尽くしてきた婚約者に裏切られたので、婚約を解消しました〜彼が愛に気づいたのは、すべてを失ったあとでした〜

ともどーも

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第二章

二十一話 信じたいのに、信じるのが怖い

「イリス!」
 背中に届いた声を振り切って、私は廊下を駆けた。
 足音が石床に跳ね返る。
 喉の奥で息がひゅう、と鳴った。
 
 曲がり角を曲がった瞬間。
「うわっ!」
 誰かとぶつかりそうになった。
「イリス?!」
 聞き慣れた声。
 フィリオ殿下だった。
 
「す、すみません!」
 言い終える前に、私はまた逃げ出した。

 背後で、もう一つの足音が速くなる。 
「イリス!」
 クロード様の声がした。
「クロード、待て。今の──」
 フィリオ殿下は眉をひそめ、振り返る。
 だが、クロード様はその声も聞かず、私を追ってきていた。

 私は走り続けた。
 
 屋敷の中は、朝から異様に騒がしい。
 廊下の端には王家の紋章入りの箱が並び、使用人たちが慌ただしく行き来している。
 
 ──婚約祝い。
 
 その言葉が、頭の中で鈍く響いた。
 婚約はしていない。
 していないのに、祝福が届いた。
 
 祝福という形をした──王命。


 ◇◇◇

  
 私は中庭へ飛び出した。
 整えられているはずの庭なのに、どこか乾いた印象がある。
 香りより先に、土の色の薄さが目についた。
 中央の噴水は止まっている。
 水のない石皿に、朝露だけが光っていた。
 噴水の縁に手をついた瞬間、膝の力が抜けた。
 肩で息をする。
  
(……落ち着いて)

 呼吸を整える。
 まだ決めつけちゃいけない。
 聞き間違いかもしれない。

 でも──
 
『囲い込み』
『王命』
『婚約してしまえば、逃げられない』

 聞いてしまった言葉が、頭から離れない。 
 ディートリッヒも、そうだった。
 『愛してる。結婚しよう』
 なのに──結婚式は三度キャンセルした。
 
 『イリスは俺を愛しているから問題ない』
 ディートリッヒの言葉と、
 『婚約してしまえば、逃げられない』
 ガルディオ様の声が、頭の中で何度も重なる。
 
 私は無意識に髪に触れた。
 淡い水色の石の髪飾り。
 クロード様が市場で、私に贈ってくれたもの。
 指先が震えた。
 
 外せば、楽になるの?
 それとも──もっと苦しくなる?

 そのとき、背後で足音が止まった。
 びくりと肩が跳ねる。
 反射的に体が強張った。 
 
 来た……

 けれど、足音はこちらへは来ない。
 少し離れた場所で、こちらを伺っているようだ。
 
 なぜ、すぐに来ないの。
 怖い。
 怖いのに、来てほしい。

 喉がひりつき、視界が滲む。
 しばらくして、低い声が聞こえた。
「……イリス」
 クロード様だった。
 数歩離れた場所に立っている。
 わずかに息を乱していた。
 
 彼の視線が、私の髪飾りに一瞬だけ落ち、すぐに私の目へ戻る。
「話を聞いてくれ」
 
 その声が、なぜか怖かった。
 優しいのに、怖い。 
 
「……囲い込みって、何ですか」
 声が震えた。
 噴水の縁を握る手に力が入る。
 
 クロード様の眉が僅かに動いた。
「……」
 
「王命って、何ですか」
 問いかけた瞬間、呼吸がうまく続かなくなる。
 
「クロード様は──王命で私に……」
 言葉にした途端、足元が揺れた。
 私は石に身体を預ける。
 クロード様が一歩進みかけ、止まった。
 
 私が怯えたからだ。
 
 その小さな反応で、彼が気づいたのが分かった。
 クロード様は、拳を握りしめるようにして、ゆっくり息を吐いた。
 
「イリス。俺は──君を追い込むつもりはない」
「でも!」
 声が裏返った。
「婚約してしまえば逃げられないって……!」
 私は聞いてしまった。
 あの言葉を。
 クロード様は唇を噛み、静かに言う。
 
「兄の言い方は……良くない。陛下の意向も、軽くはない。だが──」
 そこで、言葉が途切れた。
 その沈黙が、答えに思えた。
 
 ──あるんだ。王命が。囲い込みが。
 
 視界が、じわりと滲んだ。
「やっぱり」
 呟くと、喉が締まった。
「やっぱり……王命で……」
「違う」
 クロード様が、強い声を出した。
 
 今までの落ち着いた声じゃない。
 それが逆に、胸をえぐった。
 
(強く否定されると、余計に怖い)
 
 私は一歩後ずさる。
 噴水にかかとが当たった。
 
「……信じたいんです」
 震える声で言った。
「クロード様が違うって、信じたい。信じたいのに──」
 
 言葉が詰まる。
 息が苦しい。
 私は髪飾りに触れた。外せない。
 でも、指先が離れない。
 
「……信じるのが、怖い」
 
 言った瞬間、涙が一粒落ちた。
 クロード様の目が揺れた。
 彼はまた一歩進みかけて、止まった。
 私が逃げない距離を、必死で測っている。
 
「──時間がほしい」
 私は自分でも驚くほど、はっきり言えた。
「今、婚約とか、結婚とか……言われたら、壊れます。私……また、同じことをしそうで」
 
 誰かを責めたいわけじゃない。
 ただ、怖い。
 
 クロード様は、しばらく黙っていた。
 それから言った。
 
「分かった」
 
 短い言葉。

「待つ」
 
 たったそれだけで、肩の力が、ほんの少し抜けた。
「……俺は、君の意思を尊重する。王命がどうであれ、俺は──」
 そこで言葉を切る。

 言葉を重ねれば重ねるほど、私が怯えると。
 だから、押し付けてこない。 

 私は袖で涙を拭い、顔を上げた。
 クロード様の目が、真っ直ぐこちらを見ている。
 優しいのに、痛い。
 
「……ごめんなさい」
 私が言うと、クロード様は首を振った。
「謝るな」
 それが、あまりにも真っ直ぐで。
 私はもう一度だけ髪飾りに触れて、外さずに手を下ろした。
 
 そして、背を向けた。
「今日は……ひとりにしてほしいです」
 
 クロード様は追ってこなかった。
 庭園を出るとき、噴水の皿に溜まった朝露が光っていた。
 水は止まっている。
 でも、完全に乾き切ってはいない。

 ──そんなふうに、なれたらいいのに。

 私はざわつきを抱えたまま、屋敷へ戻った。
「……待つ」
 背後で、クロード様の声が静かに落ちた。
 止まった噴水の前に、彼はひとり立っていた。
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