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第一章
三十二話 旅立ちの日
屋敷の玄関前は、朝から落ち着きがなかった。
使用人が箱を抱えて行き交い、誰かが階段を駆け下り、どこかで小さく声が飛び交っている。
屋敷全体が、そわそわと呼吸をしているみたいだった。
「イリス、本当に忘れ物はないの?」
「大丈夫です。三回確認しました」
そう答えながら、どこか落ち着かない自分がいた。
──いよいよ、出発。
お母様は私の外套の襟を直し、今度は髪を撫でる。
「寒くなったら、ちゃんと着込むのよ」
「はい」
「無理をしないで」
「はい……」
返事をするたびに、喉がきゅっとなる。
お父様は少し離れた場所で腕を組んでいた。
「フィリオ殿下とレーヴェン様は、先に港へ向かっている」
「そうなんですね」
「我々も向かおう」
「イリス」
兄様が近づいてきた。
いつもより、少しだけ表情が硬い。
「無茶はするなよ」
「……はい」
「困ったらすぐ連絡しろ」
ぽん、と頭に手が乗る。
「帰ってくる場所は、ここだ」
胸が、じんと熱くなる。
「……はい。行ってきます」
そのときだった。
「お嬢様宛のお届け物です!」
息を切らした配達人が、花束と封筒を抱えて立っていた。
お父様の眉が、ぴくりと動く。
声が、わずかに低くなる。
「……またか」
「え?」
私が聞き返すより早く、お父様が前に出る。
「受け取ろう。こちらで預かる」
「必ず、お嬢様ご本人に手渡せとの言伝でして……返送は受け付けないとも、強く言われております」
配達人が困った顔をする。
お父様は低い声で言った。
「こちらで対処する。イリス、気にするな」
「……?」
何の話か分からないまま、私は馬車へと促された。
「行こう。港で待たせている」
お父様の声は、有無を言わせない。
「……はい」
不安は残ったけれど、今はそれを知るのが怖かった。だから、これ以上は何も聞かなかった。
◇◇◇
港は、朝の空気で満ちていた。
潮の匂い。
人の声。
揺れる船影。
そこに──
「イリスちゃーん!!」
聞き覚えのある声。
振り向くと、真珠工場のおばちゃんたちがいた。
「来てくれたんですか……!」
「当たり前だろ!」
「見送りくらいさせな!」
胸がいっぱいになる。
「お世話になりました」
「バカ言うな。世話になったのはこっちだ」
「向こうでもちゃんと食べな!」
「手を冷やすんじゃないよ!」
「ほら、これ!」
エッダさんが、ずっしりした布袋を渡してきた。
「みんなからの飴だよ」
次々と飛んでくる言葉。
「……絶対、帰ってきます」
「よし! 待ってるからね!」
いつものように、マルタさんが背中をバンッと叩いてくる。
痛いけど、気合いが入る。
私は船に続くタラップを渡った。
振り向くと、男爵家の家族も並んでいる。
お母様は目元を押さえ、
兄様は腕を組み、
お父様は静かに立っていた。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「そろそろ出港です!」
船員の声が響く。
私は、もう一度みんなを見る。
そして。
「行ってきます」
精一杯の声で言った。
「行ってらっしゃい!」
「気をつけて!」
声が重なり合う。
甲板に上がると、隣にレーヴェン様が立っていた。
「素敵な人たちだな」
「はい」
胸を張って答える。
「……私の、大切な人たちです」
船が、ゆっくりと岸を離れる。
みんなの姿が、小さくなっていく。
私は、手が痛くなるまで振り続けた。
◇◇◇
その頃。
男爵家の屋敷へ向かう一台の馬車があった。
中にいるのは、ディートリッヒ。
「……そろそろか」
返事のない手紙。
送り返される贈り物。
(約一ヶ月も時間を置いたのに、イリスの怒りはおさまっていないのだろう。それとも──まだ、会えば戻ると思っているのは俺だけなのか)
「イリス、気に入るかな」
膝の上の宝石箱を撫でる。
婚約指輪と、イリスに似合うように設計した、イヤリングとネックレスが入っている。
これを贈れば、イリスはきっと戻ってくる。
戻らないはずがない。
俺のものなのだから。
……そうであるべきだ。
──彼はまだ知らない。
イリスが、もう海の上にいることを。
使用人が箱を抱えて行き交い、誰かが階段を駆け下り、どこかで小さく声が飛び交っている。
屋敷全体が、そわそわと呼吸をしているみたいだった。
「イリス、本当に忘れ物はないの?」
「大丈夫です。三回確認しました」
そう答えながら、どこか落ち着かない自分がいた。
──いよいよ、出発。
お母様は私の外套の襟を直し、今度は髪を撫でる。
「寒くなったら、ちゃんと着込むのよ」
「はい」
「無理をしないで」
「はい……」
返事をするたびに、喉がきゅっとなる。
お父様は少し離れた場所で腕を組んでいた。
「フィリオ殿下とレーヴェン様は、先に港へ向かっている」
「そうなんですね」
「我々も向かおう」
「イリス」
兄様が近づいてきた。
いつもより、少しだけ表情が硬い。
「無茶はするなよ」
「……はい」
「困ったらすぐ連絡しろ」
ぽん、と頭に手が乗る。
「帰ってくる場所は、ここだ」
胸が、じんと熱くなる。
「……はい。行ってきます」
そのときだった。
「お嬢様宛のお届け物です!」
息を切らした配達人が、花束と封筒を抱えて立っていた。
お父様の眉が、ぴくりと動く。
声が、わずかに低くなる。
「……またか」
「え?」
私が聞き返すより早く、お父様が前に出る。
「受け取ろう。こちらで預かる」
「必ず、お嬢様ご本人に手渡せとの言伝でして……返送は受け付けないとも、強く言われております」
配達人が困った顔をする。
お父様は低い声で言った。
「こちらで対処する。イリス、気にするな」
「……?」
何の話か分からないまま、私は馬車へと促された。
「行こう。港で待たせている」
お父様の声は、有無を言わせない。
「……はい」
不安は残ったけれど、今はそれを知るのが怖かった。だから、これ以上は何も聞かなかった。
◇◇◇
港は、朝の空気で満ちていた。
潮の匂い。
人の声。
揺れる船影。
そこに──
「イリスちゃーん!!」
聞き覚えのある声。
振り向くと、真珠工場のおばちゃんたちがいた。
「来てくれたんですか……!」
「当たり前だろ!」
「見送りくらいさせな!」
胸がいっぱいになる。
「お世話になりました」
「バカ言うな。世話になったのはこっちだ」
「向こうでもちゃんと食べな!」
「手を冷やすんじゃないよ!」
「ほら、これ!」
エッダさんが、ずっしりした布袋を渡してきた。
「みんなからの飴だよ」
次々と飛んでくる言葉。
「……絶対、帰ってきます」
「よし! 待ってるからね!」
いつものように、マルタさんが背中をバンッと叩いてくる。
痛いけど、気合いが入る。
私は船に続くタラップを渡った。
振り向くと、男爵家の家族も並んでいる。
お母様は目元を押さえ、
兄様は腕を組み、
お父様は静かに立っていた。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「そろそろ出港です!」
船員の声が響く。
私は、もう一度みんなを見る。
そして。
「行ってきます」
精一杯の声で言った。
「行ってらっしゃい!」
「気をつけて!」
声が重なり合う。
甲板に上がると、隣にレーヴェン様が立っていた。
「素敵な人たちだな」
「はい」
胸を張って答える。
「……私の、大切な人たちです」
船が、ゆっくりと岸を離れる。
みんなの姿が、小さくなっていく。
私は、手が痛くなるまで振り続けた。
◇◇◇
その頃。
男爵家の屋敷へ向かう一台の馬車があった。
中にいるのは、ディートリッヒ。
「……そろそろか」
返事のない手紙。
送り返される贈り物。
(約一ヶ月も時間を置いたのに、イリスの怒りはおさまっていないのだろう。それとも──まだ、会えば戻ると思っているのは俺だけなのか)
「イリス、気に入るかな」
膝の上の宝石箱を撫でる。
婚約指輪と、イリスに似合うように設計した、イヤリングとネックレスが入っている。
これを贈れば、イリスはきっと戻ってくる。
戻らないはずがない。
俺のものなのだから。
……そうであるべきだ。
──彼はまだ知らない。
イリスが、もう海の上にいることを。
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