましょう。 そしてすぐに、婚約者に立候補したいという人が現れて……!? 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話しです。

「病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?

さんけい
恋愛
婚約者リチャードは、約束のたびに「病弱な従妹エミリーが」と言ってイブリンを後回しにした。最初は思いやりだと信じていた。だが、それが一度や二度ではなく、婚約者としての敬意も誠実さも踏みにじられ続けた末、イブリンはついに婚約の継続を拒む。 ところが、事はただの婚約破棄では終わらなかった。 弱々しく見える従妹エミリーは、どうにも“ただ可哀想なだけの娘”ではない。人によって態度を変え、相手の良心につけ込み、じわじわと人間関係を侵していくその姿に、イブリンの家族は次第に違和感を強めていく。やがてその違和感は、婚約者個人の未熟さだけでなく、相手の家そのものが抱える歪みへとつながっていき――。 家族に守られながら婚約解消へ進むヒロインと、見えているのに見誤り続けた婚約者。 そして“病弱な従妹”の奥に潜んでいたものとは。 婚約破棄から始まる、じわりと不穏で、最後にはきっちり決着する人間ドラマ。 全90回。予約投稿済みです。

婚約者の態度が悪いので婚約破棄を申し出たら、えらいことになりました

神村 月子
恋愛
 貴族令嬢アリスの婚約者は、毒舌家のラウル。  彼と会うたびに、冷たい言葉を投げつけられるし、自分よりも妹のソフィといるほうが楽しそうな様子を見て、アリスはとうとう心が折れてしまう。  「それならば、自分と妹が婚約者を変わればいいのよ」と思い付いたところから、えらいことになってしまうお話です。  登場人物たちの不可解な言動の裏に何があるのか、謎解き感覚でお付き合いください。   ※当作品は、「小説家になろう」、「カクヨム」にも掲載しています

〈完結〉ここは私のお家です。出て行くのはそちらでしょう。

江戸川ばた散歩
恋愛
「私」マニュレット・マゴベイド男爵令嬢は、男爵家の婿である父から追い出される。 そもそも男爵の娘であった母の婿であった父は結婚後ほとんど寄りつかず、愛人のもとに行っており、マニュレットと同じ歳のアリシアという娘を儲けていた。 母の死後、屋根裏部屋に住まわされ、使用人の暮らしを余儀なくされていたマニュレット。 アリシアの社交界デビューのためのドレスの仕上げで起こった事故をきっかけに、責任を押しつけられ、ついに父親から家を追い出される。 だがそれが、この「館」を母親から受け継いだマニュレットの反逆のはじまりだった。

【完結】すり替えられた公爵令嬢

鈴蘭
恋愛
帝国から嫁いで来た正妻キャサリンと離縁したあと、キャサリンとの間に出来た娘を捨てて、元婚約者アマンダとの間に出来た娘を嫡子として第一王子の婚約者に差し出したオルターナ公爵。 しかし王家は帝国との繋がりを求め、キャサリンの血を引く娘を欲していた。 妹が入れ替わった事に気付いた兄のルーカスは、事実を親友でもある第一王子のアルフレッドに告げるが、幼い二人にはどうする事も出来ず時間だけが流れて行く。 本来なら庶子として育つ筈だったマルゲリーターは公爵と後妻に溺愛されており、自身の中に高貴な血が流れていると信じて疑いもしていない、我儘で自分勝手な公女として育っていた。 完璧だと思われていた娘の入れ替えは、捨てた娘が学園に入学して来た事で、綻びを見せて行く。 視点がコロコロかわるので、ナレーション形式にしてみました。 お話が長いので、主要な登場人物を紹介します。 ロイズ王国 エレイン・フルール男爵令嬢 15歳 ルーカス・オルターナ公爵令息 17歳 アルフレッド・ロイズ第一王子 17歳 マルゲリーター・オルターナ公爵令嬢 15歳 マルゲリーターの母 アマンダ・オルターナ エレインたちの父親 シルベス・オルターナ  パトリシア・アンバタサー エレインのクラスメイト アルフレッドの側近 カシュー・イーシヤ 18歳 ダニエル・ウイロー 16歳 マシュー・イーシヤ 15歳 帝国 エレインとルーカスの母 キャサリン帝国の侯爵令嬢(前皇帝の姪) キャサリンの再婚相手 アンドレイ(キャサリンの従兄妹) 隣国ルタオー王国 バーバラ王女