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第一章
二十六話 小さな一歩
話し合いは、その後しばらく続いた。
そして、水脈調査への返事は、『レーヴェン様の背中の怪我がある程度癒えてから』と、話がまとまった。
殿下もそれに同意し、「一ヶ月ほど様子を見よう」と言ってくれた。
その言葉に、胸の奥で張りつめていた糸が、やっと緩んだ気がした。
部屋を出るとき。
ふと振り返ると、レーヴェン様と目が合った。
彼の口角がほんの少しだけ上がった。
それが、私に向けられたものだと気づいて、胸が変なふうに跳ねた。
……今はその意味をわからないままにした。
◇◇◇
部屋を出た瞬間、緊張がふっとほどけた。
廊下の空気が少し冷たい。
さっきまで胸の奥を締め付けていたものが、笑い声の余韻に溶けていく。
──軽蔑されなかった。
それだけで、胸の奥がじんと熱くなった。
瓦礫の下の人を見つけられた。
あのとき、私は確かに──役に立てた。
──でも。
別の感情が胸をよぎる。
私は、四年間、ここにいなかった。
家族がどんな日々を過ごしていたのかも知らず。
どんな顔で笑っていたのかも、知らず。
ただ、自分のことで精一杯で……
それなのに、迎えてもらって……申し訳ない。
何も返せていない自分が……
それなら──
「……お父様」
「どうした、イリス」
私は立ち止まりそうになるのをこらえて言った。
「私、働きたいです」
自分でも驚くほど、声が真っ直ぐ出た。
お父様の足が止まる。
「……急にどうした」
「急じゃありません」
私は喉の奥の熱を飲み込んだ。
「……みんなの役に立ちたい」
廊下に、しんとした沈黙が落ちた。
お父様は、すぐには答えなかった。
ゆっくりと振り返り、私の顔をまっすぐ見る。
「……イリス」
責める響きはない。
けれど、領主としてではなく──父親としての声だった。
「お前は、戻ってきてくれただけで十分だ」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「それでもです」
私は、視線を逸らさなかった。
「帰ってきたからこそ……何もしないままでは、いられません」
言葉を選びながら、続ける。
「服や部屋を用意してもらって、ご飯を出してもらって……それが嫌なわけじゃありません。でも……」
一度、息を吸った。
「受け取るだけの存在でいたくないんです」
お父様の眉が、わずかに動く。
「私は、この家の娘です。それなら……この家の役に立ちたい」
少し震えながらも、はっきりと言った。
しばらくの沈黙のあと。
「……まったく」
お父様は、困ったように息を吐いた。
「お前は昔から、そういう子だったな」
叱っているのか、呆れているのか、わからない声。
「……働く、か」
お父様は小さく息を吐き、少し考えるように顎に手を当てた。
「真珠工場の手伝いをしてみるか」
「真珠……工場?」
「最近、成長が遅い貝が増えていてな」
歩きながら、説明してくれる。
「中身が育たないまま廃棄になるものが多い。開けてみないと分からない以上、どうしても無駄が出る」
私は、ぽつりとこぼした。
「……中が、見えたら」
私の脳裏に、貝殻の中の光景が浮かんだ。
お父様は、足を止めた。
「そうだ」
静かに、うなずく。
「お前の『見る力』なら、貝の中の様子が分かるのではないかと思ってな」
胸が、小さく跳ねた。
「もちろん、強制ではない」
すぐに続ける。
「短時間でいい。体調が悪くなったら、すぐやめていい。どうだ」
私は、ぎゅっと手を握りしめた。
誰かに誇れることじゃなくていい。
ただ、目の前の誰かの役に立てれば。
それなら──
「……やります」
声は小さいけれど、はっきりしていた。
お父様は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「そうか」
それだけだったのに、認めてもらえた気がして、体の奥が、じんと温かくなった。
そのときは、まだ知らなかった。
この選択が、私の人生を少しずつ変えていくこと。
そして──もう一度、前を向くための一歩になることを。
そして、水脈調査への返事は、『レーヴェン様の背中の怪我がある程度癒えてから』と、話がまとまった。
殿下もそれに同意し、「一ヶ月ほど様子を見よう」と言ってくれた。
その言葉に、胸の奥で張りつめていた糸が、やっと緩んだ気がした。
部屋を出るとき。
ふと振り返ると、レーヴェン様と目が合った。
彼の口角がほんの少しだけ上がった。
それが、私に向けられたものだと気づいて、胸が変なふうに跳ねた。
……今はその意味をわからないままにした。
◇◇◇
部屋を出た瞬間、緊張がふっとほどけた。
廊下の空気が少し冷たい。
さっきまで胸の奥を締め付けていたものが、笑い声の余韻に溶けていく。
──軽蔑されなかった。
それだけで、胸の奥がじんと熱くなった。
瓦礫の下の人を見つけられた。
あのとき、私は確かに──役に立てた。
──でも。
別の感情が胸をよぎる。
私は、四年間、ここにいなかった。
家族がどんな日々を過ごしていたのかも知らず。
どんな顔で笑っていたのかも、知らず。
ただ、自分のことで精一杯で……
それなのに、迎えてもらって……申し訳ない。
何も返せていない自分が……
それなら──
「……お父様」
「どうした、イリス」
私は立ち止まりそうになるのをこらえて言った。
「私、働きたいです」
自分でも驚くほど、声が真っ直ぐ出た。
お父様の足が止まる。
「……急にどうした」
「急じゃありません」
私は喉の奥の熱を飲み込んだ。
「……みんなの役に立ちたい」
廊下に、しんとした沈黙が落ちた。
お父様は、すぐには答えなかった。
ゆっくりと振り返り、私の顔をまっすぐ見る。
「……イリス」
責める響きはない。
けれど、領主としてではなく──父親としての声だった。
「お前は、戻ってきてくれただけで十分だ」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「それでもです」
私は、視線を逸らさなかった。
「帰ってきたからこそ……何もしないままでは、いられません」
言葉を選びながら、続ける。
「服や部屋を用意してもらって、ご飯を出してもらって……それが嫌なわけじゃありません。でも……」
一度、息を吸った。
「受け取るだけの存在でいたくないんです」
お父様の眉が、わずかに動く。
「私は、この家の娘です。それなら……この家の役に立ちたい」
少し震えながらも、はっきりと言った。
しばらくの沈黙のあと。
「……まったく」
お父様は、困ったように息を吐いた。
「お前は昔から、そういう子だったな」
叱っているのか、呆れているのか、わからない声。
「……働く、か」
お父様は小さく息を吐き、少し考えるように顎に手を当てた。
「真珠工場の手伝いをしてみるか」
「真珠……工場?」
「最近、成長が遅い貝が増えていてな」
歩きながら、説明してくれる。
「中身が育たないまま廃棄になるものが多い。開けてみないと分からない以上、どうしても無駄が出る」
私は、ぽつりとこぼした。
「……中が、見えたら」
私の脳裏に、貝殻の中の光景が浮かんだ。
お父様は、足を止めた。
「そうだ」
静かに、うなずく。
「お前の『見る力』なら、貝の中の様子が分かるのではないかと思ってな」
胸が、小さく跳ねた。
「もちろん、強制ではない」
すぐに続ける。
「短時間でいい。体調が悪くなったら、すぐやめていい。どうだ」
私は、ぎゅっと手を握りしめた。
誰かに誇れることじゃなくていい。
ただ、目の前の誰かの役に立てれば。
それなら──
「……やります」
声は小さいけれど、はっきりしていた。
お父様は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「そうか」
それだけだったのに、認めてもらえた気がして、体の奥が、じんと温かくなった。
そのときは、まだ知らなかった。
この選択が、私の人生を少しずつ変えていくこと。
そして──もう一度、前を向くための一歩になることを。
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