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第一章
二十話 潮の匂いと、ただいま
馬車がゆっくりと止まる。
扉を開き、お父様が先に降りる。
潮風の匂いが流れ込んでくる。
帰ってきた……。
そう思った瞬間、足が動かなかった。
医師に診てもらい、腫れも痛みも引いているのに。
それでも膝がわずかに震えているのは、怪我のせいではない。
膝の上の拳に力が入る。
白くなるほど強く握っていることに気付き、そっと息を吐いた。
大丈夫。
ゆっくりと馬車を降りる。
見慣れた屋敷。
変わらない石畳。
幼い頃から働いてくれている使用人たち。
そして──家族。
お母様。
お兄様。
みんなが、優しく微笑んでいた。
胸が締め付けられる。
視線を逸らしそうになって、必死に踏みとどまり、腹に力を込める。
肺いっぱいに空気を吸い込んでから、口を開いた。
「お久しぶりです。ただいま戻りました」
声が震えそうになるのを噛み殺す。
「ご心配をお掛けしてしまい──」
そのときだった。
お母様が、そっと私の手を包み込んだ。
温かい。
それだけで、作っていた笑顔が崩れた。
「お帰りなさい。イリス」
柔らかい声。
変わらない、安心する響き。
喉が熱くなる。
「ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ありません」
どうにか言葉を絞り出すと、お母様は小さく首を振った。
「お腹空いたでしょう? あなたの好きなミートパイに、カボチャのスープも用意してあるの。食後には──」
少しだけ間を置いて、優しく微笑む。
「モンブランもあるのよ」
胸が、きゅっと痛んだ。
……チーズタルトじゃない。
「髪も乱れてるわね」
頭に触れた指先が、そっと髪を整える。
「お風呂も準備してあるわ。ゆっくり浸かって、旅の疲れを癒しなさい」
優しすぎる。
胸の奥が、軋む。
こんな顔で迎えられる資格なんて──
一歩、後ずさりそうになる。
その瞬間、背後で小さく咳払いがした。
「……立ち話も何だ。中へ入ろう」
お父様だった。
いつも通りの落ち着いた声。
けれど、背を向けたまま少しだけ肩が強張っている。
「妹が戻ってきたんだ。厨房も腕を振るっている。冷める前に食べさせてやれ」
お兄様が、軽く肩をすくめて笑った。
「……帰ってきてくれて、よかった」
短い一言。
それだけで、視界が滲む。
お母様がそっと私を抱き寄せた。
逃げようとした腕が、空中で止まる。
固まって、抱き締め返せない。
「……ごめんなさい」
喉から、勝手に零れ落ちた。
「私……みんなの忠告……聞かなかった……」
言った瞬間、涙が溢れた。
「バカで……結局……迷惑……ごめ、なさい……」
声にならない嗚咽が漏れる。
お母様は、何も言わなかった。
ただ、強く抱き締める。
その胸元から、甘い香りがした。
焼き上がったばかりの、クッキーの匂い。
幼い頃。
失敗して泣いた日。
怪我をして帰った日。
いつも、この匂いがしていた。
「いいのよ」
静かな声が、耳元で響く。
「帰ってきてくれた。それだけで十分よ」
堰を切ったように、涙が溢れた。
どれくらい泣いていたのか分からない。
気付けば、胸の奥の重石が少しだけ軽くなっていた。
お母様の肩に額を預けたまま、ゆっくりと息を吐く。
潮の匂いが、胸に流れ込んでくる。
帰ってきた。
ようやく、そう思えた。
お母様の体に手を回すと、その柔らかさに涙がまた溢れた。
扉を開き、お父様が先に降りる。
潮風の匂いが流れ込んでくる。
帰ってきた……。
そう思った瞬間、足が動かなかった。
医師に診てもらい、腫れも痛みも引いているのに。
それでも膝がわずかに震えているのは、怪我のせいではない。
膝の上の拳に力が入る。
白くなるほど強く握っていることに気付き、そっと息を吐いた。
大丈夫。
ゆっくりと馬車を降りる。
見慣れた屋敷。
変わらない石畳。
幼い頃から働いてくれている使用人たち。
そして──家族。
お母様。
お兄様。
みんなが、優しく微笑んでいた。
胸が締め付けられる。
視線を逸らしそうになって、必死に踏みとどまり、腹に力を込める。
肺いっぱいに空気を吸い込んでから、口を開いた。
「お久しぶりです。ただいま戻りました」
声が震えそうになるのを噛み殺す。
「ご心配をお掛けしてしまい──」
そのときだった。
お母様が、そっと私の手を包み込んだ。
温かい。
それだけで、作っていた笑顔が崩れた。
「お帰りなさい。イリス」
柔らかい声。
変わらない、安心する響き。
喉が熱くなる。
「ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ありません」
どうにか言葉を絞り出すと、お母様は小さく首を振った。
「お腹空いたでしょう? あなたの好きなミートパイに、カボチャのスープも用意してあるの。食後には──」
少しだけ間を置いて、優しく微笑む。
「モンブランもあるのよ」
胸が、きゅっと痛んだ。
……チーズタルトじゃない。
「髪も乱れてるわね」
頭に触れた指先が、そっと髪を整える。
「お風呂も準備してあるわ。ゆっくり浸かって、旅の疲れを癒しなさい」
優しすぎる。
胸の奥が、軋む。
こんな顔で迎えられる資格なんて──
一歩、後ずさりそうになる。
その瞬間、背後で小さく咳払いがした。
「……立ち話も何だ。中へ入ろう」
お父様だった。
いつも通りの落ち着いた声。
けれど、背を向けたまま少しだけ肩が強張っている。
「妹が戻ってきたんだ。厨房も腕を振るっている。冷める前に食べさせてやれ」
お兄様が、軽く肩をすくめて笑った。
「……帰ってきてくれて、よかった」
短い一言。
それだけで、視界が滲む。
お母様がそっと私を抱き寄せた。
逃げようとした腕が、空中で止まる。
固まって、抱き締め返せない。
「……ごめんなさい」
喉から、勝手に零れ落ちた。
「私……みんなの忠告……聞かなかった……」
言った瞬間、涙が溢れた。
「バカで……結局……迷惑……ごめ、なさい……」
声にならない嗚咽が漏れる。
お母様は、何も言わなかった。
ただ、強く抱き締める。
その胸元から、甘い香りがした。
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幼い頃。
失敗して泣いた日。
怪我をして帰った日。
いつも、この匂いがしていた。
「いいのよ」
静かな声が、耳元で響く。
「帰ってきてくれた。それだけで十分よ」
堰を切ったように、涙が溢れた。
どれくらい泣いていたのか分からない。
気付けば、胸の奥の重石が少しだけ軽くなっていた。
お母様の肩に額を預けたまま、ゆっくりと息を吐く。
潮の匂いが、胸に流れ込んでくる。
帰ってきた。
ようやく、そう思えた。
お母様の体に手を回すと、その柔らかさに涙がまた溢れた。
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